11 開戦と宣戦
愛おしい彼女は、レオの傍で眠っている。
彼女の肌に牙の痕は一つも残っておらず、むせ返るような香りも消えていた。
「ーーーーリリー……」
頬を撫でると、甘い香りがふわりと鼻をかすめる。
「…………まだ……不完全か……」
さらさらとした栗色の長い髪に触れながら、そう呟いた。香りが以前とは違うままだからだろう。
柔らかな肌と触れ合って眠る彼は、傍にいる事を実感するかのように抱き寄せていた。
ーーーーーーーー柔らかな香りがする……
何処か懐かしくて、安心するような香りが…………
リリーの目の前には、優しく微笑む彼の姿があった。
「ーーーーっ、レオ……」
「リリー、おはよう……」
「……おはよう」
顔にかかった髪を、レオがそっと耳にかける。
「…………ありがとう……」
「ん、綺麗な髪だな……」
レオは彼女の頬に唇を寄せ、手を伸ばした。
朝から甘ったるい雰囲気だが、リリーは制服に着替えると、ギーと並んでキッチンに立っていた。
今日は五人分の朝食を作るからだ。
「ギー、お塩は?」
「こちらですよ」
制服姿の二人が並んでエプロンをつけて料理をするさまは、何処か可愛らしい雰囲気だが、その手つきは手際の良いものだ。
フレンチトーストやサラダ等の洋食がテーブルに並ぶと、バジルとオレールも席に加わり、五人揃っての朝食となった。
「リリーとギーは学園だったな」
「うん、レオ達は?」
「俺達は調査とか、色々だよな?」
「あぁー、そうだなバジル」
テレビからニュースが流れているが、会話をしながらも、その内容はリリーの耳にも届いていた。
ーーーー少し……聴覚が敏感になってるみたい。
いつもなら気づかずに流れるニュースが、はっきりと聞こえるから……
「リリー、どうかしたのか?」
「ううん……少し、ニュースが気になっただけ」
「通り魔の犯行か……」
「うん……」
「二人とも気をつけて帰れよ?」
「バジル、大丈夫だよ。ギーもいるから」
「そうですね。今日はこちらで夕飯の用意はしておきますので、気をつけてお帰り下さいね」
心配性気味な彼等に微笑むと、リリーとギーは揃って学園に向かった。
今もバジルはヤンチャなお兄さんって感じで、オレールは落ち着いた先生って感じのイメージが強い。
それにしても……バジルに、弟がいたなんて知らなかった。
リリーは、左斜め前に座るノエルに視線を移していた。
タブレットの操作は、手元を見なくても簡単に出来るようだ。
ーーーーーーーーノエルは……見覚えがない。
モデルって事とか、人気があるのは分かるけど、私が知ってるのはそれだけ。
他の特進科の生徒も、初めて会う人達ばかり。
此処にいるのは、貴族に所縁のある人しかいないって話だけど……貴族が必ずしも、あの城にいた訳じゃないって事なのかな?
頭の中を整理していくが、白い霧が想い出そうとする度に濃くなり、彼女の覚醒を阻んでいるようだ。
「妃梨……大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ」
顔色が悪かったようだが、いつものようにギーと並んで、カフェテリアから特進科の棟に戻っていた。
ギーはよく見てるよね。
顔色の微かな違いに気づくなんて……
講義に耳を傾けてはいるが、昨日までの彼女とは違うのだろう。時折、歴史に散りばめられた嘘に、反応しそうになるのを堪えていた。
ーーーー他の人にとって、ここで学ぶ事が真実なんだ。
虚偽だと分からないって事は、私より前の時代を生きていないって事なのかな……
昨日まで失っていた記憶があったなんて、私自身も信じられない。
こんなに覚えているのに……不完全なままで……
特進科の授業は実験的なものも多い。今も歴史の小話を交えながら、血液の代わりになる薬を開発中だ。
化学式は……これで合ってるけど、問題は味よね。
さすがに無味無臭って訳にはいかないから、これを食べるくらいなら、血液の方がいいって意見が多いみたい。
実験的な授業の場合、制服の上から白衣を着て参加している。血液の代わりの薬を口にする事は稀だが、大抵ギーが味見役を担ってくれる為、リリーが試食するまでには至っていない。
「んーー、微妙ですね」
「だよなー。いっそ、好きな香料を混ぜてみるとか?」
「それ、好みが分かれない?」
「じゃあ、紫苑の好きな味は何なんだよ?」
「うーーん……鉄?」
「鉄って……血液のが良いって事かよ!」
「そうねー、これよりは良いでしょ?」
話の内容はともかく、実験はかなり本格的なものだ。例えば、ここで実験が成功した物は、後々商品化される物もある。
こうして集まって何かをする事自体が、稀な事なのだろう。彼等は意外にも、授業に積極的に取り組んでいた。
ーーーー気配はヴァンパイアだけど、昔とは違うみたい。
昔はもっと……陰湿で、残酷な世界だった……
「ーーーー妃梨はどう思う?」
「私? うーーん、林檎はどうかな?」
「いいわねー」
「そうだな。好きな奴の方が多そうだしな」
周囲の会話は、リリーの耳にも届いていた。スムーズな受け答えをしていたが、その胸中は霧の晴れないままのようだった。
「……妃梨、歩けますか?」
「綾人……少し、休んでいってもいい?」
「構いませんよ」
授業が終わり、教室にはリリーとギーの二人だけだ。
……久しぶりに頭が痛む。
立っていられないくらいに、酷く響く……
リリーの顔が青白くなっている。昼間よりも体調が悪化しているのだろう。
「ーーーー玲二さんを呼びましょうか?」
スマホに触れるギーの手を反射的に掴んだ。
「大丈夫。少し座ってれば、良くなるから……」
「……では、肩に寄りかかって下さい」
肩に引き寄せられ、彼女は素直に瞼を閉じた。
少し冷んやりとした手が気持ちいい…………あの人に似てる。
彼女の頭痛の理由は、赤黒い鋭い視線が向けられているからだ。
「ーーーー我ラ……モノダ……」
特進科の棟についていた筈の電気が急激に消える。一瞬で闇に包まれ、まだ夕方だというのにまるで真夜中のようだ。
「ーーーーやはり……」
二人きりだった教室には、赤黒い瞳を光らせた影が無数に存在していた。
列車の中で襲ったきた影に似ている。
ギーは彼女を横抱きにすると、銀製のナイフを構えた。
「ーーソノ娘ハ……我ラノモノダ……」
「ーーーーーーーー酷い……」
ギーはそう漏らすと、服の袖で鼻と口を覆った。酷い死臭が漂っている。
ーーーーくそっ……このままでは、リリー様が!!
心の中で悪態をついたギーの目の前に現れたのは、バジルだ。
「ギー、大丈夫か?!」
「……バジル様…………」
「出口は分かるか?」
「……はい」
出口は闇の中だが、ギーはハッキリとした口調で応えた。
「では、リリー様を託す。行け!」
「はい!」
教室にはバジルと、十体程の影だけが残る。
「ーーーーお前ら、至上主義派の連中だな?」
赤黒い瞳の影は、言葉にもならない声を発しているだけだ。
バジルとの能力差を分かっているのか、先程までの彼等に襲いかかりそうになっていた空気とは違い、一定の距離を保ったまま動かない。正確には、バジルの殺気で動けなくなっていた。
「そっちから来ないなら、此方から行くぞ」
バジルが引き金を引くと、全ての影は消える事なく、弾は貫通していく。
「ちっ……陽動か……」
『バジル、おそらく本体がリリー様を追っています』
『ーーーー分かってる』
頭に聞こえてくる声に応えると、バジルは剣を抜き、大きく振り下ろした。
剣が光を宿したように、闇の中で影が拡散していく。
「ーーーー当たりだな……」
影は消えたが教室は暗闇のままだ。本体を倒すまで闇は続くのだろう。
バジルは背後を振り返った。影は消えたが、殺気を感じたのだ。
振り返ると同時に振り下ろした剣は、寸前で止められていた。知った顔が佇んでいる。
「…………バジル……様……」
「ーーーーーーーーお前は……」
ギー達を追おうとしたバジルの元には、彼女が姿を現していた。
ーーーーーーーー出口が遠く感じる。
ギーは神経を集中させて棟の入口まで辿り着いたが、横抱きにしたリリーが目覚める気配はない。
覚醒していない彼女は人と変わらないのだから、瘴気にあてられたのだとしても、何ら不思議はないのだ。
「ギー、無事か?!」
「ーーーーっ、レオ様!」
安堵の表情を浮かべた彼は、差し伸べたレオに向けてナイフを投げた。
「ーーーーっ、寄るな! 私が殿下を見間違えるとお思いか?」
「ふっ……さすが、側近なだけあるな。最も文無…」
「黙れ!!」
「ふっ……まぁー、良い。侯爵家に対する無礼は許そう。哀れな片割れよ、その娘は置いていけ」
「ーーーーっ、出来ません!」
「我に、逆らうと言うのか?」
赤く光った瞳は、ギーの抵抗を許さない。鋭い視線に威圧され、足が動かなくなっている。
金縛りにあったかのように、視線を逸らす事も出来ない。動こうにも一歩も動けず、ただ立ち尽くすだけだ。
「ーーっ、リ……リリー……さ……ま…………」
「ほう、まだ声が出せるか」
ゆっくりと歩み寄る彼は、その反応すら愉しんでいるかのような黒い笑みを浮かべている。
「ーーーーっ!!」
くそっ……身体が動かない!!
私は……いつも救えない。
肝心な所で、いつも役に立たない。
固められた彫刻のように動けず、ギーは死を覚悟したが、彼の予想に反し、ふわりと柔らかな香りが漂う。
「ーーーーダヴィド!!」
彼の目の前で、レオが剣を交えていた。
「ーーーーくっ……」
力量の差を感じたのだろう。先程までの余裕の笑みとは違い、表情が崩れる。
剣の重みに顔を歪ませていた。
「ーーーー今回は……殿下に免じて引きましょう」
「逃すと思うか?」
「殿下は分かっておられるでしょう?」
「ーーーー黒魔術とは、地に落ちたな……ダヴィド」
レオの瞳は、何処か寂しげなままだ。
「ーーーー近いうちに、その娘……我等が貰い受けましょう」
そう言い残すと、黒い影は消えていた。暗闇が元の夕暮れ時に戻っている。
「ーーーーっ、レオ様……申し訳ありません……」
「いいんだ……よく守ってくれたな、ギー」
いつもと変わらずに髪を撫でる主人に、ギーは自分の不甲斐なさを痛感した。
「これからだ……ついて来てくれるだろ?」
「はい……」
差し出した手を握られ、レオは微かに笑みを浮かべた。
ギーの腕から彼女を抱えると、その額に唇を寄せた。それは、彼が初めて見るレオの姿であった。




