01 再来と再現
目の前には血の海が広がっている。
赤く光った瞳に口から覗く鋭い牙。
月明かりの下で、こちらを見て不敵な笑みを浮かべていたのはーーーーヴァンパイア。
「ーーーーっ、イヤ!!」
思わずベッドから飛び起きた彼女の元へ、足早に祖母がやって来た。それ程までに大きな声を出していたのだ。
「……妃梨、大丈夫かい?」
「うん……おばあちゃん、起こしてごめんね」
「気にしなくていいんだよ」
「うん……」
額に触れる手の優しさに、妃梨はまた瞼を閉じた。
…………昔も……こういう風に、触れてくれる人がいた気がするけど……それ以上は覚えていない。
私には十歳より前の記憶がない。
医者が言うには、心因性の病だろうって……記憶がなくても困った事はないから、気にした事はなかった。
あの日、彼と出逢うまでは…………
「妃梨ーー、また同じクラスだったよ!」
「わーい! 嬉しい!」
手を取り合って喜んでいる頭上には、桜の花弁が舞っている。彼女達は新学期を迎えたばかりだ。
嬉しい……一年の時から同じクラスの早絵と、今年も一緒に過ごせるんだ。
ーーーーそれにしても……日差しが眩しい……
最近、変な夢ばかり見るから……睡眠不足のせいかな。
教室に移動しても、妃梨の顔色は優れないままだ。椅子に座ってはいるが、今にも倒れそうだ。
ーーーーーーーー頭、痛い…………こういう時は、おばあちゃんの特製薬を飲めば安まるんだけど……早く帰りたい。
今まで、大きな怪我もした事ないし、健康体そのものだったのに……いつから、こんな風になっちゃったのかな?
ホームルームを終えると、いつものように早絵と分かれ公園を歩く。その足取りは何処か頼りない。
目の前が真っ白になり、妃梨は倒れると自覚していたが、どうする事も出来ずにいた。ただ地面に叩きつけられる衝撃に、思わずぎゅっと瞼を閉じる。
「ーーーーーーーー大丈夫?」
妃梨の予想に反し、頭上から耳馴染みの良い声が聞こえてきた。冷たい柔らかな感触と、覚えのある香りに包まれる。
恐るおそる瞼を開ければ、栗色の髪をした綺麗な顔立ちの男性に抱きとめられていた。彼は心配そうに覗き込んでいる。
「……すみ……ません…………大丈夫、です……」
「……顔色が悪い。少し横になった方がいい」
その場を立ち去ろうとする妃梨は軽々と抱き上げられ、近くにあったベンチに腰を下ろす。
彼の膝に頭を乗せられ、誘導されるまま横になっていた。
「……あの……ありがとうございます……」
「いえ……」
そう言って、彼女の額に手をあてる。彼の手は、冷んやりとしていて気持ち良かったのだろう。妃梨は自然と瞼を閉じていた。
ーーーー見知らぬ人の膝の上で……私は何をしてるんだろう…………
頭の中では分かっているが、睡眠不足のせいか動く事が出来ず、そのまま眠りに落ちていた。
眠りに落ちたと言っても、ほんの数分程度の出来事。辺りはまだ明るいままだ。
「……あの……ありがとうございました……」
「いえ……また……」
去り際の彼は、寂しげに微笑んだ。
妃梨は、名前も何も知らない後ろ姿を見送った。モデルや芸能人のように人目を惹く容姿をしている彼は、今にも儚く消えてしまいそうな影を落としているように、彼女の瞳には映っていた。
ーーーーーーーー不思議な人だった。
男の人を綺麗だと思ったのは、はじめてで……まるで……
「妃梨、どうかしたのかい?」
「ううん……ご飯、美味しい」
「それは良かった」
「たくさん食べるんだよ?」
「うん!」
また……心配をかけたくない。
『倒れた』なんて言ったら大変……また休む事になるかもしれないし。
おじいちゃんとおばあちゃんには、これ以上心配かけたくないから…………今日は、眠れるかな……
眠気に襲われ瞼を閉じるが、妃梨はまた夢を見ていた。楽しい夢なら良いのだが、彼女が見るのは悪夢ばかりだ。
ーーーーーーーー目の前が血の海……また、あの夢だ……
『ーーーーあっ……』
『ヴァンクレールの娘か……』
震える少女に鋭い視線を向けた彼は、全て消し去るつもりだった。
彼が少女までも手にかけようとした瞬間、右腕と両足は血塗れの腕により斬り落とされた。
『ぐわぁぁーーーー!! き……貴様……』
『リリー、逃げろーー!!』
次の瞬間、斬り落とした彼は剣で貫かれていた。
『い、いやぁぁーーーーっ!!』
少女が泣き叫ぶと同時に、妃梨は目を覚ましていた。
「ーーーーっ、また…………同じ夢……」
この一ヶ月近く、同じ悪夢ばかり見てる。
夢の中の私は、見た事のないプラチナブロンドの髪をした少女になっていて、目の前の死をどうする事も出来ない。
何度も救おうと、試みた事はあるけど……結果は変わらない。
最後は黒い影に襲われそうになって目が覚める。
「ーーーーーーーー誰、なの?」
それすらも思い出せない。
大切な人の筈なのに…………
ベッドの中で膝を抱えたまま、出窓から夜空を見上げる。
「ーーーー赤い……」
…………月が赤く見えるの…………この夢を見た後に夜空を見上げると、特に赤く見える。
何でなんだろう……知らない筈の夢は、やけに鮮明で……胸を締めつける。
昔、読んだ本にあったっけ…………
考えているうちに睡魔に襲われたのだろう。また瞼を閉じた。
しばらくすると、小さな寝息をたてていた。ようやく熟睡出来たようだ。
そんな妃梨の部屋に人影があった。
「ーーーー……リリー……」
妃梨の長い髪に触れた彼は、そのまま唇を寄せた。彼女は深い眠りについているのだろう。目を覚ます気配はない。
「…………待っていて」
そう告げた寂しげな瞳は、紅く染まっているのだった。
ーーーー久しぶりに、よく眠れた……
あんなに怖かった夢は、新学期が始まってから見なくなった。
だから、忘れていたの。
こういう事が、今までもあったってこと。
「妃梨、またねー」
「うん、早絵またね」
まだ……ついて来てる。
鈍い足音が響いて聞こえていた。人混みの中、足音の違いが分かる筈はないが、妃梨にはハッキリと分かっていた。彼女にもその理由までは分からない。
音の主は、彼女が立ち止まると消え、歩き出すと後を追うようにまた鈍い音がしていく。
妃梨が急いで暗くなった路地を曲がると、目の前が真っ暗になった。
「す、すみません……」
ぶつかった額を抑えながら告げた妃梨の顔色は、よほど悪かったのだろう。彼は妃梨を見るなり、自分の方へ引き寄せていた。
「リリー、大丈夫?」
突然の出来事に声をかける余裕はない。肩を抱き寄せられた手には、力が込められたままだ。
リリー? 私は……妃梨だけど…………
そう問う間もなく、そのまま気を失っていた。
「あてられたか……」
彼はそのまま妃梨を抱き上げると、足音の主をパチンと、指を鳴らす音一つで追い払った。
「ーーーー下っ端の分際で、彼女に触れられると思うな。主人に伝えろ……」
そう黒い影に言い放つ彼の瞳は、紅く揺らめいている。
「……彼女は私の花嫁だ」
薄暗い辺りが、いつもの景色に変わっていく。彼女が曲がった暗い路地は、妃梨の自宅の前にある街灯が明るく夜道を照らす道に戻っていた。
妃梨が目を覚ますと、自宅のベッドの上で冷や汗をかいていた。
夢の内容までは覚えていない。ただ、悪夢だった。それだけが印象に残っていた。
「ーーーー私……何してたんだっけ……?」
思わず声が、一人きりの部屋に漏れる。
気分を落ち着かせるべくキッチンに向かい、温かいハーブティーを淹れる。
おじいちゃんとおばあちゃんが、この時間にいないなんて珍しい……
何とも言えない胸騒ぎに襲われていると、カーテンが揺れている事に気づく。
窓を開けっ放しにしていたのかと思い近づくが、窓は開いていない。
緊張感のあるなか息を吐き出すと、窓に反射した人影が映る。妃梨の背後には、彼が立っていた。
「きゃっ……?!」
叫び声は、彼の手によって遮られる。静かにするよう口に人差し指を立てる仕草を見せていた。
小さく頷いて応えると、腕の中に収まっていた。
ーーーーーーーー貴方は……誰……?
リリーの思いが分かったのか、彼はまた寂しげな表情を浮かべている。緑がかった澄んだ瞳に吸い込まれそうになっていると、窓ガラスが勢いよく割れ、見覚えのない侵入者が多数いた。
「やっと見つけた! 我らのモノだ! 返して頂く!!」
そう低い声で放つ彼の瞳は赤暗い。明らかに彼女を指してモノと言っている。
目の前に広がる光景に立ちすくむ事しか出来ない妃梨は、強く抱きしめられていた。
「ーーーー……貴様のような者が触れられると思うな。彼女は私の花嫁だ」
「……契りを交わしていないのに何を言う。それに……その体では、分が悪いのはそちらであろう?」
家臣を引き連れた男はそう言い放つと、不敵な笑みを浮かべた。妃梨はその顔に見覚えがあった。
「ーーーーーーーー嘘…………」
…………夢に出てきた……ヴァンパイア……?
妃梨が震えている事に気づいたのだろう。彼が首筋に唇を寄せると、そのまま牙が突き立てられていた。
「ーーーーっ?!」
彼女の声は彼の手によって漏れ出る事なく、呑み込まれていく。ズッと、自分の血が吸われている事だけは妃梨にも分かった。
ーーーー体が熱い……何、これ…………甘い香り?
甘く芳醇な香りが部屋に充満すると、むせ返る匂いに彼の部下は自分を見失っているのか、主人の命令を無視し、妃梨達に襲いかかる。
「止めろ!!」
寸前の所で主人の声に反応したが、時は既に遅かった。
妃梨の目の前には、灰だけが残っている。
「貴様!!」
「黙れ! 先に礼を欠いたのはそちらであろう。父上に伝えろ! 彼女は私の花嫁にしたと……それとも、貴殿も灰になるか?」
彼の紅く光った瞳に何も言えなくなったのか、そのまま引き下がっていった。
部屋は荒らされたままだ。想い出が詰まった家は、一夜にして半壊の状態だが、近隣に家が少ないとはいえ、駆けつける者は一人もいない。
そんな違和感にさえも、気づく余裕すらない。
日常が無くなるのは……なんて容易いことなの……
非現実的な出来事に、そんな事を頭の片隅で思いながら、妃梨は腕の中で再び意識を手放した。
再び廻り始めた運命の歯車は、止まる事なく動いていく。
それは彼女にとって、忘れ去られた過去と向き合う事でもあった。