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蛤と幻

作者: 岩尾葵

こんな夢を見た。

一面藍色の海の前に男が一人佇んでいる。傍らには大きな蛤の貝殻が男の膝元あたりで口をぱかぱかと動かしながら、何やら男に話しかけている。

「おい、あいつはまだこの近くにいるはずだ。探せ、早くしないと手遅れになるぞ」

男の頭の上には大きなバケツが乗せられていた。蛤に話しかけられても黙ったままの男の姿はひどく不気味で、投げられた声に細く伸びた背筋が少しだけ曲がって、身体ごと頷いたように見えた。男は、ふらふらと覚束ない足取りで海の方へ近寄っていき、そしてジーパン姿のまま、裾が濡れるのも構わずに寒そうな海の中へ入っていった。どういうわけか、水にぬれて波が揺れるたび、男は足元からずんずん下へ潜っていってしまう。

「違う、違う、そっちじゃないだろ」

手も足もない蛤は、そういいながら全身でざぶざぶと海へ入り、腿のあたりまで溶けて消えてしまった男の上半身を器用に頭の上に乗せて、浜辺まで戻ってきた。どさり、と上半身と腕だけになったバケツの男を波の届かない場所に落として、ため息をつく。一たび溶け出した男の体はそのまま海全体へと広がり、水平線を美しいエメラルドに染め上げた。

「ほら、言わんこっちゃない。これじゃあ、お前が消えちまうのも、時間の問題だ」

染まった海を見ながら、蛤は男にそう忠告した。どうやら男の体には、海の色も変えてしまうような不思議な秘密があるらしく、蛤はそれを守っているようだった。

小高い丘の上でそれを眺めていた私は、あの男と蛤何を捜しているのか、また、どういった存在なのか、気になり始めた。きっと隠された男の顔に何か秘密があるに違いない。男の頭にあるバケツを取ってみたい、と思うようになり、蛤に気づかれないよう呼吸を殺しながら、彼らの背後にゆっくりと近づいた。そして蛤が改めて海の方を見た瞬間に、今だ、と男の頭の上にあったバケツを取り去り、その中にあるはずの彼の頭を覗き見た。

男には首から先がなかった。

私が取り払ったあのバケツをどうやって支えていたのか、それすらわからないくらいに空っぽの空間が、男の首の先から無言を私に訴えている。私は何か取り返しのつかないようなことをしてしまったような気がして、男を守っていた蛤の方に許しを求めた。しかし、蛤はもはや人の言葉を発することもなく、もうその中身も二度とは見られないであろうと思われるほど、一寸の隙もなく貝殻を固く閉ざしてしまっていた。

私が獲得したバケツの底からは、キラキラと輝く星の砂が湧き出てきていた。一瞬のうち、砂は私の体を伝って胸や首筋の裏を這いまわり、耳や目の隙間から私の体の中に入り込んで、内側からその存在を主張するように、チクチクと血管に引っ付いていった。私の体を制した砂たちはたちまち、指先や髪の毛、爪の先の一つ一つまで行き渡ると、体の水分をすべて飲みつくしてしまうようにがっちりと結び付き、やがて砂浜の上で凝固した。海から一際大きな波がやってくる。私が声を上げるよりも早く、ざぶん、と大きな水の音がしたかと思うと、凝固した砂たちは一斉に水の中に散り散りになった。そうして私は、先ほど男が溶けていった緑の海の中へと連れて行かれた。

浜辺には物言わぬ固い蛤だけが残った。

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