一章
一・難所竜口峠
多くの旅人、旅客馬車が異様なほど、宿場町に溢れていた。
天上皇帝への袂へ向かう分帝や地方権力者の行列、又は奴隷商人の隊商でもない。
只単に、と言ってしまえば元も子もないが、ようするに旅人たちは立ち往生していた。
そもそもの発端は、朝一番に出立した一行が「竜が出た!」と逃げ帰って来た事に始まる。
竜そのものは、よくいる魔物の上級種族でしかなく、傭兵部隊を一個小隊雇えば、難なく切り伏せる事が出来るだろう。
しかし、竜と一口に言っても、種類は雑多でその強さ恐ろしさもその種類に依って大きく桁を変える。
逃げ帰って来た一行の恐怖の表情が尋常ではなかったので、他の者は彼らに問質した。
「何が出た?」
「二首大蛇だ」
その答えに他の旅人の顔も恐れ戦きに彩られた。
二首大蛇とは竜の眷属の中でもかなり上位に位置し、名は体を現すの通り、二つの頭を持ち五階建ての建物に匹敵する体高を有する竜の中の竜だ。
人々が足止めを食っている先の街道にあるのは、竜口峠と言う。
これ又、名は体現するの如く、竜の頻出する場所だ。
生態学者に言わせれば、竜の好む地形、特に出産に適していると言う。
竜の出産は春先に行われ、その地で子育てをし、秋口には去る。
だから、竜口峠を越える事は竜と遭遇する危険を想定して人々は日程をプランニングする。
臆病者は護衛を雇い、荷の少ない者は逃げ腰をスタンバって峠道に挑む。
時に死者は出るが、例年、小物の竜ばかりで帝都への最短工程である事を考えれば、元は取れた。特に湿気に弱かったり、日持ちしない商品を扱う商人にとっては越えなくてはならない道なのだ。
そういう事を理解している人々にとっても二首大蛇の出現は想定外だった。
過去の宿場町の記録資料を漁っても、二首大蛇が現れたと言う話はない。
しかも、運の悪い事に、今は春先。
間違いなく、二首大蛇は出産にやって来ていた。
人々は口々にぼやいた。
無理に峠を越えようとしても、雇った護衛や傭兵がびびってしまい、話にならないのだ。
単身や護衛なしで越えようなんて考えられない。それはバカのする事だった。
命あってのモノダネである。
しかしながら、人が寄ればバカは何人かいるもので、「二首大蛇出現」の報を聞いても意に介さず、峠越えを実行した猛者もいた。
竜は夜行性だから、昼に行けば問題ないと言い、出立した隊商があったが、夕方にたった一人だけ宿へ逃げ帰って来た。
他のメンバーはどうしたのか? と聞く他の旅人達に逃亡者は答えた。
「食われた」
と。
食われたと言うのは恐らく的確な表現ではない。
出産に臨む為、気性の荒くなった竜に噛み殺されたのだろう。峠には犠牲者の屍が溢れている筈だ。なにせ竜は出産中、食事を摂らない。
帝国人にとって竜が出産に際し、食事しないと言うのは常識だが、恐怖によって箍の外れたパニック状態の人間に正常な判断力もあろう筈がなく、そして、「食われた」発言は、益々、宿場町を恐慌状態に誘った。
正常な判断の出来なくなった人々の多くは、「どうする、どうする」と右往左往するばかりで何ら解決策を生み出せぬ儘、何日か過ぎた。
懸命な旅人は回り道を選んだ。
けれども、日が経つにつれ、遠回りをしようにも如何にもならない旅人や商人も多かった。宿場町としては、多くの金が落ち、願ったり叶ったりだったが。
そんな状況の竜口峠前宿場町に一人の男がやって来た。
情報に聡い商人達は出現の報せに伴い、峠にやって来ず別ルートを選択していた為、宿場町にとって、何日か振りの新しい客だった。
足止めを食らった儘、動けず何も出来ない人々は自分の事を棚上げし、その男をバカなヤツだと罵って、酒の肴にした。今の竜口前宿場町でする事と言ったら、昼からビール以外にする事がないのだ。
だが、男はバカではなかった。ある意味バカだったかもしれないが、彼には腕に自信があった。例え、二首大蛇に勝てずとも殺される心配等していなかった。
出産中なら、巣の場所さえ切り抜ければいいのだ。
だから、「お前はバカか?」と酔っ払いが言う度に、男は「俺は竜に一泡噴かす」と豪語した。
男は暫く逗留して、町を発った。
――
空は青々として雲一つなく、清々しさが溢れていた。
レゾンはそんな青空を見上げて、一つ溜息をした。
空がこんなに綺麗なのに、足元がこんなでは気分が滅入る。と言う意味がその息には篭っている。
レゾンの足元、そこには腐り切り、腐臭を惜しみなく垂れ流す死体があった。
恐らく、竜にやられた隊商のメンバーの一人だろう。
半ば、白骨化も始まっている。蝿が周囲を旋回し、黒ずんだ肉に蠢く何か、蛆が確認出来た。
余りに腐敗が早いが、その理由を死体は如実に語った。
頭部が死体にはなかった。
頭部だったと思しき物が付いてはいるのだが、原型がない。
「魂を獲られたか」
レゾンは一人ごちた。
レゾンは魔法に詳しくはなかったが、脳味噌、頭蓋骨の中にあるグチョグチョの器官が魂の保管庫である事は知っていた。
これは生物全てに共通で、魔物だろうと人間だろうと、頭を落とす事で確実に殺す事が出来る。又、これは逆に頭のない動く物は生物ではないとも言える。
そして、魂の恩恵を失った体は簡単に朽ち果てる。
例え、二首大蛇だろうとも、その二つの首を落とせば生きてはいられないだろう。
加えてこの死体の状況は、二首大蛇が魂を奪うと言う生態学者の学説を裏付けているようにも思える。もっとも、只単に潰されただけかもしれないが。
が、もし生態学者の言が正しいなら用心しなくてはいけない。
魂を奪えると言う事は、魂に敏感である事。
人間には五感しかないが、二首大蛇は魂を感じる事が出来るかもしれない、そういう可能性を示唆する。
「まずいなぁ」
意気揚々と宿場町を出たはいいが、思った以上に難儀な物、そう思うと又嘆息してしまった。
「はぁ」
援軍はない。
引き返そうか、そう思った時レゾンの真横を人影が掠めた。その人物が起こした風がレゾンの前髪を撫でる。
その人物はやたら早足だった。
竜に怯え早く峠を抜けようとしている、と言うよりはハナから二首大蛇の事等眼中にないようにレゾンは感じた。
きっと、何処ぞの猛者に違いない。そう確信して、レゾンは背中に声を掛けた。
「えっと、そこの人」
呼ばれて、動きが止まる。
さっきまでの早足が嘘のような緩慢な動作で人物は振り返る。
「あ、っと」
レゾンは言葉を失った。
猛者?
何を自分は勘違いしたのか、そう思う反面、その人物の顔に目は釘付けだった。
人物は少女だった。年齢は十八前後。
背丈と後姿で判りそうな物だが、無意識下でレゾンも緊張していたのだろう。そして、今度は違う意味で緊張した。
少女はレゾンの少ないボキャブラリーで「絵に描いたような美人」と言えた。
まさか、死地かもしれない場所で、こんな人に会えるとは、これは死亡フラグではないかとレゾンは一瞬思う。
「何?」
さもダルい、早くしてくれと言わんばかりに少女は言う。けれども、口調ばかりで面は殆ど無表情。綺麗なエメラルド色の瞳が気だるく瞼で隠されている位で他の部位はピクリとも動かない。
「お嬢さん」
何て言うべきか?
きっと、このお嬢さんはここが危険な場所だと知らないのだ。
見れば、何処か高貴なオーラを漂わせているではないか。
例えば微風に靡く肩甲骨辺りまで伸びた銀の髪とか、足元まで覆い隠した何処か救世堂のシスター服にデザインの酷似した黒のワンピースとか。その衣装もカラーだけ純白な所とか。
中々答えないレゾンの業を煮やしたのか、少女は、
「何?」
と又言う。さっきとトーンが変わらない。録音魔法盤の再生音のよう。
「えっと、お名前は?」
トンチンカンな事をレゾンは言う。もう、自分でも何が何だか状態。
「どっち、は、いい?」
会話のキャッチボールがおかしい。
レゾンが暴投したからか、少女の投げ返す球も暴投だった。
どっち? 意味が分からない。それに何? と言う短い言葉ではよく分からなかったが、何処か言葉遣いが拙い。発音も少し奇妙。変なアクセントが付いている上、単語の切り方が妙だ。
「えっと」
「そっち、は、いい?」
そっち?
自分に名を言えと言っているのだと思い、レゾンは名乗る。
「レゾン・カンナム。二十五歳、聖堂騎士、階級は第七法守」
聞かれてもいないのに、年齢と職業まで答えるレゾン。かなり、テンパっているのが分かる。
「知つて、る」
知ってる?
確かにレゾンは聖堂騎士のロゴ入り皮鎧を来ているし、右耳には聖刻のあるピアスが下がっている。それは分かる。しかし、階級まで分かる筈はない。
段々とレゾンにも相手の少女が何者か、読めて来る。
きっと、頭の弱い貴族令嬢なのだろう。恐らく精神病院(キチガイの巣)から逃げて来たのだ。だから、感情の起伏がないのだろう。精神病院は魔女の厨より恐ろしいと耳にする。
「お嬢さん、私めと戻りましょう」
レゾンは一旦引き返す事にした。
宿場町まで戻れば、何か分かるだろう。そして、一応、何処の貴族か知っておかなくては。
「名前、いいですか?」
少女は少し考える。
「だかん、どっち?」
「えっと、じゃあ、普通の方で」
やけくそになって、レゾンは言う。貴族なら、普通の方と言えばフルネームを答えるだろう。
「私、マール」
マール。短い名前。少女は言葉を続けない。ファミリネームやサーネームを持たないのだろうか。なら、貴族ではない事になる。
「それで、きぃみ、何する?」
又よく分からない台詞。重度の障害者か。なら、自分の本名を言えないのも分かる。
「レズン、何する?」
レゾンです、と言い直そうとして――止めた。
埒が空かない。
仕方ないと、レゾンは少女の左手を――。
腐臭がした。
近くで転がる死体ではなく、少女から。
レゾンは背筋がゾクっとするのを感じ、その後、脳味噌が揺さぶられる感覚に襲われた。自らの魂が怯えている。何だ、この少女は?
死体でも漁っていたのか。
そうだ、普通の神経なら、そこの屍に反応する。
少女はどうだった?
意にも介さず、素通りした。
何かがおかしい。奇妙、奇怪。この頭を巡る怯えは何だ。
精神患者(気狂い)に戦くのか、それでは民を救済する救世堂の聖堂騎士失格ではないか。
幾ら、貴族と大聖堂が反目しているとは言え、もとい、少女が本当に貴族かも怪しいが――。
怨霊魔術師。
ふと、レゾンの脳裏を過ぎる一単語。
大聖堂の敵。民の敵。そして、反目する貴族とも敵対する。いや、彼らは全ての人類の敵。生者の敵。
聖堂騎士見習いだった時、座学で聞いた怨霊魔術師の話をレゾンは思い出す。
古から黒い魔法と呼ばれ、真っ当な魔術師なら決して手を出さない魔術体系。
禁断の魔法。
神から与えられた生を踏みにじり、神の教えもその子等も全てを冒涜する闇の魔術師達。
彼らは死体を操る。
彼らは骨の軍団を従えている。
彼らは人から魂を奪う。
彼らは脳味噌を弄り、魂に細工する。
精神障害者の少なからぬ数が彼らの毒牙に掛かった所為とも言われている。
その実、怨霊魔術師そのものに出会った人は少なく、一体、帝国もとい世界に何人いるのかすら判然としない。
古い書物に骨の軍団の記述はある。
幾つもの古代国家が死者に蹂躙され果てた。
しかし、それは暗喩か何かではないか、そう言う歴史学者もいる。高名な魔術師も口を揃えて言う、怨霊魔術の体系等神話だと。民間魔術の成れの果てではないか、とも。
二首大蛇が魂を奪う、その話を思い出し、魂をなくした死体を見、精神障害の少女を見つけてしまったからだろうか、正式採用の試験をパスして以来忘れていた記憶が克明に蘇った。
だが、少女は口を利いている。頭部だってちゃんとある。腐臭がするからといって、今握る手にはきちんと温もりもある。
「手、放す」
マールの声に意識が現実に舞い戻る。
マールの右手がレゾンの左手に触れる。
冷たい。山間部の湧き水のような温度。左手とは打って変わって人間らしくない。
今しがた押さえ付けられた怨霊魔術師と言う言葉が再び鎌首を――。
レゾンは頭を振る。
ええい、忘れろ。
今は、この少女をエスコートする事だ。只単に冷え性かもしれないじゃないか、と自分に言訳する。勿論、冷え性だからって、こんなに冷たい筈はないと言う事は承知していたが。
「レズン、手、放す」
マールは強引にレゾンの手を引き離す。
「あっ、でも」
「行く」
言って、マールは歩き出す。やはり早足。背筋を伸ばした儘機械みたいに歩く。
レゾンは駆け足で追いい付き、言う。
「でも、危ないですよ」
「でぃ丈夫」
「竜が出るんですよ?」
「知つ、てる」
知ってる?
「くっそ」
竜が如何に危険かこの少女は理解出来ないのだ。
レゾンは腹を決める。
聖堂騎士のお役目、そして、美人を守るのはやはり騎士の務め。腰に吊るした法具に手を掛ける。何時竜がお出ましになってもいいように。
第九級法具断骨。剣の形状をした法具で、着任の際に救世堂堂主カリミラより授かった物だ。
決して等級は高くない、並の竜なら骨ごと断ち切る事が出来るだろう。しかし、今度の相手には利くまい。しかし、法具には奥の手がある。
断骨で言うと、鍔の辺りに付いた救世堂の聖刻、その裏に嵌った固形化凝縮魔法液を暴発させればいい。目暗ましにはなる。竜と言えど二つの目を持つ生物には違いない。
その隙に逃げればいい。
お咎めはくうからも知れないが使命の為なら、堂主さまも許すだろう。
――
レゾンはマールに合せて歩いた。
峠道は徐々に険しくなっていく。
段々、右手に崖が現れ、次いで左手にも断崖が出現する。
峠と言いよりは切り通しの道と言う風情になって、崖が高くなっていくにつれ、竜の鳴き声が聞こえ出す。
二首大蛇以外の竜も出産に来ているのだろう。
岸壁に穿たれた穴から緑の鱗で覆われた竜の首が覗く。
レゾンとマールを目の端に捕らえるが、動く気配はない。
下級の竜は大抵、卵生で鳥のように暖めなくては孵らない。だから、動くに動けないのだ。学会では、卵生と胎生があるので、出産と言う表現はおかしいと言う意見もあるらしい。
しかし、死体のあった場所から大分進んだものの二首大蛇は影も形もない。
商人同士の争いに端を発するガセネタだったのか。
が、死者は出ている。
レゾンは取り越し苦労だろうか、そう思い一瞬気が緩む。
その時、風、否、突風が二人を捉えた。
凄まじい豪風に体はバランスを失い、千鳥足の如く震え、尻餅を付く。
「うわっち」
「い、たい」
臀部を擦りつつ、目線を上にずらすと、いた。
二首大蛇。太陽を遮り、バカでかい図体で二人を隠す。
アウウウウ!
そして、唸った。鼓膜が潰れそうな不快音波。
耳を塞ぎ、見上げている場合ではない。
レゾンはマールを引っ張って、強引に立たせ、竜の足元へ走った。
巨大過ぎると言う事は、小回りは悪いに違いない。そう、レゾンはふんでいた。
今、竜は二枚の羽根を羽ばたかせ、嵐のような風を生み出しつつ、飛んでいる。足元はがら空きだ。
それに後退して、ブレスを吐かれてしまってはお終いだ。
風に抗い、走る、走る。余りの強風に端から見れば歩いているように見えるかもしれない、けれども、走った。足の筋肉が、風によって押し曲げられそうになる骨を、間接を押し戻す。
筋肉が歪む、軋む、それでも鞭打って走る、ようやく、竜の足が頭上に来る。
竜は動かない。読み通り、レゾンは小さく心で最初の勝利を叫ぶ。
抜ける。あと少しで股抜け、瞬間、咆哮ではない大音響と立っていられない程の振動。
砂埃が舞う、足は言う事を利かなくなり、石ころが足を捕る。
「くぅ」
「あひ」
こけた。盛大に前につんのめり、手を握っていた為にマールも巻き込まれた。だが、意地でもって手は放さない。
竜はどうやら、踏み潰すつもりだったようだ。
二人の両脇を赤い鱗の壁が塞いでいる。
しかし、ここでも図体の大きさは比して小さな人間を踏み付けるには不利だった。
丁度、両足の間の下を通ろうとしていた二人が踏み潰せる筈もなかった。
一瞬、敗北が見えたものの、未だいける。勝利の女神は最後に微笑む。
このまま竜の後方を掛け、振り向いた瞬間、固形化凝縮魔法液を暴発させればいい。既に鍔の聖刻は取り外し済み。
剣を杖に再び立つ。マールの手も引く。足はガクガクだが、未だ、棒になるには早い。
再度、駆ける。
背後では、緩慢な動作で竜は旋回を始めた。
「マールさん、目、瞑って」
マールは目を閉じた。左目だけ。しかし、急くレゾンは確認も疎かに剣を投げた。
剣は放物線を描き、狙い通りに竜の頭部へ。そして、爆ぜた。
ここまでは計算通りだった。
レゾンはマールを抱き抱えるように、抑えて、伏せる。
二人の後方で火球が出現。熱はない。純粋に光だけが球状になっている。
竜の咆哮が耳朶を劈く。そこには、苦悶の色が聞き取れる。地面はビリビリ震える。
十秒程間を置くと、レゾンはマールを引いて、又走り出す。竜は尚も唸り続けている。
竜は急性の盲になっている筈だ。法具の光は強力だ。何時間も闇の恐怖に苛まれるがいい。そう、レゾンは勝利を確信し、笑った。
が、勝利は幻だった。
再度、突風が二人を包む。
今度は前からではなく、真横。そのまま、二人は吹き飛ばされ、崖に叩き付けられ、間髪入れず、穴に落ちた。運悪く、竜が出産の為に掘った穴倉へ嵌ってしまったのだ。
背骨が硬い岩盤に打たれ、悲鳴を上げる。
女々しい声が自ずと出た。
「うわああああ、ああん」
聖堂騎士たる自分が情けない。そうは思うも、痛みは引かない。
痛みで目がシパシパする。鈍痛がやってくる毎に強引に、瞼が閉じる。
確認しなくては、同道者の安否を。
痛みを堪える。噛み殺し、押し殺す。力み過ぎて奥歯が痛い。歯茎が軋む。
真っ暗だった。
陽光は届いていない。けれども、断崖に囲まれた場所にいた所為か目は直馴染んだ。
手がギリギリで届かない位置に小枝に埋もれて、マールが仰向けに倒れている。横目で確かめる。首は動かない。
レゾンは立とうとした。が、立てない。
全身が言う事を利かない。体からの痛み以外の存在感がない、とも言えた。
背骨を折ってしまっただろうか。だとすれば、ここからもう動けまい。
一気に諦観がレゾンの脳内をベタベタと埋めた。
「レズン、いる?」
頭上で声がして、首を動かそうとして、やはり動かせず、さっきまでマールが倒れていた場所を横目で見る。
いない。
彼女は動けるようだった。
打ち所がよかったのか。
そう言えば、マールの倒れていた場所には小枝が山のように積んであった。恐らく、ここは去年かそれ以上前に竜が出産もしくは産卵した場所。小枝の山は巣の後だ。
普通に考えれば小枝の山に落ちるのも危険だろうが、巣の後なら、小枝は全て横に並んでいる筈で枝が刺さると言う心配はない。
レゾンは安堵した。
「何する?」
「う……げっほ」
咽る。その所為で背筋が動き、痛覚が刺激される。
「ううぅ」
「竜、きみぃ、いないらば、来ないかた」
ダメだ。解読出来ない。只でさえ、痛みで朦朧としているのに。
「に首の竜、魂、食ふ。私の魂、竜、食わん」
何を言っている?
二首大蛇の事もちゃんと知っているじゃないか。この娘は。
「竜、は、私、怯えふ」
私が怯えるのか、私に竜が怯えるのか――。
「私、半ん死。竜ぁ、死にだまは食わん」
半死。死に魂は食わない。
あの時、感じた感情と、怨霊魔術師と言う言葉。マールから感じた死臭。点が線で繋がるような思いがした。マールは怨霊魔術師に細工された精神障害者だったのだ。
半死とは恐らく、普通の人間ではなくなってしまったと言う事、二首大蛇が死に魂を食べず――尚且つ、怯える――竜は正常でない魂に怯える、多分、そう言う事。
それなら二首大蛇が中々姿を見せなかったのも頷ける。
少女――マールは、壊れてしまった言語能力でそれを語っているのだろう。
出来る事なら、もっと早く言って欲しかった、そうも思ったが、強引だったのは自分の方だ。死亡フラグは正しかった……。
彼女もこの儘二首大蛇が出ないかもしれないと思っていたのだろう。
その期待は脆くも果てたが。
マールの顔がレゾンの顔に被さるようにして、やってきて、覗き込む。
レゾンはとある事に今更ながらに気付いた。
マールの額の左側。痛ましい傷跡がある。
今まで気付かなかったのか不思議な位、くっきり、はっきりと。傷は暗がりにも関わらず、色が分かった。赤黒い。そして、痛ましいよりも禍々しいが正しいと思わせるような――何かが刺さった後にも思えた。
何故だろう。闇に傷は浮かび上がるように感じられ、自己主張している。
魅入られて仕舞いそうだった。
マールは美しい顔立ちをしているが、それよりも額の傷が魅力的に見えた。そして、何か底の知れない蠱惑的な物を覚える。
怨霊魔術師の細工跡の筈なのに、憎むべき敵の、悪魔的行為の結果の筈なのに、何故だろう、怨霊魔術師に対する怒りが沸かない。寧ろ、沸き立つのはマールへの得体の知れない恐怖だった。




