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土曜日



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「うーん」

 ベッドで上体を起こした彼に、すでに学校の制服を着ていた明日菜が振り返った。頭の両側で結んだ髪が、遠心力で丸く宙を舞った。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 勇士は明るい明日奈の笑顔をまじまじと見た。

「どしたの?」

 呆然としている兄に、アスナが不思議そうな顔をして見せた。

「いや、今日は何曜日だったっけか?」

「ヤだなあ、月曜日だよ。一週間が始まるんだから、元気よく行きましょう」

 励ます言葉を口にしながら、明日菜は部屋を出て行った。

 ベッドからノロノロと起き上がり、クローゼットの扉を開いた。そこに備わっている鏡をのぞき込むと、いつもの自分がいた。

「夢?」

 変な夢を見たと思おうとした時だった。鏡に映った自分の顔が、霧の中の老人に入れ替わった。

「!」

 驚いてたじろぐと、あの老人が口を動かした。

《勇士よ。一週間の間、死なぬようにするのだぞ》

 鏡の中から勇士に告げると、微笑みを見せて消え失せた。

「夢じゃないのか…。月曜日…」

 そして霧の中での会話を思い出した。

《『愛』を、みんなに注げば、こんな下らない目に遭うことは無いと思うがの》

「あい…」

 さすがに口に出して言ってみると、恥ずかしさがこみあげてくる。

 頬が熱を帯び始めたのを自覚する。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

 階下から明日菜の催促して来る声が無かったら、一日何もできなかったかもしれない。

「おう!」

 声だけは元気よくこたえ、勇士は腕組みをしてこれから起きることを順番に思い出そうとした。

 大丈夫だ。まだ順序だてて思い出すことができる。これならば悲劇を回避できるかもしれない。

(死んじまう運命なんか、変えてやる)

 制服に着替えた勇士は、鏡の中の自分を睨みつけながら決意した。



 階下のダイニングに降りると、トーストにサラダという小野家では定番の朝食が待っていた。

 が、その前にやることがある。ガラスのコップにオレンジジュースを用意していた明日菜のところへ、何気ない様子で近づくと、思い切って抱きしめた。

「きゃ」

「アスナ。おはよー」

「お、お、おにいちゃん! 零れちゃうでしょ!」

 声を裏返しにした明日菜が、可愛い様子で腕の中で暴れた。

(あ、あれ?)

 意外な柔らかさに、勇士も戸惑ってしまう。さすがに中学生ともなれば、女性の体に近づいている。前に抱きしめたのは、きっと小学生の時だ。それからだいぶ変わっている妹の柔らかさを、ちょっと名残惜しそうに解放する。

「さ、食べちゃおうか」

 耳まで真っ赤になって立ちすくむ明日菜を促して、点けっぱなしのテレビを時計代わりにして、朝食を終わらせる。

 荷物を持って、二人揃って玄関を出る。

 勇士が鍵を閉めている間に、明日菜は犬小屋の前にしゃがみこんでいた。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 地面に寝転がっているキララのお腹を撫でながら、明日菜はそう語りかけていた。

「ほら、遅刻しちゃうぞ」

 放っておいたらいつまでも撫でている気がして、勇士は明日菜を急かした。

 その時だった。

「肉がイル」

 振り返ると、記憶の通り恭子がそこに立っていた。

 やはり手入れのしていない髪に、汚れ放題の灰色をしたワンピース。臭いだって、何日も風呂とはご無沙汰といった感じであった。

 今日は、手に薄力粉の袋を持っていた。

「よう。おはよう」

 勇士は恭子に微笑みかけた。それでスイッチが切り替わったように、恭子の半分赤い眼球が勇士へと向いた。

「ごきげんよう、ユウジ」

「キョウコも機嫌よさそうだな」

 恭子は、キララを撫でる明日菜を見た。

「大きイ肉が一個に、小サい肉が一個…」

「肉じゃないよ。アスナだよ」

 勇士の優しい声に、視線が戻って来た。

「肉に変ワりは無いジャないの」

「今日は、オバサンはどうしたの?」

「ホ護者?」

 恭子が機械的に首を傾げた。

「そレが、わたしのドコに関係がアると?」

「そりゃ心配してるだろうからさ、オバサン」

「そレはどうでしょう。いなクなって、清々しているのカもしれないわ」

 そう言いつつ恭子は一歩前に出た。

「ユウジは、おでカけ?」

「これから学校だよ」

 そう答えてから、天啓のようなヒラメキが降りてきた。

「そうだ、キョウコも一緒に行こうぜ」

「え?」

 恭子と、後ろの明日菜が、同時に驚きの声を上げた。

「学校? だって、わたし…」

「いいじゃん。せっかく朝に会えたんだからさ」

「で、でも」

 恭子の視線が意志を持ってさまよい、そして明日菜に向けられた。

「わたし、制服を着てないわ」

「気にすんな、気にすんな」

「だって、わたし…」

 恭子は、そこで初めて自分の身なりに気が付いたように、足元まで自分の体を見おろした。

「こんな、かっこう…」

「いいじゃんかよ」

 あくまでも笑顔で、強引さを出さないように勇士は恭子を誘ってみた。

「お…」

「お?」

「女の子には支度があるのよ」

 後ろから膨れた顔の明日菜が口を挟んできた。手にした携帯電話を振っているところから察するに、恭子の伯母である月子へは連絡したようだ。

「急に誘われても、困っちゃうよね」

 明日菜がかけてくれた言葉に、久しぶりの友人に会ったような顔を向ける恭子。

「アスナちゃん…。ええ、ええ。そうよ。お出かけする格好じゃないわね」

 そして勇士を見て、久しぶりの優し気な微笑みを浮かべた。

「誘ってくれるなんて、ユウジだけね」

「最初のトモダチだからな」

 そして勇士は自然と恭子を前から抱きしめた。

「な!」

「エ…」

「なにをしてんのよ! おにいちゃん!」

 慌てて明日菜が二人の間に割って入ろうとした。

「ん? どうしたアスナ。またギュって、して欲しいのか」

 明日菜に本日二回目のハグをしてやる。

「お、おにいちゃん!」

 赤くなった悲鳴のような声を上げる明日菜。その時、道を月子がやってくるのが目に入った。

「キョウコちゃん!」

「あら、もう行かないと。誘ってくれて、うれしかったわ。では、ごきげんよう」

 おしとやかに頭を下げる恭子と、泣きそうな表情で顔が固まっている月子が去っていくのを見送る。

「さ、おにいちゃん。いこ」

 二人の背姿を見送っている勇士に、怒った声で明日菜が上着の裾を引っ張った。



 バスはいつも通り混んでいた。立っているのがやっとの空間で、勇士は明日菜と、いつもと同じように密着状態となった。

 もちろん、勇士はその背中に手を回して、周囲の圧力から妹を守ってやった。

 いつもより兄に守られる形になった明日菜は、幸せそうに身を預けてくれた。

 清隆学園前のバス停で、吐き出されるように降り、学園へ続く緩い坂を上る。

 戦争中は航空隊の滑走路だったという、まっすぐな中央通りで、勇士と明日菜は向き合った。

「じゃあな、アスナ」

「うん。あ、今日は遅いの?」

「あー」

 勇士は自分のこれからを思い出してみた。

「今日は月曜だろ。部活のミーティングがあるから、いつもよりは遅いかな」

「そっか…」

 残念そうに唇をすぼめる明日菜。兄という立場から見ても、仕草が年相応でかわいらしかった。

「じゃあ今日はカレーでいい?」

「そうだな。カレーだと栄養のバランスよさそうだもんな」

「わかった。じゃあ寄り道しないで帰るんですよ」

 まるで母親のようなことを言いながら、兄へ背中を見せる中学生。

「はいはい」

 勇士の口元には苦笑のような物が浮かんできていた。

(よし。アスナもキョウコも反応がいいぞ。これで一週間生き残れそうだ)

 勇士は同じ制服を着た人ごみの流れに加わった。



 上履きに履き替え、人ごみに揉まれるようにしてB棟の階段室に向かう途中で、見慣れた先輩が視界に入って来た。

「あ、小野くん」

 こちらが見つけたのを感じ取ったのか、小さく手を振りながら近づいてきたのは、刀剣研究部部長の咲弥であった。

「ブチョー、はよっす」

 元気よく挨拶。だが、さすがにこの人ごみで上級生、しかも異性の咲弥に抱き着くわけにはいかない。

「おはよう。今日、部活はどうする?」

「もちろん行きますよ」

 間髪入れずに、爽やかに答える。

「じゃあ、またいつもの学生会館で」

 一斉に花が咲いたような笑顔を見せて、咲弥は階段室を出て行った。

 今にもスキップを踏み出しそうな彼女の背姿を見送って、勇士は久しぶりな気がする教室へ上がるために、階段に踏み出した。



 いつもの時間に一年二組に着くと、隣の席から修也が明るい笑顔を向けてきた。

「おはようユウジくん」

「おう。おはよシュウ」

(神さまは『愛』とか言ってたが、実際に男を愛するって、どうゆうことだ?)

 勇士は異性を恋愛対称にしているから、いくら女の子に見える修也でも、同性の彼を『愛』せよとは、どうやっていいのかわからない。兄弟だって、妹の明日菜しかいないのだ。

(いや。友人同士なんだから、友情のもっと深い物。それも『愛』なんじゃないか?)

 じーっと見つめる勇士の様子に、いつもと違うものを感じたのか、不思議そうに修也は小首を傾げた。

「どうしたの? ユウジくん」

「いや、その…。また読んでいるのか? その雑誌」

「うん」

 ちょっとハニカミながら、机の上でなく膝の上でページをめくっていた薄い雑誌を持ち上げた。

「ええと…」

 目線を宙に彷徨わせて、修也は少し言葉を探した。

「ボクがいま作っているロボットに使えそうな回路があってさ」

「ボクじゃなくて…」

 ここまで口にして、ふと気が付いた。

(もしかしたら、こういった細かいこともストレスになってたのかもな)

「ただでさえ女に見えるんだから、しっかりしてくれよ」と、修也自身のためなんだというところを強調してから「オレって言えよ」

「あ、うん」

 コクコクと細かく頷く。まるで小動物のような調子であった。

「ぼ…、じゃなくて、オレが作っているロボットに、使えそうな回路があってね…、あってな」

 やっぱり、少女が男言葉を真似しているようにしか見えなかった。男だけど。

 勇士は溜息をつきそうになった。

「ん? なにかおかしなトコあったかな?」

 本人に自覚がないところが一番致命的である。

「まあ、いいや。そうかロボット完成しそうなんだ」

 勇士の脳裏に、とても自然な様子で立ち上がった修也のロボットが浮かんできた。

「うん。そうなんだ」

 話しを先回りされたのにニッコリ。やはり女の子にしか見えなかった。

「えへへ。そしたらユウジくん、見に来てくれる?」

 はにかんで下からの目線。やはり神は彼の性別を間違えたようだ。

「おう。ぜひとも見せてくれ」



 午前中の授業は滞りなく終わり、昼休みとなる。

 勇士はいつも通り修也と学食へ向かった。

 また窓際の席で向かい合い、定食を囲む。遠くから、特殊な趣味をお持ちの女子生徒たちが送って来る熱い視線が煩わしい。

 そのせいか、また同じことを訊いてしまった。

「あのさあ、シュウも見た目はいいんだから、彼女の一人でも作ったらどうだ?」

「もぐ?」

 コロッケを味噌汁で流し込んだ修也は、目を白黒させながらこたえる。

「ボクが彼女つくるなんて、無理無理」

(しまったな。この話題はヤバそうなんだが…)

 そう思ったが、急に打ち切るのも変な気がした。

「そうか? 大人な女性なんかは、シュウみたいな男の子の面倒見たいなんていう欲求があるんじゃないか? そういう人なら、シュウの面倒を任せられるかなって、思ったんだよ」

「ユウジくんは、ボクがキライなの?」

 潤んだ瞳を向けてきた。

「バーカ。好きでもないダチとツルむかよ」

「てへへ。好きって言ってくれた」

 うれしそうに拳の向こうへ笑顔を隠す修也に、アノ時の恐怖を感じた勇士は、すかさず言った。

「いや、友人としてだけど?」

「うん、わかってるよ」

 だが、勇士の記憶に中では、彼はドリルを振り回す狂人としての印象が大きかった。どんな純真そうな顔を見せられても、工具を手に取った時の表情がちらついてしまう。

「念を押して聞きたいが。シュウも女が好きなんだよな?」

「そうだよ? 当たり前じゃないか、ボクは男の子だよ」

 不思議そうに首を傾げる修也。

「だって男同士って、ああいう時はお尻なんでしょ」ブルルと身もだえ「そんなバッちい」

(それでも、ああなったじゃないか)

 全然安心できなかった。

「じゃあ、ブチョーなんかどうだ? 大人びたようで、オマエに似てどこか天然なトコがあるし」

「部長さん? あれ? いいの?」

「いいのとは?」

「だって、部長さんのこと狙っているのはユウジくんでしょ?」

「いや、ほらアノ人は…」

 今度は夜道に立つ私服姿の咲弥が脳裏に浮かんできた。

「虎徹ラブの人じゃん? 実態を知っちゃうとな」

「そんな人をボクに薦めたんだね」

「うっ」



 午後の課業を終えて、連絡事項を学活で聞いたら、放課後である。生徒たちは委員会のある者はそちらに、部活のある者はそれぞれの活動場所へ散っていく。

 以前と同じであった。ついでに、そんなところまで同じでなくてもいいと思うのだが、放課後になって自分のバッグのゴミをまとめて投げたら、クラスメイトに当たってしまったのも同じだった。

 その後、修也と連れ立って、D棟二階の学生会館に行く。今日も昼休みに使い切られたのか、給茶器は要補充のランプが点灯していた。仕方がないので、飲み放題の冷水を注ぎ、室内を見回してみた。

「さて」

 咲弥が来ていないかと見回すと、いつも場所を取っているあたりで、文庫本を広げている咲弥の姿があった。

「ちっす」

 彼女の前にコップを置きながら挨拶をする。すると「チャーハンの秘密」とか表紙に書いてある文庫本を机の上におろしながら、彼女は顔を上げた。

「こんにちは小野くん、猪熊くん」

 ニッコリと笑顔を作ってくれた。

「こ、こんにちは」

 修也は相手を探るように見ながら、まだ使用されていない椅子を二つ寄せてきた。

「お、悪ぃな」

 遠慮なくその気遣いに甘えることとする。荷物は適当に足元へ置いた。

 これで一つの机を三人が囲む形となった。いつも刀剣研究部の形である。

「あ、飲みます?」

 いちおう礼儀として勇士が訊くと、厳しい目で修也を見ていた咲弥が、表情をほぐして振り返った。

「んんん。私にはコレがあるから」

 咲弥は、自分の荷物を探ると、机の上に購買部で買ったらしいペットボトルのお茶を置いた。

「あ、なんかニュースがありそうですね」

 分かってはいたが水を向けると、咲弥が頬に手を当ててうれしそうに言った。

「ええ。前から大学へ申請していた『白露』なんだけど、借りられそうなのよ」

「そいつは凄いっすねぇ」

 勇士は、自分も嬉しいとアピールするために、満面の笑みでこたえた。

「それって…」

 横からおずおずと修也が口を挟んだ。

「あの怖い話がある刀ですよね」

「だから『研究』するんでしょ」

 咲弥が端っこの強張った笑顔を修也に向ける。勇士も顔が引きつりそうになった。なにせ『白露』には良い想いでは無い。

「博物館の刀剣を保存しているフロアの、空調がおかしくなったんだって。それで夏を前に慌てて直すことになったのよ」

 咲弥の説明に、修也の表情が「それがなんでウチへの貸し出しに繋がるんだろう」とばかりにキョトンとなった。

「ほら、刀って要は鉄でしょ。湿気や気温なんかを厳重に管理しないと、錆びてしまうもの」

「あー。でも、高等部に保管ケースなんてありましたっけ?」

 修也の質問に、平然と咲弥がこたえる。

「たぶん無いわね」

「え、それじゃあ…」

 修也がとても不安な顔になった。

「いや、一日か二日でダメになるようなモンじゃないだろ」

 勇士が諭すように修也へ言った。

「さすがに素手でいじるなんて事したらダメだろうけど、普通の展示ケースでも大丈夫だろ。昔はそんな空調なんてなかったんだから」

「いちおうA棟の展示コーナーに保管されることになっているわ」

 自信たっぷりに咲弥が言った。どうよとばかりに二人の後輩の顔を見比べて胸を張る。

「向こうは、水曜日に来てくださいって。返却も来週の水曜日」

「まる一週間かあ」

 それが果てしない彼方にあるかの様に呟く修也。それを実感している勇士は、なにも言えなかった。

「で? どうします?」

 たしか咲弥は喜んでいたはずと、チラシを作る覚悟をしながら訊ねる。

「?」

「どうしますって?」

 咲弥はキョトンとしていた。それはそれで年相応で可愛い表情であったが、いつも大人びた感じの彼女にしては珍しい顔であった。

「いえ、せっかく借りられるんだったら、ウチもなにか行動しましょう」

「行動? 水曜日の放課後に、近堂先生と一緒に博物館行く予定だけど?」

「そうじゃなくて」

 咲弥に微笑みかけて勇士は提案した。

「その『白露』の解説文とか何とか、プリントにして配るとかしませんか? それと代わり番こにケースのところにいて解説するとか」

「あー」

 目を丸くした咲弥はポンと手を打った。

「せっかくだし、ウチも活動してるって、先生方にアピールしなきゃ」

「考え付かなかったわ、小野くんさすが」

「ま、オレも刀剣研究部の一員なんで」

「ぜひ、そうしましょう」

 パンと手を打ち合わせた咲弥は、ふと表情を曇らせて訊いてきた。

「そのためには、まずどうしましょうか」

「プリントって、どのくらいの物にするの?」

 不安そうに修也が横から訊いてきた。

「大げさじゃなくてもいいじゃないか。紙一枚にチラシみたいな感じで。とりあえず枚数は一〇〇枚ぐらいで」

「そんなに作っちゃって、余ったらどうするの?」

 眉を顰めている修也に、ニヤリと笑いかけて勇士は、自分の経験から教えてやる。

「生徒会に認められれば、そのくらいタダで印刷させてくれる」

「え? 本当なの? 小野くん」

 つまらなそうに修也の心配を聞いていた咲弥が、勇士の博識っぷりに驚いて訊いてきた。

「ええ、そうっすよ。なんなら確認してみて下さい」

「…」

 じいっと勇士を見つめた咲弥は、うんと頷いた。

「なんか自信ありげで、大丈夫そうね。あとは、なにを書くか、か。とりあえず文献を当たって、何を書くか、書けるのかを知らないと」

 咲弥が自分の荷物へ、出していた文庫本を仕舞った。

「じゃあ図書室かな」

 横の修也も荷物をまとめ始めた。バッグを開きもしなかった勇士は、ただそれを取り上げるだけだ。

「じゃあ、いきましょうか」



 咲弥と修也と三人でC棟二階の図書室へ移動し、チラシ用の資料を探すこととなった。

 ただ今度で三回目の資料集めである、どこに重要な資料があるのかは、大体わかっていた。

「すいません」

 入口をくぐったところにあるカウンターについていた気の強そうな女子生徒に、日本刀関係の文献が置いてある棚と、閉架にそういう本があるか、いきなり訊くことにする。

 記憶のままに、女子生徒に棚へ案内され、カウンターであのブ厚いバインダーと格闘する事になった。

 だが、そこは三回目。すべての資料をチェックするのではなく、記憶にあるチラシに使用した写真などに絞ってピックアップした。

 おかげで、一日でほぼ資料を集めることができた。

「なんか、今日の小野くんは、デキルじゃない」

 咲弥が勇士の事を下にも置かない態度で褒めた。

「オレはいつもデキル男っすよ」

 まあ、これから起きることを知っているからこそ先回りなど造作もないことなのだが。

 咲弥もそのころまでに、バインダーと一緒に貸し出された小冊子の参考になるページの当たりをつけており、勇士たちが選んだチラシとあわせてコピーを依頼できた。

「編集作業はどうします?」

 一日早いが記憶の通りに咲弥に訊いてみた。

「そうねえ」

 咲弥は、まず自分の腕時計で時刻を確認し、それから図書室の壁面に取りつけられた時計を見上げた。

「今日はここまでにしましょう。編集は、明日で間にあいそうだし」

 ということで、本日の刀剣研究部は終了ということになった。



「あー、足が張った」

 立ったままで図書室の閉架時間までバインダーと向き合っていた勇士は、小野家の居間に置いてあるソファに転がっていた。

「コラ、おにいちゃん」

 かわいいエプロンをつけた明日奈が、オタマを持ったままやってきた。

「食べた後にすぐ横になると、牛になりますよ」

 時計は進んで午後八時。小野家では夕食がすんで、ホッとする時間帯である。

「小学生かよ」

 と言い返しつつも上体を起こす。エプロン姿は可愛いが、手にしたオタマを見ると、殺された時の恐怖が蘇って来る。

「おにいちゃんが、アスナのゆーこと聞かなかったら、コレでポコンってやるからね」

「オイオイ、やめてくれよ」

「なんかあったの?」

 足をさすっている勇士の様子に、明日菜が眉を顰めた。

「ん? まあな」

 カウンターに立ちっぱなしだったので、ふくらはぎに筋肉痛があった。が、さすがに三度目なので、そこまで酷いことにはなっていない。

「足、いたいの?」

 心配げに明日奈が顔を覗いてきた。

「いや、ちょっと疲れただけ…」

「そうならいいけど」

 明日菜は時計と勇士の顔を見比べた。

「じゃあキララの散歩に行ってきちゃいなよ」

「おう」

 そう答えてから、勇士は強烈な違和感に包まれた。

(そうか。キョウコのオバサンが訊ねてきてないんだ)

 リードを手に玄関に向かう勇士を見て、明日奈は洗い物に戻るようだ。

 玄関のドアを開けると、待ちかねたようにキララが散歩を催促する鳴き声を上げた。

 その元気な様子を見つつ、勇士は定位置の玄関に置きっぱなしになっているキララのエチケットセットを手に取った。

 散歩へ行ける嬉しさに、体当たりして来るキララにリードをつける。

 尻のポケットにスマートフォンを忘れずにネジこみ、エチケットセットを確認した勇士は散歩へ出発した。

 犬族のほとんどがそうであるように、キララも散歩が大好きであった。

 小さいくせにグイグイと勇士を引きずる勢いで、自分のお気に入りのコースを歩き出した。勇士にとっても、久しぶりの散歩のような気がする。

「キララ、何度もチャンスをくれて、ありがとうな」

「あおん」

 勇士が話しかけると、人語を理解しているとばかりに、小さく喜ぶような鳴き声が返って来た。

 キララの足が、公園へと向いた。

 すっかり夜の暗闇に沈んだ砂場に、一人分の影が立っていた。細かな顔や服装などは分からぬが、身長などの体格で判断するに、どうやら今夜会う人物で間違いないようだ。

「よーう」

 ちょっと離れたところから、気安く声をかけた。

 それまで空を見上げていたらしい彼女の首がこちらを向いた。

「アら。(ニク)かと思ッたらユウジじゃない」

 暗闇に沈んでいるために表情は読み取りにくいが、どうやら微笑んだようだ。

 しかし、彼女の様子は一変していた。紺色膝丈ワンピースの上に、蝶の羽を持った妖精が描かれたエプロンという姿だ。伸ばし放題の長い髪も、ちゃんと櫛削り、大きなリボンで一つにまとめていた。

 顔だって艶の無かった朝と違い、夜目で分かりにくいが、年相応に瑞々しく輝いていた。

 しかも長い髪からは、ほのかに柑橘系の香りが、肌からも石鹸の優しい匂いがした。

 勇士を視界に収めて、ニッコリと微笑んだ。

「こんなトコで、なにしてんだ?」

 いちおう義務の様に訊く。勇士は自分でも知らず知らずのうちに、恭子の右手に注目していた。

 そこには何も握られていなかった。

「星を」

「?」

 恭子は振り仰いだ。

「星を、見ていましたの」

「そっかー」

 付き合うように勇士も夜空を見上げた。

 二人して、大して星が見えない東京の夜空を眺めた。キララは勇士の足元でウロウロとしている。どうやら移動したいようだ。

「こうしていますと、昔を思い出しますわ」

「むかし?」

「ユウジが誘ってくれましたのよ。ココにいようって」

「あ~、懐かしいな。覚えていたのか」

「もちろん覚えていますわ。大事な思い出ですもの」

 どうやら微笑みなおしたようだ。

「今も昔も、味方になってくれるのはユウジだけですものね。あら?」

 恭子が下を向いた。いつの間にか動きを止めたキララが、恭子の靴に興味が出たようで、一生懸命に彼女の足元を嗅いでいた。

「あ、すまんな」

「かわいいのね」

 キララを見おろして、新しい笑顔をつくる恭子。ふと勇士に視線を戻すと、ちょっと困ったような顔をしてみせた。

「ユウジのボディガード?」

「まあ、そんなもんだ」

「夜道は危険ですものね」

「ま、まあ。夜道は危険だよな」

 夜道が危険だという自覚があるなら、一人で夜中に出歩かないでほしかった。

 キララがアチコチにリードを引っ張り始めた。散歩の続きへの催促であろう。

「送っていこうか?」

「まあ」

 勇士の提案に、恭子の表情が目に見えて柔らかくなった。

「ユウジはいつも、ワタシの味方をしてくれるのですね」

「トモダチだろ。見捨てるわけないじゃないか」

「そうでした」

「え…」

 納得いった様子で、恭子は公園の出口を目指して歩き出した。勇士は、また不思議な違和感のようなものを感じた。

 恭子が足を向けたのは、公園の西側の出口だ。それは、いまやっかいになっている月子の家の方角なのである。

「ええと」

 咄嗟に頭を回転させながら勇士は恭子に訊いた。

「こっちでいいんだっけ?」

「ええ。伯母には、あまり遅くならないようにと言われたので」

 それで勇士は納得がいった。どうやら今回の恭子は、ちゃんと行先を月子へ伝えて外出したようだ。

 そのまま幼馴染同士で並んで歩き出す。いつもと違う散歩コースに、キララが少しだけ不安げになり、先程までグイグイ引っ張っていた様子は鳴りを潜めていた。おかげで恭子のペースに合わせやすくなった。

 月明りも星明りも目立たない東京である。街灯が舗装された道を照らしていた。その薄明りの中で、勇士は恭子を見た。

 こうして普通の格好をしていれば、実際の年齢よりもはるかに上の世代を感じさせる、とても落ち着いた雰囲気をしていた。白い肌に筋の通った鼻梁。こうしていれば、美人で通る女性であった。

 半ば見とれていると、遠くから声をかけられた。

「キョウコちゃん」

 振り返ると、いつもより明るい顔をした月子が立っていた。

「あ、保護者」

 ニッコリと月子の呼びかけにこたえる恭子。立ちすくんだ勇士の許からしずしずと伯母へ歩み寄る。

「公園で、ユウジにあったのです」

「そう」

 いままでより理性的な行動に、月子は嬉しそうだ。

「ここまで送ってもらいました。夜に男の子と一緒は、いけなかったですか?」

「いいのよ。いつもユウジくんには、お世話になっているもの」

 月子は目を細めて勇士を眺め、そして軽く会釈してくれた。慌てて勇士も頭を下げる。

「さ、帰りましょ」

 まだ星が見足りないとばかりに空を仰いでいる恭子の背を、月子がそっと押して歩き出した。

「ユウジくんも、ありがとうね」



 散歩から帰って、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

「今日はうまくいったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(キョウコの調子はよさそうだし、学校でも順調だ)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

「今度こそ死なないぞ」

 ポツリと漏れた自分のセリフに背筋へ震えがきた。

 目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

《一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ》

 幻聴だろうか、再び声が聞こえてきた気がした。

「わかったよ、神さま。おやすみなさい」

 またあと六日。勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる身体の上に落ちてくる前に、勇士はそれを両腕で受け止めた。

「きゃっ」

 まさか兄の逆襲を受けるとは思っていなかった明日菜は、勇士の腕の中で硬直した。

「おはよ、アスナ」

 そのまま日向の匂いがする髪へ顔をうずめる。

 すると、それで硬直が解けたのか、バタバタと両手を振り始めた。

「あ、朝の準備ができてるから!」

 まるで無理に持ち上げたキララのようなリアクションで勇士のベッドから脱出する。

 体を振って、すでに着ていた制服の乱れを直し、ついでに頭の両側で結んだ髪を、遠心力で丸く宙を舞わせた。

「お、おにいちゃんは、アスナに起こされないと、いけないの!」

 と嬉しそうな口元のまま、なぜか怒られた。

「そうなのか?」

「そうなの! で、朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 そうやって小野家の朝が始まった。身支度していると、先に降りた明日菜から、いつものように催促の声がかかった。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

「おう!」

 今日も手早く朝食を片付け、揃って玄関を出る。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 明日菜がキララに挨拶をしている間に、玄関の施錠をする。

 その時だった。

「肉がイル」

 声をかけられた気がして振り返ると、そこに今日も狂人が立っていた。

「よう、おはよう」

 ただ記憶にある、あの服装ではなかった。

 淡い緑色のブラウスと白いロングスカートに、サテン地のスカーフを腰に巻いていた。伸ばし放題の長い髪もきれいにとかして右側にまとめて肩の高さで大きなリボンにまとめていた。

 やはり、最近では珍しく身の回りを綺麗にしており、朝シャンでもしたか、ほのかな石鹸の香りが纏わりついていた。

(あれ?)

 勇士の今までの経験からすると、まともな格好の恭子が訊ねてくるのは、明日のはずである。

(早まったのか?)

「どうしたの? ユウジ?」

 不思議そうに小首を傾げる様子は、まったく普通の少女に見えた。

「い、いや、なんでもない」

 まさか恭子に向かって「まともになったな」とも言えず、勇士の言葉が濁った。

「おはよう、ユウジくん。アスナちゃん」

「あら、おはようございます」

 恭子の隣には月子が付き添っていた。朝の挨拶に明日奈が両手を揃えて頭を下げて返答した。そんなデキる妹の姿を見て、慌てて勇士も頭を下げた。

「は、はよっす」

 まるでクシャミのような挨拶が出た。

「今日はどうしたんです?」

 当然の疑問が口から出た。すると月子は機嫌良さそうに自分の頬に手を当てた。

「今日はキョウコちゃんの調子がいいみたい。それでね、ユウジくんが通っている学校を外から見たいって、朝からちゃんと言ってくれて」

「はあ、ウチのガッコっすか」

 やはり恭子に関する事は、早まったと考えていいだろう。

 勇士を見つめる恭子は、月子と揃ってニコニコしていた。

「いま行くと、バスこんでますよ。もっと空いている時間の方がいいんじゃないかな」

 いちおう嫌な予感を感じたので、変化が無いか試してみた。

「それが、キョウコちゃんはユウジくんと一緒に行きたいって」

 ほんの少し困った顔をしてみせる月子。

「ワタシ大丈夫よ。がんばる」

 恭子が年相応のかわいいガッツポーズをしてみせた。

(なんにしろ、今日殺されることは無さそうだ)

 思い直した勇士は、いちおう予防線だけは張っておくことにした。

「恨まないで下さいよ」



 バスの車内は、今日も混んでいた。農協前のバス停に来るまでで車内は一杯になっており、今日も手すりに掴まっての立ち乗りだ。

 そんな密着状態のバスで、今日はいつもより五割増しに美人になった恭子が、周囲から受ける圧力をいいことに、前から彼に抱き着いてきた。

 ふわりといい香りがした。

 勇士は無意識に恭子の腰へ、開いている方の手をまわして、バスが揺れても彼女が転ばないように支えてやった。

「おにいちゃん」

 反対側から怒りを押し殺した声がした。首だけ捩じれば、明日菜が睨みつけているのがわかった。

「なんだ、アスナもダッコか? 甘えん坊さんだなあ」

 荷物を持った方の手を伸ばし、二人纏めて抱きしめてやる。

「!?」

 明日菜が声にならない声をあげているので、二人に囁くように言ってやる。

「二人とも、こんな簡単なことなら、いつでもしてやるぞ。ただしケンカしないんならだ」

 もちろん脳裏には、嫉妬のあまり襲って来た咲弥の姿があったからだ。

「うふふ」

 キョトンとしている明日菜に、恭子が含み笑いのようなものを向けた。

 明日菜はそれで我に返ったのか「はあ」と、わざとらしい溜息をついた。

「キョウコちゃんも、気を付けないと。意外とおにいちゃんスケベなんだから」

「ちょっと待て。訂正をもとめるぞ」

 そんな三人のやり取りを、月子だけが離れた位置から、微笑ましく見ていた。

 そうこうしている内に、バスは清隆学園前のバス停に到着した。

 ドッと同じ制服を着た連中が、バスから吐き出されるように降車する。

 紺色の高等部の制服が流れる中に、黒い中等部の制服が混じっているという印象で、その緩い上り坂を上っていく。今日はその二種類の色の中に、恭子と月子という私服が混ざっており、いつもとは違う道に感じられた。

「うふふ」

 また小さく恭子が笑い出した。勇士はこの後起きることが予想できた。

(どうする)

 大回転で思考を走らせる。そこへ神さまの『愛』という言葉が閃いた。

 不愛想なコンクリート造りの外壁で、そこだけはレンガで綺麗に整えられた正門前までやってきた。

 中等部の明日奈と、入学すらしていない恭子とは、ここでお別れである。

「よしっ」

 と気合を入れ、先手必勝とばかりに、明日菜を抱きしめた。

「わきゃっ!」

「じゃあな、アスナ」

「ちょ、ちょっと。おにいちゃん!」

 パタパタと手を振って暴れる明日菜を開放し、今度は恭子にもハグをする。

「キョウコも、またな」

「はい」

 幸せそうに眼を閉じた恭子は、体全体で微笑んでいた。

 そして月子へ振り返り、いちおう訊いてみる。

「オバサンもハグいります?」

「私は遠慮しておくわ」

 こらえられない程の笑いをなんとか押しとどめている、といった態の月子は、それでも不安を感じたのか、勇士から一歩下がった。

 それでいつもの調子を取り戻せた気がした勇士は、恭子を放しながら明日菜にもう一回言った。

「じゃあな、アスナ」

「うん。今日は遅いの?」

「あー」

 勇士は自分の予定を思い出してみた。

「今日も部活なんだ」

「そっか。じゃあ寄り道しないで帰るんですよ」

 まるで母親のようなことを言いながら、兄へ背中を見せる中学生。

「はいはい」

 妹を見送り、今度は幸せそうに微笑んでいる恭子だ。

 前の時と違って、落ち着いた様子で立っているので、すぐにバスに乗っても大丈夫だろうが、まだ通勤通学ラッシュの時間帯である。

「大学の方に、大きな図書館とか、博物館とかあるっす。そこらへんで時間を潰した方が、バスも空いてていいんじゃないっすか?」

 変人奇人が多いという噂の清隆学園であるが、そういった付帯施設はちゃんと揃っていた。敷地内でも明日奈が歩いて行った中央通りを行けば散歩に適した林すらある。

「そ、そうね。ちょっと散歩して帰るわね」

 月子は恭子の顔を振り返った。すると彼女はペコリと能動的に頭を下げて挨拶した。

「じゃあねユウジ。ごきげんよう」

「んじゃな」

 手を振る幼馴染を見送り、正門の方へ振り向いた。

 咲弥の姿が無かったか、確認はできなかった。



 同じ格好をした者たちが、どうっと階段室へなだれ込む。そんな濁流の中に、流されまいとしている中洲の岩のような点が存在した。

「あ、小野くん」

 流されまいと壁際に立っていたのは、刀剣研究部部長の咲弥であった。

「ブチョー…。はよっす」

「おはよう」

 固い表情の印象しかない咲弥が、今日もとても上機嫌に見える。おそらく昨日から刀剣研究部がそれらしい活動できているのがよいようだ。それに、校門前でのことは耳に入っていなさそうだ。

「今日も部活、やるでしょ」

「もちのろんっすよ」

 グイッと親指を立ててやる気をアピールすると、咲弥は面食らった顔をした後に、勇士の真似をして親指を立ててくれた。

「今日も、コレといって用事があるわけでも無いっすから」

「じゃあ、今日は図書室へ集合ということで、いい?」

「まだ調べることありましたっけ?」

 勇士が確認すると、それもそうねと口を尖らせる。

「でも、編集作業は、どうやりましょうかね」

「そっちは大丈夫。アテはあるから。じゃ、放課後に」

 咲弥は上機嫌のまま階段室を出て行った。



 それから勇士は記憶の中にある火曜日を再び経験することになった。

 隣の席では、修也がボードゲーム研究部のオリジナルゲームとやらを読んでいた。

(ここでゲームに参加するべきか否か)

 ちょっと迷ったが、やはり友情を強くするために、ゲームに参加する事にする。

 もちろんイノクーマ王国の騎士団に、ハンターにシビリアン、ローグ、ドルイドという編制のオゥノゥ山賊団が敵うわけが無い。

 午後の授業も平穏に過ごすことができた。

 課業が終了すれば、部長の咲弥が待つ刀剣研究部の活動である。

 いちおう図書室で待っているかもしれないが、教室があるB棟から見て手前にあるD棟の学生会館を覗く。すると、いつもの場所に咲弥の姿があった。

「ちっす」

 彼女の前で手を上げながら挨拶をする。すると「焚火発見伝」とか読める表紙の文庫本を下ろしながら彼女は顔を上げた。

「こんにちは小野くん、猪熊くん」

 いつもの通りニッコリと笑顔を作ってくれた。

「こ、こんにちは」

 修也は相手を探るように見ながら、まだ使用されていない椅子探しに行こうとした。

「さてと」

 それを制するように咲弥は席を立った。

「編集作業よね」

「ええ、まあ」

 勇士の記憶では、勇士の父親所有のノートパソコンで、それをおこなったはずだ。全部手書きでやろうと思えば不可能では無いが、作業量は多そうだ。

「やっぱし、パソコンが無いと、大変じゃありません?」

「私にアテがあるのよ。じゃあ、いきましょうか」



 咲弥は学生会館を出ると、すぐの階段室で一階に下り、隣のC棟へ足を踏み入れた。

 入ってすぐに校舎を貫通するかのような非常口、そしてそれを行き過ぎたところに、開けっ放しのブ厚いドアがあった。

 教室で使う生徒用の学習机が廊下に出してあり、そこに「科学部へようこそ」という張り紙がしてあった。

「?」

 こんな場所に部屋があったかなと思えるほどの狭い部屋である。

 覗くと、もとは小さな倉庫として使われていたらしく、雑然と物が置いてあった。

 両側はコンクリートのままで、窓はワンスパン分だけ存在し、部屋に明るさをもたらしていた。

 何が入っているのか分からない段ボールなどが、その窓際に追いやられており、ドア側に数脚の椅子と机が置いてあった。

 室内には三人ほど生徒がいた。

 咲弥は開けっ放しのドアをノックした。その潜水艦から剥ぎ取って来たようなドアは、碌な音を立てなかったが、挨拶代わりにはなったようだ。三人がほぼ同時に振り返った。

「いらっしゃい」

 唯一立っていた背の高い男子生徒が、少々イントネーションのおかしい日本語で出迎えてくれた。それも仕方がないことだろう。その男子生徒は明らかに日本人ではない顔立ちをしていた。

「あ、ミカドくんだ」

「おう。チミは…」

 気安く声をかけた修也に見覚えがあったのか、その制服の上から白衣を着た少年は、眉を少しだけ寄せて思い出す仕草をした。

「イノクマくんか。例の素子は役に立ってるかのう」

「うん。ありがとね。あと少しで完成しそうだよ」

「なに? 二人は知り合い?」

 咲弥が意外そうな顔をした。部長の質問に、部員である修也は軽い調子でこたえた。

「ミカドくんには、ボクが作っているロボットで、足りない部品を分けてもらったりしてるんだ」

「じゃあ、紹介はいらない?」

「ええと」

 勇士は情けない声を出して、小さく手を上げた。

「彼、なにもんなんです?」

 それを聞きつけた本人が、白衣の裾をバサリと広げるように払って腕を広げてから、ニヤリと嗤って自己紹介を開始した。

「おらあ稀代の天才にして、科学部総帥。『道産子とスロベキアの混血でチャキチャッキの江戸っ子』の御門(みかど)明実(あきざね)ちゅうもんだ」

 だいぶ偉そうに話すが、上履きの学年カラーを見たら勇士たちと同じ一年のようだ。

「で? 科学部に何の用があるんです?」

 ちょっと呆れた声になった勇士は、咲弥に訊いた。

「ミカドくんは、文化会系の部活で困ったことがあったら、何でも相談に乗ってくれる人なのよ」

「ほらあ」

 咲弥の説明に、机に頬杖をついていた女子生徒が、非難するような声で口を開いた。

「都合のいい便利屋と思われてるぞ」

 ちょっと小柄だが、結構な美人に言われても、御門は動じた様子はなかった。それどころか彼女に振り返ると、不敵にもニヤリと嗤って見せる。

「昔の人は言っただよ。『小さな事からコツコツと』」

「それ…」

 呆れている彼女の隣に座る、もう一人の女の子が口を開いた。

「それ、昔の人じゃなくて、今の人だろ。勝手に殺すな」

 勇士はそちらのエキゾチックな雰囲気の少女と、どこかで会った気がした。

(あ、思い出した。いつかの今日。図書室で会ったコだ)

「で、刀剣研究部の飯塚さんが、何の用かな?」

 御門の顔がこちらに戻って来た。

「今日はね。博物館の『白露』が借りられるようになったから、その展示の時に配るチラシの編集がしたいと思って」

「チラシの編集とな」

「ええ。配布物だから、そんな大変な作業じゃないんだけど。やっぱり印刷された文字の方が読みやすいと思って」

「りょーかい」

 頷いた御門は、最初に口を開いた少女の方へ指を向けた。

「アキラ。検索を開始せよ」

「また偉そうに」

 アキラと呼ばれた少女は、机の上に置いてあった、何代か前の古いノートパソコンを開くと、何事か打ち込み始めた。

「今だと、ゲーム研か、生物部のパソコンが手空きになってるみたいだ」

「…だそうだ。こちらから連絡を入れておくか?」

「そう、ありがとう」

 ニッコリと愛想笑いをした咲弥が、それでも礼を口にした。



「お~」

 ゲーム研究部の片隅を借りて、顔を突き合わせて編集作業をしていた刀剣研究部は、同時に感動した声を漏らしていた。

 脇のプリンターからは、咲弥が命じたままに、印刷された紙が吐き出されたところだ。それを床へ落ちる前に勇士がキャッチした。

「うまくできてる?」

 横から咲弥が覗き込んできたので、紙を渡す。彼女が紙面をチェックしている間に、勇士は修也とガッチリ握手した。

「やったなあ」

 同じ物を作るのは三回目のような気がするが、やはり仕事を完成させるというのは、充足感がある。

「大丈夫なようね」

 咲弥は原稿をペラペラと振って、インクの乾燥を促しながら、ホッとした表情になった。

 ただでさえ大人びた彼女である。着ている物が制服である紺色ブレザーということもあり、一仕事終えたOLという雰囲気があった。

「どう?」

 三人で声を潜めて喜んでいると、まるでオカッパ頭の様に茶色い髪を刈りこんだ二年生が混ざって来た。

 彼がゲーム研究部代表の竹山(たけやま)基樹(もとき)である。

 まるでマンガに出てくる人物がかけているような、大きくて四角い眼鏡を、つるの部分を持ってクイッと持ち上げる仕草をしてみせる。

「ウチのプリンター、型落ちだから、あんまり綺麗じゃないでしょ」

「そんなことありません」

 ニコニコと普段無表情が多い咲弥が顔を溶かして褒めた。

「こんなに素晴らしい物ができるなんて。ゲーム研には感謝、です」

「それならよかった」

 あまりに魅力的な微笑みだったので、竹山の頬が赤く染まった。

 照れ隠しなのだろうか、ゲーム研究部が根城にしているB棟二階の空き教室を振り返った。

「ウチはeスポーツ研究会と張り合って、色んな器材入れているんだけど、やっぱりそういう普段使わない物は後回しになっちゃってね。でも、こうして他の部の役に立つなら、次の予算編成の時に更新を考慮しておこうかな」

 室内では、液晶モニターに向かって部員たちが真剣な顔をしてマウスをカチカチやっていた。勇士には何をやっているのか、さっぱり分からない。画面には綺麗なグラフィックで架空の都市が表示されているようだが、目まぐるしく視点が変わるので、こういったゲームに疎い勇士には、目がチカチカするだけだ。

「是非とも、よろしくお願いします」

 咲弥が竹山の両手を包むように持ち、ブンブンと振り回すように握手した。

「あ、ええ、はい」

 美人の彼女に手を握られて、竹山は戸惑うばかり。それを勇士は横から割り込んで、彼と握手した。

「今後ともよろしく」

「ああ」

 あからさまに残念な顔になる竹山を放っておいて、手を出したままの形で固まっていた咲弥を促した。

「ブチョー。行きますよ」

 ぶっきらぼうに言うと、どこか心の琴線に触れる物があったらしく「はい」と短く返事をして、荷物をまとめはじめた。

「さて、どうします?」

 自分もチラシの参考にした本のコピーを纏めながら、勇士は咲弥に訊ねた。

「と、いうと?」

「このまま生徒会に行って、印刷の申請をしてみます?」

「そうね…」

 なにせ生徒会事務所はD棟二階。このまま廊下を曲がればすぐである。

「実際の印刷は、明日でもいいんじゃないかなあ」

 なぜか勇士の後にゲーム研究部部長と握手していた修也が、口を挟んできた。

「何枚刷るかにもよるけど、そんな荷物を置いておくところないもの」

 確かに彼の言うとおりである。

「ま、なんにしろ、生徒会へ行ってみない事には、わからないわ」

 咲弥を先頭に、三人はもう一度ゲーム研究部の面々に感謝の言葉を告げながら、廊下へ出た。

 このまま西へ向かい、右折すればD棟二階である。

 三人は、曲がってすぐの生徒会事務室の開けっ放しの扉をくぐった。

「ちーす」

 総合窓口と立て看板が出されたカウンターは、幸い開いていた。向こう側で何やら事務作業をしていた女子生徒が数人、顔を上げてこちらを向いた。

「あのー」

「はい」

 待ってましたとばかりに、背が高くて痩せすぎな印象の女子と、その彼女とは対照的に背が低くてふくよかな女子が、二人してカウンターまで出てきてくれた。

 勇士には、二人に見覚えがあった。いつかの明日に、勇士一人で印刷を頼みに来た時に対応してくれた一年生だ。

「あー、オ…、ボクは刀剣研究部に所属しているんですが。今度、こういうパンフレットを配ろうかと思いまして」

 勇士が促すと、咲弥は出来たばかりの原稿をカウンターの上に置いた。凸凹コンビの二人が興味深そうにのぞき込んでくる。

「生徒会が許可してくれたら、印刷室が使えるようになるって聞いたんですが」

「はあ」

 ノッポの方が原稿を手に取って、内容を読み始めた。

「明日から、A棟の展示スペースで、博物館から借りた日本刀の展示をするんですよ。その説明になってます」

 読むことに集中してしまったノッポではなく、身長差から見上げてくる相方のチビの方へ説明を続けた。

「どう?」

 一通り読んだらしい相方を見上げて、チビが訊ねた。

「うん。これなら問題ないかも」

「じゃあ…」

 明るい顔になった勇士に、冷や水を浴びせるようにノッポが言った。

「いちおう役員の誰かに読んでもらって、許可かどうか確認しますね。そちらの椅子でお待ちください」

 示されたのは廊下側の壁に並べられた椅子であった。教室で使っている物と同じで、座り心地は悪そうだ。

「お願いします」

 頭を下げて勇士が先に座ると、咲弥が右に、修也が左に座って来た。

「すごいわね小野くん」

 咲弥が胸の前で手を組み合わせて感心した声を出してくれた。

「うん、すごいね。まるでデキる男って感じ」

 これは同じように手を組んでいる修也だ。

「わはは。今日からデキる男って呼んで貰ってもいいっすよ」

 と空威張り。なにせ一回やったことを繰り返しているだけだ。ついでに偉そうに、二人の肩へ腕を回して、ちょっとハーレム状態を生徒会事務所内にアピールしてみた。左側は男だけど。

「こら」

 口調は怒っている風だったが、まんざらでもなさそうな顔をしつつ、咲弥が勇士の手を肩から払った。

「調子に乗らない。ほら、猪熊くんも困ってるじゃない」

「えと、うん。ユウジくん、やめてもらえるかな」

 頬を赤く染めて見上げてくるその表情は、男の保護欲をぐっと刺激する物だった。こいつも男だったけど。

 原稿を預かった二人は、事務室から速足で出て行った。おそらく廊下の真向かいにある生徒会執行部室へ行ったのだろう。そして待つこと一〇分ほど。二人をからかっているのも飽きてきた頃に、二人が部屋に帰って来た。

 カウンターの向こうへ引っ込まずに、直接座っている三人の所へやってきた。

「副会長から許可が出ました」

 と返された原稿には、べったりと生徒会公認の判子が押されていた。

 記憶の通りでホッと胸を撫で下ろしていると、片方の女子がカウンター越しに、別の職員へ声をかけていた。

「こんにちは」

 やってきたのは真面目そうな黒縁眼鏡をかけた男子生徒である。襟のクラス章から二年生と分かった。

「印刷室を使いたいだって?」

 物腰はとても丁寧に、しかし眉を顰めた困った顔で頭を掻いている。

「とても済まないんだけど、今日はもう印刷室は使えないんだ。風紀委員会のプリント作成で、使っているから。悪いけど、印刷は明日以降でいいかな?」

 二人は不安そうに勇士の顔を見た。明日の水曜日なら余裕で印刷できることを知っている勇士は、薄ら笑みさえ浮かべてこたえた。

「じゃあ、明日に予約ってことで、いいですか?」



「あ~、つっかれた」

 夕飯を食べて、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

 印刷室の予約を入れて、今日の刀剣研究部の活動は終了。解散となった。

 帰宅してからの生活は、特に何にもなかった。前はキララの散歩中に恭子と会ったはずだが、それもなく、公園を一回りしただけである。

「今日も色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(だが…)と勇士は思う(これで、みんなとうまく行ってるんじゃないかな)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。朝の幸せそうな恭子の微笑みや、明日菜の嫉妬した顔、肩へ腕を回した時の咲弥と修也の照れた顔。

 そういった物が視界にちらついた。

(いや。油断したら、またあんなことになるのかもしれない。気を付けなければ)

 思い直してから目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日は生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと五日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる身体の上に落ちてくる前に、勇士はそれを両腕で受け止めた。

「きゃっ」

 まさか二日連続で、兄の逆襲を受けるとは思っていなかった明日菜は、勇士の腕の中で暴れ出した。

「おはよ、アスナ」

 バタバタ動く髪へ顔をうずめる。

「あ、朝の準備ができてるから!」

 勇士のベッドから脱出すると、体を振って制服の乱れを直した。

「お、おにいちゃんは、アスナに起こされないと、いけないの!」

 と嬉しそうな口元のまま、やっぱり怒られた。

「そうなのか?」

「そうなの! で、朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 そうやって小野家の朝が始まった。身支度していると、先に降りた明日菜から、いつものように催促の声がかかった。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

「おう!」



 それから勇士は記憶の中にある水曜日を再び経験することになった。

 毎日同じような朝食は、まあ置いておくとして、明日奈が鍵をかけているときに顔を出した恭子は、初めて見るお洒落をしていた。

 白いブラウスに、ブカブカのデニム地のガウチョパンツに、茶色くて短い丈のチョッキをあわせていた。もちろん月曜日までとは違い、お風呂を連想させる、微かな石鹸の香り。

 腰の細さを強調するかのように幅広の革ベルトに、大きめのホワイトメタルのバックルがよく似合っていた。

 今日も学校まで行くのかと思ったら、挨拶だけをして、集団登校していた小学生の群れを追いかけて行ったのは、見なかったことにした。後ろの物陰に隠れていた月子が慌てて追いかけて行ったのが、ちょっと哀れだった。

(キョウコの調子は一進一退なのかな? すると安心はできないな)

 勇士は二人の背中を見送りつつ、心にメモした。

 バスに揺られて登校して、高等部の正門前で、いつもの明日菜と別れる場所まで来た。

「じゃあな、アスナ」

「うん。今日は遅いの?」

「今日は水曜だろ。部活の活動日…」

 そこで勇士の言葉を詰まらせた。レンガ貼りの正門脇に、大人の女性が立っており、二人を見つめていたからだ。

 いや高等部の制服を着ているから、生徒である。刀剣研究部の部長、咲弥であった。

「?」

 兄が不自然に言葉を切って、どこかを注視しているため、明日菜は勇士の視線の先を追った。

 二人の視線を受けた咲弥は、ゆっくりと余裕のある態度で歩み寄って来た。

「おはよう、小野くん」

「はよっす。えー、こっちは、妹の明日菜です。アスナ、刀剣研究部の部長の飯塚先輩」

「妹さん?」

「お、おはようございます。兄がいつもお世話になっています」

 ちゃんと頭を下げて明日菜が挨拶した。その後、探るように下から見ていた。

「ほら、アスナ。遅刻しちゃうぞ」

「あ、うん。それじゃあ、失礼します。お兄ちゃん。寄り道しないで帰るんですよ」

 まるで母親のようなことを言いながら、兄へ背中を見せる中学生。

「おっと、お別れの挨拶が足りないんじゃないか」

 その背中からぎゅっと抱きしめる。

「!!」

 ハグされた明日菜だけでなく、見ていた咲弥まで声にならない声をあげた。

「あれ? ブチョーもやって欲しいっすか?」

 そのまま遠慮なしに勇士は、咲弥を前から抱きしめた。ふわあっと明日菜や恭子と違った香りが漂って来た。

「ちょ、ちょっと小野くん!」

 悲鳴のような声で、ドンと胸を突かれてしまった。

「なにしてんの! おにいちゃん!」

 明日菜は持っていた荷物で、勇士の尻を叩いた。

「すみません! 先輩。最近、おにいちゃんおかしいんです」

 勇士の代わりに土下座でもするような勢いで明日菜が咲弥へ頭を下げた。

「ほら! おにいちゃんも反省しなさい!」

「いいじゃん、ハグくらい。ねえ、先輩」

 二人の様子に、自分の精神状態を安定させるためか、胸を両手で押さえていた咲弥は、何度もうなずいてからこたえた。

「心の準備ができている時にお願い。…あ」

 言ってしまってから羞恥心がこみ上げてきたのか、咲弥は真っ赤になった。普段が大人っぽい雰囲気なので、こうした歳相応の反応をされると、可愛く見える。

「きょ、今日も刀剣研究部、お願いね」

 咲弥が逃げ出すように校門の中へ駈け込んでいった。それを見送った明日菜が、軽く勇士の足を蹴って来た。

「おにいちゃんのバカ」

「んなこと言うなよ」

「今日も…」顔の真ん中を指差されて念押しされた「寄り道しないで帰ってくるんですよ」

「はい」

 その母親のような迫力に、素直に返事が出た勇士なのだった。



 それから勇士は、いつもの日常を繰り返すことになった。あまりにも平凡な一日なので、自分が何回も死んだことを忘れそうになるぐらいだ。

(ああ、前の水曜日はキョウコのせいで…)

 今回は、アノ事件が起きていないのだから、当たり前である。ちょっとクラスで咲弥にハグをしていたことを、女子から遠回しに訊かれた程度だ。昼休みだって、いつもの通り混んでいる学食で、修也とのんびりとした会話を楽しめたぐらいだ。

 水曜日は刀剣研究部の正式な活動日。放課後になって、修也と一緒にD棟二階にある中会議室に着くと、背筋が伸びた姿勢で、咲弥が小さな本を開いていた。

「ちっす、ブチョー」

「部長さん。遅れました」

 敬礼のようなチョキで挨拶する勇士の横で、丁寧に修也が頭を下げた。

 大学から『白露』が借りるので、気合が入っているのだろう。いつもより凛々しさが三倍増しぐらいになった咲弥が、ゆっくりと「サバダバサバダバ編」と表紙に書かれた本を下ろした。

「こんにちは、二人とも」

 朝とは違い、とても事務的な口調だ。

 勇士は修也と並ぶように咲弥とはテーブルを挟んだ席に座った。

「早速だけど、本日の仕事を割り振ります」

 キッと勇士だけを睨みつけた。

「猪熊君は私と一緒に、近堂先生と博物館へ『白露』を受け取りに行きましょう。小野くんは、生徒会執行部へ申請をして、昨日まとめたプリントを印刷してきて頂戴」

「え、オレだけっすか?」

「はい。そうです」

 再び勇士を睨みつけると、ちょっと怒ったような口調で言われてしまった。

「小野くんが一緒だと、女の子チームに危害を加えられるかもしれないので」

「ええ~」

 どうやら朝のハグは、咲弥の怒りを買ってしまったようだ。

「あの、ボク、おとこなんですけど…」

 弱々しく発言された修也の主張は、やっぱり無視された。



 予約をしていたため何の障害も無く印刷機を借りることができ、さらに機械の操作も慣れていたので、前回よりも早く終わった。

 勇士が印刷を終えたチラシを抱えて展示スペースに着くと、そこにはもう人だかりができていた。

「おまたせっす」

 声をかけて近づくと、修也だけが振り返ってくれた。

「お疲れさま、ユウジくん」

「おう。そっちもな」

 続けて咲弥へ視線を移したが、彼女はやはり展示スペースにべったりと貼りついていて、振り返りもしなかった。その背中に勇士は話しかけた。

「どうします? コレ」

「あー、うーんと」

「とりあえず、これを借りたら?」

 近堂先生が職員昇降口に置いてある消毒薬を乗せた机を指差した。それを受けて修也が机を移動してくれた。

「どれどれ」

 さっそく近藤先生がチラシを手に取って読み始めた。

「そっちは、どうでした」

「見てのとおりよ」

 近堂先生がチラシをヒラヒラさせながら、咲弥の背中を示した。

 記憶のままに、ガラスの向こうには緋色の鞘と上下に並べて、白色の刀身を持った小太刀が飾られていた。

「ふーん。これさえ読めば、充分わかるじゃないの」

 チラシを読み終えた近堂先生が、感心した声を漏らした。

「どんなもんです? おれたち刀剣研究部も、やる時はやるでしょ」

 勇士が胸を張ると、近堂先生を取り巻いていた男子教師陣が、感心したように頷いてくれた。

「ウチの文化会系も捨てたもんじゃないな」

「よく、これだけの資料を見つけたものだ」

「廃部の話しもあったが、そうしなくて正解だった」

 顧問である近堂先生は、とても嬉しそうにニコニコしていた。

「部長さん?」

 その輪の中に、唯一入っていない咲弥を、修也が振り返った。

 やはり咲弥は、欲しいおもちゃを見つめる子供の様に、ガラスに貼りつきっぱなしになっていた。

(やっぱり『白露』を目の前にするとブチョーは変になる。まあ、普段も少し変なんだけどさ)と失礼な事を考えてから、勇士は声をかけた。

「ブチョー」

 ちょっと強めの声で話しかけ、彼女の横へ行った。

「んー」

 まともに振り返りもしない咲弥に、仕方なく勇士は、あの手を使うことにした。

「あ! あんなところに虎徹ちゃんが!」

「え? 虎徹様が? どこに?」

 ガバッと立ち上がった咲弥は、全方位から突き刺さる、残念な者へ向ける視線に気が付いた。

「あ、あら…」

 とりなすように近堂先生が咳ばらいをしてから、彼女の肩へ手をかけた。

「飯塚さん。あなたのやる気は、先生も嬉しいわ」

「え、えっと、はあ、まあ。い、いえ。私なんか…」

「それで先生さあ」

 話題を変えようと勇士は話しかけた。

「『白露』は、ずっとここで見てなきゃいけないわけ?」

 もちろん勇士には考えがあった。咲弥と『白露』が一緒にいる時間を、なるべく少なくしなければいけない。

「無事『白露』を借りることができたことを記念して、学食辺りでお茶にしたいんだけど」

「あ、それ、ナイス」

「それ、いいわね。先生、おごっちゃうわよ」

「それじゃあ、善は急げだ」

 勇士は両手で部員たちの背中を押すように、D棟へ向かうことにした。



 夕飯を食べて、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

(今日も、うまく行ったんじゃないかな)

 部員の三人と、顧問を加えた四人で、仲良くお茶をしながらの談笑。いつもの刀剣研究部といった活動であった。

「今日も色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(よし、このまま生き残れそうだ)と勇士は手ごたえを感じていた。

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

(いや。油断したら、またああなるんだ。気を付けなきゃ)

 思い直してから目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日は生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと四日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる身体の上に落ちてくる前に、勇士はそれを両腕で受け止めた。

「にゃあ」

 すると、大胆にも明日菜の方からも腕を巻き付けてきた。

「おはよ、アスナ」

 スリスリと胸元に頬を擦りつけてくる妹の髪へ顔をうずめる。

「朝の準備ができてるから! 冷めないうちに、はやくはやくぅ」

「おう」

 そうやって小野家の朝がいつも通り始まった。

 朝食を済ませ、手早く朝の支度を終える。

 勇士が玄関の鍵を閉めている間に、明日菜はキララに挨拶をしていた。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 その時だった。

「あ、ユウジとアスナだ」

 声をかけられたので振り返ると、そこにどこかのお嬢さまが立っていた。

「よう。おはよ」

 勇士の言葉は、今日も中途半端に途切れた。振り返った先には、どこかで見た事のある格好をした恭子が立っていたからだ。

 白いセーラーカラーをした紫色のAラインワンピースに、白いニットのカーディガンを合わせ、髪に黄色いバンダナという姿。そして小脇には、抱えた買い物籠。なんとまともな格好であろうか。

 こうして立っていると、本当のお嬢さまと見間違えても不思議ではない程である。

「どうしたの? ユウジ?」

「い、いや。美人なんで見とれてた」

 勇士は思ったままに恭子を褒めた。

「まあ」

 恭子の半分赤い眼が見開かれ、うれしそうに表情が崩れた。

「そんなことを言ってくれるのは、ユウジだけよ」

「ど、どこか行くのか?」

「ええ。今日は保護者にモンテクリストを作ろうと思いまして、その買い物に」

 言われて勇士は思い出した。復調した恭子が料理に挑戦するのは今日だった。

(ということは…)

 目だけで彼女の背後を確認すると、やはり電信柱の影に月子に姿があった。

 彼女が深くうなずいたので、勇士もうなずきかえしておいた。

「おにいちゃん」

 キララから離れた明日奈が声をかけてきた。

「じかん」

 左手首に巻いた細身の腕時計を指さしていた。

「ああ、わかった」

 明日菜にもうなずいておいて、恭子へ付け足すように言った。

「うん。お世話になっているんだから、おいしいのを作ってやるんだよ」

「はい」

 とてもいい笑顔だった。



 混んだバスを降り、校門前で明日菜と別れる。咲弥には、校門でも階段室でも出くわさなかった。

 階段を三階へ、いつもの一年二組の教室である。

 席へ着くと、やっぱり隣の席には、修也がすでに着いていた。

「おはようユウジくん」

「おう。おはよシュウ」

 そこで勇士は、修也がいつもの雑誌を手にしていないことに気が付いた。

(そうか。あのロボットが完成したのか)

 とても自然に歩く姿を思い出した。

 すると、その間が不自然に思えたのか、小首を傾げて可愛らしく訊ねてきた。男だけど。

「どうしたの? ユウジくん」

「いや、いつもと違う気がしてな」

「うん。とうとう完成したんだ。ボクのロボット」

「そいつは、おめでとう」

「ありがとうユウジくん」

 半ば瞳を潤ませた修也が、勇士の言葉を素直に受け取った。

「今日は、早めに帰って、始動試験をしてみようと思っているんだ」

 ワクワクが止まらないといった態で修也。

「えへへ。ユウジくん、約束通り見に来てくれる?」

 そういえばそんな約束をしたような気がする。だが、そこではたと気が付いた。

(まさか、またあんなことになるんじゃあ…)

「?」

 急に黙り込んでしまった勇士に、修也は不思議そうな顔を向けた。

 せっかくここまでうまく来たんだ、なんとか乗り切りたい。だが、ここで行ったらやはり前と同じになる気がする。その時、勇士にいい考えが浮かんだ。

「じゃ、じゃあさ。ブチョーも誘っていいかな?」

「えー」

 せっかく彼と二人きりの予定だったのに、兄弟の世話を押し付けられて、三人で遊園地へ行く事になった少女のような顔になった。男だけど。

「ほら。ブチョーも『白露』を借りるのに、大学側と交渉したりしてくれたはずだし。それを労わるってことで、こういったイベントに呼んでもいいと思うんだ」

「むー」

 ちょっと拗ねた顔。そこが可愛らしい。男だけど。

「それとも、いまさらブチョーだけ仲間外れか?」

 勇士は逆に開き直って訊いた。するとボソボソと納得いかない声を修也が漏らした。

「いや。そういうわけじゃないけど…」

「じゃあ、決まりな」

 修也と二人きりじゃなければ何とかなるだろう。裏付けはないが、そういった確信があった。



 それから午前も午後も平穏な一日を過ごすことができた。修也と一緒に昼飯を学食で摂った後に、咲弥を誘うために校内を探すことになったが、なかなか見つけられなかった。

 まさかと思って足を向けた展示スペースで、『白露』の前にしゃがんでいたのには若干引くものがあった。

「ロボット?」

「ええ。シュウが、ずっと作っていたんっすよ」

 さすがに興味があったのか『白露』そっちのけで、咲弥は振り返った。

「二足歩行でお使いに行けるヤツ、だよなシュウ」

 勇士が必死に勧誘する。なにせ咲弥が同行しなければ、腹をドリルで掻き回される未来が待っている。

「んー」

 ちょっと決断できない雰囲気の咲弥に、勇士は押しの一手で行く事にした。

「ブチョーの家も、シュウと同じ駅でしょ? 帰り道も一緒になれるなんて、嬉しいなあ」

「そお?」

 いつもの落ち着いた雰囲気ながら、咲弥も興味が出たようで、少し目の色が変わった。

「プリントの増刷は、まだ大丈夫のようだし」

 手指消毒薬のボトルを、風に飛ばされないように重しとしているチラシの山をチェックする。まだ半分以上はあるようだ。

「一緒に行きましょう。センパイ」

「し、しかたないわね」

 咲弥の行動が急にギクシャクし始めた。どうやら「ブチョー」と呼ぶより「センパイ」と呼ばれることの方が心を動かされるようだ。

「なら、いつもの通り学生会館で集合してから、行きましょうか」

 もちろん、来てくれるのなら勇士は反対するわけもなかった。

 それから午後の課業も無事に終了し、放課後を迎えた。

 約束通りに咲弥と合流し、三人で私鉄駅へ向かうバスへ乗り込んだ。バスから電車に乗り換えて、各駅しか停まらない高架駅へ。

 修也は、駅に隣接する有料駐輪場からギヤつきの自転車を引っ張り出した。対する咲弥は、駅までなんと徒歩だとか。

 勇士も、もちろん歩きなので、修也は自転車を押して歩くことになった。

 どうやら咲弥の家とは反対にあたる坂道を三人で上る。道順は勇士の記憶のままだ。

 坂を上った交差点に、大規模店舗が集められた交差点があり、そこを右折。

 住宅街へ入る細い道の入り口に、大きなガレージを持ったトタン張りの工場風の建物が建っていた。

「ここだよ」

「へえー」

 咲弥が、その場でひっくり返るんじゃないかと思えるほどの角度で、錆びきった看板を見上げ、それから脇の「猪熊機械製作所」の看板に気が付いた。

「おじいちゃんまでは、車の整備工場をやってたんです。でも最近の車は、滅多に故障しないし、軽自動車が増えてつまらなくなったって言って」

「じゃあ、猪熊くんがロボットを作るきっかけも、そのお祖父さま?」

「え? うん、まあ、そうですかね」

 修也に案内されて、脇の道から工場に入ると、やはり彼の叔父が、機械を相手に作業をしていた。

 修也は遠くから両手を口に添えて声をかける。

「ただいま」

「おう」

 修也の叔父は、顔を上げると、あからさまに驚いた顔をした。

「同じ部活の、部長さんの飯塚先輩と、小野くん」

 どうやら修也の叔父は、まさか自分の甥っ子が女の子を連れて来るとは思っていなかったらしい。慌てた様に頭を下げて、勇士に向けたのとは違う引き締まった顔を見せた。

「オジサン。えーと、お父さんの弟」

「こんにちは」

「おじゃまします」

 咲弥は両手をスカートに揃えて頭を下げた。まるで、どこかの営業部所属のやり手OLといった雰囲気だった。

「あ、ええと。ま、工場には危ない物もあるから、気を付けて」

 それから気が付いたように修也を見た。

「ああ、そうか。シュウ坊のロボットか」

「うん。だからみんなに見せようと思って」

「ああ」自分も物造りをしているためか、完成した時の喜びが分かるようだ。修也の叔父は、うんうんと何度もうなずいた。

「まあ、こんな子だけど、仲良くしてやって」

 また同じことを告げると、手元の機械へ、再び引き締めた顔を向けた。でも美人で大人っぽい咲弥が気になるのか、いまいち集中できないようだ。

「こっち」

 修也が先に立って進んだ向こうには、やはりガラクタの山に埋もれるように立った小さな小屋であった。

 咲弥がその入り口に立つ看板で足を止めた。

「まあ。こういうのって、素敵ね」

 それを持っているマークゼロワンブイではなく、看板自体を褒める。

「まるで小学生が作った自分の場所、という感じね」

「ええ、はい」

 照れた顔になった修也は、自分の髪を掻きながら言った。まるで甘いお菓子を食べた幼児のような、腰砕けの表情だ。

「本当に小学校の時からですから」

 それでも胸を張った修也は、研究所の建物まで二人を先導した。途中に、あの飛行機に変形しそうなロボットも立っており、主人の帰りを待っていた。

「さてと」

 修也が顔を引き締めた。勇士も自分の顔が険しくなっていくのがわかった。

 修也は錆びの浮いた鉄製ドアに手をかけ「ふんんんんんんんんんんっっっ」と顔が真っ赤になる程力を込め始めた。

「しょうがねえなあ」

 記憶のままのトラブルに、勇士も手を貸して、二人してドアを開いた。

「これが、研究所?」

 目の悪い人がよくやるように、眉を顰めた顔で、真っ暗な室内を覗きこむ咲弥。

「いま、電気点けますね」

 入口脇のスイッチを弄ると、大光量LEDで眩しいぐらいになった。

「!」

 咲弥がはっきりと息を呑んだ。それもそうだ、室内では作業台の向こうに、チェーンで椅子に縛られた女の子がいるのだから。

「シュウ…。お前はこういうことをやらないと思ってたが…。やっちまったか?」

 すでに女の子の正体を知っている勇士が、冗談として訊いてみた。

「やっちまった? なにが?」

「誘拐」

「ゆうかい?」

 不思議そうな顔をしていた修也が、理解して笑い出した。

「違うよユウジくん。これがボクの開発したロボット、マークゼロスリー『ブルー・イリス』だよ」

「ぶるうす・うぃりす?」

 キョトンとした咲弥が聞き返した。

「違います」

 女の子の横に立った修也は、彼女の左肩に刺青の様に書かれたロゴを指差した。

「まあくぜろすりいらぼとりいりいだあしゅうやえすこおとゆにっとばいいのくまろぼっといんだすとりいぷろだくつの略で、『ブルー・イリス』ですよ」

「Mk-〇〇〇、laBoratory、Leader、syhUya、Escort、unit、by、Inokuma、Robot、Industry、productS…? 大層な名前ね」

「すげぇ」

 一発で聞き取った咲弥に、つい勇士は、自分では知らずのうちに感想の呟きが出た。

「イリス、ご挨拶」

 女の子がゆっくりと瞼を開き始めた。遠くから小さなモーターの作動音がする。

「おはようございますマスター。こんにちは、みなさん」

「イリス。彼女はイイヅカ・センパイ。そして彼がオノ・ユウジ。部長さんと、ユウジくんはイリスになんて呼んで貰いたい?」

「私はサクヤがいいわ」

「じゃあ、オレはユウジにしとくか」

 咲弥が苗字や肩書でなく下の名前を選んだので、勇士もそれに乗ることにした。

「イリス。できるかな?」

「はい。サクヤ、ユウジ。よろしくお願いします」

「ええ、こちらこそ」

 咲弥はイリスの顔を覗き込むように屈むと、チラリと修也を見た。

「これ、何で動いているの?」

 修也は何でもない事の様に言った。

「科学部の御門くんに貰った、超電導素子がフレームに埋め込んであるんです。容量は、ええと一個あたり八メガファラドだったかな?」

 その凄さが分からない二人は、とりあえず頷いておいた。

「正確には七、九五メガファラドです」

 イリスが細かい数字に訂正した。

「水素発電が内蔵されていて、定期的にトイレで排出ってわけじゃないのね」

「???」

 咲弥が言ったことがまるで分らずに、勇士が目を点にしていると、その意味が分かったらしい修也は、苦笑のようなものを浮かべた。

「それも考えたんですけど、エネルギー量が桁違いで、この方法にしました」

「それで、今日は何の御用でしょうか?」

 イリスは小さい首を動かして、三人を見比べるような仕草をした。

「キミが完成したと知って、見に来てくれたんだよ」

「そうですか。ありがとうございます、みなさん」

 チェーンで縛られているので、頷くようにして頭を下げるイリス。

「しかし、私の完成度はいまだ八六パーセントに過ぎません。完成とは言えないのではないでしょうか?」

「そうかな? 後はオプション作るだけだと思っているけど」

「オプション?」

 咲弥は目をパチクリと大きく瞬かせると、イリスに向かって人差し指を立てて見せた。

「まさか上半身、腹部、下半身に分離合体して、三万度のビームが撃てる空陸戦形態。左手のドリルで地中を進める高速形態。そして豪快な柔道技が使える水中形態の三つに…」

「どこの宇宙開発用ロボットの話しですか」

 相手が咲弥だというのに、ついツッコミを入れてしまった。

 その途端にギシリとイリスを縛っているチェーンが音を立てた。

「ああ、大丈夫」

 修也がイリスに笑顔を向けた。

「イリス。今のは暴力じゃないんだ。親愛を示すコミュニケーションだよ」

「それならばいいのですが。女性を叩くという行為は、感心しませんね」

 イリスはちょっと眉を顰めてみせた。人造物とは思えないほどの自然な表情だった。それからちょっと考えた顔を作ったイリスは、修也に訊ねた。

「昨日の夜の段階で、私がこうして縛られた理由は、このためだったのですね」

「ごめんね。キミに入れた良心回路を信用していないわけじゃないんだけど。今みたいに経験不足からくる誤解みたいな物があるでしょ」

 謝る修也を、イリスは表情で許していた。

「さて、それを踏まえてだけど。二人とも、イリスのチェーン解いていい?」

「え」

 咲弥の顔に不安が浮かんだ。

「いちおう内部電源にはあまり充電されていないから、外部電源になります」

 と、勇士の記憶のままに、壁から冗談のような大きさのコンセントを取り出した。

「ヤバイと思ったら、この線を抜けば止まるようになっているんですけど」

「そ、そう?」

 咲弥は勇士の意見を訊くように、彼へ振り返って見せた。イリスが暴走しないことを知っている勇士に反対するつもりは無かった。

「シュウの技術力を信じましょう」

「ありがと」

 修也はニッコリ微笑むと、イリスに外部電源を接続し、チェーンを外した。

 限定的ながら自由を得たイリスは、椅子から立ち上がると、両手を前にペコンとお辞儀した。

「改めましてサクヤ、ユウジ。マークゼロスリー『ブルー・イリス』です。よろしくお願いします」

 立ち上がったイリスは、ピンクのワンピースが似合う小学生にしか見えなかった。

 と、ふいにイリスは開けっ放しになっているドアの方を振り向いた。

「兄によりますと、何者かがここへ近づいてくるようです」

「あに?」

「表に置いてあるマークゼロツーブイダッシュのことですよ。イリス誰だか分かるかい?」

「兄のセンサーによると、九〇パーセントの確率で…」

 イリスが喋り終わる前に、ドアのところから声がかけられた。

「あらあら、まあまあ」

 振り返ると、そこに修也の母親が立っていた。

「だれ?」

 咲弥の問いに、イリスがこたえた。

「おかあさんです」

「とうとうイリスも立ち上がれるようになったのね。こんにちは、イリス」

「こんにちは、おかあさん」

 ペコリと勇士にやったようにお辞儀するイリス。慌てて咲弥と勇士も頭を下げた。

「違うでしょイリス。やりなおし」

 そのちょっとだけ怒った声に、修也を見るイリス。修也は両肩を落としてみせた。

 イリスは右掌を女性に向けて挨拶をやりなおした。

「んちゃ」

 声まで変わっていた。そして研究所の中は疲労感で一杯になった。

「んちゃ。イリスには眼鏡必要ないの?」

「センサーに異常はありません」

 すぐに真面目な声に戻ったイリスが否定した。

「なんだ。女の子のロボットは、目が悪いものだと思ってたのに」

「ええと、おかあさん」

 冷や汗を掻いた声で修也が前に出た。

「こちらは同じ部活の飯塚先輩。部長さんなんだ。こちらは同じく刀剣研究部の小野くん。ええと、ボクのおかあさん」

「はじめまして」

 改めて頭を下げると、修也の母親はよそ行きでない笑顔を浮かべてくれた。

「まあまあ、シュウヤがお友達を連れてくるなんて。しかも女の子まで。イリスを見に来てくれたの? お茶を持って来るわね、頂いて下さいな」

「あ、ええと、おかまいなく」

 何とか断ろうとする咲弥の声を聞いていないのか、ウキウキとした足取りで来た道を戻っていく修也の母親。

「なんていうか…」

 咲弥は修也を振り返って言った。

「若いお母さんね」

「うん」



 それから三人と一体で短いお茶会をした後に、買い物へ出かけたのまで一緒だった。ただ咲弥が強く固辞したため、一緒に夕食というところまで話しが行かなくて、勇士は胸を撫で下ろした。

 なにせ残っていたら、作業台に縛り付けられてのドリルが待っている。

 名残惜しそうに見送る修也と交差点で別れて、駅に向かって坂道を下る。横の咲弥は黙ったまま並んで歩いていた。

 夕暮れが迫ってきて、辺りは紫色に染まって来た。

 車の通行量はそれなりだが、こんな坂道を好き好んで上り下りする者は少なく、実質二人きりで歩いているようなものだった。

「凄かったですね」

 沈黙が重くて、勇士は口を開いた。

「え?」

 そこでスイッチが入り直したように、咲弥が顔を上げた。

「シュウのロボットっすよ」

 なにか不安そうな顔をして見せるので、勇士は笑顔を作った。

「小野くんは…」

 咲弥は何か聞こうとして、やっぱり踏ん切りがつかなかったらしく、そっぽを向いてしまった。

「あれで、もっと男らしくなったら、女の子にモテモテだと思いません?」

「男らしく?」

 不思議そうな顔が返って来た。

「シュウっすよ。筋肉ムキムキとぁ言いませんが、もうちょっと自信をつけたら、女の子の一人や二人…」

「小野くんはそれでいいの?」

「は?」

 意外な質問に、素っ頓狂な声が出た。

「猪熊くんが離れて行っちゃうって、考えない?」

「考えませんが?」

 脊髄反射の様にこたえてしまった。

「だってシュウっすよ。カノジョできたって、また『ユウジく~ん』とか言って、オレのトコにやってきて、またよく分からない話をし始めるにきまってますって」

「そうじゃなくて」

 咲弥は立ち止まると地団駄を踏んでみせた。大人びた外見にとても似合わない。

「猪熊くんと、ほら。その…」

 そのまま顔を赤くして黙り込んでしまう。それで大体、勇士には彼女が言いたいことが分かった。

「あのですね。言っておきますが、オレもシュウも男より女の方がいいっすからね」

「そ、そうなんだ」

 勇士は脳裏に浮かんだドリルを持つ修也の記憶をかき消すように頭を振った。

「それに、ブチョー。オレが部活だけで、こんなハスッパな言葉使うか、わかります?」

「?」

「ブチョーが特別だからっすよ」

「!」

 その途端、咲弥は耳まで赤くなった。それで勇士は自分が何を言ったか自覚が出てきた。

「いや、その!」

 慌てて修正に入る。

「こ、恋人にしたいとか、独占したいってか、そういうんじゃなくてですね。いや、男として独占欲はありますよ。あるんですが! あー! あー!」

 勇士はひっくり返りそうになるほどそっくり返り、逆に咲弥は身を守る草食動物の様に丸くなってしまった。

 しばしの沈黙の後。

「ブチョー。すんません」

「いいのよ。ありがとう」

 顔を上げた彼女の目の端には、光る物が残っていた。

「慌てないで、ゆっくり行きましょうか?」

 そう言って、咲弥は坂道を下り始めた。



 夕食も終わって、キララと散歩に行き、風呂に入ってから、自分のベッドに転がる。

 今日も散歩中に恭子に出会うことはなかった。

「今日は色々やっちまった…」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(あれでブチョーと気まずくなっちゃったな)と勇士は思う。あれから駅に着くまで二人は黙って歩き、改札口で短く別れの挨拶をしただけだ。

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

「明日、どうしよう」

 ポツリと漏れた自分のセリフに、頭を抱えてしまう。

(ともかく、ブチョーとは仲直り…。いや、ケンカしたわけじゃないから、仲直りじゃないな。なんて言えばいいんだ? ともかく、この一週間を生き抜いても、まだ続きがあるんだから、うまくヨリを戻さないと)

 思い直してから目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日も生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと三日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる身体の上に落ちてくる前に、勇士はそれを両腕で受け止めた。

「にゃごにゃご」

 今朝も巨大な猫の様に、勇士の胸板へオデコを擦りつけてきた。

「おはよ、アスナ」

 妹の髪へ顔をうずめると、やはり日向の匂いがした。

「朝の準備ができてるから! 冷めないうちに、はやくはやくぅ」

「おう」

 そうやって小野家の朝がいつも通り始まった。

 朝食を済ませ、手早く朝の支度を終える。

 勇士が玄関の鍵を閉めている間に、明日菜はキララに挨拶をしていた。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 その時だった。

「あ、ユウジとアスナだ」

 声をかけられたので振り返ると、そこに恭子が立っていた。

「どうした?」

 驚いて、つい聞き返してしまった。

 今日のお召し物は、中学校時代の制服であった。卒業から数ヶ月。頭の方はどうだかしらないが、体の方は順調に育っていたようで、寸法が全然あっていない。

「うふふ。どお?」

 その場でクルリと一回転。遠心力で長い髪が扇の様に広がった。

「これで、ユウジと一緒にガッコウへ行けますわ」

「あー」

 どうやら月曜日に誘い、火曜日に一緒に登校したことを覚えていたらしい。

(さて、前回は…)勇士は思い出そうとして、嫌な記憶に突き当たった。(そうか、ヒキコモリしてたから、分からないんだ)

 躊躇したのは五秒だけだった。

「よし、じゃあ一緒に行くか」

 明日菜から月子へ学校の方へ迎えに来てもらうように連絡を入れてもらう。その代償は、混雑したバスの中での抱擁だ。

 さすがにずっと三人でくっついているのは、暑かった。

 バス停からの緩い坂道を上っていると、後ろから声がかけられた。

「小野くん」

 振り返れば咲弥である。反対方向のバスで登校してきて、彼を見かけたので走って追いかけてきたのだろう。上気した顔は適度に赤くて、ちょっとはにかんだような表情にも見えた。

 三人で振り返ると、その軽やかだった足が鈍った。

 明日菜は咲弥を認めて、頭を下げて挨拶した。ちゃんと出来る妹を持って、兄として勇士も鼻が高い。

 問題は恭子の方だ。

 チラリと見ると、彼女は咲弥へ視線を固定していて、まるでネコがこの獲物をどう料理してやろうかと眺めているのと同じ雰囲気だった。

 咲弥も、まるで肉食獣を警戒する草食獣のような表情で、恭子の顔を窺っている。

「おはよう、いもうとさん」

 明日菜へ挨拶を返してから、勇士に顔を向けてぎこちない笑顔になった。

「おはよう、小野くん」

「はよっす、ブチョー」

 先手必勝とばかり、勇士から動くことにした。そのまま踏み出すと、前からハグする。

「ちょ、ちょっと! 小野くん」

 完全に裏返った声で咲弥が逃げ出した。

「おにいちゃん!」

 明日菜が起こった声を上げ、持っていたバッグで叩いてきた。

「そういうことは、やめなさいって言ったでしょ!」

「あいてて。そうだっけか?」

 そう言いつつ振り返るも、勇士は明日菜を見ていなかった。

(さて、キョウコの反応は?)

「まあ」

 パチンと両手を叩き合わせた恭子は、トトトと咲弥へ駆け寄ると、彼女の両手を取った。

「もしかしてユウジのカノジョ?」

「ち、ち、ちがいます!」

 一生懸命否定する咲弥を捕まえたまま、恭子は勇士を振り返った。

「すごい美人さんですね」

「いや、キョウコ。ブチョーは、まだ俺のカノジョってわけじゃないんだ」

 喜んでくれたのが意外で、勇士の声のトーンが落ちた。

「まだってことは、これからってことかしら?」

 そのまま「うふふふふ」と不気味に笑い出す。そして咲弥に顔を戻すと、焦点の合っていない目で彼女の顔を覗きこんだ。

「同じユウジを好きな者同士、仲良くしまショウ」

 そして両手をブンブン振り回し始めた。

「お、おのくん」

 その小さな暴力から助けてとばかり、咲弥が泣きそうな目で勇士を見た。

「ほらほら、しゅーりょー」

 勇士が割って入ると、残念そうに手を離した。

「ブチョー、すいませんっした。この子は幼稚園から一緒の、吉田恭子って言います。キョウコ。こちらはガッコの、イイヅカセンパイ」

「イイヅカセンパイ。ヨシダキョウコです。よろしくお願いします」

「吉田さん、その目…」

 少し余裕ができたのか、咲弥は恭子の瞳の異常に気が付いた。

「ああ、これ。昔、イヤな事がアりまして」

 微笑みながらも、片手で赤い瞳を隠す恭子。その様子で、何かを察した咲弥は、それ以上訊くことはなかった。

「キョウコちゃん!」

 突然、遠くから声がかけられた。振り返れば慌てた様子の月子が、バス停の方角から駆けてくるところだった。どうやら、すぐ次の便に乗ってきたようだ。朝は通勤通学のため、ダイヤが混んでいる路線でよかった。

「あラ、保ゴ者」

「ご、ごめんなさいね、ユウジくん」

 恭子に迷わず駆け寄った月子は、がっちりと彼女の手を掴んだ。

「さ、帰りましょ」

「嫌です」

 きっぱりと恭子は言った。

「わたシは、こレから、ガッコに行くのです!」

 まるで幼子がダダをこねるように、自分の手を使って月子と綱引きを始める。

「え?」

 話しが分からない咲弥がキョトンとしていると、明日菜が遠慮気味に彼女の横へ移動した。

「キョウコちゃんは、少々…」

 そのまま言葉は濁したが、クルクルと人差し指を回した。

「あっ」

 赤い瞳とそれで大体の事情を呑み込めたのだろう。彼女の表情が、驚きから同情へ変化した。

 勇士はそれで少し頭が冷えて、周囲を見回すことが出来た。まず校舎にある時計が目に入った。

「ほら、アスナ。じかん」と左手首を指差してやる。

「うん。今日は遅いの?」

「あー」

 チラリと咲弥の顔を覗いてから決心した。

「今日も、たぶん部活」

「そっか。じゃあ寄り道しないで帰るんですよ」

「はいはい」

 妹を見送り、今度は騒ぎを起こしている恭子に近づいた。

「キョウコ」

 落ち着いて欲しくて、ギュッと抱きしめる。すると月子との綱引きを止めて、動かなくなった。

「どうした? ガッコ必要か?」

「今日は、ユウジとガッコに行く日なのです」

「キョウコちゃん!」

 月子の悲鳴のような声に微笑み返し、勇士は言った。

「授業は無理かもしれませんけど、学生会館にでも寄って行きません? もし学校側の許可が取れたら、ですけど」

「そんな、悪いわよ。ユウジくん」

「わたし近堂先生に頼んでみるわ」

 勇士の腕の中で大人しくなった恭子を見て、咲弥まで声を上げてくれた。



 職員用駐車場からやってくる近堂先生を捕まえ、みんなで一緒に事務所のお姉さんを拝み倒した。先生を味方につけた力は大きく、恭子と月子を見学者として校内立ち入り許可を貰うことができた。

 ただし授業中にフラフラと歩き回られても困るので、昼休みまではA棟にある保健室から出ない事が条件だった。

 清隆学園高等部の養護教諭は、男性の山井先生である。すでに定年退職間近ということもあり、ゆっくりした語り口の優しい雰囲気をしていた。

 一目で、ダイエットという言葉とは全く縁が無さそうなガリガリに痩せた風貌と、年相応の灰色をした髪を併せ持った先生だ。

 ちなみに校内の無責任な噂によると、高額の報酬と引き換えに、無免許の外科医として難しい手術を請け負うバイトをしているとか。

 保健室に男の先生ということで、ちょっと話しにくい思春期の悩みなども、それを超越した包容力のある微笑みで耳を傾けてくれる。

 始業時間を気にしつつ、勇士は咲弥と二人で、その山井先生に二人を頼み、そして教室へ走った。

 時間を気にしつつ教室に着くと、今日も隣席の修也は席で本とノートを広げていた。

「おはようユウジくん」

「おう。おはよシュウ」

 昨日までの雑誌とは違い、今日は不愛想な教科書のような物を開いて、そこからなにやらノートに拾い上げていた。

 なにか別の事をやっているなと思ってみてみると、ノートには英語のような横文字がびっしりと書いてある。しかし成績が並みのはずの勇士には、どれも読むことはできなかった。

「なにしてんの?」

「これ?」

 ひょいと、その教科書のような本の表紙を見せてくれた。どうやらプログラムに関する本のようだ。

「イリスのAIを、もっと効率よくできないかなって」

「そうか…」

 コンピューターがプログラムで動くことは知識として知ってはいたが、実際にプログラミングなど経験したことのない勇士は、何気ない様子でそんな難しい本を読んでいる修也を前に、言葉が出なかった。

「そういえばユウジくん」

 目線を本に落としたまま修也が口を開いた。

「ん?」

 気もそぞろに返事をすると、心配そうな顔と声になって訊いてきた。

「ユウジくんが女の子にモテるのは分かるけど、三股はないんじゃないかな」

「は? なんだよ、その三股ってのは?」

 勇士は眉を顰めて聞き返した。

「校門での騒ぎ、もう学校中の噂になってるよ」

「はあ?」

 どうやら正門前の騒ぎは、勇士を取り合って女の子たち三人が争ったことになっているようだ。

「一人は妹のアスナだし、一人は偶然居合わせたブチョーだぞ。なんで、そんな話になんだよ」

「そうなんだ」

 どうやら実際には目撃していない風の修也は、顔を上げると大きな目をパチクリと瞬きさせた。

「でも、ウチのガッコ、変な方向にエネルギーが有り余ってるから、面白い話にすり替わっているんじゃないかな?」

「ったく、めーわくだぜ」

 怒りを感じて腕組みすると、修也は気のない声で忠告してくれた。

「まあ、身の回りには気を付けることだね」

「なんでだよ」

 その質問に言葉でなく、仕草でこたえる修也。彼の細い指先が指し示したのは、黒板であった。

 そこには色とりどりなチョークを使って「リア充爆発しろ」と大書されており、いまだチュークを握りしめている「カノジョいない歴=年齢」といった男子生徒たちが、物凄い形相で勇士の事を睨みつけていた。

(ここで、あの状況になるのか…)

 勇士は朝だというのに疲労感に苛まれた。



 しかし、幸いにして昼は学食で食べなくても済んだ。昼休みに入るなりに、購買部のパンを買い、保健室へ走ることにしたからだ。

 修也も「ユウジくんの幼馴染って、興味ある」とか言って付き合ってくれた。

 保健室へ飛び込むと、窓際の応接セットに二人は静かに座っていた。

 山井先生に会釈をして、抱えてきたパンを応接セットのテーブルにぶちまけた。

「まあまあ」

 月子がアンパンからカツサンドまで、カレーパン以外の様々なパンを前に目を丸くする。

「すごいすごい」

 恭子が上機嫌で手を叩いた。

「どれでも好きなのをどうぞ」

 勇士が勧める前に恭子がパンの山を漁り始めた。大人の月子には手を出しにくいだろうから、わざわざサンドウィッチを選んで差し出してみた。

「ごめんなさいね。後でちゃんと清算しましょうね」

「そうですね」ちょっと難しい顔をしてから「今月分の小遣いが無くなっちゃいますから」とおどけてみせた。

「失礼します」

 それに合わせたタイミングで、咲弥が顔を出した。手には複数のペットボトルがある。食事を学食で済ますなり、また購買部で買うなり、校内で食べずに帰るにしたって飲み物なら無駄にならないだろうという気配りであろう。

「あ、ブチョー。サンキュっす」

 それぞれが好みの飲み物と、パンでの簡単な食事。

「キョウコちゃん。食べたら帰りましょうね」

「えー」

 ぷくっと頬を膨らませる恭子。それを見て咲弥が興味深そうに身を乗り出した。

「だいぶ今朝よりは落ち着かれたようですね」

「そうね。本当にごめんなさいね」

 月子が改めて咲弥に頭を下げる。幼馴染と同じ部活の部長というだけで、ここまで親身になってくれたのがありがたいようだ。

「外出が吉田さんに気分転換となって、よい影響が出たのでは?」

 とても大人びた口調で、恭子の脇に座る月子へ訊ねるように言う。

「そうかしら」

 自分の頬へ手を当てて、困ったような顔のまま恭子を振り返る月子。

「まあ、そういうこともあるかもねえ」

 のんびりと外側から声をかけてきたのは山井先生だ。二人を預かってもらう時に簡単ながら説明をし、さらに午前中一杯観察する時間があったはずだ。プロとしての彼の意見は貴重であろう。

「明日か明後日の週末。山にでも一緒にでかけてみれば」

 座って食事している五人を見おろすように微笑みかけてくる。山井先生が明日と断言しなかったのは、清隆学園の高等部は土曜日に講習会や勉強会など、生徒の自主性を重んじた学習態勢となっており、それには必ず出席しなければならないという規定が無かったからだ。

 勇士も先週までは英単語学習の講習に、大学入試を見据えて参加していた。

 ちなみにサボりなどの問題行動で科せられる補習も土曜日に行われる。

「じゃあ…」咲弥が目をキラキラさせて、持ち込んでいた荷物から複数の本を取り出した。

「こういうのはどうかな?」

 消費されたパンの代わりにテーブルに広げられたのは、同じ作家の本であった。置かれた本は四冊で、同じシリーズらしく、似たような子供のいたずら書きのような表紙をしていた。共通のタイトルの後ろに「北へ」とか「海で笑う」とかついている。その二冊は大体内容が想像ついたが、残りの二冊の「バリ島横恋慕」とか「北海道物乞い旅」とかは想像もつかない。

「なんです? これ?」

「まあ、なつかしい」

 勇士と月子が正反対の反応をした。

「これはね」

 咲弥は一冊を手に取ると、とてもきれいな笑顔を見せた。

「ジーパンを履いてビール片手に『がはがは』笑うオジサンが、世界中で蚊に刺される話し」

「は?」

 修也と二人で目を点にしてしまった。テーブルの反対側に座る月子は、顔を覆って笑い出してしまった。

「ああー」

 テーブルを見おろした山井先生がとてもうらやましそうに言った。

「先生も若いころに憧れて、どこかへキャンプに行こうとしたものだ。でも、ちょっと体を壊していてねえ、結局行けずじまいだったよ」

「ええと、つまり?」

 話しが見えない勇士が、不安そうに山井先生を見上げ、それから咲弥へ視線を戻した。

「キャンプに出掛けて、色々体験したことをエッセイ風にまとめた本よ」

「ああー」

 横の修也が納得した様子の声を上げたが、絶対分かっていないと勇士は思った。

「たまには町を出て、キャンプなんてどうかしら?」

「でも…」

 月子が不安そうに恭子の横顔を見た。恭子は調子が良くなったのか、チョコンと座ったままニコニコとした笑顔を辺りに振りまいていた。

「一つの提案ですよ」と山井先生は前置きをしてから「こうなってしまってから、彼女に色んな体験をさせましたか? 人は変わるものですよ。例えば大人でも、一人旅をするとか海外旅行に行くとか、特別な体験をすると物の見方が変わるものです。閉じこもっているだけでは、何も変わりません」

「ですが…」

 申し訳なさそうに月子は勇士、そして咲弥と修也の顔を見比べた。

「大丈夫。失敗や苦労をすることも、経験ですから」

「不安に思われると思って」

 咲弥は本を回収し、代わりに自分のスマートフォンを取り出した。

「こういうところがあります」

 明るい緑の木立に、茶色い小屋が数件建っているという画像が映し出されていた。それは電車で四駅ほど移動した都営公園のサイトであった。

「ここならば安くて、しかも安全。さらに近いし、いざとなったらタクシーで帰ってくることだってできます」

 修也と一緒に首を伸ばして覗き込むと、一定時間で画像が切り替わるらしく、狭いが綺麗な部屋が映し出された。

「バンガロー一つ借りて、この値段」

 咲弥の指が伸びてきて、画面を撫でて切り替えた。

 そこには女流作家が描かれたお札に幾ばくかの追加が必要な値段が表示されていた。

「他に、バーベキューコースを頼むと、一人これだけ」

 次の画面では、大学生のサークルといった若者たちが、炭火グリルで肉を焼きながら談笑していた。道具を全部借りても、ちょっとしたファミリーレストランで豪遊した程度の値段である。

「バンガローにはシャワーがついてるし、行こうと思えば近所にはスーパー銭湯もあるし。財布だけ持って行けば、誰でも気軽にアウトドアが楽しめるのよ」

「乗り気っすね、ブチョー」

 勇士は乗り気で話す咲弥の顔を見た。

「もしかして、以前から考えてました?」

「ええ」

 ちょっと照れた顔になった咲弥は、ゴソゴソと荷物からまた同じ本を出して言った。

「こういったモノに憧れていて。夏に誘おうと思っていたのよ。我が部の夏合宿だーって言って」

「どうする? ユウジくん」

「どうするったって」

 勇士は月子を見た。月子が決断しなければ、恭子はこのキャンプには参加できない。そうしたらキャンプをやる意味すらない。

 全員の視線が一人に集まった。



「あ~、つっかれた」

 夕飯を食べて、風呂に入り、自分のベッドに転がる。もちろんキララの散歩も忘れなかった。

 月子の決断により、刀剣研究部はちょっと早い夏季キャンプが決定した。といっても準備する物は何もなく、現金だけという気軽さだ。

 夕飯の席で明日菜にも報告し、そして一緒に行こうと誘った。東京は外国に比べると治安がいいとされているが、中学生の女子一人に留守番させることに不安があったからだ。それと霧の中で説かれた『愛』という単語も頭によぎったこともある。

「もう、勝手に決めて来ちゃうんだから」

 と最初はプリプリ怒っていたが、やはり小野家も両親が海外に行ってからというもの娯楽といえば家でテレビゲームぐらいだったので、すぐに機嫌を直してくれた。

 もちろんキララも放置するわけもいかないので、一緒に行く事になった。調べたらペット同伴可能であった。

「今日も色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(でも、意外とみんな仲良くなってくれて、うまくいきそうじゃないか)

 そう思った勇士は、寝返りを打って腹ばいになった。

 枕元のデジタル時計が音もたてずに時間の変化を知らせている。

(だけど、キャンプ自体がうまくできる自信が無いや。飯盒炊飯って、どうやるんだっけ)

 小学校の頃にやった思い出だけは微かにある。それを思い出そうと目を閉じてみれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今度は生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと二日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



 久しぶりに勇士は寝坊する事ができた。

 今日は土曜日。普段ならば講習会か勉強会に出かけるところ、咲弥の提案したキャンプに行くために、全部休むことにしたからだ。

 昨日の夕飯の時に明日菜には伝えてあったので、日課のダイビング目覚ましも無く、いつも見ている朝の情報番組の土曜版が放送を終えるころに、ゆっくりと階下へ降りて行った。

「ん~、もう」

 セーラーカラーのブラウスにブカブカのサロペットというファッションに、麻のエプロンをつけた明日菜が、目を回した声を上げていた。

「お掃除! お洗濯! アスナ一人じゃやりきれない!」

 キッと勇士を睨みつけてきた。

「おにいちゃんは、お風呂を掃除!」

「へい」

 母に対するのと同じ感情で、勇士は頭が上がらなかった。たとえアスナ自身が花嫁修業だと言っても、中学生の身でよく家事をこなしている。もちろん本業には一歩も二歩も遅れるが、家事と言われて何から手をつけていいのか分からない勇士と、比べるだけ失礼だ。

 籐を編んだ籠にいっぱい詰め込んだ洗濯物を、二階のベランダへよいしょと持って上がる逞しい背中を見送った勇士は、風呂場の掃除に取り掛かった。



 キララをキャリーバックに入れるのは久しぶりな気がした。たしか拾ってきてしばらくしてから、各種予防接種を受けに獣医さんへ連れて行った時以来のような気がする。

 午前中いっぱい家事に費やした。朝に干した洗濯物は生乾きだったので、雨の日にしているように廊下へと干しなおし、小野家のでかける準備は終了した。

 公園のサイトによると、何も準備が要らないことが謳い文句になっているが、明日菜はボストンバッグ一つを肩から下げた。

 何が入っているのかと訊いたら、寝る時用のパジャマに明日の服だそうだ。

 曰く「女の子チームでパジャマパーティ」だそうだ。

 二日間着たきり雀のつもりの勇士は、父親の趣味で買った工具セットについてきた安物のナップサックに放り込んだ下着だけが着替えである。

 そんな荷物量であるから、当然の様にキララが入ったキャリーバックを持つのは勇士ということになった。

 バスでJRの駅まで出て、それから電車で最寄り駅に移動する。

 南側にマンション群、そして北側に目当ての都営公園という駅は、閑散としていた。これが夏の花火大会などだと、駅のホームから溢れんばかりの人が押し寄せるのだが、今は普通の週末であった。あちらに幼児を連れた若夫婦、こちらに会社勤め三年目といった雰囲気のカップル、といった程度しか人がいない。

 その混む時に合わせて造られたため、いまは無駄に広く感じるコンクリートの通路で、勇士はキララをキャリーバックから解放した。

 さすがに狭いところに閉じ込められていたので、最初は機嫌悪そうにウロウロしていたが、そのうちに落ち着いて、ちゃんとお座りをして他の参加者が来るのを一緒に待てるようになった。

 キララがちゃんとお座りできているか確認した時だった。

「肉がイル」

 顔を上げると、今日は辛子色のショートパンツにロゴの入ったTシャツというお洒落をした恭子であった。足は長いレギンスで覆い、Tシャツの上に白いパーカーを羽織っていた。

 髪は動きやすいようにだろうか、大きなお団子にして頭の上にまとめていた。仏像と言われても仕方がないような髪型である。

「よう。おは…、じゃねえーや。こんちわ」

 勇士は恭子に微笑みかけた。

「そういう格好もいいぞ」

 月子の前だし、駅の構内だし、いきなりハグも何だと思って、恭子の頭を撫でてやることにする。

「むう、おにいちゃんったら」

 先に月子と挨拶していた明日菜が膨れたので、勇士は反対の手で明日菜も撫でてやった。

「アスナちゃんと、肉も、ごきげんよう」

「肉じゃないよ、キララだよ」

 明日菜がしゃがみ込んでキララを抱きしめた。

「いや…」

 ふと思いついたことを勇士は口にした。

「バーベキューで肉が足りなくなったら、それも…」

「おにいちゃん!」

 クワッと牙を剥いた明日菜に呼応して、キララまでもワンワンと勇士に向かって吠えだした。

(わり)い悪い。しーっ」

 駅構内なのでキララを黙らせようと、万国共通の仕草をして見せる。

「ええと、部長さんは?」

 細身のロングデニムにサマーセーター、頭にはパステルカラーのホライゾンハットというファッションの月子が不安そうな顔をしていた。二人分の荷物が入っているだろう巨大なテニスバッグを、重そうに肩から床へとおろした。

「どうでしょうねえ。まだ集合時間には間がありますから」

 と勇士は自分のスマートフォンを取り出して、何か着信していないか確認した。すると、ちょっと前に修也から「これから部長さんとモノレールに乗ります」と入っていた。

 同じ私鉄駅が最寄りの二人は、私鉄からモノレール、さらにJRを乗り継がないと辿り着けない。

 着信の時間から考えて、次の下り電車で着くだろう。

「あらまあ、かわいいのね」

 しゃがんだ恭子の膝に両前足を乗せたキララが「撫でれ」とばかりに額を差し出していた。恭子は最初だけ恐る恐るといった態で触れると、キララの毛皮の感触が良かったのか、優しく撫で始めた。

 キララも気持ちがいいのか、軽く鼻を鳴らして答えている。

 そんな微笑ましい風景を眺めていると、構内に轟音が響いてきた。どうやら電車が到着したようである。

 パラパラと都営公園目当ての乗客と、それよりも少ない南側のマンションへ向かう客が、自動改札を抜けてくる。

 その人ごみとも言えない中から、二人の人物が離れてやってきた。

「ごめんね、おまたせ」

 明るい笑顔の咲弥は、制服の印象とはまるで違う格好をしていた。

 蛍光紫のポンチョ風のパーカーに、縁にダメージ加工されたデニムのショートスカートと体側に黒のラインが入った濃い紫色のレギンスをあわせていた。どこの冬山登山に行くのだろうかと思える大きなフレームザックだけで足りないのか、さらに肩から小型のクーラーボックスまで下げていた。

 一人で二人分の荷物を持つ月子より大荷物だ。

「お待たせしました」

 カッターシャツにロングパンツという、キャンプというより町へ買い物に出かけるという格好をした修也は、咲弥とは対照的に身軽だった。男ということもあろうが、それだけではない。なにせイリスを引き連れて、小さなボストンバッグを彼女に持たせているからだ。

「みなさま、こんにちは」

 頭を下げるイリスに、月子が驚いた顔をした。

「あら、妹さん? 意外と参加人数多いのね」

 その言葉に、勇士は曖昧な微笑みしか浮かばなかった。

「でも、お兄さんだったら、荷物持たせちゃダメでしょ」

 まるで小学生の兄妹に教育するように告げる月子。それに対して修也は困ったように説明を開始した。

「このコは、僕が造ったロボットなんですよ」

 あの複雑な形式名称を告げるのかと思いきや、相手が自分の親世代の女性ということを考えたのか、だいぶ噛み砕いた説明をしている。

「ろぼっと?」

 キョトンとしている月子に対し、百聞は一見にしかずというわけでもないだろうが、修也はイリスに短い命令をした。

「イリス。フェイスオープン」

「了解しました、マスター」

 とたんにガシャガシャとメカニックな音がした。残念ながらイリスは月子に正対しており、勇士に背中を向けていたため、どんな顔になったのか見ることはできなかった。

 月子が顎を外して驚いている姿も見ものではあった。

「さて、みなさん」

 肩にかけたクーラーボックスの位置を気にしながら咲弥は、眉尻を下げた。

「残念なお知らせがあります」

「?」

「昨日、スマホで宿泊の予約を取ることが出来たのですが、申し込みが少し遅かったようで、夕食のバーベキューコースまでは確保できませんでした」

「えっ! じゃあ」

 月子が不安そうな声を上げたのを手で制し、咲弥は余裕のあるまま言葉を繋いだ。

「バーベキューコースはダメでしたが、カレーライスコースには若干の余裕があったため、こちらを予約しました。ということで、今夜はカレーです」

「やったあ、今夜はカレーだって、ユウジくん」

 はしゃぐ修也の横で、勇士は黙ってコンコースの天井を見上げた。



「けぷ」

 勇士はカレー臭いゲップを小さく吐いた。

 カレーライス自体は、主婦の月子だけでなく、花嫁修業中の明日菜も居たので、美味しくできていた。

 まず入居する前に事務所へ行って、バンガローの鍵を借りるのが最初だった。それから事務所のオジサンにバンガローへ案内されて、使用上の注意を受けた。室内のシャワーはコイン式で、時間になるとお湯が出なくなる方式だが、最初の数分間は熱湯が出るので火傷に注意とか言われたが、その分の時間延長はしてくれないらしい。

 二つ借りたバンガローは、片方が男の子チームで、もう片方は女の子チームが使うことになった。(命名、咲弥)

 勇士は修也とイリスと一緒である。明日菜なんかは兄妹だから同じバンガローでいいと言い張っていたが、修也にパジャマ姿を見せたくなかったのか、あまりごねることは無かった。

 イリスは、最初女の子チームに入るところだったが、充電なども含めてメンテナンスが必要ということで、男の子チームのバンガローとなった。

 よって、もう片方のバンガローには、明日菜、恭子、咲弥に月子が泊まることになった。

 それから事務所で、食材はもとより、かまどで使う道具の貸し出しを受け、薪を一束受け取った。

 後はわいわいと騒ぎながらカレーライスを作るだけである。さきほど言った通り、カレー自体は成功であった。途中、チョコレートを入れるか入れないかで咲弥と明日菜が睨みあう場面があったが、勇士が二人を収めた。

 意外に修也が飯盒炊飯でご飯を炊くのが上手で驚いた。

 咲弥のクーラーボックスの中身は、良く冷えた飲み物だった。

「本当だったら、ここでアルコールなんだろうけど」

 と、参考にした本に書いてあるままに再現しようと思っていたらしいが、月子以外は未成年ということで、各種ソフトドリンクで乾杯となった。

 カレーライスによく冷えた炭酸飲料。隣の大学生らしいグループが旨そうに焼いているバーベキューなんか、目に入らなかった。

 かまどの火を落とし、食器も洗い終え、キララも付随設備のドッグランで運動させることができた。

 おだやかな週末。

 食器を重ねて事務所へ返却に行っていた咲弥と修也が、明るく話しながら帰って来る。その影を三歩さがって踏まないようについてくるのは、力仕事で活躍したイリスだ。反対側では恭子と明日菜が、リードに繋いだキララとじゃれあい、それを月子が離れたところから安心した笑顔で眺めていた。

「平和だ」

 勇士は、やっと自分が生への到達点にやって来た実感が湧いてきた。

(明日、一日頑張れば。そうすれば俺は生き残れるんだ)

「みなさーん」

 全員が再集結したところで、月子が機嫌良さそうな声を上げた。

「アイスクリーム食べたくないですか?」

「あいす?」

 そんな物に心当たりが無かった勇士が首を捻った。

「食べたいですけど…」

 ソフトドリンクを持ってきた咲弥も、思いつかなかったのか首を捻っている。

「そんな自販機ありましたっけ?」

 こちらは修也だ。

「ちょっと遠いけど、駅の向こうのマンションに挟まれて、スーパーがあるのよ。そこで買ってくるわ」

「え、でも」

 咲弥は不安そうな顔になった。このアウトドアエリアから駅までは、歩いて結構距離があった。さらにその向こうとなると、自転車で往復したくなる距離である。

「大丈夫よ。おばさんが買ってきてあげる」

「でも、悪いですよ」

 眉を顰めた咲弥が、一歩前に出た。

「私に行かせて下さい」

「いいのよ。ちょっとヤヤこしいところにあるから、おばさんが行ってくるわ」

 そう言い残して、月子は歩き出してしまった。

「あ、ちょ、ちょっと。イリス!」

 修也が自分のロボットに声をかける。

「クーラーボックスを持って、オバサンの荷物持ちをしてあげて」

「了解しました、マスター」

 イリスは、中身が空になってバンガロー前に置いてあったクーラーボックスを持ち上げると、慌てて月子の後を追った。

「よほど、機嫌がよろしいのですね。保護者」

 見送る事しかできなかった勇士の横に、恭子がやってきた。

「まあ、ありがたいけどな。アイス」

 カレーの後だ、甘くて冷たい物なら大歓迎である。

「機嫌がよろしいと、アイスをふるまいたくなる性分は、変わらないのですね」

 恭子に言われて思い出した。小さい時に二人で公園の砂場にいると、通りかかった当時大学生ぐらいだった月子は、二人にアイスを買ってくれたものだ。

「なつかしいなあ」

 感慨深げに声が出た。

「なになに?」

 聞きつけた明日菜まで寄って来た。

「いや。オバサン、よくアイス買ってくれたろ。小さい時」

「あー、そうだっけ?」

 二人より小さかった明日菜はよく覚えていないらしい。

「三人でそういう話をされると、私たちが置いて行かれてしまうわ」

 不満そうに咲弥が割って入って来た。

「ぼ、ボクを忘れないでくださーい」

 仲間外れは嫌だとばかりに、修也が駆け寄って来た。

 バンガローのところで繋がれているキララだけは、勇士に近寄れずにワンワン吠えている。

「あら、ユウジを好きなのは私よ」

「おにいちゃんは、ダレにも渡さないんだから」

「小野くんは、私の物なんだから」

「ボクの恩人だよ!」

「こらこら」

 勇士は、自分がモテモテの状況に、苦笑いしか出てこなかった。

「ケンカをしないで仲良くしてくれよ。照れるなあ」

「じゃあ、みんながみんな、ユウジのことが好きなんですね」

 恭子が目をキラキラさせて言った。

「わたしなんか、生まれた時からおにいちゃんのこと、だーいすき」

 明日菜が左腕に抱き着いてきた。

「あら? じゃあ、みんなで平等に小野くんを愛しましょうよ」

 正面の咲弥が蠱惑的な微笑みを浮かべた。すでに大人の雰囲気を持つ彼女がそうすると、とても似合った。

「そうだね、みんな平等に分け合って、愛そうよ」

 意見の一致を見て、やったーとばかりに拳を突き上げる修也。

「そうね。じゃあ、わたしは髪を」ぶちち

 まとめて掴んだ前髪を、いっきに恭子が引き抜いた。

「いてて」

 あまりの暴力的な行為に、勇士の笑顔がひきつった。

「乱暴だなあ、キョウコは」

 将来の心配をしつつ恭子を見ると、彼女は左手に掴んだ数本を愛おしそうに眺めていた。そして、その右手には先の曲がった長葱のような物を握っていた。

「え…」

「あ、ずるい。じゃあアスナは耳をもらうね」

 ぐちゅっという音と共に、明日菜に噛みつかれた右耳が引きちぎられた。

「ぎゃっ」

 あまりの痛みに振り返ると、明日菜は肉片を口に咥えたまま微笑み返す。手にはカレーライスを作った時に使った金属製のオタマを、まだ持っていた。

「この綺麗な眼球は、私が貰うわ」ぐしゅ。

 両手を押さえられた状態で、咲弥の指が眼孔に差し込まれた。視界が半分になる直前、彼女が緋色の棒のような物を手にしているのが分かった。

「ボクはねえ。この歯をもらおうかな」ばきき。

 口が強引に開かれ、差し込まれた何かが口の中で高速回転し、前歯が折られた。

「じゃあ、次は右腕を」ぶしゅ

「あ、じゃあ左腕はアスナが貰うよ」ざく

「この胸板。私が貰うわ」ビリビリ

「ぼくはね、肝臓にしようかな」ずぶ

 ズビグサブュシュウボリボリボリ…。

 最後まで機能していた聴覚が、犬の吠える声とともに、自分の体が解体されていく音を拾っていた。



「…次のニュースです。昨夜八時ごろ東京都×▽市にある都営公園のアウトドアエリアを利用していた宿泊客から『隣のグループが大変な事になっている』という通報があり、公園を管理している管理事務所の職員が駆け付けると、一人の少年が複数の少年少女から暴行を受けている現場に遭遇しました。慌てて職員は一一〇番通報をし、駆け付けた警察官と共に少年を救い出そうとしました。が、すでに重傷を負っていた少年は、その場で死亡が確認されました。少年は都内に住む高校生の小野勇士さん十五歳と判明しており、暴行した少年たちグループは小野さんの所属する高校の部活動の生徒たちだった模様です。グループの中には精神科へ通院していた者もおり、警察は少年たちの精神鑑定も視野に入れて慎重に捜査する模様です。…次です。団地の商店街に、地域のコミュニケーションステーションができました…」



 厚い霧の中を歩いていくと、テレビのニュース番組のような音声が聞こえてきた。

(…)

 勇士は肩に圧し掛かってくるような虚脱感に、その場でしゃがみ込んでしまった。

 破壊されたはずの顔面に手を当てる。そこは、ベッドで起きた時の様に、傷一つないようだった。

「くっ…」

 我慢はしたが、涙がこみ上げてくる。ボロボロとそのまま鼻水やら涎やら、ともかくドレが何だか分からない程に泣いた。

 一〇分ぐらいそうしていただろうか。

 やっと落ち着いた勇士は、両腕を使って顔を拭うと、霧の中を暖かい光に向かって歩き始めた。

 毎度変わらない、なにかの石碑のような大岩が見えてきて、その前に白い服を着た老人が立っていた。

 鋭い目元に、銀色の長い髪と髭。記憶のままである。

 穏やかに見つめてくる視線は、どこかガッカリしたような感情が込められており、勇士が彼の前に立つと、長い髭に包まれた口元を開いた。

「おお勇士よ、死んでしまうとは情けない」

「…」

 何も言えず死んだ魚のような目で見るだけだ。といっても、今の勇士は死者なのだが。

「あ…」

 やっとの思いで声が出た。

「『愛』は尊い物じゃないんですか」

「ふむ」

 長い髭をしごいてから老人は答えた。

「『愛』の形は、人それぞれじゃからのう」

「だからって! あんなの『愛』じゃないでしょう!」

「いや、そのう」

 言いにくそうに口を開く。

「愛しい人と一つになりたいと思う心が、ちょっと行き過ぎたのではないかのう」

 老人は左手で何も無い空間を撫でるように動かした。その仕草で霧が粘土のように均され、そこが鏡のように変化した。いつもの様に、どこかのテレビ局のニュース番組が、その鏡に映し出された。

 バンガローが数件建っているのを、木立越しにカメラで捉えている。すると画面中央よりやや左側へズームしていくと、青い作業着を身に着けてマスクをした捜査員が、地面の写真を撮っていた。

 彼らの前の地面は、真っ赤に染まっていた。

 誰も相手にされず、バンガローに繋がれたままのキララが、寂しそうに地面に伏せていた。

「ああ、キララ…」

 その寂しそうな瞳と、鏡越しに目が合った気がして、勇士は思わず呟いた。

「わしは何度も言っておるはずじゃ」

 噛んで含めるように老人は言った。

「一週間の間に、死なないように努力するのじゃぞ、と」

「だからって、みんなで寄ってたかって殺しにかかるなんて」

「まあ…」

 言いにくそうに付け加える。

「そ、相乗効果?」

 その言葉に、勇士は自分の手を見た。細かく震えていた。

「酷い死に方だった…」

「自分の死体が見たいかの?」

 その質問に、力なく首を横に振る。そんな勇士に老人が語り掛けた。

「さて、勇士よ」

 老人は手の一振りで映像を消した。

「若くして死んでしまったオヌシであるが、やり直したいとは思わんかね?」

「え?」

 勇士は、老人を見上げるように顔を上げた。

「オレ、まだ生き返ることができるのか?」

「ダレが、これで最後と申した。オヌシは捨て犬だったあのコを助け、世話をしてやるほど優しい者。それを一度きりの失敗で死なしてしまうほど、わしゃ冷たくはない」

 胸を張る相手に、後光のような物を感じた勇士は、跪いたまま手を合わせた。

「あ、ありがとうございます」

「それで?」

 あくまで優しい態度のままで、老人は勇士に訊いた。

「どうする? 一週間やりなおしてみるかね?」

「ああ」

 勇士の目に力が戻った。

「もう腹を決めた。前から考えていた方法を試します」

「そうか。それがどんな方法かは、あえて聞かないことにしよう」

「はい! 今度こそ生き残って見せます! よろしくおねがいします!」

「よろしい。いい返事だ」

 微笑みが大きくなると同時に、再び勇士の視界は霧に包まれた。

 どこからか彼の言葉が聞こえてきたのが最後だった。

「一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ」




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