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金曜日



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

 その途端、勇士はベッドから跳ね起きると、開けられたばかりのカーテンを引いた。

「おにいちゃん?」

 そのまま黙ってベッドに戻って布団を被ると、明日菜は怒った声を上げた。

「おにいちゃん、起きないの?」

「起きない!」

 勇士の即答に、心配げな声に変った。

「朝の準備できてるよ。はやくはやく」

「いらない」

 勇士はすべてを拒絶する勢いで言った。

「どしたの?」

 明日菜の不思議そうな声に、悲鳴のような返事が出た。

「学校も行かない。家で寝てる!」

「んもう、ヤだなあ、おにいちゃん。一週間が始まるんだから、元気よく行きましょう」

 励ます言葉を口にしながらも、明日菜は部屋を出て行った。

 部屋に一人で残されたことを知覚した勇士は、ベッドからのそのそと這い出すと、クローゼットの扉についている鏡を覗き込んだ。

 やはり鏡に映った自分の顔が、霧の中の老人に入れ替わった。

《勇士よ。一週間の間、死なぬようにするのだぞ》

 鏡の中から勇士に告げると、微笑みを見せて消え失せた。

「月曜日か。もう今度は家から一歩も出ないぞ」

 見れば全身に脂汗が浮いていた。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

 階下から明日菜の催促して来る声が聞こえてくる。だが、勇士は降りるつもりは無かった。

 返事もせずに、鏡の中の自分を睨みつけた。

(一週間ぐらい、サボっても大丈夫さ)

 しばらくすると、軽い足音が階段を登って来る気配がした。慌ててベッドに戻ると、部屋の扉がノックされた。

「おにいちゃん。学校行かないの?」

「ああ」

 怒ったようにこたえる。

「具合でも悪いの?」

 とても心配げな妹の声に、チクチクと罪悪感を刺激された。

「ああ。しばらく休む」

「本当に?」

「ああ」

「…」

 しばらく扉の前に立っている気配があった。黙ったままなので、去る時の足音を聞き逃したかと思って頃に、再び明日菜の声がした。

「じゃあ、いつものトコに、カップ麺入っているから、買い物に出るのが辛かったら、それ食べてね」

「ああ」

 それで、やっと階段を降りていく気配がした。

 玄関を開ける気配の後に、キララがはしゃぐ気配が続いた。その後に微かに聞こえたのは、恭子の「ニク」とかいう声。世界では月曜日が動き出したようだ。

 道を急ぐ小学生の群れ。平時よりも多めの自動車の音。そういったものが段々と静かになってくる。

 通勤通学時間が終わった頃に、勇士はベッドから這い出した。

 階下にはいつも同じ朝食が用意されたままになっていた。

 しばらくそれを口へ運んでいると、家の電話が鳴った。無視をしてもいいが、何かの連絡だといけないので、受話器を取った。

 相手は担任であった。勇士の両親が海外へ揃って赴任していることは知っているはずである。子供だけの家だというので、心配してかけてきてくれたらしい。いちおう風邪気味と言うことにして誤魔化した。

 昼頃にスマートフォンへ、まず修也からメールが入った。

 自分がされた事を思い出し、怒りのような物がこみ上げてきた。が、簡潔に具合が悪いから返事をするのも鬱陶しいと返信を入れておく。

 それから間を置かずに、今度は咲弥からもメールが入った。

 また、自分がされた事が思い出され、怒りのような物がこみ上げてきたが、同じように返信しておいた。

 それから居間のソファに寝転がって、点けたテレビを眺めて時間を潰す。ワイドショウなんて、もともと興味が無い話題しか取り上げていないので、本当に眺めるだけだ。

 昼は明日菜が言っていたカップ麺で済ませた。

 時計の短針が右下に来る前に、自分の部屋へと戻った。ただゴロゴロしていただけの勇士と顔を会わせて、明日菜が何を言い出すか分からなかった。

 ベッドで横になっていると、玄関に鍵が差し込まれる気配がした。

「ただいま~」

 返事が無いことに寂しそうな溜息をついて、明日菜が帰宅したようだ。

 重い足取りで階段を登って来る。

 すわ、お小言かと布団の中で身を固くしていると、隣の明日菜の部屋へ入って行く。おそらく制服から着替えているのだろうという気配がした後に、勇士に声をかけずに階下へ降りて行った。

 しばらくキッチンで食事を作っている気配が続いた。

 それからまた二階へ戻ってくると、心配げに扉がノックされた。

「おにいちゃん。お夕飯できたけど、食べる?」

 一日動いていなかったので、空腹は感じていなかった。しかし、妹を安心させるぐらいはした方がいいだろう。

 勇士はノソノソと部屋を出た。

 扉の前では、明日菜が泣きそうな顔で待っていた。

「お夕飯…」

「ああ、ちょっとだけ食べるよ」

 それを聞いて、明日菜の顔がパアッと明るくなった。

 黙って食事をし、いつもの様にソファに転がる。全然胃の中が消化されない。しかし…。

「おにいちゃん」

 かわいいエプロンをつけた明日奈が、オタマを持ったままやってきた。

「少しは良くなった?」

「いや」

 勇士は取り敢えず否定した。あんな殺人者がいるクラスへ、どんな顔をして登校していいか分からなかった。

「明日も、たぶん休む」

「もー、おにいちゃんったら」

 眉を顰めた明日奈が、手にしたオタマを振り回した。

「元気出さなきゃダメじゃない」

「そうは言ってもな…」

「なんかあったの?」

「ん? まあな」

「じゃあ、お医者さん行く?」

 心配げに明日奈が顔を覗いてきた。

「いや、行くほどじゃないが、ちょっとな…」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

(そうだ。今日はキョウコを探してくれと頼まれる日か)

 返事が無いからだろうか、もう一度チャイムが鳴らされた。

「はあい」

 明日奈がこたえてしまう。勇士はそっぽを向いて明日奈に言った。

「出てくれるか?」

「うん、いいよ」

 オタマを戻す時間だけ待ってもらって、明日奈が玄関の方へ行った。玄関の扉を開けると、散歩を催促するキララの啼き声がリビングまで聞こえてきた。

(まさか家に閉じこもっていても、キョウコが襲いに来るなんてことは、ないだろうな)

 おそらく月子に明日奈が、恭子が来ていないか訪ねられている玄関の方向を見て、思考を巡らせる。

(ここで探しに行かないのが、おそらく正解のはずなんだが)

 決断したタイミングで、明日奈が玄関から戻って来た。

「なんだった?」

 いちおう新聞の勧誘かもしれないので、曖昧に訊いてみる。

「うん、キョウコちゃんのオバサンだった。またいなくなったんだって。で、ウチに来てないか~って」

「そうか。で? オバサンは?」

「もう少し探してみるって行っちゃったよ。なんか用事あったの?」

「いや…」

 そこで勇士は唾を飲み込んだ。なるべく自然になるように明日奈へお願いしてみる。

「あのさアスナ。オレ、調子悪いんで、キララの散歩代わってくんない?」

「えーっ」

 眉を顰めた声を上げる明日奈。

「たのむよ」

「もー、朝はアスナで、夕方はおにいちゃんって決めたじゃんー」

「な」

 拝み倒すと、少し膨れた明日奈はエプロンを外し始めた。

「その代わり、洗い物やっておいてよね」

「まかされた」



 洗い物も終わって、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

「今日は無事に終わったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(よし…)と勇士は思う(学校に行かなければ、ブチョーやシュウから襲われることもないだろう。キョウコとも、基本は家から出なければなんとかなるはず。一週間、この一週間だけだ。そうすればいつも通りに戻れるはず)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

「今度こそ死なないぞ」

 ポツリと漏れた自分のセリフに背筋へ震えがきた。

 目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

《一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ》

 幻聴だろうか、再び声が聞こえてきた気がした。

「わかったよ、神さま。おやすみなさい」

 またあと六日。勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

 それから昨日と同じように、勇士はベッドから跳ね起きると、開けられたばかりのカーテンを引いた。

「おにいちゃん?」

 そのまま黙ってベッドに戻って布団を被ると、明日菜は怒った声を上げた。

「おにいちゃん、今日もだめ?」

「ああ」

 勇士の即答に、心配げな声に変った。

「朝の準備できてるよ、食べないの?」

「いらない」

 勇士はすべてを拒絶する勢いで言った。

「どしたの?」

 勇士の体に斜めに引っ張られるような感覚が加わった。どうやら明日菜がベッドに腰かけたようだ。

 布団越しに勇士の背中を撫でながら、とても優しい声で訊ねてくる。

「学校、嫌いになっちゃった?」

「嫌いとか、そういうことじゃないんだ」

 理解してくれないことを前提に話すのには、少々精神力が必要だった。

「オウチにいるの?」

「うん」

 まるで幼稚園児のような声が出た。

「しょうがないなあ…」それに対する明日菜の声は、まるで母親のような柔らかい物に変化していた。

「じゃあ、おとなしく寝ているんですよ」

 それから明日菜は静かに部屋を出て行ってくれた。

 階下で朝の情報番組を見ながら食事を摂っている気配がした後に、静寂がやってきた。それから玄関を開ける気配の後に、キララがはしゃぐ気配が続いた。その後に微かに聞こえたのは、恭子の「ニク」とかいう声。世界では火曜日が動き出したようだ。



 そして、また退屈な一日が過ぎて行った。

 午前中に担任からの電話。昼頃に二人からのメールと、そこまで同じであった。

(なんだ。最初からこうしておけばよかった)

 気を使って学校で過ごしていたのが馬鹿らしくなるぐらいだ。

 居間のソファに寝転がって、やっぱり点けっぱなしのテレビを眺めて時間を潰す。

 時計の短針が右下に来る前に、自分の部屋へと戻った。

 ベッドに移って、やっぱりゴロゴロしていると、明日菜が帰宅してきた。

 自室で着替えて、階下で食事の支度へ移る。

 それからまた二階へ戻ってくると、心配げに扉がノックされた。

「おにいちゃん。お夕飯できたけど、食べる?」

 二日も動いていなかったので、空腹は感じていない。しかし、妹に心配かけっぱなしというのも嫌だった。

 勇士はノソノソと部屋を出た。

「ああ、ちょっとだけ食べるよ」

 それを聞いて、明日菜の顔がパアッと明るくなった。

 黙って食事をし、いつもの様にソファに転がる。全然胃の中が消化されなかった。

「おにいちゃん」

 かわいいエプロンをつけた明日奈が、オタマを持ったまま近づいてきた。

「少しは良くなった?」

「いや」このまま来週を迎える予定なのだから、嘘でも気分がすぐれない振りをしなければならない。

「明日も、たぶん休む」

「もー、おにいちゃんったら」

 眉を顰めた明日奈が、手にしたオタマを振り回した。

「元気出さなきゃダメじゃない。元気でないの?」

「ああ…」

 殺人者たちの顔が脳裏をよぎり、勇士は暗い顔になった。それを見て慌てたのは明日菜だ。

「ご、ごめんなさい」

 兄である勇士へ抱き着いてくると、愛おしそうに頭を胸に抱きしめてくれた。

「なんかあったのね?」

「ん? まあな」

「カウンセリングとか、お医者さんじゃなくても、色々あるよ?」

 妹の高めの体温に触れ、勇士は自分がホッとしていることを自覚した。

「アスナ。今日もキララの散歩代わってくんない?」

「えーっ」

 眉を顰めた声を上げる明日奈。

「たのむよ。その分、来週は朝もオレが連れて行くからさ」

「しょーがないなー」

 明日菜は勇士を放すと、エプロンを外し始めた。

「洗い物はやってもらうからね」

「はいよ」



 洗い物も終わって、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

「今日も無事に終わったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(よし順調じゃないか)と勇士は思う。

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

 目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日も生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと五日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 優しく声をかけられて、勇士は目が覚めた。どうやら三日目がやって来たようだ。

 ギシッ。

 そしてベッドに縛り付けられている自分に気が付いた。

「へ?」

「おにいちゃんは、アスナと離れたくないんでしょ」

 首を巡らせると、ベッドの脇に立った妹がいた。半月状に口を開いて、勇士ではないどこかを見て笑っていた。

「いいのよ、おにいちゃん。アスナがずっと、お世話してあげるから」

 カーテンの隙間から朝日と思われる光線が差し込んでいるが、それが開かれていないので、本当に朝か分からなかった。

「いま、朝ご飯持って来るからね、おにいちゃん」

 いったん部屋を出て行った明日菜は、エプロン姿にトレーを持って帰って来た。

 そこに乗っているのは、トーストにサラダという小野家定番の朝食だった。

「お、おいアスナ」

 荷造り用のビニール紐で雁字搦めになっている勇士は、唯一自由になる口を使うしか、なにをどうすることもできない。

「なんで、こんなことを」

 そこへ、大きめに千切ったパンが突っ込まれた。とても乱暴だ。

「はーい、おにいちゃん。残さず食べるんですよー」

 明日菜のノリとしては、おままごとと同じ調子であったが、付き合わされている勇士は、たまった物じゃなかった。

 口腔内へ突き入れられたパンは、嚥下するには大きすぎるサイズだが、目に涙を浮かべながらも咀嚼し、なんとか喉を通過させる。

「アスナ、これ解いてくれれば、自分で…」

「好き嫌いはいけませんよ」

 今度はサラダだ。これまたズドンと突きこまれた。

 これもなんとか喉を通過させる。えづきそうだ。

「おい、冗談だろ?」

「おにいちゃんは、アスナのモノになったんでちゅからね。おとなしく言うこと聞きまちょうね」

 段々赤ちゃんに話しかけるような口調になってきていた。その明日菜が、オレンジジュースが注がれたコップを手に取った時、絶望感が襲って来た。

 勇士の息継ぎなど考えずに、喉へオレンジジュースが注ぎ込まれた。

「がはっ! がはっ」

 自宅のベッドの上という、溺死するには一番不似合いな場所で、勇士はそれを成し遂げるところであった。

「ダメでちゅねえ、おにいちゃんは。こんなに零しちゃってぇ」

 明日菜にとって予想された事態なのか、固く絞ったフキンで顔だけでなく、濡れた枕周りも拭いてくれる。

「じゃあ、ちゃんと寝てるんでちゅよ。アスナは、すぐ戻ってきまちゅから」

 勇士に朝食を食べさせるという大仕事を終えた、という満足感に満たされた笑顔で、明日菜は食器を片付け始めた。

 それからしばらくして、明日菜は戻って来た。手元に小さな本を持っている。

 勇士の学習机のライトを点けて、椅子をベッドの脇に引いてきた。

 まるで重病人を看病するような位置で座り、ページを切った。

「あの~、アスナさん」

「ん~」

 心ここにあらずといった返事。

「差し迫って、重要な問題が発生しつつあるのですが…」

「なあにぃ?」

 そこで、ちょっとだけ言い惑ってから、勇士は告白した。

「と、トイレ」

「えー」

 非難するような声で本を閉じると、疑うような眼差しで見おろしてきた。

「ほんとーにぃ?」

「ホントほんと」

 もちろん、この拘束が解かれたら、逃走することも視野に入れている。

「しょーがない、おにいちゃんねえ」

 意外とあっさりと明日菜はベッドに勇士を縛り付けている紐を解き始めた。グルグルと足が自由になり、腹のあたりの圧迫感が減り、そして上半身に取り掛かった。

 しかし、なかなか解放感が得られない。

「はい、トイレ行きまちゅよ」

「え?」

 見ればベッドとの拘束とは別に、勇士の上半身のみをグルグル巻きにしている紐がある。しかも刑務所の看守と受刑者のように、後ろから一本だけはみ出していて、それを明日菜が握って逃げられないようになっていた。我が妹ながら用意周到の恐ろしい女であった。

「はい、おトイレ行きまちゅよ」

(でも…)と勇士は気を取り直すことにした。(オムツとか言われなくてよかったぁ)

 高齢化が進んだ現在、テレビを点けていれば、嫌でも老人介護用の紙パンツなどのコマーシャルは目に入って来る。

 両手も一緒に縛られているため、転ばないように階段を降りる。

(ちょっと待てよ…)

 トイレのドアが近づいてくるにつれ、嫌な予感に襲われた。

「はい、おトイレでちゅよ」と明日菜はドアを開いてくれたのはいいが、勇士は立ちすくむだけである。

「どうしたの?」

「いや、どうしろっていうんだ?」

 勇士の両手は、上半身と一緒に縛られているのである。さらに言えば、後ろ手に、であった。

「大丈夫。ほら、こっち向いてソコに立って」

 言われるままにすると、明日菜の手が遠慮なく勇士のパジャマのズボンにかかった。

「うわあ、ちょ、ちょっとまて!」

「したいんでしょ」

 そのままズルッと下ろされた。

 若さ、そして、朝方。通常の三倍(当人比)は自己主張していた。

「わわわ」

 しかし、それに対する明日菜の反応は、とても薄い物だった。

「座ってするのよ。立ってすると、余分にトイレが汚れるんだから」

 まるで「なによ、このホース」程度の感じで、歯牙にもかけていなかった。それか幼稚園児を持つ母親の息子の息子に対する程度か。

 体を屈めるようにして用事を済ませると、再び明日菜が服を整えてくれた。

 トイレを流そうと、明日菜の意識がレバーへ言った時に、チャンスが訪れた。

 勇士を縛っている紐から手が放れた。

(いまだ!)

 廊下を全速で走り、玄関へ突撃。そのまま後ろ手に縛られた手を使って、ノブを回そうと悪戦苦闘。

「おにいちゃん…」

 ガチャガチャと音ばかりで開く気配が無いノブと格闘していると、手に愛用のオタマを持った明日菜が追いついてきた。

「ダメじゃないの、お外へ行こうとしちゃ。おにいちゃんの面倒は、アスナが看るって言ったでしょ!」

 そのままオタマを振り上げる。

「おにいちゃんが、アスナのゆーこと聞かなかったら、コレでポコンってやるって、言ったわよねえ」

 振り下ろされた瞬間、ガスッと重い音がした。



 次に気が付くと、勇士はまだ玄関にいた。

 どうやら明日菜の力では、勇士の体を移動させることができなかったようだ。

 暖かく柔らかい物が枕になっていた。

「あ、気が付いたわね、おにいちゃん」

 見おろしてくる妹の顔が明るく微笑んでいた。

 悪い夢だった。と、思いたいが、依然として体はグルグル巻きのままである。

「そろそろ、お昼にしましょうか」

 小さな本を畳みながら明日菜が微笑んだ。それからゆっくりと勇士の上半身を起こしてくれる。

「あたたた」

 ちょっとビッコを引いたようにして、キッチンへ向かう。どうやらずっと膝枕をしていてくれたようだ。

 グイッと自分に繋がれている紐を引かれ、勇士もキッチンへ向かうことになった。

 食卓に座ると、その手綱の分で椅子へ縛り付けられてしまった。いちおう足はまだ自由だが、脱走を試したくない格好ではある。

「お昼は、食べやすいようにサンドウィッチにしましたよ~」

 と、買い置きの具材を朝食用のパンで挟んだ食事が出てきた。もちろん口へ運ぶのは朝食の時と同じシステムだった。

 なんとか飲み込んでいると、勇士は今更ながら気が付いた。

「アスナ。おまえ学校は?」

「んー? おにいちゃんが病気で寝てるから、看病って言って休んだよ」

 何を当たり前のことを訊くという態度であった。

 兄が椅子に縛られている以外は普通の昼下がり。そんな中で勇士の頭がフル回転を始めた。

(さて、どうするか)

 とにかく自分の自由を阻害しているこのビニール紐を、なんとかしないことには脱出できない。それは先程文字通り痛いほど知った。きっとコブができている。

 そして、三度も殺された記憶がある勇士には、いまの状況からは危険信号しか感じ取れなかった。

(こんなにアスナが狂暴化するなんて。どうなってんだよウチの家系…)

 でも、思い返してみれば、夫の浮気が心配で南米まで着いて行くような母である。(当人は、一生懸命否定はしていたが)小野家というより母の血筋なのかもしれない。

 紐を切断するから、思考が刃物へ行った。

 まずキッチンの包丁。だがキッチン自体、体が自由の時だってそうそう入らなかった。どうやって誤魔化しながら包丁が立ててある食洗器脇まで行けるか想像がつかなかった。

 次に、常識的にハサミを思いついた。家族共有の道具は、キッチンの入り口にある食器棚に置いたボール箱に入っている。そこにハサミも入っているはずだ。

 だが、後ろ手に縛られている状態で、うまく紐を切ることができるだろうか。ちょっと自信がない。

 同じ文房具繫がりで、カッターナイフへ連想が行った。これならば後ろ手でも扱えそうだ。もし刃が滑っても、浅い傷で済みそうだし。

 ただボール箱に入っているカッターナイフは、大型の物である。手にした途端にスパッと切ることができればいいが、そうでないと明日菜に取り上げられてしまうだろう。

 三つ思いついたすべての案が、すべてうまく行きそうもない。

「さ、おにいちゃん。ベッドで横にならなきゃだめでちゅよ」

 また明日菜の言葉が変になっていた。

 階段へ行くまでに、その工具が入っているボール箱の前を通る。さりげなく見て、中を確認するぐらいはできるのではないだろうか。

(他に入っているのは、ペンチぐらいだったような)

 それでも、勇士が覚えていない工具が入っているかもしれない。明日菜が椅子に結んでいた紐の端を解いたところで、先に立って歩き始める。

 そしてキッチンの入り口で、自然を装って立ち止まる。

「アスナ。水が飲みたいんだけど」

「あ、ごめんね。サンドウィッチだけじゃ、喉が渇くもんね」

 明日菜が紐の端を握ったまま、キッチンへ入った。後ろへグイッと引かれるが、ボール箱をさりげない様子で覗き込むことができた。

 大小のドライバーに、ハサミにペンチ。それにモンキーレンチにセロハンテープ。いつから入っているか分からない古びたボールペンに、思い出していたカッターナイフ。それに加えて、なにやらビニールテープでグルグル巻きにされた小さな物が入っていた。

(なんだっけ、コレ)

「はい、お水でちゅよ」

 コップから直に勇士を溺死させる勢いで水を流し込まれた。まあ、立っている状態だったので、苦しくなったら床へ零せばいいだけだ。

 喉を適当に潤し、胸元に零した分を拭いてもらって、勇士は自室への階段を上がった。

「さ、おとなしく寝て下さい」

 明日菜が愛用のオタマを握って微笑んでみせる。とても迫力のある笑顔だった。

 再び勇士はベッドに縛り付けられてしまった。

 学習机の上で派手にきらめいているのは、勇士のスマートフォンである。着信があったことを知らせているが、もちろん明日菜は手に取らせてくれるわけがない。

 夕飯も同じように食べて、風呂は無しで、ベッドに縛り付けられる。そこまで時間が経ってから、ボール箱に入っていたビニールテープの塊が何だったか思い出した。

 切れ味の落ちたカッターナイフの刃を捨てる時、危ないからと母親がそうして捨てるようにしていた。そうして捨てる準備はしたが、ゴミに出す事を忘れていた一部だろう。

(今日は酷い目に遭ったな)

 椅子でウトウトとしている明日菜を眺めてから、見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(だが…)と勇士は思う(あれなら手の中に隠しながら、紐を切ることができそうだ)

 仰向けで縛られているために、枕元のデジタル時計すら見ることができない。しかし、散歩を催促するキララの鳴き声で、だいたいの時間が分かった。

(よし。明日、うまくアレを手に入れよう)

 目的が生まれると同時に、希望も湧いてきた。そうして目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日は生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと四日。そう自分に言い聞かせた勇士は、暗い部屋で意識を薄くしていった。



「おにいちゃん、朝だよ」

 優しく声をかけられて、勇士は目が覚めた。どうやら四日目がやって来たようだ。

 ギシッ。

 やはりベッドに縛り付けられたままだ。

「今日も、おにいちゃんの、お世話はアスナがしてあげますからね」

 カーテンの隙間から差し込む太陽光の薄ら明かりの中で、明日菜が椅子から立ち上がった。もしかしたら一晩中見張って…、いや看病していてくれたようだ。

「いま、朝ご飯持って来るからね、おにいちゃん」

「まって!」

 部屋を出て行こうとする明日菜を、悲鳴のような声で呼び止めた。

「?」

 このまま、またベッドの上で溺死しそうになりたくない。

「やっぱり物を食べる時は、下で食べたいんだけど」

「え~」

 眉を顰める明日菜。

「それに、ほら…」

 思いついた言葉を口にしてみる。

「ベッドで食べるなんて、お行儀が悪いだろ?」

 ドアのところで小首を傾げていた明日菜が、それもそうねとばかりに戻って来た。

 それからは、昨日の昼と同じシステムであった。ベッドからは解放されるが、雁字搦めは相変わらずだ。

「はーい、おにいちゃん。残さず食べるんですよー」

 食卓に並べられたのは、トーストにサラダという小野家定番の朝食だった。

「お、おいアスナ」

 また口へ食物を突っ込まれながら、勇士は妹を説得しようと努力した。

「いいかげん、これを解いてくれないか?」

「ダメよぉ」

 明るく否定されてしまう。

「だって、せっかく明日菜のところに居てくれるんだもん。絶対に逃がしたりしないんだから」

 まるでクリスマスプレゼントに自分が願っていた通りの物を、サンタクロースが選んでくれたチビッ子のような笑顔でこたえられてしまった。

 ここまで取りつく島が無いのなら、考えていた方法を試すしかないようだ。

「あの~、アスナさん」

「ん~」

 やはり今朝も勇士をオレンジジュースで溺死させる勢いでコップを傾けている明日菜に、話しかける。代官に年貢を減らしてもらおうとする小作人の心情だ。

「再び重要な問題が差し迫っているのですが…」

「なあにぃ?」

 そこで、ちょっとだけ言い惑ってから、勇士は告白した。

「と、トイレ」

「えー。お食事中でしょ。がまんなさい」

 再び愛用のオタマを振り回しているので、なだめるために言葉を繋いだ。

「じゃあ、食べ終わったらお願いしていい?」

 実はそんなに緊急事態でもない。勇士には狙っている事があったのだ。

 なんとか食べ終え、椅子からは解放される。また明日菜に手綱の様に紐を掴まれたまま、トイレへ向かう。

 ダイニングから出る瞬間、わざと体を傾けて食器棚に置かれたボール箱を引っかけた。

 ガシャンと音を立てて床に工具が散らばった。

「あ、しまったー」

 少々棒読み気味だったが、勇士は声を上げ、床のドライバーを踏んづけた振りをして、工具の上にダイブした。

「きゃ」

 掴んでいた紐に引かれ、明日菜もその場所に座り込んでしまった。

「もう、おにいちゃんったら。気をつけてよね」

 プリプリ怒って、床にひっくり返ってしまった勇士の上体を起こしてくれた。

「立てる?」

「うん、まあ」

 支えられながら立ち上がり、工具を拾い集める明日菜を見おろす。いま手が自由ならば、逆に縛り上げることができそうなほど隙だらけだった。

 ボール箱は定位置に戻され、勇士はトイレで再び、羞恥心まみれの屈辱感を味わうことになった。

 今日は、大きい方も用事があったので、扉を閉めてくれた。しかし、その後が大変だった。

 下半身裸のままで風呂場へ連れていかれると、シャワーで汚れた尻を洗うという荒業を、明日菜が使ったからだ。

「もう、お婿さんに行けない」

 悲しくなってつい呟いてしまったら、明日菜が間髪入れずに反応した。

「いいのよ、おにいちゃん。ずっとココで一緒に暮らしまちょうね」

 綺麗になって服を直され、またベッドに縛りつけられる。仰向けで動けなくなってから、勇士は口を開いた。

「なあアスナ」

「なあに?」

「キララの散歩、行ってるか?」

「ちゃんと行ったよ?」

 それが何かと聞き返すように首を傾げてみせる。

「朝はいつも通りだし、夕方も、昨日はおにいちゃんが寝てから、公園まで一周してきた」

「そ、そうか」

 全然気が付かなかった。勇士は用意していた別の話題を振ることにした。

「あ、あのさアスナ」

「なあに?」

「昼は横浜屋さんのトンカツが食べたいって言ったら、怒る?」

 横浜屋というのは、近所にある精肉店である。小野家でトンカツというと、ここで揚げたトンカツを買ってくることと同義だ。

「え、もーう」

 ぷくうと頬を膨らませた明日菜は、それでも嬉しそうにこたえた。

「おにいちゃんたら、リクエストできる立場だと思ってるの?」

「ああ、思ってる。優しいアスナはきっとお昼に横浜屋さんのトンカツを食べさせてくれるはずだ」

「…」

 明日菜は黙り込んで、勇士を見おろしていた。

 今の勇士は、ベッドに縛り付けられた哀れな存在でしかない。

「もー、しょーがないなー」

 思えば色々と足りない生活雑貨などもあるのだろう。文句を言いながらも、明日菜は部屋のドアへ移動した。

「じゃあアスナは買い物に行ってくるから、おにいちゃんは、おとなしくおルス番してるんですよ」

 最後にもう一度ビニール紐をチェックして、明日菜は部屋を出て行った。

(チャーンス)

 ニヤリとしてから、勇士はハタと気が付いた。

(いや、アスナの事だから、もう一回チェックに来るはずだ)

 思った直後にそうなるんだから、お互いを分かっているということだろう。再度やってきた明日菜は、もう一回ビニール紐に緩みなどがないかチェックすると、階段を降りて行った。

 具体的な行動を起こす前で助かった。

 勇士は、自分の体と、ベッドの間に入った掌の中で、先程わざと転んで拾った物を一回転させてみた。

 やはり昨日の推理通り、母親が捨てるのを忘れていたカッターナイフの、折った刃先のようだ。

 小さな菱形をしており、全体をビニールテープで覆ってある。

 どこが刃なのか分からず、四つある辺すべてに、親指の腹を押し付けてみるが、痛みは全く感じられない。

 二週半した程で、やっと親指にチクリとした痛みがあった。

 やはり折り取った刃先なので、切れ味も落ちているようだ。さらに巻いたビニールテープが、鋭さを奪い取っている。

 しかし、指を切らないように慎重に触れば、まだ切れ味が全く残っていないわけではないようだ。

 その鈍くなった刃先を、ビニール紐に押し当てて、動かし始めた。

 体の下であるから、まず自分の体重が邪魔だった。だが上側だったらすぐに明日菜に発見されて、取り上げられてしまっただろう。

 ビニールテープで刃が覆われているので鋭さが無い。だが小さい刃なので、掌に包んでしまえば隠すのは容易だ。その時に自分の体を傷つけなくて済む。

 縛られているため、ほとんど指先で摘まんでいるだけだ。よって力も入らなかった。こればかりは、根気よく同じところを鈍った刃で擦り続けていくしかないようだ。

 勇士は後ろ手に縛られたまま、ジリジリと紐へ挑み始めた。



 昼食と夕食も、同じようなシステムで口に詰め込まれた。

 目を盗んで少しずつ紐へ傷つけていくが、一向に切れる気配はない。だが、階下へ連行されるときに、明日菜が紐の異常に気が付かないのは幸いだ。

 まさか勇士の手の中に刃物が握られているとは思っていないのであろう。後ろ手に縛っている手をチェックすることも無かった。

 今日も風呂に入れず、ベッドに縛り付けられた。

 手の動きを悟られないように、ゆっくりとベッドの中でも続ける。椅子で小さな本を開いている明日菜の様子に変わりはない。

 と、ふいに彼女が顔を上げた。驚いて大きく肩が動きそうになったところを、意志の力で押しとどめる。

 枕元のデジタル時計に明日菜の視線が走った。

「あ、キララの散歩に行かなきゃ」

 ふうとため息が出るところだった。勇士は一瞬寝たふりをしようかと思ったが、そこまでの演技力を自分に期待する事はせず、明日菜に話しかけることにした。

「キララの散歩か。今日はドコまで行くんだ?」

「んー? 今日も公園かなあ。大丈夫でちゅよ。すぐに帰ってきまちゅから」

 立ち上がって勇士を見おろしてニッコリ。勇士としては、時間をかけてきて欲しいところだが、いまの台詞でどう誘導していいか分からなくなった。

(キララのために時間をかけろって言ったら、疑って早く帰ってきそうだし。かと言って早く帰ってきてなんて言ったら、三分ぐらいで帰ってきそうだ)

 結局、何にも言えずに見上げていると、明日菜の方から手札を切ってくれた。

「おにいちゃん、ついでに、お風呂入ってきても大丈夫?」

「は? 風呂?」

 自分も入っていないが、うかつな事を言うと、またどんな辱めを受けるか分からないので、ただうなずくだけにした。

「おにいちゃんは、びょーにんだから、我慢するんでちゅよ」

(あ、そういう設定なのね…)

 納得した勇士は、なるべく自然な声になるように努力しつつ、明日菜に告げた。

「風呂に入らないと、キョウコと同じになっちゃうぞ」

 こんな事態になる前の恭子は、風呂と縁遠い生活をしていたので、近づくと体臭が鼻を刺激した。それを思い出したのか、明日菜は自分の肩のあたりを嗅ぎ、心配そうに訊いてきた。

「アスナ臭う?」

「いや…」

 離れているから正確なところは分からないが、正直に言うことにする。

「まだ大丈夫そうだけど」

「じゃあ、キララの散歩した後に、お風呂入って来るね」

 明日菜は半分スキップを踏んだような足取りで、部屋から出て行った。

「さてと」

 明日菜の足音が階段へ消えて行ったのを確認して、勇士は気合を入れ直した。キララの散歩に一五分、入浴に一時間といったところか。

 この時間を除いて、自分の体を縛っているビニール紐を切断するチャンスはない。

 希望を感じつつ、指を動かし始める。

 指先に集中しようと目を閉じると、霧の中であった老人の顔が浮かんできた。

「神さま。俺は生き残ってやるぜ」

 あと二日。そう、あと二日なら、ここから出て泊まるアテが無くても、野垂れ死にはしないだろう。



 結局、明日菜がキララの散歩をして、さらに入浴して帰ってきても、勇士を縛っているビニール紐は切れていなかった。

 だが、視界に入っていなくとも分かる。切れ目はだいぶ深く入っているはずだ。次に上半身を起こして、背中側を見られたら、確実にバレてしまう。

 ベッド脇に置いた椅子で、今夜も明日菜は、小冊子を読みつつ勇士を看病する態勢であった。

 さすがに派手に動くことはできないが、ゆっくりならば指先を動かし続けることができた。これは徹夜を覚悟して、ビニール紐の切断を続けた方がいいだろう。

 タイムリミットは、明日菜が朝食を完成させるまでだ。

 深夜一二時ごろに、明日菜は座ったままで舟を漕ぎ始めた。これがインフルエンザかなにかで、本当に勇士が寝込んでいるなら、感動できる兄妹愛であった。

 寝た明日菜を起こさないようにしつつも、勇士は大胆に手首のスナップも使って、カッターナイフの刃を動かし続けた。

 段々と稼働範囲が広くなっているような気がする。その割に、上半身を締め付ける具合が変わらないのは、何重にもグルグル巻きになっているからであろう。

 そして、その時はやってきた。

 確実にブツリという感触が手に伝わり、心なしか上半身の締め付けが緩んだ。

 試しに大きく息を吸うと、吸った分だけ拘束が緩み、体に自由が生まれた。

 だが、まだ明日菜は枕元にいる。昨日までの行動パターンを思い出し、いまは逃亡の時期でないと思った。

 息を潜めること三時間。ふと明日菜は瞼を開くと、「うーん」と可愛らしくノビをした。

 勇士は慌てて寝たふりである。

 その狸寝入りは、どうやら成功したらしい。明日菜は部屋を出て行くと、表からキララの興奮する声が聞こえてきた。

 朝の散歩の後に、食事と決まっている。明日菜は日の出前にそれを始めるのが日課になっていた。

「おはよ、キララ。じゃあ、行こっか」

 東京都はいえ、日の出時刻は静寂に包まれる。外でキララに話しかける声まで聞こえたほどだ。

 それを耳にして、勇士は両腕に力をこめた。

「ふん!」

 腕の自由度は広がるが、それだけである。まだ後ろ手に縛られているのとそう変わらない状態だった。

 よっぽどグルグル巻きにした回数が多かったと見えて、上半身とビニール紐の間で発生する摩擦で、解けやしなかった。

「ち、くそ」

 さらに勇士の体をベッドに縛り付けているビニール紐もあるのだ。早くしないと明日菜が帰ってきてしまう。

 五度目の挑戦で、やっと大きくブツリという頼もしい音がし、勇士の両腕が自由になった。今度は、その上から縛り付けている方のビニール紐に取り掛かる。

 押したり引いたり、手に残っているカッターナイフの刃を押し付けたり、ここまで来て失敗は悪夢のようだ。

 と、遠くからキララがはしゃぐ気配が近づいてくる。もう時間がない。

 泣きそうになりながら、勇士は作業を続けるしかない。

 玄関が開かれ、すぐに閉じられた。

「キララ。待てだよ。待て」

「くぅ~ん」

「よし! おあがり!」

 ガツガツ。

 どうやらキララの食事タイムも終わったようだ。

 それから再び玄関が開いて、明日菜の気配が階段に近づいてきた。

「よしっ!」

 勇士の努力は報われた。ベッドに縛り付けている方のビニール紐は、切断できなかったものの、大きくずらすことに成功していた。

 紐をくぐりぬけ、ベッドから抜け出す。カーテンをガッと開くと、朝日に目が眩んだ。

「おにいちゃん、朝だよ」

 優しく声をかけながら、明日菜が部屋に入って来た。それと同時に、勇士はドア以外で唯一出入りができそうな、窓を大きく開けたところだった。

 窓枠に足をかけた勇士の背中に、明日菜の悲鳴のような声がかけられた。

「おにいちゃん!」

 半分振り返ると、手には愛用のオタマが握られていた。

「おにいちゃんには。外の世界は必要ないって、アスナは言ったでしょ!」

 振り回されたその金属製の棒は、勇士の脳天に命中した。あまりの衝撃に目の前が暗くなり、そしてそこでバランスを崩した。

 勇士はしばしの浮遊感を感じた後、とんでもない痛みを首に感じた。

 そして顔に硬い感触を感じたまま、パニックを起こしたキララの鳴き声だけが聞こえ、そして段々と聴力も失われていった。



「…次のニュースです。今朝六時ごろ東京都××市の路上から、『人が落ちてきた』という通行人からの通報が複数あり、警察官が確認のために駆け付けたところ、近くに住む高校生の小野勇士さん十五歳が、道路上に倒れているのを発見しました。小野さんはすぐに救急車で病院へ運ばれましたが、病院で死亡が確認されました。小野さんが、自宅二階から突き落とされるところを、複数の人物が目撃しており、警察が一緒に暮らす中学生の妹に訊ねたところ、これを認めたため、警察署に保護しました。妹には錯乱状態も見られ、少女の精神鑑定も視野に入れて慎重に捜査する模様です。…次です。町の銀行に、新しいマスコットが生まれました…」



 厚い霧の中を歩いていくと、テレビのニュース番組のような音声が聞こえてきた。

(まただ…)

 脱力感に包まれた勇士は、ちゃんと真っすぐついている首の根元を確認した。

(さすがに、もう神さまとはいえ…)

 諦めのような物を纏いながら、足取り重く、前方の暖かい光の方へ歩いて行った。

 やはり、なにかの石碑のような大岩が見えてきて、その前に白い服を着た老人が立っていた。

 鋭い目元に、銀色の長い髪と髭。記憶のままである。

 穏やかに見つめてくる視線は、どこかガッカリしたような感情が込められており、勇士が彼の前に立つと、長い髭に包まれた口元を開いた。

「おお勇士よ、死んでしまうとは情けない」

「はい」

 さすがに素直に認める気になった。なにせこれで四回目。しかも今度は一緒に育ってきた妹に、である。

 肩を落とした勇士は、それでも首を上げて相手を見た。

「オレは、一週間後に死ぬんじゃなかったのか?」

 泣きそうな声が出た。

「わしゃ言ったはずじゃ」

 噛んで含めるように彼は言った。

「一週間の間に、死なないように努力するのじゃぞ、と」

「だからって、アスナにまで殺されるなんて」

「まあ前から、お兄ちゃん子ではあったがの」

 老人の左手が動いた。霧の表面を撫でるような仕草をすると、霧が粘土のように均され、そこが鏡のように変化した。やはり、どこかのテレビ局のニュース番組が映し出された。

 勇士が見慣れた町並みが写っており、カメラがアスファルトで舗装された道に寄って行く。するとそこに赤いシミができていた。

 後ろに写っているのは間違いなく我が家である。

 見慣れない報道陣に怯えているのか、家族がいなくなった家の前にある犬小屋から、愛犬が半分だけ顔を出していた。

「ああ、キララ」

 その悲し気な視線は、テレビカメラと不思議な霧の鏡を通して勇士を見ているようであった。

「そうか、オレ…。死んじまったのか…」

 ついに膝をついてしまう勇士。

「また、自分の死体が見たいかの?」

 その質問に、力なく首を横に振る。そんな勇士に老人が語り掛けた。

「さて、勇士よ」

 老人は手の一振りで映像を消した。

「若くして死んでしまったオヌシであるが、やり直したいとは思わんかね?」

「え?」

 勇士は、神さまを見上げるように顔を上げた。

「オレ、まだ生き返ることができるのか?」

「ダレが、これで最後と申した。オヌシは捨て犬だったあのコを助け、世話をしてやるほど優しい者。それを一度きりの失敗で死なしてしまうほど、わしゃ冷たくはない」

 胸を張る老人に、後光のような物を感じた勇士は、跪いたまま手を合わせた。

「あ、ありがとうございます」

「それで?」

 あくまで優しい態度のままで、彼は勇士に訊いた。

「どうする? 一週間やりなおしてみるかね?」

「でも…」

 再び俯いてしまう。

「もう、どうすればいいのか…。オレにはわからないよ」

「勇士よ」

 ふわっとした気配がして、勇士の肩に手が置かれた。見れば老人が片膝をついて、彼の顔を覗き込むようにして、微笑んでいた。

「オヌシには、捨て犬だったあのコを助けた『愛』があるじゃろう。その『愛』を、みんなに注げば、こんな下らない目に遭うことは無いと思うがの」

「あい…」

 段々と勇士の瞳に力が戻って来た。

「わかりました! 今度は、誰というのでなく、みんなと一緒に生きます! よろしくおねがいします!」

「よろしい。いい返事だ」

 微笑みが大きくなると同時に、再び勇士の視界は霧に包まれた。

 どこからか彼の言葉が聞こえてきたのが最後だった。

「一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ」




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