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木曜日



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 勇士は明るい明日奈の笑顔をまじまじと見た。

「どしたの?」

 呆然としている兄に、アスナが不思議そうな顔をして見せた。

「いや、今日は何曜日だったっけか?」

「ヤだなあ、月曜日だよ。一週間が始まるんだから、元気よく行きましょう」

 励ます言葉を口にしながら、明日菜は部屋を出て行った。

 勇士はベッドから起き上がると、クローゼットの扉についている鏡を覗き込んだ。

 やはり鏡に映った自分の顔が、霧の中の老人に入れ替わった。

《勇士よ。一週間の間、死なぬようにするのだぞ》

 鏡の中から老人は勇士に告げると、微笑みを見せて消え失せた。

「また月曜日か…。今日を無事に過ごしても、明日キョウコに、明後日はブチョーに殺されるのか…」

 額に浮かんできた脂汗を拭い、しばし呆然と立ちすくんだ。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

 階下から明日菜の催促して来る声が無かったら、一日そうしていたかもしれない。

「おう!」

 声だけは元気よくこたえ、勇士は腕組みをしてこれから起きることを順番に思い出してみた。

(まだ、なんとかなるな。生き残ってやる)

 制服に着替えた勇士は、鏡の中の自分を睨みつけながら決意した。



 それから勇士は記憶の中にある月曜日を再び経験することになった。

 毎日同じような朝食は、まあ置いておくとして、明日奈が鍵をかけているときに顔を出した恭子に、やはり構えのような物を取ってしまったのは、仕方のないことだろう。

 登校して、階段室で刀剣研究部の部長である咲弥に出会ったのも、記憶にあるままだった。彼女と顔を合わせて、一瞬だけ殺意のような物が芽生えたが、それは何とか理性で抑え込んだ。

 ただ「今日、部活はどうする?」と訊かれた時に、少し悩んでしまった。

(たしか『白露』を説明するチラシを作りに、明日ウチに来ることになるんだよな。そしたら、また場所を覚えられて、襲いに来るかもしれない。ここは…)

「すんません。今日は、ちょっと…」

 具体的な用事を思いつかなかったが、言葉を濁したことで何か勘違いしたらしい。咲弥は慌てた様に、胸の前で両手を振った。

「んんん、いいのよ。そうよね、小野くんにばかり頼っていてもダメよね」

 おそらく『白露』を借りる話しをしたかったのだろうが、それで首が刎ねられるとなると、話しは違ってくる。借りる話し自体がポシャッてもらいたいぐらいだ。

「すんません」

 重ねて頭を下げる勇士に、咲弥が逃げるように横移動しながら言った。

「大丈夫、なんとかなるから」

 そのまま人ごみの中を速足で去っていく。あれで自分を殺した女でないならば、万難を排して手伝ってあげたくなる、そんな後ろ姿だった。

 教室へ上がると、隣の席の修也が、同じ雑誌を読んでいた。もちろん交わした会話まで同じである。

 ついでに言えば、昼飯を修也と学食に行ったのも同じである。

「あのさあ…」

 前にも言ったことがあるセリフだが、違和感なくスラスラと出てくる。もちろん心からの言葉であるからだ。

「シュウも見た目はいいんだから、彼女の一人でも作ったらどうだ?」

「もぐ?」

 今日もコロッケを喉に詰まらせそうになる修也。味噌汁で流し込む姿も変わらなかった。

「ボクが彼女つくるなんて、無理無理」

 とんでもないとばかりに首を振る。

「そうか? まるでペットのように可愛がってくれる女子ぐらい、探せば出てきそうだけど」

「ユウジくんまでそんなこと言うんだ…」

 絶望に顔を歪ませる修也。

「ちげーよ」

 慌てて勇士はフォローした。

「ほら、大人な女性なんかは、シュウみたいな男の子の面倒見たいなんていう欲求があるんじゃないか? そういう人なら、シュウの面倒を任せられるかなって、思ったんだよ」

「ユウジくんは、ボクがキライなの?」

 潤んだ瞳を向けてきた。ちなみに男のはずだ。

「バーカ。好きでもないダチとツルむかよ」

 勇士の言葉に、修也の答えは少し遅れた。見れば頬を染めて笑顔になっていた。

「てへへ。好きって言ってくれた」

「いや、友人としてだけど?」

 離れた位置から二人を観察していた、特殊な趣味をお持ちらしい女子生徒のグループが、歓声を上げる前に言っておく。

「うん、わかってるよ」

 まるで思春期の女子のごとく、軽く握った拳の向こうへ表情を隠す修也。気になった勇士は、確認することにした。

「何回も聞いたと思うが。シュウも女が好きなんだよな?」

「そうだよ? 当たり前じゃないか、ボクは男の子だよ」

 不思議そうに首を傾げる修也。

「だって男同士って、ああいう時はお尻なんでしょ」ブルルと身もだえ「そんなバッちい」

「聞くたびに安心するぜ」

 ホッとため息をついてから、自分を襲って来た咲弥を思い出して訊いてみた。

「じゃあ、ブチョーなんかどうだ? 大人びたようで、オマエに似てどこか天然なトコがあるし」

(それに、シュウに構ってくれれば、少なくともオレが襲われることもなさそうだ)

 続けて思ったことは、もちろん口に出さなかった。

「部長さん?」

 キョトンとした顔をする修也。

「あれ? いいの?」

「いいのとは?」

「だって、部長さんのこと狙っているのはユウジくんでしょ?」

「ぶほっ」

 問われることを三秒前に思い出していたが、勇士は味噌汁を吹いてしまった。

「あれ? ちがうの?」

「んー」

 重ねて聞かれて、勇士は腕組みをした。目を閉じて考えてみる。瞼に浮かぶのは、襲って来た時の鬼のような表情であった。

「いや。あんな感じの人は…」なんと表現しようか、ちょっとだけ迷って「裏表ありそうじゃん?」

「そんな人をボクに薦めたんだね」

「うっ」

 そうして昼食も無事に済み、午後の課業も平穏に過ごすことができた。

 ついでに、そんなところまで同じでなくてもいいと思うのだが、放課後になって自分のバッグのゴミをまとめて投げたら、クラスメイトに当たってしまったのも同じだった。

「さてと…」

 学活も終了し、勇士は荷物を纏めるのに手間取っている修也を見ながら、独り言ちた。

「これから、どうしようかねえ」

 学生会館へ顔を出したら、おそらく『白露』が借りられるようになった話になる。たしかチラシを作るのは勇士が言い出した事だったが、もし自分が提案しなくても、修也や咲弥の口から同じ事が飛び出すかもしれない。そうなったら、結局同じように編集作業を小野家で行うことになり、さらにその行く先は、恭子もしくは咲弥に血祭りにされる未来しかない。

「君子危うきに近寄らず、か」

「え?」

 やっと荷物の整理がついたらしい修也が、勇士の呟きを聞きつけた。

「なに?」

 小さく驚いた五歳の幼女のようなキョトンとした顔をして見せる。男だけど。

「いや、なんでもない」

「ごめんね、またせて」

 修也が、バッグを肩にかけて立ち上がった。

「どうしたの?」

 なかなか立ち上がろうとしない勇士を訝しんで、修也が眉を顰めた。

「ああ、いや…」

 言葉を濁らせておいて、先程考えていたことを繰り返した。

(君子危うきに近寄らず。神さまに硬派で行くって言ったんだし)

 じっと修也を見つめると、何を勘違いしたのか頬を赤く染めた。まるで想い人に見つめられた少女のようだ。男だけど。

(そう。こんな顔だがシュウも男。今週は、男同士の付き合いを優先させてみよう)

「なあ、シュウ」

「なに?」

「今日は部活の方へ行くのは止めて、オレとゲーセンでも行ってみないか?」

「ええっ」

 だいぶ驚いた顔をする修也。

「どした?」

 あまりの驚き具合に、逆に訝しげに首を捻ると、ちょっと眉を顰めた修也が、非難する声になって言い返してきた。

「先週、ボクが新しい筐体が出たって言った時。『あー、また今度な』って袖にしたくせにぃ」

 ちょこっと勇士の声真似を挟んだりして、デートをすっぽかされた女の子のような事を言う。男だけど。

「そうだったかー?」

 勇士の感覚で先週とは、他の人間よりもさらにもう一週間ほど日にちを挟んだ時の彼方の話しであった。でも切れそうな記憶の糸を手繰ると、そうこたえたことがあった気がした。

「まあ、そんな顔をするなよ」

 膨れてみせる修也へウインクを飛ばしながら勇士。

「今日がその『今度』ってやつさ」



 放課後に予定のない生徒たちに紛れるように、バス停へ向かう。いつもの路線番号をサボに掲げているバスをやり過ごし、私鉄の駅へ向かうバスに乗り込んだ。

 下校時間なので、車内は同じ制服で混みあっていた。

「それでね」

 吊革につかまって、荷物を胸の前に抱いた修也が、キラキラした目を勇士に向けてきた。

「新しい筐体なんだけど…」

 それからバッグのチャックを器用に開けると、中から雑誌を取り出した。表紙を見る限りでは、今朝開いていた電子工作の雑誌と同じ物のようだ。

「フューチャーロボっていうゲームで、普通のところだと、コレが置いてあるんだけどさ」

 片手でカラーページを開くと、修也がやりたいらしいそのゲームが特集されていた。

 基本は対戦型のレースゲームと同じような、大型で乗り込むような筐体である。白を基調にところどころ紫のラインが入った、なかなか未来的なデザインに、ラリーカーにでも装備されているようなシートが乗っていた。

 ただハンドルは無くて、戦闘機に採用されているサイドスティック方式で、シートの両脇からレバーが生えていた。

 それだけじゃない。車ならばハンドルがある位置に、三本目のジョイスティックが生えており、さらに足元にはペダルが三枚もあった。

 正面には液晶モニター。その下にはトラ模様に囲まれた四角いスイッチがデーンと座っている。

 さらに三本あるジョイスティックには、それぞれ二つずつボタンがついていた。

「げげ」

 レバーとボタンが数個だけの筐体を想像していた勇士は目を丸くした。

「本格的じゃないか」

「本格的なんだよ」

 修也がニコニコしてこたえた。まるで今夜の献立がハンバーグだと告げられた女子小学生のような笑顔だった。男だけど。

 修也が横から雑誌の写真を指差して、ざっと操作方法を教えてくれた。

 機体の移動は、基本的に左右のジョイスティックで行う。三本目のジョイスティックは、ロボットが持っているパルスピストルの照準に使うらしい。

 三つあるペダルの内、左右のペダルは、機体の回転を司るらしい。真ん中のペダルはジャンプだ。

「でも、これってさあ…」勇士は必勝法を見つけたような気がして修也に確認した「モニターが前にしかついていないから、後ろに回られたらアウトじゃね?」

「それはね」

 よくぞ訊いてくれましたとばかりに修也は目を細めた。

「機体にAIが搭載されていて、ここの…」とヘッドレストの左右にある黒い部分を指差した「ここのスピーカから声が出て『後ろに回り込まれた』とか教えてくれるんだ」

「この、いかにも自爆用みたいな、でかいスイッチは?」

 モニターの下。照準用のレバーの前に、トラ模様で囲まれた四角い大きな押しボタンが気になった。

「普段はスタートスイッチ」

 何でもないとばかりに修也。

「でも、機体が大破した時は、脱出用のエマージョンイジェクトスイッチ」

「なんじゃそりゃ」

 ゲームセンター内でシートが派手に打ち上げられる場面を想像してしまった。座面の下に装備されたロケットに点火され、凄い勢いで上昇。そしてすぐに天井でゴーンだ。

「このね…」

 ゴソゴソと修也は荷物を探り、自分のサイフを取り出した。そこから硬質のカードを取り出すと、勇士に見せてくれた。

 表面に「パイロットライセンス」と書いてある。

「フューチャーロボで遊ぶときは、このパイロットライセンスを別に買わないとできないの」

「不便だな」

 眉を顰めていると、修也はとんでもないとばかりに目を見開いた。

「このカードに、パイロットとしての戦歴も記録されていてね、それまでのスコアで、ボーナスが貰えたりするんだ」

「へー」

「で、脱出に失敗すると、データが消去されちゃうの。面白いでしょう」

「うわ。それって…」勇士は、トロそうな修也を見て素直に言った。「シュウなんか、何度も戦死しているってことじゃん」

「え? ボク?」

 キョトンとした顔をしてみせた。

「ボクは、まだ一回も死んだことないよ?」

「そうか、そうなのか」

 安心したように勇士は呟いた。

「シュウが死なずに遊べるゲームなら、それなりに楽しそうだ」

「あ~」

 プンスカと頬を膨らませた修也が眉を顰めた。まるで恋人におしゃれを褒められなかった少女のようだ。男だけど。

「ボクだってクリアできるゲームの一つや二つぐらいあるよ」

「怒るな怒るな」

 愛想笑いで誤魔化しながら勇士は修也をなだめにかかった。

「ほら。オレはこの、ひゅーちゃーろぼっと、だっけ? が、初めてだから、ちょっと不安でさ」

「そんなに難しくないよ」

 ニコッとして機嫌を取り戻した修也は、まだ勇士が持つ雑誌のページをめくった。

「それでね。ボクが乗りたいのは、こっちの筐体なんだ」

「これは…」



「をえ。まだ、きぼちわるい」

 放課後、結構遅くまで修也とゲーセンにいた勇士は、小野家の居間に置いてあるソファに転がっていた。まだ腹の中がでんぐり返っている気がした。

「コラ、おにいちゃん」

 かわいいエプロンをつけた明日奈が、オタマを持ったままやってきた。

「明日菜が作ったゴハン。ろくに食べなかったじゃない」

 時計は進んで午後八時。小野家では夕食がすんで、ホッとする時間帯である。いつもならまったりと過ごす時間だが、今日はろくに食事ができないほど、内臓が不調であった。

「おにいちゃんがゆーこと聞かなかったら、コレでポコンってやるからね」

 明日奈が手にしたオタマを振りかざす。

「オイオイ、やめてくれよ」

 いちおう金属製であるから、明日奈が振り回してもコブができるぐらいの威力はある。そんな目にあいたくない勇士は、慌ててソファに座りなおした。

「なんかあったの?」

「ん? まあな」

 つい苦笑いが出た。

「今日、ゲーセンに行ったんだけどさあ…」

「あ、悪いんだ。校則で禁止でしょ」

「クラスメイトとの、つきあいだよ。それに禁止されているのは中等部までで、高等部じゃ特にダメってなってないぞ」

「ふーん」

 それでも納得いっていないのか、オタマごと腕組みをして睨みつけてくる。

「で? なんで、そんなに気持ち悪そうなの?」

「それがな…」

 勇士は明日菜に説明する事にした。まあ、愚痴の様なものだったのかもしれない。

 修也がやりたがっていたフューチャーロボの新しい筐体というのは、『フューチャーロボ三六〇』という名前だった。

 そう、三六〇…。なんと座席がゲーム内のロボットの挙動に合わせて、三六〇度グルグル回る仕様なのだった。それが横回転だけでなく、縦回転もする派手な筐体であった。

 横を振り向けば横に回転。走れば加速度が感じられるように、座席が傾き、そして蹴られたりなんだりでロボットが転がると、縦回転まで入った複雑な動きで操縦者を振り回すという代物だったのだ。

 すでに動かない方の筐体で戦歴を重ねていた修也は、ほとんど被弾することなく、戦う相手が、コンピューターが操作するザコや、他のプレイヤーが操作するロボットでも、次々と仕留めていっていた。が、初心者の勇士には無理だった。

 遠くから撃たれて転がるから始まって、格闘戦に持ち込まれて殴られるし蹴られるし。その度にコクピットが後ろへグルグルと派手に回った。

 最後には、三半規管の限界が来て、トイレで胃液を吐いてから、帰ることになった。

「じゃあ、まだ気持ち悪いの?」

 心配げに明日奈が顔を覗いてきた。ご飯を残すなと怒ったことを反省する顔だ。

「いや、ちょっと疲れただけ…」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

(そうだ。今日はキョウコを探してくれと頼まれる日か)

 返事が無いからだろうか、もう一度チャイムが鳴らされた。

「はあい」

 明日奈がこたえてしまう。勇士は腹をさすりながら明日奈に言った。

「代わりに出てくれるか?」

「うん、いいよ」

 オタマを戻す時間だけ待ってもらって、明日奈が玄関の方へ行った。玄関の扉を開けると、散歩を催促するキララの啼き声がリビングまで聞こえてきた。

(ブチョーばかりに気を取られていたが、キョウコにも気を付けないと。またバールで突き刺されちまう)

 おそらく月子に明日奈が、恭子が来ていないか訪ねられている玄関の方向を見て、思考をフル回転させる。

(前回、ここで探しに行かなかったのは、おそらく正解のはずだ)

 決断したタイミングで、明日奈が玄関から戻って来た。

「なんだった?」

 いちおう新聞の勧誘かもしれないので、曖昧に訊いてみる。

「うん、キョウコちゃんのオバサンだった。またいなくなったんだって。で、ウチに来てないか~って」

「そうかー。で? オバサンは?」

「もう少し探してみるって行っちゃったよ。なんか用事あったの?」

「いや…」

 そこで勇士は唾を飲み込んだ。なるべく自然になるように明日奈へお願いしてみる。

「あのさアスナ。オレ、調子悪いんで、キララの散歩代わってくんない?」

「えーっ」

 眉を顰めた声を上げる明日奈。

「たのむよ」

「もー、朝はアスナで、夕方はおにいちゃんって決めたじゃんー」

「な」

 拝み倒すと、少し膨れた明日奈はエプロンを外し始めた。

「その代わり、洗い物やっておいてよね」

「まかされた」



 洗い物も終わって、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

 そのころにはやっと内臓も元の位置へ収まって来た。

「今日は色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(よし…)と勇士は思う(ブチョーはなるべくスルーして、キョウコとは距離感に気を付けて行けば大丈夫だろう。この一週間だけだ、そうすればいつも通りに戻れるはず)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

「今度こそ死なないぞ」

 ポツリと漏れた自分のセリフに背筋へ震えがきた。

 目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

《一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ》

 幻聴だろうか、再び声が聞こえてきた気がした。

「わかったよ、神さま。おやすみなさい」

 またあと六日。勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 制服に着替える勇士を置いて、明日菜は先に一階へ降りて行った。勇士は制服に着替えるために、クローゼットの扉を開いた。

 その内側に取り付けられた鏡には、あまり顔色の良くない自分が写っていた。

(落ち着け、オレ)

 自分を励ますように思考を巡らせた。

(前回は、今日までは無事に乗り切ったじゃないか)

 ネクタイを締める手に、力が入った。



 それから勇士は記憶の中にある火曜日を再び経験することになった。

 毎日同じような朝食は、まあ置いておくとして、明日奈が鍵をかけているときに顔を出した恭子に、また構えのような物を取ってしまった。

 昨日、なるべく接触する事をさけたおかげか、今朝も恭子は薄汚れた姿で、片手にキャベツという理解不能な姿で現れた。これならば、今夜襲われることもないであろう。

 登校して、階段室で刀剣研究部の部長である咲弥に出会ったのも、同じであった。

 もちろん、今日も歯切れの悪い返答をしておく。今にも泣きそうな顔をされたが、こちらは命がかかっているのである。そんな女の武器に負けていられなかった。

 教室に上がると、隣の席の修也が、いつもと違う物を読んでいるのも同じであった。

「なに読んでんだ?」

 勇士に訊かれ、修也はコピー用紙をホチキスでまとめただけの小冊子を、机の上に広げてみせた。

「ん? これのこと?」

 持ち上げて表紙を見せてくれる。安物のプリンターで出力したらしく、ドットがわかる字体で、何か横文字が書いてあった。

「え~…」

 英語はあまり得意では無いのだが、なんとか読めそうだ。

「きんぐおぶてーる?」

「King of Tearだね」

(あ、そうだった)

 修也に教えてもらって思い出した。

「これは、ボードゲーム研究部が作ってる、オリジナルのテーブルトークゲームなんだ」

「ボードゲーム研究部かあ」

 勇士以外にあまり人付き合いしてなさそうな修也が、自分の知らない団体と関係している。嫉妬する程のものではないが、すっきりしないのも事実だ。

「うん」

 コクリと女の子らしく小さくうなずいた、男だけど。

「クラスの左右田くんが、たまに一緒に遊ぶんだって。本人は『永い後日談のネクロニカ』がやりたいみたいだけど、たまに付き合いで別のルールでも遊ぶんだって」

「それに、なんでシュウが噛んでくるんだ?」

「うん、それがね。この『キング・オブ・ティア』はね、文化祭で発表する予定なんだって。それでルールに穴がないか、いまはサードパーティに確認してもらっている期間なんだって」

「あー、それで」

 話の先を思い出した勇士に、うなずきが返ってきた。

「うん。ボクも協力してって頼まれちゃってさ」

「また押し付けられたりしたんじゃねーだろうな」

 何にでも弱気な修也である。嫌がる彼に、掃除当番やら余分な仕事を押し付ける輩は掃いて捨てる程いた。

「やだなあ」

 ニッコリと修也。

「左右田くんはセンスとスタイルとアクションは変だけど、とてもいい人だよ」

「シュウも言うようになったな」

「そうかな?」

「それに、そんな変なヤツって?」

 今日じゃない今日にも紹介されたはずだが、クラスの中を探すように視線を上げた。

「彼だよ」

 修也は含むことが無さそうな自然な感じで、教室の後ろの方を指さした。

 指の延長線上には、昨日教室で勇士が紙屑を当ててしまった、クラスメイトが席に着いていた。始業前のごった返している室内で、こちらの会話が聞こえるわけが無いのだが、全てを把握しているかのように、気持ち悪い笑みを薄く浮かべて二人を見ていた。

(あ~、そうだったアイツか。まあ無理やりじゃないんだったら、いいか)

 ちなみに二人を見ているのは彼だけでなく、窓際の女子グループも熱い視線を送ってきていた。勇士の記憶では、彼女たちはマン研の部員だったはずだ。

 そっちの変な期待を寄せる視線を無視して、勇士はきいた。

「それで? そいつはどんな具合なんだ?」

「そうだね」

 眉を顰めて修也は薄いルールブックを開いた。

「どちらかというとテーブルトークゲームというより、ファンタジーのキャラクターを使った戦略シミュレーションって感じかな。ルールは簡単すぎて、遊ぶには物足りないんじゃないかな。戦闘は戦略シミュレーションのようにヘックスを切ったボードでやるようになっているんだけど、判定自体は省略されていて…」

「わかった、わかったから」

 蛇口を勢いよく開いたレベルで寸評を始めた修也に、とりあえず落ち着くように手を振って見せる。

(だが、待てよ)勇士は思い直した。このままだと、刀剣研究部の方へ関わらなければならないが…。

「それって、オレも参加できるのか?」

「え…」

 不安げな目になった修也は、困ったように左右田の方を見た。その様子は、まるで二人の男からデートを誘われた少女のようだ。男だけど。

 左右田は、こちらの会話が耳に入る距離でないのに、すべてを理解しているようにニヤリと嗤った。はっきり言って不気味である。

 だが、それだけで修也は左右田が言いたいことが分かったらしい。

「大丈夫みたいだね。はら、左右田くんも大歓迎だって」

「え…」

(あれが大歓迎している態度か?)

 勇士はそう感じたが、まあ自分よりは彼と付き合いがあるらしい修也の言うことを信じることにした。

「じゃあ、このルールブック貸すね」

 いままで手にしていたコピー用紙を綴じた物を差し出してきた。

「いいのか?」

「うん大丈夫。こんなに薄いでしょ。ボクは、もう全部読んじゃった。あとは昼休みにでも、左右田くんとちょっとやってみれば、良いところと悪いところがハッキリするんじゃないかな」

「じゃあ昼までに読んでおかないとダメか」

 何の気に無しに勇士がそう言うと、修也は少し潤んだ瞳になって身を乗り出してきた。

「ごめんねユウジくん、なんかつきあわせちゃって」

 修也が見つめてきた。男だけど。そして、それを見て窓際の女子グループが黄色い歓声を上げた。

「いや、別にいいけどよ」

 勇士の返答に、キラリとする物がある笑顔で修也は言った。

「ボクたち、トモダチだもんね」

「ボクじゃなくて、オレな」

「あ」

 わざわざ口に手を当ててから言い直す。

「お、オレたち、と、友だちだも…、からね…、な」

「じゃあ、よろしくな」

 さっそくページを切る。すると、ほとんどが表と計算式ばかりだ。

「うっ。こんなのが『簡単』なのか?」

 さすがに、自分でロボットを作っているだけあって、修也の成績はいい方であった。それを失念していた勇士は、不安そうに彼を見た。

「大丈夫だよ。やさしく教えてあげるから」

 まるで宿題を一緒にやろうと誘ってくる女子中学生のような笑顔で言ってくる。それでふといつもの疑問が浮かんできた。

「何回も聞いたが、シュウも女が好きなんだよな?」

「そうだよ? 当たり前じゃないか、ボクは男の子だよ」

 不思議そうに首を傾げる修也。

「そうだったらいいんだ。そうだったらな」

 勇士が窓際へ視線を流すと、いまだに女子グループが期待を持った視線でこちらを見ていた。

 勇士は大きなため息をついた。



 午前中の授業は何事もなく終わり、昼休みとなった。一緒に昼飯を学食で食べ終わって、これだけは飲み放題のお茶を傾けていると、修也が不安そうに訊いてきた。

「どお? ルール読んだ?」

「ああ」

 授業の合間にある休み時間だけでなく、じつは授業中も内職するように読んでいた。

 基本は、パーセント判定である。攻撃するにも防御や回避するにも、すべて一〇面ダイスか、一〇〇面ダイスを使用しての判定となる。

 特徴的なのは、職業の多さだ。普通のTRPGにある戦士(ファイター)だけでなく、弓兵(アーチャー)など、三六種類も職業があった。それぞれに装備できる武具防具が細かく決められており、それによって色々な判定に修正がつくのである。

 それだけ聞くと、なんだか判定が面倒臭そうな気もするが、必要な計算はキャラクターを作った時にやってしまい、実際ダイスを振る時は成功か失敗かの判定だけに簡略化されていた。

 さらに自分の分身と言えるキャラクターは、主人(ロード)という職業で、これには装備の制限は無いようだった。ただし、こいつが死亡または戦闘不能に陥ったら負けである。

 戦闘は戦略ゲームのように六角形のヘックスと呼ばれるマスで区切ったマップ上で行われるようにされているし、たしかに修也が朝に言ったように、戦略シミュレーション寄りのゲームであるようだ。

「で? これ、どこでやる予定なんだ?」

「ここの二階の学生会館の予定なんだけど」

 そこで勇士の顔が曇った。学生会館と言えば刀剣研究部が放課後に集まる場所である。もしかしたら、最近ろくに会話してないとかの理由で、咲弥がやってくるかもしれない。

 できれば、なるべく顔を合わせたくはない。

「談話室にかえね?」

談話室とは、いつも刀剣研究部が集まる学生会館と名付けられた部屋の真向かいである。偉そうな名前がついているが、実態は学生会館と同じで、暇人のたまり場である。

「え、どうだろうなあ」

 不安げに修也が顔を曇らせた。まるで自分が手作りしたクッキーを、彼氏に試食してもらっている女の子のような表情だ。男だけど。

「左右田くんに訊いてみないと…」

 ゲームのルールでは審判役が必要ということになっていた。もし勇士と修也が対戦するということならば、もう一人必要な計算となる。

 修也が左右田と学生会館の方で待ち合わせしているなら、結局そこへ行かなければいけないのは変わらないようだ。ならば無理を言って場所の変更を願わなくても、条件は同じに思えた。

「よし、行くか」

 食器を学食の返却口へ戻し、勇士が先に立って歩き出した。お茶を飲み切れていなかった修也がワンテンポだけ遅れる。

 昼休みの学生会館は、放課後よりも混沌(カオス)と化していた。

 無秩序に散らかった机や椅子、そこで駄弁る生徒など、見かけの混沌さは変わらない。しかし、昼はここで食事を摂る生徒がいるため、各自が持ち込んだ弁当やらなにやらの臭いが混ざり合い、空間を支配しているのだ。

 そのムッとした空気に顔をしかめて室内を見回すと、一角に異様な雰囲気の一団が居た。

 平均的な生徒よりも、肥満度が高めで、肌の色は不健康的に白め。スキンケアとは無縁なのか、それとも不摂生な食事のせいか、ソバカス率高めの男だらけの集団が、窓際の一帯を占拠していた。

 身に着けている上履きなどに入っている学年色から判断するに、一年生だけでなく三年生まで、学年に関係なく集まっているようだ。

 年二回海辺の展示場で見られる人種に似ていて、勇士が近づくのを躊躇っていると、修也が追い越していった。平気な顔をしてその集団へ近づいて行く。勇士も、仕方なくその背中を追った。

「こんにちは」

 晴れやかな五月晴れのような笑顔で修也は挨拶した。向こうからも、ややくぐもった声で挨拶が複数返って来る。

 勇士は、唇に含んだらさぞ快感だろうなと思える修也の小振りな耳へ、口を寄せた。

「こいつらが、そのボードゲーム部なのかよ」

「え?」

 キョトンとした顔で振り返った。

「それを言うなら、ボードゲーム研究部ね。この人たちは、違うよ?」

「???」

 話しが分からない顔をしている勇士に、ちょっと顔を曇らせる修也。まるでデートの約束を覚えていなかった彼に怒る少女のようだ。男だけど。

「ボードゲーム研究部がサードパーティに依頼したって言ったでしょ。この人たちは、そのテストプレイに付き合うために集まった人たち」

「ああー」

 そういえばそんな事を言われていた気がする。

「やあ」

 勇士が思い出したところで、ひょろ長い割に姿勢の悪い学ラン姿の左右田が現れた。二人へ腹に一物あるような歪んだ笑顔を向けてくる。

「じゃあ、さっそく始めようか」



 ここはティア大陸。女神の涙の上に浮かぶという、うたかたの大地。そこにイノクーマ王国があった。

「イノクーマ王国って、安易じゃね?」

 大陸西部に広がる大平原。その片隅に栄えているイノクーマ王国に、ある日火急の使者がやってきた。王国の南側に広がる大森林。そこには、半神の妖精と言われるエルフたちが住んでいたのだが、昨日より悪の枢軸国オゥノゥ帝国に攻められているというのだ。

「え、オレ?」

 義憤に駆られたイノクーマ王シューヤは騎士団を派遣することとした…。することとした…。とした…。した…。た…。

「いや、自力(セルフ)エコーは要らないから」

 ということで、二人にはロードを含めて五人チームを作って、対戦してもらいます。マップはコレ。

「右と左と下、三つのお城?」

 そう。この森に囲まれた三つ目のお城には、この三人目のロードを置きます。これはエルフの女王さまということで、ボクが担当するけど、基本行動は城で防御だ。猪熊くんはコチラから、小野くんはコチラから出撃する。小野くんは三〇ターン以内にエルフの女王さまを倒したら勝利。猪熊くんは、守りきることができれば勝利。

「先生」

「シュウ。手を上げることは無いと思うぞ」

「直接ユウジくんのロードを倒しても、いいんですか?」

 それもアリ。ただ、部隊編制はルールブックの編制表を参考に、ダイスで決めてもらうから、ロードを倒しやすいユニットが味方になるとは限らないよ。

「よし。がんばっちゃうからね」

「そんな握力がサイコロの目に関係するのかねえ」

「やったナイト、ナイト、クレリック、メイジ」

 バランスがいいね。イノクーマ王国は平和でありながらも、軍備に手を抜くことは無かった。

「オレか。アーチャーにバーバリアン、シビリアン、ドルイド…って、おい!」

「なんか帝国軍っていうより山賊じゃない?」

 …。エルフの王国から、山賊団に襲われているという救援依頼が…。

「帝国からだいぶ格下げだなあ。でも、まあ、いいか」

 ちなみにシビリアンは攻撃も防御も最低だが、ロードへの攻撃にはボーナスがつくから、エルフの女王さまを巡るこの戦いでは有利だろう。

「そう聞くと、俄然やる気になって来たぜ。よし始めっか」



「どうだった?」

「うーん」

 教室へ帰る廊下で、修也が勇士の顔を覗きこんできた。

 ルールが簡略化されていることもあろうが、勝負はあっという間についた。というか馬に跨ったナイトが二騎いる時点で、機動力に大きな差がありすぎた。

 勇士の帝国軍改め山賊団たちは、エルフの森に入ったところで、修也のナイトの突撃を受け、戦線が瓦解した。

 そのままズルズルと勇士のロードが残った城まで攻め寄せられた。それでも勇士のロードは善戦した。ゲーム開始前のキャラクターメイキングにおいて、良い装備を手に入れていたからだ。

 しかしダメージを与えても、後ろに控えたクレリックが片端から治癒の魔法で回復させ、さらに離れた位置からメイジによる魔法爆撃を続けられては、引き分けに持ち込むことすら不可能であった。

 ゲームとはいえ、負けたことが気に入らない勇士は、渋面を作りながらこたえた。

「普通」

「ふつうか~」

「でも、よくまとまっているゲームじゃないかな」

 頼まれたのはあくまでもテストプレイなのだ。勝ちたかったら、ゲームが完成してから本気でやればいい話だ。

「それは、よかった」

「うわあ」

 背後から陰気な声で話しかけられて、勇士は飛び上がってしまった。振り返れば黒い学ラン姿の左右田がいた。

 まあ、彼も同じクラスなのだから、道が一緒になるのは不自然ではない。

 彼は細身の眼鏡の縁をキラリと光らせて言った。

「学園祭では、関ヶ原を再現するような規模のゲームを執り行う予定なんだ」

「あれでか?」

 たしかに判定は単純化しているので、大規模戦闘を行っても、それに見合うだけプレイヤーと判定員を数多く集めれば可能であろう。

「でも、そうなると総大将が誰になるかで、もめたりしないか?」

 勇士の指摘に、ニヤリと嗤った左右田が、何でもないような調子でこたえた。

「それは簡単だ。片方はボードゲーム研究部の部長が指揮を執ればいい」

「もう一人は?」

「今のところ、山田会長率いる生徒会メンバーに、お願いしようかと思っている」

「あ~」

 修也が感心した声を漏らした。

「それ、面白いかもしれない」

「実力だと、じつは三組に一人、とんでもない人材がいるんだけどね」

「じんざい?」

 勇士の問いにニヤリとまた返して左右田。

「あの伝説のメガドライブ版マップ四二『ドイツ』をクリアした猛者がね、いるんだ」

「なんだそりゃ?」

「わからなければ、それでいいよ」

 素っ気ない答えの後に、またニヤリと嗤った。



 そのまま午後の授業も何事もなく過ごした。

 課業が終了すれば、学校に用は無い。いつもなら刀剣研究部の活動という名目で、咲弥と三人で駄弁るのだが、今回はチラシ作りどころか、咲弥とは碌に顔を合わせていない。あの泣きそうになる横顔を思い出しながらも、勇士は今日も放課後は学生会館へ近づくことを止めることにした。

「なあシュウよ」

 また荷物を纏めるのに手間取っている修也に声をかける。

「今日も、どっか寄らね?」

「うーん」

 修也は寄り目になって考える顔になった。

「部長さんと、なにかあったの?」

「え?」

 背中に冷や汗が流れるのを感じながらも、勇士は白を切ることにした。

「なんのはなしだよ」

「今週に入って、一度も刀剣研究部に顔を出してないじゃない。だから部長さんと、なにかあったのかなあって」

 そこは高校生といえども、いつも一緒にいる男の子のことは理解しているのであった。修也も男だけど。

「いや…、まあ…」

 まさか、明日の夜に殺されるんですとは言い難い。ちょっと考えた勇士は、良い言い訳を思いついた。

「ほらアノ人、虎徹ラブの人じゃん。そばにいて、ちょっと疲れたかなあって」

「まあ、あれはね」

 修也も抱き枕をショップで買った時に一緒にいたから、その時の咲弥の狂喜ぶりは知っていた。

「じゃあ、冷却期間ってやつだ」

「まずいかな?」

 勇士が訊くと、ちょっと不安そうだった表情を、コロリと明るくした。

「いいんじゃないかな。疲れを感じるぐらいなら、無理して一緒にいなくても」

「だ、だろ。ま、まあ刀剣研究部を抜けるつもりは無いんだけど」

「じゃあ、今日はどうするの?」

 まるで夕食の献立を訊く若妻のような表情をして見せる。男だけど。

「またフューチャーロボやりに行く?」

「え…」

 思い出しただけで胃が回転したような感覚が蘇って来た。

「いや。今日は別のことをしよう」

 背中の冷や汗をさらに追加させて、勇士は声を張り上げた。

「じゃあ、なにする?」

 行先候補を潰されてつまらなそうな顔をする修也。女の子だったら、よく似合ったかもしれないが、彼は間違いなく男だ。

「そうだな…」

 基本的に勇士は無趣味な人間である。早く家に帰っても、やることと言えばゲームぐらいな物だ。かと言って、どこかに寄り道しようと誘うと、結局ゲーセンへ連れ込まれて、またフューチャーロボになりかねない。

 しばし思案する勇士の顔を、小首を傾げるように修也は見上げてきた。現役高校生らしい可愛らしい仕草だ。男だけど。

「あ、そうだ」

 修也の顔から、彼がロボットを作っている事を連想し、それが機械いじりに繋がった。

「シュウは自転車直すことできるか?」

「は?」

 キョトンとする修也に、後ろ頭を掻きながら。

「ウチの自転車が壊れててさ。自転車屋へ持って行かなきゃいけないと思いつつ、ほったらかしになっててさ」

「んー」

 困ったように眉を顰める修也。

「見てみない事には、なんとも言えないなあ」

「よし、決まりだ」



「へー、バスで通学なんだあ」

 修也が、初めてバスに乗る女子小学生を連想させる勢いではしゃいでいた、男だけど。

 そんな無邪気な修也を放っておいて、勇士は自分の表情が険しくなっていく自覚があった。

 なにせ下手すると数時間後に殺されるという、最初の難関が待っているのだ。

 その顔を見て修也が心配そうに訊いてきた。

「そんなに酷い壊れ方しているの?」

「いや、まあ」

 一回、掌で顔を隠していつもの表情を作ると、修也へ微笑みかえした。

「直らなかったら、二人で近くの自転車屋まで引っ張ってけばいいさ」

「それでユウジくんがいいんなら」

「いいに決まってんだろ。それに自転車は妹んだし」

「え? 妹さんって?」

「妹は妹だよ。二つ下で、いま清隆の中等部」

「へー。ユウジくんって、何人家族?」

「今は、妹と、犬のキララと、二人と一匹かな。両親は揃って海外赴任なんだ」

「へえ」

 修也が目を丸くして驚いた。

「だから、近所迷惑にならなければ宴会だってできるぜ」

そう言っている間に、風景が見慣れたものになってきた。

「あ、次だ」

 勇士の指が降車ブザーのボタンを押し込もうと手をのばした。

 農協前のバス停に二人は降りた。

(キョウコにも気を付けて、ブチョーにも気を付けて。なんてハードルが高い一週間なんだよ)

 そんな事を考えながら、勇士には生まれ育った町を歩く。その悲壮感が肌から滲み出てしまったのか、修也から話しかけてくることはなかった。

(この角だ)

 覚えている角の向こうには、だが誰も居なかった。

「?」

「どうしたの?」

 立ち止まってしまった勇士に、修也が不思議そうに振り返った。

(なんで恭子がいない?)

 そして、すぐにそのことに気が付いた。

 ここで恭子と出会うのは、赤い夕陽の風景だ。しかし、いまはまだ陽は高い。図書室で調べ物をしなかった分、はやくここに辿り着いたのだ。

(つまり、今日は生き残れる選択ができたのか? 帰りにまた注意だな)

 それから修也を自宅へと案内した。

「まず、荷物を置こう」

 リビングへと案内して、二人の荷物をソファに置く。それから食器棚の端に置いてあるボール箱に手を突っ込んだ。そこには自転車の鍵が入れてある。

 目的の物を手に入れた勇士は、修也を案内して玄関へ戻った。そこには主人の早い帰宅にテンション高めのキララが繋がれている。

 キララは無駄吠えなどせず、勇士に「かまって」とばかりに、前足をかけてくる。

「お~し、キララ。いい子にしてたか?」

 勇士の問いかけに、うれしそうにその場で一回転してみせる。それから、ふと気が付いたような感じで、修也の方を向いた。言葉は喋れないが「こちらの方は、どなたです?」と訊かれているのが分かる。

「おう。こいつは同じクラスのシュウってんだ。シュウ、キララってんだ」

 キララの頬を包むように撫でてやる。ちょっと離れて見ていた修也は「噛まない?」とばかりに、おずおずと近づいてきた。

 キララは勇士から離れ、今度は修也へ挨拶とばかりに鼻を鳴らして近づいた。

「わあ、柴犬? かわいいねえ」

 おとなしく白い指に撫でられる小型の雑種犬。そういった平和な風景を見ながら、勇士は犬小屋の後ろにある小さなテントを開いた。

 それはロードバイクが趣味な父親が設置した、テント式の自転車小屋なのだ。内部には家族四人分の自転車が収納されている。

 一番高価そうなロードバイクが父の物である。これはサドルの部分で、テントのフレームから吊ってあった。なんでもこうして収納した方が長持ちするのだとか。

 一番奥に入っているのは、母用の電動自転車である。これを普段使いできたら楽なのだが、うっかり者の持ち主が、カギごと海外へ行ってしまっているので、事実上使用できない。

 あとは町乗りに便利そうなシティサイクル…、いわゆるママチャリと、バーハンドルをしたマウンテンバイクもどきが入っている。

 もちろん、こっちの形だけはマウンテンバイクに似せてある、財布に優しい値段をした自転車が、勇士の自転車であった。

 明日菜のママチャリを出しやすくするため、一旦自分の自転車を道に出す。

「これ?」

 制服にキララの体毛をアチコチつけた修也が、勇士の自転車を覗き込んだ。

「いいや、こっち」

 と、ピンク色の自転車を引き出した。

「どこが壊れてるの?」

 自転車の前にしゃがみ込んで、不思議そうに顔を上げる修也に、勇士は黙って反応した。

 サドルの根元についている後輪をロックするカギを解いて、ペダルに手をかけた。

 カラカラと音を立てて回り始める。

「?」

 どこにも異常は見られないので、修也が小首を傾げた。

 そこで勇士がハンドルについている変速レバーを変えた。しかし一向に回転数が変わる気配が無い。

「先月にコケてから、こうなんだってさ」

「あー」

 修也自身もペダルに手をかけて、カラカラと回し始めた。

「これ、ギヤの調整がずれてちゃってるんだよ」

 明日菜のママチャリには、三段式で内装式の変速機がついていた。どうやら修也はそのことを言っているようである。

「ええと…」

 後輪の付け根やら、ハンドルにつけられた変速レバーなんかを確認していた修也は、勇士を振り仰いだ。

「ドライバーにペンチが必要かな。ある?」

「まあ、そのくらいなら」

 本当は父がロードバイクを整備するために一式揃っているはずだが、工具には一切触るなと厳命が出ていた。曰く「父親が息子に道具を貸す時は、息子が一人前だと思った時だ」からだそうだ。

 父から、自分が一人前と見られないというのは、男の子としてモヤッとするものがあったが、たまに帰国して来た時に機嫌を悪くさせるのも本意ではない。幸い修也が言った程度の工具なら、家族共用の物が居間の食器棚の引き出しに放り込んであった。

 二種類のドライバーと、ペンチを取ってくると、修也は後輪の軸についていたカバーを外し、なにやら変速レバーをガチャガチャやり始めた。

 さらにレバーと、その場所を結んでいるワイヤーを、ペンチを使って回したりなんだりし始めた。機械に疎い勇士にはさっぱりだ。

「うん」

 小一時間もカチカチと音を立ててレバーを弄っていた修也は、自分の作業が満足する域に達したのか、一つ頷いて勇士を見上げた。

「どうかな」

 修也がペダルを回すと、ちゃんと後輪が駆動されて回り始めた。変速レバーを変えると、目に見えて回転数が変わった。

「おー」

 感心した声を勇士が上げると、修也は自らママチャリに跨った。

「ちょっと試してみようか」

 修也はギヤを変えながらまっすぐ進み、そして五〇メートルほど行ってから帰って来た。

「うまくいったみたい。試してみて」

 修也に言われて勇士も同じように、自宅の前から五〇メートルぐらいを往復してみた。変速にまったく問題は感じられなかった。

 キッとブレーキをかけてキララと戯れていた修也の横に停まる。

「おまえ、すごいなあ」

「簡単だよ」とニッコリ。

「サンキュな。なんか、お礼しないと」

「そんな大したこと、してないけどなあ」

 照れた顔をしてみせる修也の手が、自転車の油で汚れていた。

「とりあえず、上がれよ。手を洗いたいだろ」

 誘いながら勇士は、冷蔵庫に何か飲み物が入っていたっけなと考えていた。



「あ、もうこんな時間」

 居間の大画面で、サッカークラブを運営するゲームで一緒に遊んでいた修也が、壁の時計を見上げて声を上げた。

「え?」

 買い置きの飲み物などを出して接待していた勇士が、そんなに遅い時間になったのかと、慌てて修也と同じ盤面を見た。

 まだ夕方と言っていい時間である。電車に乗って帰る距離と言っても、高校生にとってはまだこれからといった時間でもある。

「なんか、マズイのか?」

「うん。そろそろ完成予定なんだ。ボクのマークゼロスリー」

「まあくぜろすりい?」

 聞き返してから、それが修也の自作しているロボットの名前だと思い出した。勇士のお陰でいじめられなくなったとはいえ、自分の今持っている技術の集大成として、修也は自分のボディガードロボの製作を続けているらしかった。かと言って、そちらにかかりきりになって勉学が疎かにならないよう、親と話し合って、機械を弄る時間帯を決めているそうだ。だいたい夕方から家族そろっての夕食にかけての時間らしい。それからの時間は、宿題や予習復習に充てる約束と聞いていた。ちなみに早起きして学校に遅刻しない程度なら、朝に弄ってもよいらしい。

「そうか、できそうなんだ」

 勇士が手も足も出なかった自転車の故障を、あっという間に直してしまった修也である。どんなロボットが完成するのだろうか、ちょっと興味があった。

「じゃあ、完成したら見せてもらっても、いいか?」

「え…」

 ポワアっと白い頬が赤く染まっていった。まるで片思いしていた野球部のエースから告白された女子マネージャーのような表情であった。男だけど。

「も、もちろんだよ。絶対、見に来てよね」

 うれしそうにしながらも、自分の荷物を纏め始める修也。それを見て勇士も腰を上げた。ゲームを終了させて、テレビも消す。

「送ってもらうなんて、悪いよ」

 荷物を抱えるように持った修也が断ろうとした。

「でもシュウよ。バス停まで戻れるか?」

 自宅周辺が入り組んだ住宅地という自覚がある勇士が確認した。

「え…」

 一気に不安げな顔になった修也が、初めて田舎へ一人で来た女子小学生のような顔になっていた、男だけど。

 その顔色を見ただけで、バス停までの道順が怪しいことが察せられた。

「じゃあ、急ぐか」

 農協前のバス停には二〇分おきに便が来るという、大変覚えやすい時刻表であった。時計からして、バス停でちょっと待つぐらいかもしれないが、丁度いいだろう。

 玄関を出て、脇の犬小屋に向かう。

「じゃあキララ。留守番よろしくな」

 散歩の時間にはまだ早い。そのことが分かっているのか、キララは犬小屋から出ては来たが、あまりはしゃがずに修也に頭を撫でられていた。

 夕陽に染まり始めた町を、二人並んでバス停に向かう。

「本当に、マークゼロスリー見に来てよね」

「ああ、約束だ」

 そう話しながら角を曲がった時だった。

 道に一人の女が立っていた。

 正面から赤い光線を浴びているので、この黄昏時でも誰だか勇士には見て取れた。

 恭子である。

 朝と同じ白いワンピースを身に着け、乱れた髪を風に流していた。そして右手に持っている物は長ネギでなく、なにか微妙に曲がった物体であった。

(しまった、油断してた)

 この時間に、恭子がここに立っているのは知っていたはずである。しかし楽しかった修也との一時が、それを忘れさせていた。

(今から戻るか?)

 そう考えたところで、恭子が話しかけてきた。

「ごきげんヨう、ユウジ」

 ふわっとした柔らかい微笑みを浮かべると、やはり年相応の魅力ある女性に見える。ただし服は薄汚れているし、身だしなみも人前に出るような物ではない。

「おう」

 いまさら回れ右もできずに、覚悟を決めることにした。

「そチらは?」

「同じクラスの猪熊修也ってんだ」

 そこで勇士は修也の横に並んで肩を組んで見せた。

「こんな顔でも男だから、誤解すんな」

「こんな顔は酷いなあ」

「まア」

 まるで水たまりに水滴が落ちたように表情を変化させる恭子。どうやら驚いたようだ。

「そして…」

 修也を開放して、今度は恭子の横に行って勇士は(右手に気をつけながら)振り返った。

「彼女は、幼馴染の吉田恭子」

「ハジメマシテ。ユウジがいつもお世話になッています」

 両手を揃えて頭を深く下げる恭子の横顔を見て、不安しか感じない勇士。やはり後先考えずに逃げてしまった方がよかっただろうか。

「おさななじみ?」

 修也が首を傾げた。

「あーえーと。キョウコとは幼稚園の頃から一緒で…」

「同じ学校へ行きたカったわ」

 まるで菩薩のような微笑みで勇士を振り返る恭子。

「あの、その…」

 言いにくそうに修也が口を開いた。

「吉田さ…んの、その目…」

 陽の傾きで光線の具合が変わり、恭子の尋常でない左目を見ることができたのだろう。注視するのも失礼かと思っているのか、チラチラと視線をさ迷わせるが、やっぱり見てしまうようだ。

「こレは、昔に嫌な事があリまして」

「ああ…」

 それ以上は聞けない雰囲気に、修也は口を閉じてくれた。

「今までゲームしてたんだ。これから送って行くところ。キョウコもつきあうか?」

 一応礼儀として聞いてみる。だが、勇士には恭子がついてこない確信があった。

「いイえ。ワタシ、こレから行かなければならない所がアるの」

「そ、そうか。あんまし遅くなると、オバサン心配すんぞ」

「保ゴ者? ユウジがそう言うナら、一度断ってから出かけましョう」

「うん。そうした方がいいな」

「それでは、ごきげんヨう」

 修也に笑顔で頭を下げる恭子。邂逅が無事に済んでほっとする勇士。修也もごく普通に挨拶を返した。

 その途端に「きえええええええエえええ」と恭子が奇声を上げはじめた。

 修也と二人でドン引いていると、手にした塊を、通りかかった野良猫へ投げつけた。

 塊は素っ頓狂な方向へ飛び、そして民家の壁で跳ね返った。

「ナス?」

 その正体に気が付いた勇士が呆然と呟いていると、恭子はその野良猫を全速力で追いかけ始めた。

「は?」

 何が何だか分からずにポカンとして見送る修也に、どう言い繕うか困った顔を向ける勇士。修也は困ったような顔をして彼を見ていた。

 どうするか迷ってから、やっぱり打ち明けることにする。

「キョウコは、頭がね…」

 そこまで聞いて察した顔になってくれる修也。

 恭子の境遇を簡単に修也に説明しながら、勇士は別の事を思っていた。

(どうやらキョウコの方は大丈夫のようだ)

 なんとなく言葉少なにバス停に向かう。時計を見る間もなく、バスがやって来るところだった。ただし反対方向である。勇士の家から見ると、清隆学園の方向から来て、JRの駅へ向かうバスだ。ただ、反対方向が来たすぐ後に、清隆学園を通過して、私鉄の駅へ向かうバスがやってくるはずである。

 修也と二人でバス停に立っていると、向かいのバスが停車し、乗客を吐き出した。

「あ、お兄ちゃん!」

 黒い中等部の制服を着た明日菜が降りてきた。

「おにいーちゃーん」

 小学生ならばそのまま飛び出して来そうだが、そこは中学生。道の左右を確認してから横断してきた。

「たっだいまー」

「おう。おかえり」

「どっか行くの?」

「いや、見送り」

「え?」

 話しが分からずキョトンとする明日菜。勇士は隣に立つ修也を紹介した。

「妹の明日奈。同じクラスの猪熊修也」

「イノクマさん…」

「や、やあ」

 修也がとてもぎこちない挨拶をした。その顔を覚えようと、小さく名前を呟く明日菜。

「?」

「いや。シュウは、おまえの自転車を直しに、わざわざ来てくれたんだぞ」

「え? ホント?」

「うん。まあ、なんとか直ったみたい」

 まだちょっと遠慮がちな修也の背中を叩いて、勇士は親指を立てた。

「ホント、感謝するぜ」

「お役に立ててうれしいよ」

「あ、ありがとうごいます」

 慌てた様子で頭を下げる明日菜。

「もう、一番重いギヤで動かないから、坂道が大変で大変で」

 その時、道をバスがやって来るのが目に入った。

「今度、お礼させてください」

「お礼なんて…」

「オレからも改めて言わせて貰うぜ。サンキュ」

 そこで丁度バスが停まり、自動ドアを開いた。



 修也と別れた後、久しぶりに兄妹で帰り道を歩いた。途中、食材の買い物にも付き合うことができた。

 夕飯を食べて、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

「今日も色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(だが…)と勇士は思う(キョウコとはうまく行っている。このまま接触を最小限にすれば、何とかなりそうだ。問題はブチョーだな)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

(いや。今回のブチョーは、オレんチを知らない。だから殺しに来ることは…。いやいや、油断したら、またあんなことになるのかもしれない。気を付けなければ)

 思い直してから目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日は生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと五日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 制服に着替える勇士を置いて、明日菜は先に一階へ降りて行った。勇士は制服に着替えるために、クローゼットの扉を開いた。

 その内側に取り付けられた鏡には、やはり顔色の良くない自分が写っていた。

(落ち着け、オレ)

 自分を励ますように思考を巡らせた。

(今回は、違うはずなんだ)

 ネクタイを締める手に、力が入った。



 それから勇士は記憶の中にある水曜日を再び経験することになった。

 毎日同じような朝食は、まあ置いておくとして、明日奈が鍵をかけているときに顔を出した恭子を見て驚いた。嫌な記憶と合致する姿だったのだ。

 淡い緑色のブラウスに、白いロングスカート。お風呂を連想させる、微かな石鹸の香り。

 腰の細さを強調するかのように巻かれたスカーフやら、髪を結んでいる同色系のリボンとか、良家のお嬢さんと言って問題ない姿である。

 今週、なるべく接触を避けてきたが、ここまで身綺麗になると、校門前の奇行までカウントダウンに入っていると考えてもいい。

 ただ右手の握られた空のペットボトルを見るからに、あの段階までは、もうしばらくかかりそうだ。

(なにを考えているんだ)

 勇士は目眩のような物を感じて、瞼を閉じた。

(トモダチの症状が改善する事は、嬉しいことじゃないか。ゆっくりと治ってくれればよい。来週なら大歓迎だ)

 そのまま空のペットボトルを振りかぶり、集団登校していた小学生の群れを追いかけて行ったのは、見なかったことにした。もしかしたら後でお巡りさんのやっかいになっていたかもしれない。

 登校して、高等部の正門前で、いつもの明日菜と別れる場所まで来た。

「じゃあな、アスナ」

「うん。今日は遅いの?」

「あー」

 勇士は、嫌な想像が広がったが、慌てて否定した。

「今日は水曜だろ。部活の活動日…」

 そこで勇士の言葉が途切れてしまった。

 レンガ貼りの正門脇に、長い黒髪を左肩から前に垂らした影が立っていたからだ。制服を着ていなかったら、大人の女性と見間違うような雰囲気である。

 刀剣研究部の部長、咲弥である。

「?」

 兄が不自然に言葉を切って、どこかを注視しているため、明日菜は勇士の視線の先を追った。

 二人の視線を受けた咲弥は、ゆっくりと余裕のある態度で歩み寄って来た。

「おはよう、小野くん」

「はよっす」

 ちょっと構えのような物を取ってしまいながらも、勇士は挨拶を返し、そして思い出して付け加えた。

「こっちは、妹の明日菜です。アスナ、刀剣研究部の部長の飯塚先輩」

「妹さん?」

「お、おはようございます。兄がいつもお世話になっています」

 ちゃんと頭を下げて明日菜が挨拶した。その後、探るように下から見ていたのは、兄として注意した方がよかったのだろうか。おそらく勇士の様子が、咲弥に対して少しいつもと違ったので、妹として感じ取るものがあったのだろう。

 勇士は、ここで襲い掛かられても妹だけは無事なように、逃がすことにした。

「ほら、アスナ。遅刻しちゃうぞ」

「あ、うん。それじゃあ、失礼します。お兄ちゃん。寄り道しないで帰るんですよ」

 まるで母親のようなことを言いながら、兄へ背中を見せる中学生。

「はいはい」

 別れづらそうに振り返る明日菜に手を振ってやり、勇士は作り笑顔で彼女を見送った。

「小野くん…」

 また、あの泣きそうな顔で、咲弥が話しかけてきた。

「今日、刀剣研究部の活動日なんだけど。どうかな?」

(さて、どうする)

 ここで勇士は腕を組んで考えた。

(ブチョーにも、なるべく会わないようにしていたから、今日のプリント印刷は無しのはずだ。だとすると『白露』を受け取りに行くだけなのか? 昼間なら大人もいるし、襲われても大丈夫…、かな?)

 それから、この一週間を生き抜いた後の事へ頭が行った。

(ここで参加しないと、なんかズルズルと部活に行きづらくなって、せっかく助けた刀剣研究部自体が、やっぱり廃部になる。なんてことにならないだろうか)

 そう考えると惜しい気もする。咲弥に今日の夜に襲われるまで、修也と三人で駄弁っているだけの部活であったが、それはそれなりに勇士自身が気に入っていたと、改めて気が付いた。

「いつものトコっすよね。シュウと二人で行きますよ」

 それでも笑顔が引きつるのは隠せなかった。



 教室に着くと、今日も隣席の修也は先に席へ着いていた。

「おはようユウジくん」

「おう。おはよシュウ」

 今日も女の子のような笑顔で出迎えてくれた、男だけど。

 いつもの通り膝の上に電子工作の本を置き、勇士には理解不能の数字やら簡単な図などを、机の上に広げたノートに拾い上げていた。とすると、あのボードゲーム研究部のオリジナルなやつは、一段落ということなのだろうか。

「そういえばユウジくん」

 目線を雑誌に落としたまま修也が口を開いた。

「朝に部長さんに会ったんだけど、今日は部活やりましょうねって」

「あ~。オレも校門のトコで会ったわ」

「ねえ」

 声を潜められたので、改めて振り返ると、修也が探るように覗き込んでいた。その姿は、まるで彼氏のご機嫌をうかがう女子生徒のようだった、男だけど。

「ん?」

(なんじゃいな)と返事をすると、心配そうな顔と声になって訊いてきた。

「部長さんとは、もう大丈夫そう?」

「へ?」

 顔を向けると、納得のいっていないような表情だった。

「ほら、昨日疲れたって言ってたから」

「ああ。大丈夫だぜ」

 笑顔を作って自信たっぷりにこたえる。

「それはよかったよ」

 まるで花が咲いたような笑顔になった。男だけど。



 それから勇士は、いつもの日常を繰り返すことになった。あまりにも平凡な一日なので、自分が前回死んだことを忘れそうになるぐらいだ。

(ああ、前はキョウコのせいで…)

 今回は、アノ事件が起きていないのだから、当たり前である。昼休みだって、いつもの通り混んでいる学食で、修也とのんびりとした会話を楽しめたぐらいだ。

 そんな、いつも通りの水曜日も、放課後ともなれば人も減り、刀剣研究部の正式な活動時間となった。

 向かうはD棟二階の会議室である。

 窓際では記憶通りに、背筋を伸ばした咲弥が、文庫本のページをめくっていた。

「ちっす、ブチョー」

「部長さん。遅れました」

 敬礼のようなチョキで挨拶する勇士の横で、丁寧に修也が頭を下げた。

 いつもより凛々しさが三倍増しぐらいになった咲弥が、ゆっくりと「鍋釜天幕団フライパン戦記」という表紙の本を下ろし、首を捻じ曲げて二人を見た。

「こんにちは小野くん、猪熊くん」

 ニッコリと笑顔を作ってくれた。

「こ、こんにちは」

 修也は相手を探るように見ながら、それでも咲弥の近くに席を取る。勇士はその隣に座った。

 これで一つの机を三人が囲む形となった。久しぶりの刀剣研究部の形である。

「なんか、あったっすか?」

 一瞬だけ勇士の隣に座る修也を、厳しい目で見ていた咲弥が、目に見えて上機嫌な微笑みを浮かべた。

「ええ」

 頬に手を当てた咲弥がうれしそうに言った。

「前から大学へ申請していた『白露』なんだけど、借りられそうなのよ」

(あ、そこからなんだ)と勇士は思った。たしかに咲弥を避け続けたため、彼女からこの話を聞くのが、今回は初めてである。

「えー、借りるんですか?」

 博物館収蔵の『白露』に、良い思い出のない勇士が、若干引きぎみで聞き返した。

「本気よ」ちょっと不思議そうにキョトンとしてみせ「だって、この部活は刀剣研究部なんですから」

「それって…」

 横からおずおずと修也が口を挟んだ。

「あの怖い話がある刀ですよね」

「だから『研究』するんでしょ」

 端っこが強張った笑顔を修也に向ける。

「研究ねえ」

 勇士は机に頬杖をついた。できれば展示ケースから出てきてほしくない一振りである。

「博物館の刀剣を保存しているフロアの、空調がおかしくなったんだって。それで夏を前に慌てて直すことになったのよ」

 咲弥の説明に、修也の顔が「それがなんでウチへの貸し出しに繋がるんだろう」とばかりにキョトンとなった。

 その表情で、自分の説明が至らなかったことを察した咲弥は、魅惑的な唇をひとなめして説明を加えることにした。

「ほら、刀って要は鉄でしょ。湿気や気温なんかを厳重に管理しないと、錆びてしまうもの」

「あー」

 たしかにとばかりに修也が声を上げた。反対に勇士は朽ち果ててしまえと思っていたことは内緒だ。

「でも、高等部に保管ケースなんてありましたっけ?」

 素朴な疑問が修也から出た。

「たぶん無いわね」

「え、それじゃあ…」

 修也がとても不安な顔になった。

「一日か二日じゃ、大丈夫だろ。それこそ昔は展示ケースなんてモンは無かったんだから」

 頬杖をついたままの勇士が声を上げた。

「いちおうA棟の展示コーナーに保管されることになっているわ」

「まあ、あそこなら。でも博物館の他の展示ケースだって、空きはあるでしょ?」

「小野くん。私たちは刀剣研究部なのよ」

 キリッと表情を作り直した咲弥は言った。部長が決定したことならば、平の部員が覆すためには、それ以上の理由がなければならない。だが「その刀で、オレがブチョーに殺されるからです」なんて言えるはずもなかった。

「いつからいつまでです?」

 せめて期間だけでも短くしたい。

「工事は週末の二日間よ」

「それじゃあ…」

「でも、借りに来るなら今日来てくださいって。返却は来週の水曜日」

「まる一週間かあ」

 やはり、ある程度決まっている出来事は覆せないようだ。

「じゃあ早速だけど、三人で近堂先生を探しましょう。先生の車で博物館に行く予定なんです」

「ええ~」

 これには意外にも、修也が眉を顰めた声を上げた。

「先生の車、狭いじゃないですか。それに四人も乗って、さらに刀も持って来るんですか?」

 たしかに近堂先生の車は、町乗りに適した軽自動車である。運転手の他に高校生が三人乗って、さらに日本刀のような嵩張る荷物は積めなくも無いが、窮屈になる事間違いなしだ。

「それじゃあ猪熊くんは私と一緒に、近堂先生と博物館へ『白露』を受け取りに行きましょう。小野くんは、悪いけど展示ケースの掃除でもしていて」

「オレ一人っすか?」

 博物館へ行かないで済んだことはうれしいが、一人で掃除なんて罰ゲームのようではないか。

「はい。そうして下さい」

「この組み分けに、理由はあるんですか?」

 咲弥のいつもと違う雰囲気に、緊張した面持ちの修也が訊いた。

「簡単よ」

 咲弥の目がキランと輝いた。

「女の子チームと、男の子チームよ」

 部活の顧問である日本史担当の近堂先生も女性であった。

「あの、ボク、おとこなんですけど…」

 弱々しく発言された修也の主張は、まるっきり無視された。



 まず職員室で近堂先生を見つけた刀剣研究部の面々は、先に職員昇降口向かいにある展示コーナーの鍵を開けてもらった。

 廊下とは足元までのガラスで仕切られた、細長い部屋のような空間である。ここに色々と並べると、廊下を通りかかった人物が、自然と展覧できるようになっている。

 二つある木枠のガラス扉の内一つを開くと、微かにカビやホコリの臭いがした。

「掃除用具は、そこの職員トイレの物を借りて」

 見おろすような小ささの近堂先生が、並びのドアの一つを指差した。

「あと、あまり揺らさないようにね。向こうが倒れるから」

 いま開いているのは、向かって右側の展示スペースである。反対側は歴代の部活動が受賞した記念盾やらメダルでキンキラキンである。対してこちらは閑散としていた。

 そういった学校の歴史に関する展示はもちろん、今回の刀剣研究部のように、文化会系部活の発表の場でもあるのだ。

「了解っす」

 気安くこたえて、勇士はさっそくホウキやチリトリを借りに、職員トイレへ足を向けた。

「じゃあ、先生は駐車場で待っているから」

「はい」

 生徒たちはA棟の真ん中にある生徒昇降口に靴が置いてある。対して体格は生徒並みだが、近堂先生の靴はもちろんこちらに置いてある。

 チャラチャラと「これを持っている私って大人でしょ」と言いたげに、車の鍵を振り回しつつ、靴を履き替え始める、近堂先生。掃除用具を提げて戻って来た勇士に短く手を振った。

「それじゃあ行ってくるからね」

「お願いします」

 頭を下げて見送った。

 白いリノリウム貼りの展示スペース内部を掃き清め、ガラスをきつく絞った雑巾で拭いていると、背後に人の気配がした。

「ん? なんだ?」

 中年男性の声に振り返れば、勇士たち一年二組の国語担当の先生ではないか。

「罰当番か?」

「いやいや」

 苦笑いのような物が出てしまった。

「われら刀剣研究部が、博物館からあの妖刀『白露』を借りれることになりまして。そのための掃除です」

「借りれるじゃなくて、借りられるな」

 と、まるで国語の授業のような指摘をしてから、ほうと感心した顔になった。

「この地に伝わる、あの妖刀をねえ」

 しきりにアゴを撫でながら感心し続ける。すると他の通りがかった教職員たちも、何事かと足を止めた。

気が付くと、小さな人だかりになってしまった。その中で掃除を続けるのも、なんだか衆人環視の中で嫌になり、勇士はガラスを適当に拭いたところで切り上げてしまった。

「なんぞ?」

 素っ頓狂な声に振り返れば、ちょうど近堂先生と一緒に、咲弥と修也が返って来たところだ。もう一人、眼鏡をかけて神経質そうな成人男性は見た事なかった。

 その男が細長い木製の箱を大事そうに両手で捧げるように持っていた。

「こちらになります」

 咲弥が展示スペースの入口へ案内し、男が内部でその箱を開いた。

「おお~」

 ガラス越しに見ていたやじ馬たちがどよめいた。

 箱の中には鹿の角らしい展示台が一組と、そして緋色の鞘に納められた一振りの小太刀が収まっていた。

 間違いが無いだろうにか、正座でそれらを取り出した男は、展示台の最上段に抜刀した『白露』を置き、下段に緋色の鞘を並べた。

「いいんじゃないか」

 修也に声をかけると、振り返って、雲が晴れたような笑顔を見せてくれた。男だけど。

「お掃除、お疲れさま。ユウジくん」

「おう。そっちもな」

 続けて咲弥へ視線を移したが、彼女は展示スペースのガラスにべったりと貼りついていて、振り返りもしなかった。せっかく勇士が拭いた箇所も、すでに指紋がつけられていた。

 その視線の中で『白露』のセッティングは終わった。

「それじゃあ、後はよろしくお願いします」

「はい、ご苦労様でした。送りましょう」

 出てきた男が、車の鍵を振り回す近堂先生を見て、はっきりと嫌な顔をした。

「い、いや。その。歩いて帰りますよ。先生も、生徒さんたちのご指導で大変でしょうから」

「そうですか? そんな手間でもありませんよ」

「いえいえ。それに最近…」と自分の下腹を摘まみ「ビールの呑みすぎで。歩くようにしているんです」

「そうですか?」

 それでも車で送ると言い出しそうな近堂先生に、男は固辞して、職員昇降口から逃げるように退散した。

「なんだ、あれ?」

「いや、まあ」

 とても言いにくそうに修也は勇士を振り返った。

「ユウジくんも、先生の運転に乗れば分かると思うよ」

 その顔色から察するに、どうやら近堂先生は、とても素晴らしい運転技術を持っているようである。

「まあ、ほら。先生の本職は、日本史だしね」

「そういうことにしておこうか」

 その話題はこれまでとばかりに、二人して展示スペースに鎮座した『白露』を眺めた。もちろん咲弥は、最前列でガラスに貼りつくようにして眺めたままだ。

「どんなもんです? おれたち刀剣研究部も、やる時はやるでしょ」

 勇士が最初に声をかけてきた国語教師に声をかけると、近堂先生を取り巻いていた男子教師陣が、感心したように頷いてくれた。

「博物館から『白露』を借りてくるなんて」

「ウチの文化会系も捨てたもんじゃないな」

「廃部の話しもあったが、そうしなくて正解だった」

顧問である近堂先生は、とても嬉しそうにニコニコしていた。

「部長さん?」

 その輪の中に、唯一入っていない咲弥を、修也が振り返った。

 やはり咲弥は、欲しいおもちゃを見つめる子供の様に、ガラスに貼りつきっぱなしになっていた。

(こういうのを魅入れられるって言うのかな? それとも本当に妖刀だから、乗っ取りやすい人間を探していたりして)

 そこまで考えて、勇士は我に返った。

「ブチョー」

 ちょっと強めの声で話しかけ、彼女の横へ行った。

「んー、なあに」

 心ここにあらずといった返事があった。

「ブチョー?」

「んー」

 まともに振り返りもしない咲弥に、ちょっと不安を覚えた勇士は、顎に拳を当ててしばし考えた。

「あ! あんなところに虎徹ちゃんが!」

「え? 虎徹様が? どこに?」

 ガバッと立ち上がった咲弥は、全方位から突き刺さる、残念な者へ向ける視線に気が付いた。

「あ、あら…」

 とりなすように近堂先生が咳ばらいをしてから、彼女の肩へ手をかけた。

「飯塚さん。あなたのやる気は、先生も嬉しいわ」

「え、えっと、はあ、まあ」

 夢からさめたような表情をしていた咲弥であったが、ようやく囲まれた先生方に褒められていると認識できたらしい。ポッと頬を赤らめると、いつもの調子が出てきた。

「い、いえ。私なんか…」

「それで先生さあ」

 話題を変えようと勇士は話しかけた。

「『白露』は、ずっとここで見てなきゃいけないわけ?」

 もちろん勇士には考えがあった。前回は咲弥が『白露』に貼りついていたから、持ち出す隙が出来たのだろう。今回は、その時間を奪ってしまえばいい。

「無事『白露』を借りることができたことを記念して、学食辺りでお茶にしたいんだけど」

「あ、それ、ナイス」

 女の子たちはお茶会が好き。という出どころは妹である情報で勇士は誘ってみたが、パアッと咲弥と近堂先生の表情が明るくなった。ちなみに修也の顔まで同じように変化していた。男だけど。

「それ、いいわね。先生、おごっちゃうわよ」

「それじゃあ、善は急げだ」

 勇士は両手で部員たちの背中を押すように、D棟へ向かうことにした。



 夕飯を食べて、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

 結局、刀剣研究部の活動は、いつもの調子を取り戻していた。勇士と修也が駄弁り、それを見守る様に部長の咲弥が静かに座っている、そんな風景だ。

 今日は、珍しく近堂先生がそこに混ざったが、誤差範囲の内だろう。ちなみに奢ってくれたのは、それぞれにペットボトル一本だった。

「今日も色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(だが…)と勇士は思う(これでうまく行ったんじゃないかな)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

(いや。油断したら、またあんなことになるのかもしれない。気を付けなければ)

 思い直してから目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日は生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと四日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 制服に着替える勇士を置いて、明日菜は先に一階へ降りて行った。勇士は制服に着替えるために、クローゼットの扉を開いた。

 その内側に取り付けられた鏡に、今日は明るい顔をした自分が写っていた。

 もちろん、その理由も簡単だ。

(キョウコだってブチョーだってコントロールできそうだ)

 その自信が、この三日でついたからに他ならない。

(今回こそ、生き残るぞ)

 ネクタイを締める手に、力が入った。

 朝食を済ませ、手早く朝の支度を終える。

 勇士が玄関の鍵を閉めている間に、明日菜はキララに挨拶をしていた。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 その時だった。

「肉がイル」

 声をかけられた気がして振り返ると、そこに今日も狂人が立っていた。

「よう。おはよ」

 勇士の言葉は、今日も中途半端に途切れた。振り返った先には、勇士の記憶には無い姿をした恭子が立っていたからだ。

 白いセーラーカラーをした紫色のAラインワンピースに、白いニットのカーディガンを合わせ、髪に黄色いバンダナを巻いていた。

 今日もシャワーぐらいは浴びたのか、爽やかな印象がする香りがした。

 そして小脇に抱えた買い物籠。いつも持っている物に比べたら、なんと普通の格好なのだろうか。

「どうしたの? ユウジ?」

 不思議そうに小首を傾げる様子は、かつての幼馴染であった。

「い、いや、なんでもない」

 つい見とれてしまったなんて言ったら、また変貌するかもしれない。勇士はセルフコントロールを意識しながら、恭子に話しかけた。

「ど、どこか行くのか?」

「ええ。今日は保護者にパンケーキを作ろうと思いまして、その買い物に」

 言われてみれば良家のお嬢さんが、キッチンで足りないものがあることに気が付いて買い物に出たといっていい雰囲気だった。ただ、こんな時間に店が開いているのだろうか?

 やはり月子に連絡しようかと迷った時に、道の反対側でこちらを見守る影に気が付いた。

 電信柱の影からこちらを見ている月子という、傍目から見たらちょっと笑えそうな姿であった。

 彼女が深くうなずいたので、勇士もうなずきかえしておいた。

「おにいちゃん」

 キララから離れた明日奈が声をかけてきた。

「じかん」

 左手首に巻いた細身の腕時計を指さしていた。

「ああ、わかった」

 明日菜にもうなずいておいて、恭子へ付け足すように言った。

「うん。お世話になっているんだから、おいしいパンケーキを作ってやるんだよ」

「はい」

 とてもいい笑顔だった。



 うんざりするほど混んだバスを降り、校門前で明日菜と別れた。

 咲弥は、昨日から『白露』の展示を始めたからか、校門でも階段室でも出くわさなかった。

 階段を三階へ、いつもの一年二組の教室である。

 席へ着くと、やっぱり隣の席には、修也がすでに着いていた。

「おはようユウジくん」

「おう。おはよシュウ」

 そこで勇士は違和感を持った。

(何が違うのだろう)

 なにせ二回も殺された身。ちょっとした事が気になる様になっていた。

 答えはすぐに分かった。今朝は修也が本を広げていないのだ。

 じーっと見つめる勇士の様子に、彼もいつもと違うものを感じたのか、不思議そうに修也は小首を傾げた。

「どうしたの? ユウジくん」

「いや」

(神経過敏になってんな、オレ)

「あ、その…。今日は読んでないんだな、あの雑誌」

「うん」

 目をキラキラさせて微笑んだ。まるで去年からパパにおねだりしていた、犬を飼うことを許可された小学校低学年の女の子のようだ。男だけど。

「とうとう完成したんだ。ボクのロボット」

「そいつは…」

 友人が目標を達成したことに、素直な喜びが湧いてきた。

「おめでとう」

「ありがとうユウジくん」

 半ば瞳を潤ませた修也が、勇士の言葉を素直に受け取った。

「今日は、早めに帰って、始動試験をしてみようと思っているんだ」

 ワクワクが止まらないといった態で修也。

「えへへ。ユウジくん、約束通り見に来てくれる?」

 そういえばそんな約束をしたような気がする。だが、そこではたと気が付いた。

(まさか起動直後のロボットに襲われて死ぬなんてことは…)

 そう考えると、先程まで一緒に喜んでいた自分がバカに思えてくる。

「?」

 急に黙り込んでしまった勇士に、修也は不思議そうな顔を向けた。

 せっかくの友情は壊したくない。だが、やはり命がかかっているのだから、確かめる必要はあるだろう。

「そのロボットは、人を襲ったりしないだろうな?」

「いちおうガードロボットだから、ボクを襲おうとする人間は、排除するようにできてるよ」

 何を今更といった顔の修也。

「いや、あの…」

 なんて訊いていいのか分からない。もう考えるのが面倒になって、ストレートに訊くことにした。

「動き出した途端に、オレが襲われるなんてこと、無いよな?」

「あ、それは大丈夫」

 ちょっとだけ不安そうな顔をしていた修也は、再び屈託のない笑顔を取り戻した。

「今まで作ったマークゼロワンからマークゼロツーブイダッシュまで、一度もそういうこと起きてないから」

「ちゃいまち」

 手で制して勇士は訊ねた。

「今まで、どのくらい作ったって?」

「最初がマークゼロワンで…」と指折り数えながら天井を見ていた修也が断言した。「全部で五台だね」

「そんだけ作っても、まだ足りなかったのかよ」

「ボクが作っているのは、そこらへんのロボットとは違うからね」

「そうか…」

 笑顔に負けて、勇士は誘いに乗ることにした。

「じゃあシュウの技術を信じて、見に行ってみようかな」

「ヤッター」

「あっと、それと…」

 ビシッと指差して宣言するように告げる。

「ボクじゃなくて、オレな」

「あ…」



 それから午前も午後も平穏な一日を過ごすことができた。修也と一緒に昼飯を学食で摂った時、彼からロボットに関する専門的な話をされたが、半分以上右から左へ流れてしまった。印象に残っているのはアシモフだかの原則というヤツだけだ。

 課業が終了すれば、もう学校には用は無い。

 修也が荷造りに手間取るという、まるで儀式のような時間が過ぎれば、移動開始である。

 いつも朝に乗っている私鉄駅へ向かうバスに、学園前のバス停から乗り込む。修也は武蔵野の風景に囲まれた清隆学園より、さらに山の方へ行った自治体が地元のはずだ。勇士が遊びに行くのは初めてだ。

 バスの終点がある駅からは、電車で五駅移動する。各駅しか停まらない高架駅だ。

 修也は、駅に隣接する有料駐輪場からギヤつきの自転車を引っ張り出した。どうやら駅までは自転車通学のようだ。

 今日は勇士がいるため、自転車を押して、歩いて坂道を上り始めた。

「朝は急いでるでしょ」

 問いかけというより確認といった感じで修也が話しかけてきた。

「だけど下りだから助かるんだぁ」

 まるでお母さんのお手伝いを成し遂げた女児のような笑顔を向けてくる。男だけど。

 石垣を装ったような土留めが施された切通の坂道を上る。坂の上は両側とも団地になっていた。

 その団地を抜けると、ファミリーレストランや、ちょっと広めの本屋などが寄せ集められたような交差点があり、そこを折れると右手は依然として団地であったが、左手は山の上を拓いた住宅街になっていた。

 住宅街へ入る細い道の入り口に、大きなガレージを持ったトタン張りの工場風の建物が建っていた。

「ここだよ」

 閉まっているシャッターの上には、自動車会社の看板が掲げられていたが、それはもう擦り切れたように錆びていて、用を成していなかった。

 代わりにシャッター脇の袖壁に、木製の看板が出されていて、達筆な字体で「猪熊機械製作所」と書かれていた。

「へえ~」

 口を開けて上の看板を見ている勇士に、どこか照れたような顔をした修也が説明した。

「おじいちゃんまでは、車の整備工場をやってたんだ。でも最近の車は、滅多に故障しないし、軽自動車が増えてつまらなくなったって言って」

「じゃあ、親子三代で機械が得意なんだ?」

「え? うん、まあ、そうかな」

 修也は工場の横にある道へ入った。脇から敷地へ入ることができるようだ。勇士は慌ててついていった。

 脇にあるコンクリート製の門をくぐると、左手が工場の裏手、右手に二階建ての木造モルタル一軒家が建っていた。おそらくそちらが住居なのだろう。

 敷地内には、もう一つ小さなコンクリートブロックを積み上げたような小屋が、積み上げたガラクタに埋もれるように建っていた。

 工場は、こちら側もシャッターとなっており、そのいずれも開かれていた。コンクリート床の上に鋼鉄製らしい作業台。赤や黄色をしたチューブがコンプレッサーと工具を繋げ、まるで血管の様に、場内を縦横無尽に走っていた。

 作業台は全部で三つあるようだが、いま塞がっているのはその内一つで、そこで一人の中年男性が何か作業をしていた。

 修也は自転車を住居脇の自転車置き場へ停めると、甲高い音を立ててエアインパクトレンチを使用していた男の所へ近づいた。

 遠くから両手を口に添えて声をかける。

「ただいま」

「おう」

 それだけ答えて顔を上げると、男は不審な顔をした。

「クラスメイトの小野くん」と、初めて彼氏を家に招いた女学生のようなハニカミ具合で勇士を紹介する。男だけど。

「オジサン。えーと、お父さんの弟」

 クォーターである修也とは似ても似つかない姿である。少々ガニ股気味で、無精ひげがチラホラある顎は、四角くてがっしりとしていた。印象的に柔道五段という感じである。

 とすると、フィンランド系アメリカ人という修也の祖母は、母親の方の家系なのかもしれない。

「なんだシュウ坊。友だち連れてくるなんて珍しいな。ええとオノくん? シュウ坊と仲良くしてくれよ」

 機械に向かっていた時にしていた厳しい表情を、まるでアイスクリームの様に溶かして微笑んでくれた。

「ああ、そうか」

 その顔が、合点がいったように変化した。

「シュウ坊のロボットか」

「うん。だからユウジくんに見せようと思って」

「ああ」自分も物造りをしているためか、完成した時の喜びが分かるようだ。修也の叔父は、うんうんと何度もうなずいた。

「まあ、こんな子だけど、仲良くしてやって」

 また同じことを告げると、手元の機械へ、再び引き締めた顔を向けた。

「こっち」

 まるで秘密の花園へ誘う少女の様に、軽いステップで先に立つ。男だけど。

 修也が案内してくれたのは、敷地の奥まったところにある小屋であった。その入口までの両側に、色々なガラクタが放置してあった。明らかに自転車の物と分かる部品だったり、勇士が初めて見るようなアクチェクターの壊れた物だったり、整理はされているのだが、雑然とした空間であった。

 その手前には、鉄板にペンキで、子供が書いたような看板があった。

「いのくましゅうや研究所」

 どうやらここでロボットを作り始めた時に、修也が自筆で掲げた看板のようだ。それはガラクタたちの手前に置かれたドラム缶に…、いや違う。

「なんだこれ?」

 ドラム缶と思った物には、電球で人の顔をカリカチュアしたような頭がついていた。

「ああ、これね。これが最初に作ったマークゼロワンを改良した、マークゼロワンブイだよ」

 自慢げに修也が紹介してくれた。

 雨ざらしになっているためか、ところどころ錆びた体に、切れ込みがある。想像するに電源を入れると、そこから腕や脚が生えてくる仕様のようだ。

 全体のイメージは、どこかで見た事があるようなデザインである。昔のマンガに出てきた、飛車角軍曹にいつも怒られているロボットのようだ。

「こっちが最初のマークゼロワン」

 と、対に置かれたドラム缶を指差す。

「どっちも、重要パーツはマークゼロツーブイダッシュを作る時に抜いちゃったから、もう動かないけどね」

「そうなんだ」

 たしかに胴体のそこここに、部品を外した後のような、ネジ穴だったり、カシメ爪だったりが見て取れた。

(この程度なら、マークゼロスリーとやらも、そんなに大した事はなさそうだ)

 朝に警戒していた自分が馬鹿らしくなってくる。

 明らかに自家用車のフレームといった骨組みを回り込んだところで修也の足が止まった。

「これがマークゼロツーブイダッシュ。ゼロツーとゼロツーダッシュは、壊れちゃってもう残ってないけど」

「これって…」

 錆びないように表面処理されているらしい車の骨組みに隠れるように、一体のロボットが立っていた。

 デザイン的には、(とき)の涙を見ることができそうな、とんがった形をしていた。身長は、いまの勇士より三〇センチは高そうだ。

「なんか飛行機に変形しそうな形だよな」

「うん」

 ちょっと口を尖らせた修也は、残念そうに言った。

「飛ばすことができたら、学校まで行くのに楽かなって思ったんだけど。この時は、推進エンジンの開発がうまくいかなくて、諦めたんだ」

「ははっ、ハハッ」

 乾いた笑いしか出てこなかった。普通の高校生は、自作のロボットで空を飛ぼうとは思わないだろう。

「これも、ガワだけなのか?」

「うーん」

 口を尖らせたままの修也は、ちょっと考える顔になった。

「いちおうセンサー類は生きてるよ。だから歩くのは無理でも、見張り番としてココに居てもらってるんだ」

「見張り番…」

 あまりの現実感の無さに、修也がマークゼロツーブイダッシュに、人に対するような言葉使いをしたことは気にはならなかった。

「ただいま。マークゼロツーブイダッシュ」

「オカエリナサイマセ」

「うわ、喋った」

 勇士は飛び上がってしまった。

「うん。ウチのセントラルコンピューターに繋いでるから、会話ぐらいなら可能だよ。でも疑似AIだから、受け答えがトンチンカンな時があるけど」

「せんとらるこんぴゅうたあ?」

「うん」

 修也は住居の方を指差した。

「ロボットの設計とか、会社の帳簿とかに使うんで、ちょっと大きめのコンピューターが入れてあるんだ、ウチ」

 勇士は呆れたのか声が出なかった。

「やっぱり、儲かるのか? ろぼっと」

「どうなんだろ」

 難しい顔をした修也は勇士を申し訳なさそうに見上げた。

「会社の経営には、まだ関わったことはないから」

「いやいや」

 勇士は自分に置き換えてみた。確かに父親がやっている仕事に関して、概要は知ってはいるが、それがどれだけ利益を上げる物なのかは知らなかった。

「とすると…」

 ふと気が付いた。

「やっぱり、シュウが次の社長なのか?」

「どうだろ? オジサンも居るし。それに,おとうさんもまだまだ元気だよ」

「もし、オレが職にあぶれたら、雇ってくれよ」

「それは大歓迎だよ」

 これまでにない程の明るい笑顔であった。

「さてと」

 修也は顔を引き締めると、小屋と相対した。

 小屋自体は、やはりコンクリートブロックを積み上げた上にペンキを塗った簡素な造りで、鉄製らしいドアの横に、錆びた可燃物注意のホーロー看板がつけられたままだった。おそらくかつては燃料庫として使用していたのではないだろうか。

 真剣な顔になった修也は、やたらと気合が入っている様子。もしかして「せんとらるこんぴゅうたあ」がある家だ、個人認証やら何やら手間がかかるのかもしれない。認証に失敗すると、レーザーガンで狙われるとか、研究所が自爆するとか…。

 修也は錆びの浮いた鉄製ドアに手をかけた。

「ふんんんんんんんんんんっっっ」

 顔が真っ赤になる程力を込めて、赤い扉を開き始めた。

「錆びちゃった上に、建て付けが悪くって」

 想像していた事よりも庶民的なトラブルに、勇士はコケそうになった。

「手を貸すよ」

 修也の手の上から、曲げた鉄筋を溶接しただけの取っ手を掴んだ。

「え」

 パアッとシャクナゲのように、白磁の肌を赤くさせた。まるで、ふいに恋人と手が触れた乙女のようだ。男だけど。

「よし、せーので開けるぞ。せーのっ!」

 ガラガラと、ドアが開くというより、積んだガラクタが崩れるような音を立てて、ドアが開いた。実際、錆びた鉄粉が二人にかかったぐらいだ。一人で開ける時はどうしているのだろう?

 研究所の中は真っ暗だった。ブロックを積み上げただけの窓もない建物だから、当たり前である。

 それでもドアから差し込む太陽光で、八畳ほどの室内がうっすらと見通すことができた。

 真ん中に、工場に置いてあったのと同じ鋼鉄製の作業台がドンと置いてある。

 そこまで認識したところで、勇士の視界が真っ白になった。

 扉脇にあった照明のスイッチを修也が入れたようだ。研究所の中央に吊るされた大光量のLED照明が、狭い室内に影が存在しなくなるほどの明るさをもたらしたのだ。

 目が慣れてくるにつれて、室内の様子が分かって来た。

 広さは八畳ほどあるコンクリート製の立方体の空間。鞄の中までキッチリしている修也らしく、部品や工具、ネジなどが散乱していることなどなかった。

 工具なんかは、壁に取り付けられたフックへ、種類ごとにかけられているぐらいだ。

「これは…」

 だが、そういった内部の状況は、後になって分かった事であった。

 室内の状況を確認した勇士は、まず驚きに支配されていた。

「ゆ…」

 極度の緊張で一気に水分が失われた口腔内に、舌が貼りついてうまく言葉がでなかった。

「ゆうかい?」

 作業台の向こうには、一脚の椅子が置いてあり、そこに小学生ぐらいの女の子が、チェーンで縛り付けられていたからだ。白い肌に桃色のワンピースを身に着け、脱色したらしい髪は、肩甲骨あたりまでの長さをしていた。

「え?」

 勇士の問いかけに、キョトンとした修也が、女の子の横で止まった。

「ゆうかいって?」

「シュウ…。お前はこういうことをやらないと思ってたが…。やっちまったか?」

 椅子の上に後ろ手に縛られている女の子は、眠っているのか目を閉じてわずかに首を傾けていた。

「こういうこと? やっちまった?」

 不思議そうな顔をしていた修也が、突然理解したように笑い出した。

「違うよユウジくん。これがボクの開発したロボット、マークゼロスリー『ブルー・イリス』だよ」

「ぶるうす・うぃりす?」

 禿げ頭のハリウッド俳優と、目の前の女の子が結びつかずに、勇士は及び腰のまま聞き返した。

「違う違う」

 小さくお腹を抱えて笑った修也は、女の子の左肩に刺青の様に書かれたロゴを指差した。

「まあくぜろすりいらぼとりいりいだあしゅうやえすこおとゆにっとばいいのくまろぼっといんだすとりいぷろだくつの略で、『ブルー・イリス』だよ」

「なんだって?」

 そんな寿限無を一度で理解できる方がおかしいだろう。勇士は顔を歪めて聞き返した。

「だからMk-〇〇〇、laBoratory、Leader、syhUya、Escort、unit、by、Inokuma、Robot、Industry、productSで、『ブルー・イリス』だよ」

「…なんとなくだが…」

 勇士は頭痛を感じたあたりを押さえて言った。

「おまえにコピーライターの才能が、あるようでないような気がするんだが」

 ブツブツと呟いた勇士の言葉は、どうやら修也の耳には届かなかったらしい。椅子の上の娘に、まるで小学生の妹に中学生の姉が促すように話しかけた。男だけど。

「イリス、ユウジくんにご挨拶して」

 女の子がゆっくりと瞼を開き始めた。遠くから小さなモーターの作動音がする。

 睫毛まで生えた瞼の中には、人間の瞳ではない眼球が入っていた。白目や黒目を模してはいるが、まるで昆虫のような複眼であることに間違いない。

「おはようございますマスター。こんにちは、ユウジくん、さん」

「お、おう」

 言葉遣いが変ではあったが、声は自然なものであった。ただ顎関節がまったく動かずに唇だけ動いたので、ちょっと不気味であった。

「あ、ごめんごめん。イリス。彼はオノ・ユウジ。ユウジくんはイリスになんて呼んで貰いたい?」

 修也が苦笑いを見せて勇士に訊ねてきた。強く「じゃあ、お兄ちゃんで」と言いたい衝動に駆られたが、頭の中に明日菜の膨れ面が出てきたのでやめた。

「じゃあ、オノさん、で」

 小学生に見える相手に、まさか「くん」づけで呼ばれるのも変だし、無難な呼び名を選んでおく。

「イリス。できるかな?」

「はい。オノさん。よろしくお願いします」

「ああ、こっちもな」

 段々と喋り方が人間に近くなってくる。それで勇士の警戒心も薄れて、修也とは反対側からイリスに近づいた。

 イリスは小さな首を振って、二人を見比べた。

「今日は何の御用でしょうか?」

「キミが完成したと知って、見に来てくれたんだよ」

「そうですか。ありがとうございます、オノさん」

 チェーンで縛られているので、頷くようにして頭を下げるイリス。

「しかし、私の完成度はいまだ八六パーセントに過ぎません。完成とは言えないのではないでしょうか?」

「そうかな? 後はオプション作るだけだと思っているけど」

「オプション?」

「はい。推進エンジンを合体させて空を飛ぶスカイモード。バラストタンクと完全防水スーツで海に潜るマリンモード。それに両腕をドリルにつけかえて地中を進むランドモードの三つです」

「どこのスーパーロボットだよ!」

 すかさず修也へツッコミを入れてしまった。

 その途端にギシリとイリスを縛っているチェーンが音を立てた。

「ああ、大丈夫」

 修也が勇士とイリスの両方へ言った。

「イリス。今のは暴力じゃないんだ。親愛を示すコミュニケーションだよ」

「それならばいいのですが」

 イリスはちょっと眉を顰めてみせた。人造物とは思えないほどの自然な表情だった。

「ユウジくんも、そんなに逃げないで」

 困ったように修也は、壁際まで逃げていた勇士へ声をかけた。

「いちおう、今の行動シミュレートだよ」

 修也は自分のスマートフォンを取り出して、線画で表示されるアニメーションを勇士に見せた。画面の中で、椅子から立ち上がったイリスが、二人の間に割って入って、両腕を広げて通せんぼをして止まった。

「護衛が主任務だから、反撃は二の次なんだ」

「う、うん」

 本当にこう行動してくれるならば、勇士へ危害は加えられないだろう。だが、やはり二回も殺された記憶が、勇士を臆病にしていた。

「それにイリスの力では、このチェーンを切ることはできないはずだから。ね」

 最後はイリスに向けた確認だった。

「私のサーボモーター及びアクチュエーターを使用した場合、外皮の破損を無視するならば、二万八千四百回の衝撃を与えて金属疲労を起こさせれば、切断が可能となります」

 勇士はさらにギョッとした。

「そのタスクの終了まで、電源への再充電を含め八万時間かかる計算となります」

「九年か、意外にかかるね。どお? それでも心配?」

「う、まあ…」

 及び腰になって戻って来る。不可能と嘘をつかずに、ちゃんと正直に答えたイリスよりも、八万時間を瞬時に九年と置き換えた修也への驚きの方が大きかった。

「オノさんが私を恐れている様子で、わかりました」

 少し悲し気に声色を変化させてイリスが言った。

「昨日の夜の段階で、なぜ私がこうして縛られた理由が。このためだったのですね」

「ごめんね。イリスに入れた良心(アシモフ)回路を信用していないわけじゃないんだけど。今みたいに経験不足からくる誤解みたいな物があるでしょ」

 まるで縁日の夜店へ連れていってとおねだりする妹を、もう遅い時間だからと説き伏せる姉のような感じであった。男だけど。

「さて、それを踏まえてだけど。ユウジくん。イリスのチェーン解いていい?」

「え」

 不安が津波の様に襲い掛かって来る。

「いちおう内部電源にはあまり充電されていないから、外部電源になる」

 と壁から冗談のような大きさのコンセントを取り出した。

「ヤバイと思ったら、この線を抜けば動けなくなるよ」

「そ、そうか…」

 それでも迷う勇士。しかし女の子が縛られている様子を見ているというのも、なんだか背徳的な感じもした。

「じゃあ信じるぜ。シュウをな」

 それを聞いて頬を赤く染めた。男だけど。

 ワンピースは大きく背中が開いたデザインだった。そこに設けられていた端子とケーブルを接続して、動力の準備は完了した。それから後ろでチェーンを繋いでいた留め具を外すと、ジャリジャリという音を立てて、それは床にとぐろを巻くように落ちた。

 いつでも逃げられるように引けた腰で立っていると、イリスは椅子から立ち上がり、両手を前にペコンとお辞儀した。

「改めましてオノさん。マークゼロスリー『ブルー・イリス』です。よろしくお願いします」

 立ち上がったイリスは、本当に小学生ほどの身長しかなかった。それなのに、まるで本物の人の様にしか見えない。各有名企業が発表している、ただの歩くだけのロボットや、足は車輪でコミュニケーション能力を優先させたロボットなんかより自然体であった。

 桃色のワンピースがとてもよく似合う女の子。そういった表現が一番近い存在であった。

 と、ふいにイリスは開けっ放しになっているドアの方を振り向いた。

「?」

 勇士が不審がっていると、いかにもな電子音をさせた後に、修也の方へ振り返った。

「兄によりますと、何者かがここへ近づいてくるようです」

「あに?」

「表のマークゼロツーブイダッシュのことだよ。イリス誰だか分かるかい?」

「兄のセンサーによると、九〇パーセントの確率で…」

 イリスが喋り終わる前に、ドアのところから声がかけられた。

「あらあら、まあまあ」

 見ると大学生ぐらいの女性が、研究室の中を覗き込んでいた。頬に手を当てて、嬉し気に目をキラキラさせている。

「だれ?」

 勇士の問いに、修也が声を発する前にイリスがこたえた。

「おかあさんです」

「とうとうイリスも立ち上がれるようになったのね。こんにちは、イリス」

「こんにちは、おかあさん」

 ペコリと勇士にやったようにお辞儀するイリス。

 慌てて勇士も姿勢を正した。

 すると、おかあさんと呼ばれた女性は、とても不満そうに頬を膨らませた。

「違うでしょイリス。やりなおし」

 そのちょっとだけ怒った声に、修也へ視線をやるイリス。修也がちょっと疲れたような顔をしてみせた。それで許可を得たと判断したのだろう。イリスは右掌を女性に向けて挨拶をやりなおした。

「おかあちん、おはこんばんちわ」

 声まで変わっていた。そしてなぜか勇士も疲労感に襲われた。

「はい、おはこんばんちわ。イリスは、『きーん』ってマッハで走れるようになった?」

「歩行すら困難な私に、それは無理です」

 すぐに真面目な声に戻ったイリスが否定した。

「ええと、おかあさん」

 冷や汗を掻いた声で修也が前に出た。

「こちらはクラスメイトの小野くん。ユウジ、ボクのおかあさん」

「はじめまして」

 ペコリと頭を下げて、その女性を改めて見る。どう見ても自分たちのお姉さん世代にしか見えない外見であった。おとなしめの柄をしたブラウスに、灰色のロングスカートというスタイルである。顔の造形は、彫が深いがまだ日本人の範疇であったが、頭は見事な金髪であった。瞳の色は青とも緑ともとれる色をしていた。

「まあまあ」

 ニッコリ笑っても法令線すら見当たらなかった。

「シュウヤがお友達を連れてくるなんて、久しぶりね。イリスを見に来てくれたの? お茶を持って来るわね、頂いて下さいな」

「あ、ええと、おかまいなく」

 勇士の言葉は聞いていなかったのか、ウキウキとした足取りで来た道を戻っていく修也の母親。

「なんていうか…」

 まだ驚きの顔を隠せない勇士は、修也に言った。

「若いお母さんだな」

「うん」

 勇士が想像も出来ない苦労でもあるのか、修也は疲れた顔を隠そうとしなかった。

 壁際に置かれた折り畳み椅子を出して待っていると、四人分の茶器を持った修也の母親が戻って来た。

 鋼鉄製の作業台がお茶会の会場へと変化した。

 町の葬祭場で見るような何人分入るか分からない程大きい急須を傾けて、四つ用意したプラスチック製のコップへと注ぐ。淹れてくれたのは、その東洋人離れした外見に似合わず緑茶であった。お茶菓子もお饅頭である。

 まず、お客さんである勇士の前に、そして修也、イリスと続いた。

「おかあさん。私に飲食は不要ですが?」

 当然の疑問としてイリスが発言した。

「のんのん」

 人差し指を横に振ってウインクする修也の母親。これまた様になっている仕草であった。

「飲まなくてもいいのよ。こういうのは形が大事なんだから」

 両膝の上に手を置いてかしこまって座っているイリスを見ていると、たしかに彼女だけお茶が配られなければ、イジメをしているようで落ち着かないことだろう。

「で? それでイリスは完成なの?」

 コップを傾けている修也に質問が飛んだ。

「いちおう、そのつもりなんだけど」

「ふーん」

 余裕のある態度で、しかも品定めしているような目で鼻を鳴らされてしまった。

「マスター。私の完成度は…」

「じゃあイリスはこれから動作試験なの?」

 先程と同じことを告げようとしたのだろう。口を挟もうとしたイリスの声に、母親の声が被さった。

「うん…、じゃなくて、はい」

「じゃあ、スーパーでお夕飯の買い物してきて。メモは入れてあるから」

 と、茶器やらお菓子やらを入れてきたバッグを取り出した。その時から準備していたとは、確信犯である。

「え、まだイリス一人に行かせるのは、早いよ」

 腰を浮かせかけた修也に、ニッコリと微笑み返す。

「三人で行って来ればいいじゃない。小野くんも、お夕飯あがって行ってね」

「えー」

 修也が脱力したように声を上げた。

 まあ、勇士はロボットを動くところを見に来たわけだから、イリスと一緒に行動する事に反対する意思はない。ただ、夕飯までご馳走になると、家にはうるさい者が約一名いるわけで…。

「いや、あの。夕ご飯は家で食べないと…」

 なんとか断ろうと声を捻りだすが、それを修也の母親は真っ向からの笑顔で撃破した。



 お茶の席で、修也の母親にしつこいぐらい訊かれたのは、彼のクラスでの様子だった。たしかに、いじめられっ子体質の修也を、母親として心配するのはわかる。そこで修也は、春に助けてくれたのが勇士であったことを打ち明けてしまった。

「それを聞いたら、もう絶対食べていってもらわなくちゃ」

 それを聞いて感動したのか、修也の母親は腕まくりしてみせるほどだった。

 タイムセールが始まる時間に合わせて、修也とイリス、三人で猪熊家ご用達の近所のスーパーへ。歩いて片道一〇分の距離であった。

 さすがに、その距離を外部電源のケーブルを引きずって歩くわけにもいかず、イリスの体内電池へ急速充電することになった。

 こんな長距離を歩行するのすら初めての事だったらしく、修也はイリスの状況をチェックするために、自分のスマートフォンと首っ引きであった。

 歩行には問題はなかったようである。

 買い物バッグに入っていたメモを取り出し、野菜売り場へ。ニンジンにジャガイモ、それにタマネギを店内用のカートへと入れていく。次は精肉売り場。そこでカートに入れたのは豚コマであった。

「まさかと思うが…」

 勇士は重い口を開いた。

「もしかしてカレー?」

「そうかも」

 モニターに忙しい修也の返事は、気が入っていなかった。これで勇士は、またカレーである。まあラーメンと並んで国民食と呼ばれるぐらいのメニューだから、嫌いではないのだが、こう続くとつらいものがある。

 カートを押してレジへ。驚いたことに支払いは現金であった。ロボットの動作試験なのだから、クレジットカードで簡単に済ませると思っていたので、意外だった。

 しかもイリスが、バッグに入っていたガマグチから、おつりが出ないように一円単位で小銭を出したのも驚いた。

 まず自然な様子でレジのオバサンと会話しているのが凄い。そして小銭を一つ一つ認識しているのも凄い。さらにいくら人間の皮膚に似せた外皮を持っているとはいえ、小銭を摘まみ上げたマニュピレーターの性能も凄かった。

 わざとだろうか、小銭の中には錆びて色が変わった物すら混ざっていたのに、間違えはしなかった。

 それから、ちゃんと家に帰って、住居の玄関でバッグを母親へ渡して、動作試験は終了ということになった。

 残念ながら、そこで電池が切れたらしく、一歩も動くことが出来なくなったからである。

「じゃあ、できるまでシュウヤと遊んでいて」

「はあ、まあ」

 その笑顔に毒気を抜かれて、やっぱり勇士は夕食を断ることはできなかった。

 動けなくなったイリスを、修也と二人で研究所へ運んだ。

 驚いたことにイリスの体重は、外見に似合った物であった。いくら線の細い修也でも、なんとか運べそうな重さである。もちろん、それを二人がかりでならばたやすい仕事だった。

 いや、やはり二人必要だったかもしれない。やっぱり研究所のドアは開きにくく、運ぶよりも力が必要だったからだ。

 最初に会った時の椅子へイリスを座らせ、また誤作動などを抑制するために、チェーンで縛り上げる。やはり見た目はとても悪い。

 それから最低限の充電をするために、再び外部電源と接続した。

「こんなものかな?」

 一仕事終えて、勇士は作業台の椅子に座った。そこには先ほど出かける前に使用していた茶器などが、まだ置いてあった。

「まだ入ってる?」

 急須を持ち上げてみると重さがあった。ぬるまってしまったが、喉を潤すにはちょうどいい。勇士は自分が使っていたコップへ、お茶を注いでから修也を振り返った。

「シュウもいるか?」

「あ、うん。お願い」

 何やらイリスのそばで作業を続けていた修也が、こたえを返してきた。

「しかし…」

 急須を傾けながら勇士はイリスを振り返った。

「よくそんなに軽く作れたなあ」

 家族でドライブ中に電装系のトラブルで、車のバッテリーを持ち上げた時を思い出して、勇士は修也に訊いた。

「どんな電池を使ってるんだよ」

「え?」

 不思議そうに振り返る修也。そして何でもない事の様に言った。

「科学部の御門くんに貰った、超電導素子がフレームに埋め込んであるんだ。容量は、ええと一個あたり八メガファラドだったかな?」

 それがどのくらいか分からなかった勇士は、とりあえず納得した振りをすることにした。

「正確には七、九五メガファラドです」

 体内の充電が切れても喋ることはできるらしい。イリスが細かい数字に訂正した。

 修也も飲むだろうと、彼のコップへもお茶を注ぐ。その風景が紫色だったのが異様に感じられて、勇士は顔を上げた。

 開けっ放しのドアから夕焼けが入り込んでいた。

 外からの風が気持ちいい。勇士は自分のコップを片手に、ドアのそばまで歩いて行った。

 台地の上なので夕焼けが残りやすいのか、紫に染まった雲が目に優しい。

 どこかで犬が吠えているのが聞こえる。

「キララ? まさかね」

 その声が、自分で保護した雑種犬のものに似ていた気がした。が、キララは家で留守番をしているはずだ。首輪から抜け出す悪戯をする犬もいるらしいが、キララはそういうことをしたことはない。

(あ、そうだ。アスナに連絡しないと)

 そよ風に吹かれながら、勇士はぬるくなって飲みやすくなったお茶を楽しんだ。

「ユウジくん」

 いつの間にか、修也が脇に来ていた。

「ん?」

「帰っちゃうの?」

「いや、どうしようかなって…、あれ?」

 グラリと地面が揺れた気がした。最初は地震でも起きたかと思ったが、悲しそうな目で見てくる修也が、全然慌てていないところを見ると、そうでは無いようだ。

「おか…、し…いな」

 段々と呂律が回らなくなってくる。体が重い。

 そして勇士の意識が薄まって行った。



 次に勇士が目を開けると、世界は真っ白になっていた。

「?」

「あ、気が付いたんだね」

 脇から声をかけられて、首を巡らせる。どうやら固い何かの上に寝かされているようだ。

 視界が真っ白な理由が、段々と分かって来る。自分は作業台の上に寝かされているのだ。そこから天井に吊るされた大光量LEDを見上げている形になっていた。

 体がほとんど動かせない。動かせる範囲で首を捩じると、自分の体が作業台にチェーンで縛り付けられているのがわかった。

「な、なんだ?」

 眩しすぎて、目がシパシパする。首を起こして室内を見ようとすると、作業台の脇に修也が立っているのが見えた。

「目が覚めた?」

 ニッコリと微笑みを向けてくる。その手に、何か散剤を包んでいたような小さな袋が摘ままれていた。

「不眠症のおかあさんの薬なんだ。ユウジくんにも効いてくれて、よかったよ」

「こ、これは、どうゆうことだ?」

「ん?」

 部屋の隅にあるゴミ箱へ手にした物を捨てながら、修也は不思議そうに振り返った。

「どういうって、簡単なことだよ」

 作業台の脇に戻ってくると、椅子に座って両肘をついた。そのまま両手で自分の頬を包み込むようにして、勇士を眺めるように見てくる。

「聞きたいことがあって」

「聞きたいこと?」

 嫌な予感に襲われている勇士は、背中に冷や汗を掻いていた。

「うん。まず部長さんのこと」

「ブチョー? 飯塚さんがどうした?」

「好きなの?」

 小首を傾げる姿が良く似合っていた。

「気に入らない人だったら、同じ部活にいねえよ」

「次」

 ちょっと眉を顰めた修也が機械的に言った。

「あの幼馴染さんは、どういう人?」

「だから幼稚園から中学まで一緒だっただけだって。普通の頭じゃないって、説明しなかったっけか?」

「ふーん」

 気のない様子で目を細められた。

「でも好きなんでしょ?」

「腐れ縁だし、他に面倒見る人がいないから相手してやっているだけだって」

「美人ばっかり、はべらして」

 キュッと表情が硬くなった。

「いや、だから、言ったろ。シュウならブチョーとカップルになれるかもって」

「ちがうちがう!」

 頭を激しく振って修也は否定した。

「ボクはねえ、ユウジくん。キミのことが好きなんだ」

 幼馴染に改めて告白できた女子高生のような微笑みを向けられた。男だけど。

「ちょっと待て」

 勇士は嫌な予感に襲われた。

「オレは男で、おまえも男だ。友人としてなら大好きだぜ。これからも仲良くやって行ける」

「嫌だよ」

 ばっさりと一言。

「ユウジくんの全てが欲しいんだ。誰にも渡さない」

「おまえ…」

 怒りすら覚えて、勇士は怒鳴り声を上げた。

「男同士なんて、ばっちいとか何とか言ってたろ!」

「そうだね。男同士だと、問題があるね」

 修也は椅子から立ち上がると、工具がかけられていた壁に歩み寄った。そこから電気ドリルを手に取って、適当なサイズの刃を取り付ける。

「だから、これで穴を新しく開けちゃえばいいと思うよ」

「まてまて! 人間はそんな簡単にはできてない! 後から穴を開けるなんて!」

「マスター。それは傷害罪になります」

 頭の上からイリスの声がして、ギシリとチェーンが軋む音がした。

「大丈夫。これは愛なんだから」

 ニヤリと嗤った修也は、ドリルのスイッチを入れて、勇士に歩み寄って来た。

「愛はすべてを超えるんだよ」

「まてまて! あっー!」



「…次のニュースです。昨夜八時ごろ、東京都××市の工場兼住居から『助けに来て』と匿名の通報を受け、警察官が駆け付けたところ、工場の中で高校生の小野勇士さん十五歳が腹から血を流して縛られているのを発見しました。小野さんは、すぐに救急車で運ばれましたが、病院で死亡が確認されました。小野さんは同じ学校に通う、工場の経営者の長男である少年のところへ遊びに来ていたところ、少年と口論となり、誤って工具で傷つけられたものとみられ、少年は警察に保護されました。警察は少年の言動の一部におかしなところがあるとして、これが事故か事件なのか慎重に捜査する予定です。…次です。市役所のロビーにマッチ細工の五重塔が…」



 厚い霧の中を歩いていくと、テレビのニュース番組のような音声が聞こえてきた。

(またか…)

 一種の脱力感のような物が肩のあたりに纏わりついた勇士は、とりあえず自分の下腹部を確認した。

(ついてる…)

 なぜか安心した勇士は、前方の暖かい光の方へ歩いて行った。

 やはり、なにかの石碑のような大岩が見えてきて、その前に白い服を着た老人が立っていた。

 長い髪も髭もすっかり銀色に染まっており、鋭い目元など記憶にあるままだ。

 穏やかに見つめてくる視線は、どこかガッカリしたような感情が込められており、勇士が彼の前に立つと、長い髭に包まれた口元を開いた。

「おお勇士よ、死んでしまうとは情けない」

「ちょっとまてよ!」

 少々怒気の含んだ声を上げてしまう。

「なんでシュウにまで殺されなきゃならねえんだよ!」

「わしゃ言ったはずじゃ」

 激昂している勇士に噛んで含めるように言った。

「一週間の間に、死なないように努力するのじゃぞ、と」

「だからって、木曜日にあんなことが起こるなんて!」

「まあ、あれは猪熊修也の愛が重かったのだがの」

 老人の左手が動いた。霧の表面を撫でるような仕草をすると、霧が粘土のように均され、そこが鏡のように変化した。以前に見たのと同じであった。

 やはり、どこかのテレビ局のニュース番組が流されていた。

 勇士には馴染みのない町並みが写っており、カメラが壁に囲まれた工場を見上げるように映していた。定期的に赤い光が入るのは、警察車両の回転灯だろう。

 規制線のあたりには野次馬が集まっていた。その中には、散歩の途中だろうか、キララのような犬を連れている者も混じっていた。

「ああ、キララ」

 その犬を自分が保護した雑種犬に重ね、勇士は悲し気な声を漏らした。

「そうか、オレ…。死んじまったのか…」

 愕然として絶句する勇士。

「また、自分の死体が見たいかの?」

 その質問に、慌てて首を横に振る。きっと工具でグチャグチャにされた肉塊になっているはずだ。

「さて、勇士よ」

 老人は手の一振りで映像を消した。

「若くして死んでしまったオヌシであるが、やり直したいとは思わんかね?」

「え?」

 背筋を伸ばして勇士は相手を見つめなおした。

「オレ、まだ生き返ることができるのか?」

「ダレが、これきりと申した。オヌシは捨て犬だったあのコを助け、世話をしてやるほど優しい者。それをこの程度の失敗で死なしてしまうほど、わしゃ冷たくはない」

 胸を張る老人に、後光のような物を感じた勇士は、思わず手を合わせた。

「あ、ありがとうございます」

「それで?」

 あくまで優しい態度のままで勇士に訊いた。

「どうする? 一週間やりなおしてみるかね?」

「はい! あの学校が、あんな気●いだらけとは思わなかった。今度は誰も相手なんかせずに、生きます! よろしくおねがいします!」

「よろしい。いい返事だ」

 微笑みが大きくなると同時に、再び勇士の視界は霧に包まれた。

 どこからか彼の言葉が聞こえてきたのが最後だった。

「一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ」




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