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水曜日



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「うーん」

 ベッドで上体を起こした彼に、すでに学校の制服を着ていた明日菜が振り返った。頭の両側で結んだ髪が、遠心力で丸く宙を舞った。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 勇士は明るい明日奈の笑顔をまじまじと見た。

「どしたの?」

 呆然としている兄に、アスナが不思議そうな顔をして見せた。

「いや、今日は何曜日だったっけか?」

「ヤだなあ、月曜日だよ。一週間が始まるんだから、元気よく行きましょう」

 励ます言葉を口にしながら、明日菜は部屋を出て行った。

 ベッドからノロノロと起き上がり、クローゼットの扉を開いた。そこに備わっている鏡をのぞき込むと、いつもの自分がいた。

「夢?」

 変な夢を見たと思おうとした時だった。鏡に映った自分の顔が、霧の中の老人に入れ替わった。

「!」

 驚いてたじろぐと、鏡の中の老人が口を動かした。

《勇士よ。一週間の間、死なぬようにするのだぞ》

 そう勇士に告げると、微笑みを見せて消え失せた。

「夢じゃないのか…。月曜日…。今日を無事に過ごしても、明日キョウコに殺されるのか…」

 額に浮かんできた脂汗を拭い、しばし呆然と立ちすくんだ。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

 階下から明日菜の催促して来る声が無かったら、一日そうしていたかもしれない。

「おう!」

 声だけは元気よくこたえ、勇士は腕組みをしてこれから起きることを順番に思い出そうとした。

 大丈夫だ。まだ順序だてて思い出すことができる。これならば悲劇を回避できるかもしれない。

(死んじまう運命なんか、変えてやる)

 制服に着替えた勇士は、鏡の中の自分を睨みつけながら決意した。



 それから勇士は記憶の中にある昨日の今日を再び経験することになった。

 毎日同じような朝食は、まあ置いておくとして、明日奈が鍵をかけているときに顔を出した恭子に、一瞬だけ殺意のような物が芽生えたが、それを長年の友情で抑え込んだ。

 登校して階段室で刀剣研究部の部長である咲弥と出会ったのも同じだし、隣の席の修也が雑誌を読んでいるのも同じだった。

 昼飯を学食で済ませ、午後の授業も平穏に過ごすことができた。

 ついでに、そんなところまで同じでなくてもいいと思うのだが、放課後になって自分のバッグのゴミをまとめて投げたら、クラスメイトに当たってしまったのも同じだった。

 その後、朝の階段室で咲弥と約束した通り、D棟二階の学生会館にて刀剣研究部の主要メンバーが集合した。

 博物館から『白露』が借りられるとご機嫌な咲弥を見て、同じようにプリント作成の提案をしてから、少し後悔した。

(また、あのバインダーを調べなきゃいけないんじゃん)

 しかし提案してしまった物は仕方ない。咲弥と修也と三人でC棟二階の図書室へ移動し、資料を探すこととなった。

 ただ記憶の中では昨日のこと、どこに重要な資料があるのかは、大体わかっていた。

「すいません」

 入口をくぐったところにあるカウンターについていた気の強そうな女子生徒に、いきなり訊くことにする。

「オレ…、じゃなくてボクたち刀剣研究部は、今度大学の博物館から『白露』っていう日本刀を借りられることになりまして。その日本刀について調べたいんです」

「はあ」

「閉架にそういう本があるか調べてもらえませんかね」

「ちょっと待ってください」

 静かな図書室なのに大声で閉架係を呼ぶところまで一緒だった。順序が逆になったが、咲弥のために当番の女子に訊く。

「あと、開架で日本刀に関する文献がある棚を教えてもらいたいのですが」

「どうしたのよ」

 カウンターから当番の女子が出てくる間に、脇へ寄って来た咲弥が感心した声を漏らした。

「なんか、今日の小野くんは、デキルじゃない」

「オレはいつもデキル男っすよ」

 まあ、これから起きることを知っているからこそ先回りなど造作もないことだ。

「ブチョーは開架の本を探してください。オレは閉架の本を当たりますから」

「了解よ」

「ボクは?」

「シュウはコッチを手伝ってくれ」

 一人だけ離れた書架に行かされるのが不満だったのか、咲弥が少し不機嫌な顔をして、カウンター当番の女子と歩いて行った。

「じゃあ、コンピューターで検索かけてみましょうか」

 出てきた閉架係にパソコンで検索をかけてもらう。

 記憶のまんまの反応をすると、閉架係は扉の向こうに消えていった。

「よかった、あるみたいだね」

 修也が静かにしなければならない図書室で、喜びのあまりはしゃぎそうになる自分を押さえて笑顔になる。まるで図書室のマナーを覚えたての女子小学生のようだ、男だけど。

「閉架では、この二冊しか無いようなんだけど」

 閉架係が戻ってくると、ドンとカウンターに荷物が置かれた。

 やはりまず目につくのは、やはりブ厚いクリアファイルバインダーであった。百科事典でもそうそうないような厚さである。

 その上に白亜色をした教科書のような小冊子が置かれていた。小さな字で表題が印刷されていた。

(よかった、記憶の通りだ)

 ここで自分の記憶と違う資料が出てきたら途方に暮れるところだった。

「じゃあ、はじめっか」

 前回と同じように、白亜色をした小冊子を咲弥に任せ、二人でバインダーを調べることにした。



「あー、足が張った」

 立ったままで図書室の閉架時間までバインダーと向き合っていた勇士は、小野家の居間に置いてあるソファに転がっていた。しかも、せっかく調べてもほとんどが採用されていないと分かっているから疲労感も倍増である。

「コラ、おにいちゃん」

 かわいいエプロンをつけた明日奈が、オタマを持ったままやってきた。

「食べた後にすぐ横になると、牛になりますよ」

 時計は進んで午後八時。小野家では夕食がすんで、ホッとする時間帯である。

「おにいちゃんがゆーこと聞かなかったら、コレでポコンってやるからね」

 明日奈が手にしたオタマを振りかざす。

「オイオイ、やめてくれよ」

 いちおう金属製であるから、中学生の明日奈が振り回しても頭にコブができるぐらいの威力はある。そんな目にあいたくない勇士は、慌ててソファに座りなおした。

 それでも足は長手方向へと伸ばし、ついでにマッサージも兼ねて手でさすってやった。

「なんかあったの?」

「ん? まあな」

 なんと言って説明していいのか分からない。採用されないと分かっている資料を集めていましたと言ったら、最初からやらなきゃいいじゃんと答えが返ってくるのが分かり切っている。

「足、いたいの?」

 心配げに明日奈が顔を覗いてきた。

「いや、ちょっと疲れただけ…」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 咄嗟に勇士の頭がフル回転を始めた。

(そうだ。オバサンがウチにキョウコが来てないか聞きに来て、それから探したんだっけ)

 返事が無いからだろうか、もう一度チャイムが鳴らされた。

「はあい」

 明日奈がこたえてしまう。勇士は足をさすりながら明日奈に言った。

「オレ、足痛いから、代わりに出てくれるか?」

「うん、いいよ」

 オタマを戻す時間だけ待ってもらって、明日奈が玄関の方へ行った。玄関の扉を開けると、散歩を催促するキララの啼き声がリビングまで聞こえてきた。

(たしか、公園にいるキョウコと話して、送って行くんだったよな。それで急に服とかお洒落になって、いっそう変になって)

 おそらく月子に明日奈が、恭子が来ていないか訪ねられている玄関の方向を見て、思考のフル回転を続ける。

(つまり、いまからキョウコに会わなければ、明日のキョウコも変わっているはず)

 そうこうしているうちに明日奈が玄関から戻って来た。

「なんだった?」

 いちおう新聞の勧誘かもしれないので、曖昧に訊いてみる。

「うん、キョウコちゃんのオバサンだった。またいなくなったんだって。で、ウチに来てないか~って」

「そうかー。で? オバサンは?」

「もう少し探してみるって行っちゃったよ。なんか用事あったの?」

「いや…」

 そこで勇士は唾を飲み込んだ。なるべく自然になるように明日奈へお願いしてみる。

「あのさアスナ。オレ、足痛いんで、キララの散歩代わってくんない?」

「えーっ」

 眉を顰めた声を上げる明日奈。

「たのむよ」

「もー、朝はアスナで、夕方はおにいちゃんって決めたじゃんー」

「な」

 拝み倒すと、少し膨れた明日奈はエプロンを外し始めた。

「その代わり、洗い物やっておいてよね」

「まかされた」



 洗い物も終わって、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

「今日は色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(よし…)と勇士は思う(キョウコとは距離感に気を付けてつきあえば大丈夫だろう。この一週間だけだ、そうすればいつも通りに戻れるはず)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

「今度こそ死なないぞ」

 ポツリと漏れた自分のセリフに背筋へ震えがきた。

 目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

《一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ》

 幻聴だろうか、再び声が聞こえてきた気がした。

「わかったよ、神さま。おやすみなさい」

 またあと六日。勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「うーん」

 ベッドで上体を起こした彼に、すでに学校の制服を着ていた明日菜が振り返った。頭の両側で結んだ髪が、遠心力で丸く宙を舞った。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 制服へ着替える勇士を置いて明日奈が階下へ降りて行った。勇士はクローゼットを開けると、そこにある鏡を覗きこんだ。

 ちょっと顔色の悪い自分がいた。まあ、それもそのはずである。一歩間違えれば、今日は死ぬ日なのだから。

(ろくな顔じゃねえや)

 などと思っていると催促の声がかかった。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

「おう!」

 声だけは元気よくこたえ、赤いネクタイを首に巻き付ける。

 ダイニングにはトーストにサラダという小野家では定番の朝食が待っていた。

 手早く朝食を片付け、揃って玄関を出る。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 地面に寝転がって腹を見せている愛犬の毛皮を撫でながら、明日菜はそう語りかけているところまで同じだった。

(よし。記憶の中にある火曜日と同じだ。これでキョウコが変わっていれば…)

 家族である一人と一匹を見おろしながら、勇士が思っていると声がかけられた。

「肉がイル」

 振り返るのに勇気がいった。そしてそこに今日も狂人が立っていた。

「よう。おはよう」

 恭子が着ている服は、昨日と同じ白いワンピース。薄汚れた様子から、着替えていないことが分かった。

 ちょっと近づくだけで目に染みる体臭まで一緒である。

そして右手に持っている物は、なぜかニンジンであった。

 朝から街角に立つ狂人に、通りがかっただけのサラリーマン風の男が、わざわざ進路を捻じ曲げて道の向こう側を通過していった。

 明日奈とキララを見ていた恭子が、視線を勇士に戻した。

「ごきげんよう、ユウジ」

「キョウコは、いつも通りだな」

 手にしたものが変わっているので、安心して声をかけられた。

「ユウジこそ、いつモその肉たちと一緒にいルのね」

「肉じゃないよ。妹のアスナだよ」

「あすな?」

 とても不思議そうな顔をしてみせた。記憶の中にある恭子の行動が半日遅れてやって来るのではと、勇士は内心冷や冷やである。

「それと、キララだよ。可愛いだろう」

 少し変わったことをすれば反応が変わるかと、勇士はキララの横へしゃがんでみせた。

 キララは(あ、いつもの只者じゃない娘さんですね)と言わんばかりに、少し体を固くしていた。

 立ちすくむように勇士とキララを見比べていた恭子は、ゆっくりと口を大きく開いた。

「電車が発車しまース。白線の内側へお下がリくださーい。シュッポーっ」

 大声で宣言すると、ニンジンを振り回しながら歩き出す。その声の大きさに、通りがかった小学生たちが一斉に道の反対側へ逃げた。

 近所で暴力的な異常者で知れ渡っているのだ。

 その去っていく後ろ姿を見送って、本当はいけないことだと思いながらも、勇士はほっと一息ついたのだった。



 それから勇士は記憶の中にある火曜日を再び経験することになった。

 登校して階段室で刀剣研究部の部長である咲弥が待っていたのも同じだし、隣の席の修也がボードゲーム研究部のオリジナルゲームとやらを読んでいるのも同じだった。

 昼飯を学食で済ませ、午後の授業も平穏に過ごすことができた。

 課業が終了すれば、部長の咲弥が待つ刀剣研究部の活動である。

 再び支度に手間取った修也と一緒に、C棟二階にある図書室へと赴いた。

(たしか今日中に資料を集め終えるんだっけ)

 再び閉架のバインダーを捲り続ける作業。その間に部長の咲弥が刀剣鑑賞の解説本までチェックするのまで一緒。

 いいかげん太ももへ血が溜まってきたこと自覚してきた頃。勇士の指が最後のページへ到達した。それでも前回よりは早かった自覚はある。

 咲弥もそのころまでに小冊子の参考になるページの当たりをつけており、勇士たちが選んだチラシとあわせてコピーを依頼した。

「編集作業はどうします?」

 記憶の通りに咲弥に訊いてみた。もちろん自宅でその作業をするように誘導するのを忘れない。ただ刀剣研究部のためというより、一人で帰るのが怖かったということの方が大きかった。



「へー、バスで通学なんだあ」

 修也が、初めてバスに乗る女子小学生を連想させる勢いではしゃいでいた、男だけど。

 そんな無邪気な修也を放っておいて、勇士は自分の表情が険しくなっていく自覚があった。

 なにせ下手すると数時間後に殺されるという、自分の運命を知っている身なのだ。

 その顔を見て咲弥が心配そうに訊いてきた。

「人数は少ないとはいえ、押しかけちゃって大丈夫かしら? ご両親に叱られない?」

「気にしなくてもいいっすよ。ウチ、親は両方とも海外出張でいないんで」

「え…」

 のけぞるほど驚いた咲弥に、表情をいつもの快活なものに戻して、何でも無いことの様に勇士は告げた。

「妹と、犬のキララと、二人と一匹で暮らしてるんで、近所迷惑にならなければ宴会だっていけますよ」

「あのね」

 とても深刻そうに眉間へ指を当てた咲弥は、修行僧のような声を出した。

「そういう大事なことは早く言ってね」

 どうやら怒るというか呆れられたような気がする。そう感じている間に、風景が見慣れたものになってきた。

「あ、次っす」

 勇士の指が降車ブザーのボタンを押し込もうと手をのばした。少し躊躇したのは、やはり自分が殺されるかもしれないという恐怖からだった。

 農協前のバス停に三人は降りた。

(もうここまで来たんだ。あとは油断せずに行動すればいいんだ)

 背中に汗をかきながら、勇士には生まれ育った町を歩く。その悲壮感が肌から滲み出てしまったのか、道中は三人とも無言になりがちであった。

(この角だ)

 覚えている角の向こうに、人影が立っていた。

 そろそろ夕陽と変化を見せかけている太陽を一杯に浴びており、勇士の位置から逆光となってはっきりと誰だか分からない。

 しかし体格や髪型で判断がついた。恭子である。

 朝と同じ白いワンピースを身に着け、髪を風に流していた。そして右手に持っている物は長ネギでなく、なにか拳大の塊であった。

「ごきげんヨう、ユウジ」

 ふわっとした柔らかい微笑みを浮かべると、やはり年相応の魅力ある女性に見える。ただし服は薄汚れているし、風下に立ったら目に染みるような臭いがする。

「おう」

「そチらは?」

「こちらは、オレが入っている刀剣研究部の部長の、飯塚先輩。こっちは、同じクラスの猪熊修也ってんだ」

 そこで勇士は修也の横に並んで肩を組んで見せた。

「こんな顔でも男だから、誤解すんな」

「こんな顔は酷いなあ」

「まア」

 まるで水たまりに水滴が落ちたように表情を変化させる恭子。どうやら驚いたようだ。

「そして…」

 修也を開放して、今度は恭子の横に行って勇士は(右手に気をつけながら)二人に振り返った。

「彼女は、幼馴染の吉田恭子」

「ハジメマシテ。ユウジがいつもお世話になッています」

 両手を揃えて頭を深く下げる恭子の横顔を見て、不安しか感じない勇士。やはり無視してしまうとか、遠回りして別の道を通った方がよかっただろうか。

「おさななじみ?」

 咲弥が首を傾げた。

「あーえーと。キョウコとは幼稚園の頃から一緒で…」

「同じ学校へ行きたカったわ」

 まるで菩薩のような微笑みで勇士を振り返る恭子。

「あの、その…」

 言いにくそうに修也が口を開いた。

「吉田さ…んの、その目…」

 陽の傾きで光線の具合が変わり、恭子の尋常でない左目を見ることができたのだろう。注視するのも失礼かと思っているのか、チラチラと視線を彷徨わせるが、やっぱり見てしまうようだ。

「こレは、昔に嫌な事があリまして」

「ああ…」

 それ以上は聞けない雰囲気に、修也は口を閉じてくれた。

「これからオレんチで集まりがあるんだけど、キョウコも来るか?」

 一応礼儀として聞いてみる。もちろん来ると言ったら、明日奈から月子へ連絡してもらうつもりだ。

「いイえ。ワタシ、こレから行かなければならない所がアるの」

「そ、そうか。あんまし遅くなると、オバサン心配すんぞ」

「保ゴ者? ユウジがそう言うナら、一度断ってから出かけましョう」

「うん。そうした方がいいな」

「それでは、ミナサマ。ごきげんヨう」

 再び二人に笑顔で頭を下げる恭子。邂逅が無事に済んでほっとする勇士。二人もごく普通に挨拶を返した。

 その途端に「きえええええええエえええ」と恭子が奇声を上げはじめた。

 二人と同じようにドン引いていると、手にした塊を、通りかかった野良猫へ投げつけた。

 塊は素っ頓狂な方向へ飛び、そして民家の壁で砕け散った。

「ジャガイモ?」

 その正体に気が付いた勇士が呆然と呟いていると、恭子はその野良猫を全速力で追いかけ始めた。

「は?」

 何が何だか分からずにポカンとして見送る二人に、どう言い繕うか困った顔を向ける勇士。

「まさか…」

 唾を飲み込んで、恭子が消えた方向を指さした咲弥が、勇士に訊ねた。

「ノラネコはすべからく退治する。という、お土地柄なのでしょうか?」

 少々裏返った声で、変な言葉遣いになっていた。

「いや、そうじゃなくて…」

 どうするか迷ってから、やっぱり打ち明けることにする。

「キョウコは、頭がね…」

 そこまで聞いて察した顔になる二人だった。

 恭子の境遇を簡単に二人へ説明しながら、勇士は別の事を思っていた。

(これで今日は生き残れる選択ができたのか? 帰りにまた注意だな)

 それから二人を自宅へと案内した。

 リビングへと案内していると、少し遅れて妹の明日奈が帰って来た。

「たっだいまー」

「おう。おかえり」

「え?」

 見知らぬ顔があったことで、身を固くする明日奈。安心させようと、勇士は荷物を受け取りながら、妹を二人に紹介した。

「妹の明日奈。こちらが刀剣研究部の部長で、飯塚先輩。こっちが同じクラスの猪熊修也」

「ぶちょおさんに、イノクマさん…」

 改めて立ち上がって礼をする上級生を覚えようと、小さく呟く明日奈。

「今日は、刀剣研究部でチラシをここで作ろうと思ってさ」

「ふーん。いいけど女の子連れ込んだなんて知ったら、ママ怒るかもねー」

 妹にとても平たい目で睨まれ勇士は焦った声を出した。

「部活だって! 部活! ね! ブチョー!」

「え、ええ」

 自分のせいで勇士が親との関係を拗らせては大変と、慌てて同調する咲弥。

「さ、さっそく始めましょう」

「そうっすね!」

 少々大げさな仕草で、図書室でコピーしてもらった資料類を、リビングのテーブルへ広げた。他にも借りてきた本が二、三冊ある。

「ま、いいけどねー」

 平たい声のまま勇士から食材を取り戻した明日奈は、それを冷蔵庫へ仕舞うために台所へ向かった。



「お~」

 勇士が父親の部屋から持ってきたプリンターより吐き出された紙を、床に落ちる前に受け取って、感動した声を漏らした。

 昨日から資料集めをしていた『白露』展示にあわせたチラシの原稿が完成した瞬間だった。

「うまくできてる?」

 横から咲弥が覗き込んできたので、紙を受け渡す。そのタイミングで誰かが背中をつついた。

 振り返ると、明日奈であった。なにか言いたそうな顔なので、耳を近づけてみた。

「お夕飯、食べていくの? あの二人?」

「あ~」

 チラリと時計を確認してみた。小野家の基準では、そろそろそんな時間である。そして殺された時間も、もうすぐだ。

「訊いてみるよ」

 答えを知ってはいたが、いちおう二人に確認を取った。現在時刻を知った咲弥が慌てて帰る支度を始め、送って行く騎士役の修也も荷物をまとめる。

 キララのリードを準備しながら、勇士は思考を巡らせた。

(今日も明日奈にキララの散歩を頼むっていう手もあるな)

 しかし思考が半分も行かない内に否定の感情が沸き上がって来た。

(いや、いくら我が身可愛さとはいえ、実の妹を危険にさらすのはおかしいだろう。前と恭子の様子も違ってきているし、大丈夫なはずだ)

 チラシの印刷は明日やることにして、三人はリビングから移動を開始した。

「じゃあキララの散歩のついでに、送って行くから」

「うん。アスナは準備しておくね」

 玄関の外で、いつもより早い時間の散歩に、キララは興奮気味で待っていた。二人にキララを紹介し、散歩を開始した。

 すっかりと夜となった住宅地を、いつもと同じようにグイグイと引っ張るように先を進むキララ。しかし、ふと思いついたように立ち止まった。

「?」

 その理由が分からずに、三人はキララの周りに集まることになった。キララは鼻をピスピス鳴らして、前方を注視していた。

 すると街灯の明かりの中に人影が現れた。

勇士の知っている顔である。恭子の伯母である月子であった。

「あ、オバサン」

 頼りなげに歩いて来る月子に、勇士の方から声をかけた。

(そういえばオバサンに会うんだった。すっかり忘れていたぜ)

「ああ、ユウジくん」

 いつもと同じく、弱気な声で返答があった。表情は少し泣きそうな物になっているのが街灯の明かりで見て取れた。

「キョウコちゃん見なかった?」

「まだ陽のあるうちなら会いましたけど」

「そう…」

 そこまで話して、勇士の連れに気が付いたらしい。三人を見比べているような気配があった。

「おともだち?」

「バス停まで送って行くトコですよ」

「そう…、あの悪いんだけど…」

「ええ」

 月子の言いたいことが分かった勇士は、先回りしてこたえた。

「見かけたら、いつものとおり」

「ホントごめんなさいね。それじゃ、おねがいね」

 二人へ軽く会釈すると、頼りなさげなまま、街灯が続く道を歩き始めた。

「お知り合い?」

 当然の質問が咲弥から出た。

「来るときに会った、幼馴染のオバサンですよ」

「ああ」

 気の毒そうに月子の背中に振り返る咲弥。

「キョウコは徘徊する癖があるから、よく探しているんです」

「ああ、それで」

 いまのやり取りを理解した声になる咲弥。

「行きましょう」

 まだ何か言い足りなそうな咲弥を促して、バス停に急いだ。

 バスには十分余裕のある時間で送り届けることができた。

「それじゃあ、明日」

 タッチ式のカードリーダにパスケースを押し当てながら修也が乗り込んでいった。

「分かっているとは思うけど、明日は水曜日だから、部室に集合ね」

 咲弥が部長らしく明日の予定を残してドアをくぐった。

 二人が座席に着くのを感慨深げに見送ってしまう。

(前は、これが最期の別れになったんだよなあ)

 勇士が大きく手を振っているのを見て、運転手は利用客でないことを察したのだろう、後部ドアが閉められて、バスは発車した。

「さてと。オレらも帰るか」

 キララに話しかける声に気合が入った。生きるか死ぬか、この後にかかっているから当たり前だ。

 夜道を何回も振り返るキララとともに、自宅へ急いだ。

 頭の中では対抗する武器を用意しておけばよかったかもとか、いつもより厚着をしておけば怪我が軽く済むかもとか、色んな事が渦巻いた。

 しかし野球のバットを持って友人を見送るのも変だし、帰宅後着替える暇も無かった。他に選択肢は無かったと自分に言い聞かせるしかなかった。

 キララを定位置に繋いだ。

「ユウジ…」

 記憶のままに背後から声がかけられた。

(いざとなったら、交番まで走って逃げるか)

 覚悟を決めて振り返る。そこにやはり恭子が立っていた。

 恭子は、いつもと違って小綺麗な格好だった。



「よーう。どうした」

 勇士は少々身構えた。彼の前に立っている恭子は、夕方に会った時と違った服装であった。

 ただ記憶にある服装でもなかった。

 勇士が見たこともない淡い緑色のブラウスと白いロングスカートに、サテン地のスカーフを腰に巻いていた。伸ばし放題の長い髪もきれいにとかして右側にまとめて肩の高さで大きなリボンにまとめていた。

 肌は健康そうに瑞々しく、先程までの異臭など錯覚とばかり石鹸の香りを纏わりつかせていた。

 勇士を視界に収めて、ニッコリと微笑む左目が真っ赤に染まっていなければ「どこのお嬢さんでしょうか?」と見間違うばかりだ。

 ただ、やはり奇行は治っていないようで、なぜか右手にテレビのリモコンを握っていた。

(あれだって殴り方によっては危険だよな)

 勇士が警戒していると、恭子はぎこちない様子で微笑んだ。

「あの(ニク)たちは帰った?」

「うんまあな。もう夜だし」

「そう」

 納得したようにうなずいている恭子を見て、勇士はいつもと違い彼女に少し理性が戻っていることに気が付いた。まあ人間の事をニクとか呼んではいたが。

「そういえばオバサン探してたぜ。心配かけないようにしないと」

「本当。そうしなきゃいけないのは分かっているんだけど…」

 悲し気に眉を顰める。

「こんな私を愛してくれているのは、分かっているのよ」

「こんなって、そう自分を…」

 勇士が言い切る前に恭子は頭を横に振った。

「気が付くと変なことになっているのよ。自分で分かる時があるの。でも、やっぱりおかしくなって…。自分でどうしていいのか分からないのよ」

「焦ることはないんじゃないかな」

「でも。ワタシ、オバサンにもユウジにも迷惑かけてる」

「ん~、まあ。ほら、赤ちゃんだってお母さんにオムツ変えてもらうだろ。そんなもんじゃないかな」

「やっぱりユウジは優しいのね」

「キョウコ…」

 勇気を持って訊いてみた。

「泣いているのか?」

 その問いかけに、不思議そうに顔を上げる恭子。別に涙を流しているわけでもないが、勇士には彼女がそう見えたのだ。

「やっぱりユウジだけね。ワタシを分かっているのは」

「何度も言うが、最初のトモダチだろ」

 優しく言うと、恭子はつと近づいてきた。

「な、なに?」

「ごめんなさい。ちょっとだけ、いい?」

 とても湿り気のある声にギョッとしていると、見る間に彼女の目からポロポロと涙が零れ落ち始めた。

「ユウジは前に進んでいるのに、ワタシだけ立ち止まって。ほんと、悪いコ」

「泣くなよ」

 ハンカチの一つでも持っていれば拭いてやることも出来たのだろうが、あいにく持っているのはキララのお散歩セットだけだ。

 空いている手で掬うように涙を拭ってやると、恭子は体全体でぶつかってきた。

(まさか隠し持っていた刃物でグサリ?)

 と考えなくもなかったが、あまりにも恭子の泣いている姿が久しぶりだったので、逃げ遅れてしまった。

 彼女は勇士の胸の中で泣き崩れた。



 夕飯を食べて、風呂に入り、自分のベッドに転がる。

 結局、月子が迎えに来てくれるまで、恭子は勇士の胸の中で泣き続けた。

 玄関の騒ぎに顔を出した明日奈に電話してもらい、泣いている幼馴染に困惑しているだけの男という窮地を救って貰った。こうして思い返してみると情けない男の醜態であったと、反省と後悔がやってくる。

「今日も色々あったな」

 見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。

(だが…)と勇士は思う(キョウコとはうまく行ったんじゃないかな。一週間ぐらいは何とかなって欲しいな)

 寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。

(いや。油断したら、またあんなことになるのかもしれない。気を付けなければ)

 思い直してから目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。

「神さま。今日は生き残れたみたいだ。おやすみなさい」

 あと五日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「うーん」

 ベッドで上体を起こした彼に、すでに清隆学園中等部の制服を着ていた明日菜が振り返った。頭の両側で結んだ髪が、遠心力で丸く宙を舞った。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 まるで動画のリピートのごとく、小野家の朝が始まっていた。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

 元気のいい声に呼ばれて、一階のダイニングへ降りていく。

 そこにはトーストにサラダという小野家では定番の朝食が待っていた。

 いつもと同じ朝である。

 手早く朝食を片付け、揃って玄関を出る。

 勇士が玄関の鍵を閉めている間に、明日菜はキララに挨拶をしていた。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 その時だった。

「肉がイル」

 声をかけられた気がして振り返ると、そこに今日も狂人が立っていた。

「よう。おは…」

 嫌な記憶と合致する姿が目に入ってきたため、勇士の言葉が途切れた。

 今日の彼女は、紺色膝丈ワンピースの上に、蝶の羽を持った妖精が描かれたエプロンをつけていた。伸ばし放題の長い髪も、櫛削り大きなリボンでまとめてあった。

「どうしたの? ユウジ?」

 不思議そうに小首を傾げる様子は、まったく普通の少女に見えた。

「い、いや、なんでもない」

 まさか恭子に向かってその服を着るなとも言えず、勇士の言葉が濁った。しかもなぜと問われても、そんなお前に殺されるからだなんて答えられるわけが無い。いや、そう答えてもいいが、今度は勇士の方が狂人扱いされてもおかしくない言い訳だ。

「おはよう、ユウジくん。アスナちゃん」

「あら、おはようございます」

 恭子の隣には月子が付き添っていた。朝の挨拶に明日奈が両手を揃えて頭を下げて返答した。そんなデキる妹の姿を見て、慌てて勇士も頭を下げた。

「は、はよっす」

 まるでクシャミのような挨拶が出た。

「今日はどうしたんです?」

 当然の疑問が口から出た。すると月子は機嫌良さそうに自分の頬に手を当てた。

「今日はキョウコちゃんの調子がいいみたい。それでね、ユウジくんが通っている学校を、外から見たいって、朝からちゃんと言ってくれて」

「はあ、ウチのガッコっすか」

 勇士は自分の通う学び舎を思い出してみた。校舎そのものは華のないコンクリート造りの物だが、その周囲を戦争中の遺跡だとかいう高い壁が囲っているのだ。

 どう考えても、見て楽しい物ではない。

 しかし勇士を見つめる恭子は、いつもと違って奇声を上げるでもなし、その隣に立つ月子も恭子が黙ってどこかに行こうとしなかったのが嬉しかったらしくニコニコとしている。

「いま行くと、バスこんでますよ。もっと空いている時間の方がいいんじゃないかな」

 なんにしろ恭子の調子が良いことは、勇士にも喜ばしいことだ。しかし二人が通う清隆学園までのバスは、通勤通学ラッシュでギュウギュウ詰めになる程に混むのだ。見に来るならば時間をずらした方がいい。

「それが、キョウコちゃんはユウジくんと一緒に行きたいって」

 ほんの少し困った顔をしてみせる月子。

「ワタシ大丈夫よ。がんばる」

 恭子が年相応のかわいいガッツポーズをしてみせた。

「恨まないで下さいよ」

 予防線だけは張って、今日は四人で学校へ向かうことにした。



 バスの車内は、今日も混んでいた。農協前のバス停に来るまでで車内は一杯になっており、今日も手すりに掴まっての立ち乗りだ。

 そんな密着状態のバスで、勇士は大いに困ることになった。

 今日はいつもより五割増しに美人になった恭子が、周囲から受ける圧力をいいことに、前から彼に抱き着いてきたのだ。

(や、やわらかい!)

 いくら幼稚園から一緒とはいえ、まともに抱き着かれるなど初体験で会った。いや、記憶に新しいところで、昨夜に泣いた彼女へ胸を貸した記憶はあるが、あれは家の前という逃げようと思えば逃げられる環境でのこと。ここには逃げ場が全くなかった。

 恭子の髪からふわあっと良い匂いが立ち上り、勇士の鼻腔を刺激した。シャンプーの香りだけでなく、年頃の娘が発する何かが混じっているような、蠱惑的な匂いだ。それは思春期の勇士にとって、とても刺激的な経験であった。

「あ」

 揺れたついでに転びそうになるので、つい片手を恭子の腰にまわしてしまった。

「おにいちゃん」

 とても静かな、そしてとてもエネルギーがこめられた声が脇でした。慌てて視線を向けると、明日奈がジト目になってこちらを睨みつけていた。

「なに鼻の下のばしてんの?」

 車内なのでけっして大きな声ではない。しかしまるで質量を持ったような声色であった。そして二人の間に、肩をグイグイ捩じりこんできた。

「そ、そんなことあるか」

 慌てて恭子にまわした腕を解き、明日奈がやりたいままにする。明日奈は背中をこちらにして、両手で恭子を支えるようにして立った。

「キョウコちゃんも、気を付けないと。意外とおにいちゃんスケベなんだから」

「ちょっと待て。訂正をもとめるぞ」

「うふふ」

 そんな兄妹のやりとりが面白かったのか、恭子は軽く笑い声を上げた。

「キョウコちゃん。しーっ」

 そんな三人を微笑ましく見ていた月子が、人差し指を立てて注意した。

「しーっ」

 すぐに理解したのか、恭子も月子の真似をしてから、口を閉ざしてくれた。本当に今日は調子がいいようだ。普段ならここで一曲アソパソマソのマーチでも出るところだからだ。

 そうこうしている内に、バスは清隆学園前のバス停に到着した。

 ドッと同じ制服を着た連中が、バスから吐き出されるように降車する。

 バス停のある国道のバイパスからは、桜並木の緩い上り坂の向こうに、在学生から「刑務所」だの「ベルリン」だの悪い呼び名がつけられた高い壁が見えていた。

 勇士の通う高等部はあの壁の向こうとなる。

 紺色の高等部の制服が流れる中に、黒い中等部の制服が混じっているという印象で、その緩い上り坂を上っていく。今日はその二種類の色の中に、恭子と月子という私服が混ざっており、いつもとは違う道に感じられた。

「うふふ」

 また小さく恭子が笑い出した。勇士は彼女がいつ奇声を上げるのか気が気ではなかった。

 不愛想なコンクリート造りの外壁で、そこだけはレンガで綺麗に整えられた正門前までやってきた。

 中等部の明日奈とはここでお別れである。

「じゃあ…」

 手を上げて別れの挨拶をしようとした時だった。

「あ、小野くん」

 前から声をかけられて顔を上げると、正門脇に咲弥が両手でバッグを持って立っているのが見えた。

「おはよ…う?」

 勇士の横に見慣れない私服姿の少女が立っていて、それを訝しんだのか、咲弥の語尾が濁った。

「はよっす」

 調子で勇士が挨拶を返すと同時に、彼の右半身が柔らかくて暖かい感触に包まれた。

「おはようございます。センパイ」

 なにが起きたのかと視線をずらすと、勇士の右腕に恭子が抱き着いていた。そして、ここ最近では見られなかったような笑顔で咲弥に挨拶していた。

「それじゃあユウジ。お勉強、がんばってね」

 そのまま耳の近くにキスまでくれた。

「なっ!」

「なにしてくれてんのよ!」

 それを見ていた咲弥が硬直し、そして明日奈が逆上したような声を上げた。

 明日菜は、ぐいっと勇士の左腕を引っ張ると、ゴシゴシと制服の袖でキスされたあたりをこすり始めた。

「うふふふ」

 イタズラが成功したとばかりにお上品に笑い出す恭子。おなじ凶行ならば、普段やっている、それがなんの役に立つのか理解しにくい色々な所持品の方がマシであった。

 しかも登校時間の正門前である。

 硬直している咲弥や、それこそ昨日までの恭子が乗り移ったと思われるような勢いの明日奈だけでなく、在校生が川の様に流れている中での出来事である。

 直接の目撃者だけで、優に三桁に達するだろう。午後までには高等部の生徒全員の噂になっているかもしれない。

 あまりのも明日奈が早く擦るために、耳の当たりが熱を帯びてきた。

 そしてガリッと明日奈が着ている制服の袖に縫い付けられたボタンが当たり、勇士の飛んでいた意識が戻って来た。

「いてーよ、やめろよ」

 慌てて目の色が変わっている妹から逃げ出す。擦られた右頬は、あまりのことに血が滲んでいるような感触があった。

「ご、ごめんなさいね、ユウジくん」

 いまだ笑い声を上げていた恭子を捕まえた月子が、慌てた声で謝って来た。

「いえ、だいじょうぶっす」

 また伸ばしてくる明日奈の手を払いながら勇士はこたえた。

「いいかげん落ち着け! アスナ!」

 ちょっと怒気を混ぜて声を上げると、明日奈がやっと止まってくれた。

「お茶目なイタズラじゃないか」

 グイッと逆に腕を取り、抱き寄せてからその耳に囁いた。

「キョウコがこんななのは、おまえもわかってんだろ」

「だって」

 意外に泣きそうな声で返答があった。

「おにいちゃんにチューしていいのは、アスナだけなんだもん」

 その言葉を聞いて、勇士はひっくり返りそうになった。それこそまだ二人が小さかった時、クリスマスだかなんだかで母親が勇士の頬へキスした時に、当時からお兄ちゃんコだった明日奈が泣いて言い出したセリフそのままだったからだ。

「わかったから泣くなよ」

 朝からこんな事で泣き出した妹をなぐさめるなんて面倒な事はやりたくはなかった。

「じゃあ、アスナも」

 お互いの顔が近づいていたので、勇士は逃げ遅れた。妹のキスを反対側の頬に受けて、顔が赤くなってしまった。

「気が済んだか?」

「うん」

 元気の良い返事に、こちらの体力が減ったような気がした。

「じゃあな、アスナ」

「うん。今日は遅いの?」

「あー」

 勇士は自分の予定を思い出してみた。

「今日は水曜だから、部活があるな」

「そっか。じゃあ寄り道しないで帰るんですよ」

 まるで母親のようなことを言いながら、兄へ背中を見せる中学生。

「はいはい」

 妹から解放されてやっと一息つけた勇士。今度はご機嫌な恭子の方だ。

「ほんと、ごめんなさいね」

 横から抱きしめるように恭子を捕まえている月子が、再び謝罪の言葉を口にした。

「はあ…。まあ、いいっすけど」

 朝からこの疲労感で一日過ごせるのだろうかと思いつつ、勇士は恭子を見た。

 まるで小学生の様にご機嫌のままだ。こんなハイのまま再びバスに乗せたら、なにか別の事件を起こしそうだ。

「ええと、いちおう大学の方に大きな図書館とか、博物館とかあるっす。そこらへんで時間を潰した方が、バスも空いてていいんじゃないっすか?」

 変人奇人が多いという噂の清隆学園であるが、そういった付帯施設はちゃんと揃っていた。敷地内でも明日奈が歩いて行った中央通りを行けば散歩に適した林すらある。

「そ、そうね。ちょっと散歩して帰るわね」

 月子は恭子を無理に連れて行こうと引っ張った。すると今度は抵抗することなく彼女は保護者に従った。

「じゃあねユウジ。ごきげんよう」

「んじゃな」

 手を振る幼馴染を見送り、正門の方へ振り向いた。

 いつの間にか咲弥の姿は消えていた。



 教室に着くと、今日も隣席の修也は先に席へ着いていた。

「おはようユウジくん」

「おう。おはよシュウ」

 今日も女の子のような笑顔で出迎えてくれた、男だけど。

 いつもの通り膝の上に電子工作の本を置き、勇士には理解不能の数字やら簡単な図などを、机の上に広げたノートに拾い上げていた。

「そういえばユウジくん」

 目線を雑誌に落としたまま修也が口を開いた。

「さっき部長さんが来て、印刷は午後にやるから~って」

「いんさつ?」

 聞き返してから昨夕に三人で完成させたチラシを思い出した。

「あ~。あれ、どのくらい刷るって言ってた?」

「さあ?」

 困ったように顔を上げた修也は、形の良い眉を寄せた。

「その時に決めるんじゃないかな」

「そか」

 素っ気なく答えながらも、勇士もどのくらいが適当かを考えてみた。

(だいたいコピー用紙の束って、どのくらいの単位で売ってたっけ?)

 ボーッと量販店で積み上げられているコピー用紙を思い出してみる。

(あれの一つぐらいでいいかな?)

 その枚数が気になって、ポケットからスマートフォンを取り出して検索してみる。ネット通販のサイトに応答があった。

(げ、五〇〇枚も入ってんのか、アレ。五〇〇枚じゃ多いかな?)

 クラスの人数と、クラスの数をかけて、さらに三をかけてみた。

(いやいや多すぎるな。そんなに見に来るとは思えないし。でも先生とかも来るのかな? じゃあキリの良い数字で、やっぱ一〇〇枚ぐらいか。足りなかったら、また刷りゃいいんだし、ちょっと余るぐらいなら、切ってメモ用紙か何かにすりゃいいんだし)

「ねえ」

 そんな段取りを考えていた勇士の顔を、修也が探るように覗き込んできた。その姿は、まるで彼氏のご機嫌をうかがう女子生徒のようだった、男だけど。

「ん?」

 気もそぞろに返事をすると、心配そうな顔と声になって訊いてきた。

「部長さんと、なにかあったの?」

「へ?」

 顔を向けると、納得のいっていないような表情だった。

「さっき来た時なんだけど、暗い顔していててさ。いつもなら、あれほどじゃないのに」

 何か心に引っかかることが、勇士はそれが何か分からないまま、修也の表情が変わった。

「やっぱり、あんなところでカノジョに、行ってきますのチューをしてもらってたから?」

「なんだよ、そのチューってのは」

 勇士は眉を顰めて反論することにした。

「ってか、見てたのかよ」

「んんん」

 少女っぽく頭を振って否定する修也、男だけど。

「でも、もう学校中の噂になってるよ」

 修也のこたえに頭を抱えてしまう。

「あれはキョウコがふざけただけだろ。それにシュウは、キョウコが少々変なのは知ってるだろ」

「まあ、ね」

 出会ってすぐの奇行を思い出したのか、ちょっと修也は苦笑のような物を浮かべていた。

「でも、カノジョにチューしてもらったのは、間違いないでしょ?」

「しつけーな」

 眉をひそめて怒った顔を作ると、かわいらしく首を竦めた修也が、小さく舌を出した。

「まあ、身の回りには気を付けることだね」

「なんでだよ」

 その質問に言葉でなく、仕草でこたえる修也。彼の細い指先が指し示したのは、黒板であった。

 そこには色とりどりなチョークを使って「リア充爆発しろ」と大書されており、いまだチュークを握りしめている「カノジョいない歴=年齢」といった男子生徒たちが、物凄い形相で勇士の事を睨みつけていた。



 それからの一日は、勇士にとってあまり良い日ではなかった。

(それでも死ぬよりはマシか)

 これというのも、学校中に広まった噂のせいである。やはり、正門前でのいってらっしゃいのキスは衝撃だったようだ。本人があずかり知らぬところで、勇士にはすでに謎の美女(恭子の事だ)との間に、三人の子供がいるというところまで話しが膨らんでいた。

 生活指導も兼ねる国語の教師からは、授業前の短い時間に、学生は学生らしい行動をとるようにと、わざわざ教壇から言われた程だ。

 昼休みだって、いつもの通り混んでいる学食に行ったら、酷い目に遭った。狭い通路を抜ける時に、勇士の足を引っかけようと、何度も左右から足を差し出されたのだ。手にしたB定食を零さなかったのが不思議なくらいだ。

 男の嫉妬の方が醜いということを、初めて知った勇士なのであった。

 そんな、いつもよりは他人から注目された水曜日も、放課後ともなれば人も減り、相対的に害意を感じることも無くなった。

 そして水曜日と言えば、刀剣研究部の正式な活動日である。

 一日中、それとなくフォローしてくれていた修也をひきつれて、向かうはD棟であった。

 D棟のいつも駄弁る学生会館ではなく、その手前にある部屋の扉を開く。ここは会議室と名前が付けられた部屋の一つだ。同じ広さの会議室がすぐ隣にあるが、二つの部屋を仕切っているのは可動式の壁であり、必要とあれば繋げて大きな会議場として使うことも出来た。

 とは言っても、現在幽霊部員を入れても廃部ギリギリの刀剣研究部に、そんなスペースが必要であるわけない。今日も半分は別の部活が使用予定のはずだ。

 会議室の窓際では、背筋を伸ばした咲弥が、文庫本のページをめくっていた。

「ちっす、ブチョー」

「部長さん。遅れました」

 敬礼のようなチョキで挨拶する勇士の横で、丁寧に修也が頭を下げた。

 いつもより凛々しさが三倍増しぐらいになった咲弥が、ゆっくりと「不思議島へ行く」とか表紙に書かれた本を下ろし、首を捻じ曲げて二人を見た。

「こんにちは、二人とも」

 昨日までの態度とは違い、どことなく他人行儀な声であった。

 なにか見えない壁のような物を感じながらも、いつもの調子で椅子を引きずって来ると、咲弥とはテーブルをはさんだ反対側へ二人は座った。

「早速だけど、本日の仕事を割り振ります。猪熊君は私と一緒に、近堂先生と博物館へ『白露』を受け取りに行きましょう。小野くんは、生徒会執行部へ申請をして、昨日まとめたプリントを印刷してきて頂戴」

「え、オレだけっすか?」

 未経験の仕事を任されるとあって、ちょっと尻込みしてしまう勇士。

「はい。そうして下さい」

「この組み分けに、理由はあるんですか?」

 咲弥のいつもと違う雰囲気に、緊張した面持ちの修也が訊いた。

「簡単よ」

 咲弥の目がキランと輝いた。

「女の子チームと、男の子チームよ」

 部活の顧問である日本史担当の近堂先生も女性であった。

「あの、ボク、おとこなんですけど…」

 弱々しく発言された修也の主張は、まるっきり無視された。



 博物館へ『白露』を借りに行く咲弥と修也の二人と別れ、勇士は生徒会事務室へ向かうことにした。

 とは言っても、事務室があるのはD棟の二階。つまり同じフロアにあるのだ。しかも会議室とは廊下を挟んだ斜め向かいである。

 歩く距離だけ比べるなら、一〇〇倍は楽な距離である。博物館は同じ清隆学園の敷地とはいっても、だいぶ離れているのだ。ただ、あまりにも離れているので、おそらく近堂先生が通勤に使っている愛車を出すことが察せられた。

「ちーす」

 挨拶をしながら生徒会事務室が入っている部屋の扉をくぐる。冷暖房が入る厳冬期や猛暑期以外は、基本この扉は開けっ放しになっている。

 部屋の中は長いカウンターで縦に仕切られていた。部屋の広さ自体は、先程いた会議室を二つくっつけた状態の時と同じだけある。カウンターの奥には学習机が複数並べてあり、生徒会の役員職員、各委員会から出向してきている生徒たちが、なにやら忙しそうに事務作業を行っていた。

 ここへ来るたびに、勇士は市役所の窓口を連想した。まあ基本的に自治組織ということで、似たような形に落ち着くのだろう。

 総合窓口と立て看板が出されたカウンターは埋まっていた。どうやら学生証を紛失して困っているらしい女子生徒の相談に乗っているらしい。

 仕方がないので、勇士はそこからちょっと離れた場所からカウンターの中を覗き込んだ。

「あのー」

「はい」

 声をかけられるのを待っていたとばかりに、背が高くて痩せすぎな印象の女子と、その彼女とは対照的に背が低くてふくよかな女子が、二人してカウンターまで出てきてくれた。

 チラリと、左襟の校章下に着けることになっているクラス章を見ると、同じ一年生のようだ。右襟には、左襟と同じ校章が着けられていた。本来ならば同じ校章を二つ着ける必要はない。これは生徒会で職員として働いていることを示しているのだ。これが役員ともなれば、専用の役員章がそこに着けられる。

「あー、オ…、ボクは刀剣研究部に所属しているんですが」

 いちおう相手は同級生で生徒会の下っ端職員のようだが、丁寧な物言いにしてみた。

「今度、こういうパンフレットを配ろうかと思いまして」

 咲弥に渡されていた原稿をカウンターの上に置いた。凸凹コンビの二人が興味深そうにのぞき込んでくる。

「生徒会が許可してくれたら、印刷室が使えるようになるって聞いたんですが」

「はあ」

 ノッポの方が原稿を手に取って、内容を読み始めた。

「今日から、A棟の展示スペースで、博物館から借りた日本刀の展示をするんですよ。その説明になってます」

 読むことに集中してしまったノッポではなく、身長差から見上げてくる相方のチビの方へ説明を続けた。

「どう?」

 一通り読んだらしい相方を見上げて、チビが訊ねた。

「うん。これなら問題ないかも」

「じゃあ…」

 明るい顔になった勇士に、冷や水を浴びせるようにノッポが言った。

「いちおう役員の誰かに読んでもらって、許可かどうか確認しますね。そちらの椅子でお待ちください」

 示されたのは廊下側の壁に並べられた椅子であった。教室で使っている物と同じで、座り心地は悪そうだ。

「お願いします」

 他に選択肢はなさそうだ。勇士はおとなしく従うことにした。

 勇士から原稿を預かった二人は、事務室から速足で出て行った。おそらく廊下の真向かいにある生徒会執行部室へ行ったのだろう。基本的に生徒からの選挙で選ばれる生徒会役員たちは、そちらの方で仕事をしていることが多い。教職員との折衝やら、他校との交流などの国で言うところの外交のようなものまで、平の生徒である勇士には思いつきもしないような職務をこなしているはずだ。

 待つこと一〇分ほど。いいかげん身の置き場に困ってきた頃に、二人が部屋に帰って来た。

 カウンターの向こうへ引っ込まずに、直接座っている勇士の所へやってきた。

「副会長から許可が出ました」

 と返された原稿には、べったりと生徒会公認の判子が押されていた。

 ホッと胸を撫で下ろしていると、片方の女子がカウンター越しに、別の職員へ声をかけていた。

「こんにちは」

 やってきたのは真面目そうな黒縁眼鏡をかけた男子生徒である。襟のクラス章から二年生と分かった。

「はい、こんにちはです」

 年下に対してもとても礼儀正しい態度に、勇士も真面目にこたえてしまった。

「印刷室をご利用ということで、間違いありませんね?」

「はい」

 ノッポの女子から返却された原稿を小脇に抱えようとすると、それを渡せとばかりに手を出してくる。

 ちょっと不安を覚えなくも無いが、ここまで来たら信用するしかあるまい。勇士は原稿を黒縁眼鏡の先輩へ手渡した。

「ふむ。B5かな? それでは印刷室に案内します」

 先に立って歩き始めた。

 印刷室と言っても遠くにあるわけではなかった。事務室の隣室がそうだったのだ。

 今は誰も利用していなかったのか、施錠されていた扉を黒縁眼鏡の先輩は開けて、勇士を室内へ案内した。

「ふーん」

 広さは六畳間程である。まず目につくのは、中央に置かれた木製の大きなテーブルであった。片面に昔の郵便局のような仕分け棚が設けてあり、反対側には一見してコピー機のような機械が数台並んでいた。

 黒縁眼鏡の先輩は、一番手前の機械の電源を入れた。

 タッチパネルでなにやら機械の設定を行い、そしておもむろに原稿を機械に飲み込ませた。

 右から入って素直に左から出てくる。

「はい。これで印刷機の設定は終了です」

 勇士に原稿を返しながら黒縁眼鏡の先輩は言った。

「後はどのくらいの枚数を刷るのか、教えてください」

 訊かれて(あ、相談するのを忘れてた)と気が付いても、もう遅い。だが、ここで相談に戻っても時間が無駄になりそうだ。教室で考えていた枚数を口にすることにした。

「とりあえず一〇〇枚を考えています」

「一〇〇枚ですね」

 機械の下方にある用紙を入れておく引き出しを覗き込んだ先輩は、うんと自分だけでうなずくと、再び機械設定を弄った。

「それでは、いきますよ」

 タッチパネルで印刷開始の指示を出した途端、凄い勢いで印刷機が動き始めた。

「あとで!」

 ジャカジャカ動く機械の騒音に負けないように、先輩が大声を張り上げた。

「使用した枚数を、書いて出してもらいますからぁ」

「先じゃなくてよかったんですかぁ?」

 勇士も負けじと声を張り上げた。

「印刷してみて、やっぱり足りないだの、多いようだったから途中で止めただの、先に申請してもらっても、修正する事が多いんですよ」

 先輩の説明の間に、印刷機が止まった。

 コピー機でよくあるように用紙が切れたのかと思っていると、先輩が印刷機のトレーから紙の束を取り上げた。

「はい。一〇〇枚です。足りそうですか?」

 渡されたホカホカの紙束は、想像していたよりほんのちょっと少ないような気もしたが、まあ部外に活動しているという言い訳程度の印刷物だ。手続きも簡単だったし、足りなくなったら、また頼めばいいだろう。

「ありがとうございます」

「じゃあ、ちょっと待ってて下さい。片付けしたら、書いてもらう書類出しますから」



 紙の束を抱えてA棟にある職員昇降口へ向かうと、そこに小さな人だかりができていた。

 ほとんどが大人…、教職員であるが、そこに数名の制服姿を発見する。

 もちろん咲弥と、修也もいた。

「おまたせっす」

 声をかけて近づくと、まっさきに修也が振り返って、雲が晴れたような笑顔を見せてくれた。男だけど。

「お疲れさま、ユウジくん」

「おう。そっちもな」

 続けて咲弥へ視線を移したが、彼女は展示スペースのガラスにべったりと貼りついていて、振り返りもしなかった。その背中に勇士は話しかけた。

「どうします? コレ」

「あー、うーんと」

 反応してくれたのは、修也の方であった。周囲を見回すと適当な台は全くなかった。あるのは職員昇降口にある事務所カウンター前に置かれた、手指消毒用のアルコール殺菌剤を置いた机が一つだけである。

「とりあえず、これを借りたら?」

 提案してくれたのは、サマーセーターを着た女性であった。愛嬌のある大きく丸い眼鏡に、化粧気のない顔。低い身長と童顔を合わせると、どこのクラスの生徒が校舎内を私服でうろついているんだと怒られそうな雰囲気である。が、彼女こそ清隆学園高等部で日本史の授業を受け持っている近堂(こんどう)千夏(ちか)教諭である。

 その小ささは、一年三組担任の小池先生に並ぶほどだ。ちなみに小池先生の方は、まだ大学生に見える分、マシであった。

 彼女の周囲には、年の行った国語やら社会の先生方が集まっていた。やはり職業柄、興味はあるのだろう。

 近堂先生の提案を受けて、修也がガタガタと消毒薬ごと机を持ってきた。

 そこへドサリと印刷してきたチラシを置いた。消毒薬が入ったポンプは、風で飛ばないようにするための重しにちょうどよさそうだ。

「どれどれ」

 さっそく顧問の近藤先生が、三人が制作したチラシを手に取った。

「そっちは、どうでした」

「見てのとおりよ」

 近堂先生がチラシをヒラヒラさせながら、咲弥の背中を示した。

 まるでショーケースのトランペットを眺めているような背中の向こうに、一振りの小太刀が鎮座していた。

 峰から刃に向かって、たくさんの模様が浮き上がっており、それが光を乱していた。

 その模様の様子は、まるで池の淵へ並んでいるオタマジャクシの様子に見えた。

 よってこの模様を蛙子丁子波紋と言う。芸術品としてももちろん価値がある模様であるが、鋼がそうやって入り混じっているということは、刀身に強度を与えているという証でもあり、この「切刃造波紋蛙子小太刀」が実戦向けに打たれた刀剣であるという証明でもあった。

 他に特徴としては、地蔵帽子を持っていること、そして特に他の日本刀と大きく違う特徴として、まるで鉄でできていないかのような刀身の白さであった。これは材質による色合いではなく、焼き入れの時に何か特殊な処理をして、地金の表面に顕微鏡で見るような細かい凹凸を生じさせているためである。

 この色合いのせいで鈍い銀色に光る刃が、まるで早朝に葉の上に生じた露のように見えるために、つけられた呼び名が『白露』というわけである。

 その白さを生んだ特殊な処理というのは、残念ながら現代に伝わってはいない。一説によると焼き入れ後に刀身を冷やす際に、普通ならば油へ沈めるところを、生きた人間の体に突き入れて行ったのではないかとも言われている。

 もちろん、そんな灼熱した刀身を突き刺されて生きていられる人間などいない。そういう人間は、大抵は大罪を犯して死刑を言い渡された者である。他にも似たような焼き入れを行った日本刀はあるが、『白露』のような色にはなってはいない。

 なぜそんなことをしたのかというと、神社や仏閣へ奉納する刀は他と違った特別なもののしなければならないという考えがあり、焼き入れ時に失われる人間の魂が刀に乗り移り、一層霊力の高い物になるという、一種の霊魂信仰のせいであった。

 そのせいか、この『白露』に妖刀としての伝説があった。


 伝説は、平家の落ち人たちが、現在清隆学園があるここら辺りへ落ち延びてきたところから始まる。

 かつては寺社の荘園であったこの辺りであるが、源平の戦いが始まると、その権力機構は崩壊し、悪僧「清洋丸」が支配する村となった。

 悪僧「清洋丸」は破戒僧であって、小作人たちへ重税を課して苦しめていた。

 そこへ富士川の戦いで敗戦し、本隊からはぐれて流れてきた(逃亡してきたとも)平家の落ち人たちの頭領は、佐田(さた)三郎(さぶろう)祐前(ゆうぜん)という武将であった。

 彼は、小作人たちの訴える窮状を汲み取り、これを討つことにした。

 その時に携えていた太刀が、『白露』であったという。

 悪僧「清洋丸」は、のちに歴史の表舞台で活躍する弁慶のような大男で、僧でありながら肉を喰らい、腕周りは一尺もあったと伝えられている。そして愛用していた長巻を手にすると、相手が人外の化け物(大猪や熊)であっても、これを一陣の風と共に切り伏せていた豪傑であったようだ。

 そんな武芸物でもあった「清洋丸」を討つのに、祐前は一計を案じた。

 小作人たちに酒と肴を用意させた。そして流れてきた挨拶と言う名目で、平和裏に「清洋丸」の屋敷を訪ねた。

 そして宴を催して「清洋丸」へどんどんと酒を飲ませたのである。

 祐前は「清洋丸」が酔いつぶれた頃合いを見て、『白露』へ手をかけた。

 しかし祐前を余所者として警戒していた「清洋丸」は、酔いつぶれた振りをしていただけであった。祐前が『白露』の柄へ手をかけたと見るや、その大木のような腕で彼を組み敷こうと掴みかかった。

 揉みあっているうちに、鞘から抜けかけていた『白露』は「清洋丸」の踵に踏まれ、折られてしまった。

 武器の半分を失った祐前であったが、それに怯むことなく手元に残った残りで、勇敢に戦った。

 もちろん「清洋丸」も得意の長巻を持ち出し、二人は鎬を削るほどの戦いを繰り広げた。

 その時、祐前の鞘に残った『白露』の残り半分が自然と抜け落ち、ひとりでに動き出して主人である祐前に加勢したという。(重さで鞘から落ちた切っ先を、「清洋丸」が踏みつけて怯み、その隙を逃さずに痛打を与えたともある)

 勝機を受けた祐前は「清洋丸」を討ち取り、村へ平安をもたらした。

 しかしここは源氏である坂東武者たちの勢力圏内である。追っ手を恐れた祐前は、ここよりさらに北の土地へと落ちていくことを決めた。しかし破戒僧とはいえ仏道に携った「清洋丸」の祟りを恐れた小作人たちは、祐前に村へ残ってくれるように懇願した。

 祐前は祟りを一笑し、ならば守り神とするがいいと、折れた『白露』を村に残して去って行った。その後、彼の行方はようとして知れない。

 小作人たちは『白露』を村の小さな祠に祭ることにした。しかし、次の年には大きな問題が持ち上がった。農作物をいつ作付けなどしたらよいか、村人の誰も分からなかったのである。当時の僧は、知識階級であり、村で起きる様々な問題の相談者として頼られていた。その知識の中に、今でいうところの農学も含まれていたのだ。

 つまり悪僧と言われていた「清洋丸」であったが、彼は彼なりに村の役に立っていたのである。(害獣に襲われたが、今まで退治してくれていた「清洋丸」が討たれておらず、村で立ち向かう者もいなかったためとも)

 結果、村は滅びることとなった。

 土地に残された『白露』だけは、神主一族に守られ受け継がれてきた。そして戦後に清隆学園が建設される時に譲られ、博物館へ収蔵されることとなった。

 太刀として打たれた『白露』であるが、「清洋丸」との戦いで踏み折られたせいで半分となったため、後の世に打ち直して小太刀となった。よって後世につけられた名が「切刃造波紋蛙子小太刀」となった。

 妖刀と言われる由縁は、その時にひとりでに動き出したという伝説からである。

 そして現在、博物館の修繕工事のために、ここ清隆学園高等部A棟にある展示スペースに飾られることになった。


「ふーん。これさえ読めば、充分わかるじゃないの」

 チラシに書かれた文を読み終えた近堂先生が、感心した声を漏らした。

 今は博物館から一緒に借りてきたらしい飾り台に、鞘と二段で鎮座している。

 鞘の方も、幾重にも重ねた漆を研ぎ出した鮫鞘で、背の方は黒に近く、刃の方は血の色に似た緋色になっていた。その様子は妖刀の評判を後押しするように不気味な造りであった。

「どんなもんです? おれたち刀剣研究部も、やる時はやるでしょ」

 勇士が胸を張ると、近堂先生を取り巻いていた男子教師陣が、感心したように頷いてくれた。

「ウチの文化会系も捨てたもんじゃないな」

「よく、これだけの資料を見つけたものだ」

「廃部の話しもあったが、そうしなくて正解だった」

 勇士はもちろん、一緒に資料を集めた修也も鼻高々だ。顧問である近堂先生も嬉しそうだ。

「部長さん?」

 その輪の中に、唯一入っていない咲弥を、修也が振り返った。

 いまや咲弥は、廊下へしゃがみ込み、目には『白露』しか入っていない様子である。それだけの魅力が、本物の『白露』には確かにあった。いまじゃ緋色の鞘が彼女の瞳に映り込み、まるで赤い瞳をしているようにも見えた。

 ついでに展示スペースのガラスに、スカートの中身が映りかけ…、あっ白…。

 そこで勇士は我に返った。

「ブチョー」

 ちょっと強めの声で話しかけ、彼女の横へ行った。

「んー、なあに」

 心ここにあらずといった返事があった。

「ブチョー?」

「んー」

 まともに振り返りもしない咲弥に、ちょっと不安を覚えた勇士は、顎に拳を当ててしばし考えた。

「あ! あんなところに虎徹ちゃんが!」

「え? 虎徹様が? どこに?」

 ガバッと立ち上がった咲弥は、全方位から突き刺さる、残念な者へ向ける視線に気が付いた。

「あ、あら…」

 とりなすように近堂先生が咳ばらいをしてから、彼女の肩へ手をかけた。

「飯塚さん。あなたの指導で、こんなに後輩がやる気になってくれて。先生は嬉しいわ」

「え、えっと、はあ、まあ」

 夢からさめたような表情をしていた咲弥であったが、ようやく囲まれた先生方に褒められていると認識できたらしい。ポッと頬を赤らめると、ようやくいつもの調子が出てきた。

「い、いえ。私なんか…。みんなが頑張ってくれたからですよ」

「それで先生さあ」

 若干、先程の咲弥の錯乱に責任を感じていた勇士は、話題を変えることにした。

「ここに机と椅子を持ってきていいっすか? このプリントだって仮にこんな置き方じゃありがたみが薄いし、それに部員が口で説明した方がいいだろうし」

「それと勧誘もしようって腹ね?」

 部員の少なさが大きな問題である刀剣研究部顧問らしく、近堂先生が付け足した。さすがにそこまでは勇士も考えていなかったが、話しに乗ることにした。

「どうです?」

「うーん。廊下にそういうものを出すと、防災的に…」

 と教師の一人が言い出すと、他の大人たちも困った顔を作った。

「でも、ずっと立ってろ、なんて言わないですよね」

「まあ、そうだが…」

「じゃあ」パチンと近堂先生が手を叩いた。

「廊下のはじに、椅子を二つだけ置かせてもらうっていうのはどうでしょう。片方に、このチラシ。片方に部員が座って待機するっていうのは?」

 近堂先生の笑顔を向けられて、教師陣が顔を見合わせた。最初に机を用意する事に反対した教師が、不承不承と言った態でうなずいた。

「壁際に置くなら」

「やったー」

 こうしてA棟の展示スペースに、臨時の刀剣研究部の出張所が開設されることが決定した。椅子はD棟の学生会館の物を借りてきて、さっそくチラシを置き、当番を決めることになった。

「私がやるから、大丈夫よ」

 ジャンケンで決めるつもりだった勇士の、先を制して咲弥が言い出したのにはビックリした。

「部長ですもの。それに猪熊くんも、小野くんも、パンフの方を調べていて、解説はできないでしょ」

「ですけどブチョー一人に押し付けるのも…」

「いいえ。私一人でやります」

「ブチョー」

 なおも説得しようとした勇士の腕を、修也が取った。

「ユウジくん。せっかく部長さんがやる気になっているんだから、水を差したら悪いよ」

「水を差す?」

 勇士が修也に気を取られている間に、彼は咲弥へ頭を下げた。

「それでは、お願いします部長さん。休憩がしたかったら、ボクたちにチャットして下さい」

「もちろん、その時はお願いするわ」

 ニッコリと修也へ笑顔を向けた後、再び『白露』に顔を向けた咲弥は、独り言の様に言った。

「まあ、そんなことは無いと思うけどね」



「あー、つっかれた」

 一日の学校生活を終えた勇士は、小野家のソファに転がっていた。

 ちなみに夕食の献立は、凍らせておいたカレーである。それでも明日菜は少しでも変化をつけようと努力してくれたのか、トンカツとキャベツをたっぷり乗せて、カツカレーになっていた。

「コラ、おにいちゃん」

 今日は帰ってきても機嫌が悪い明日菜が、手にしたオタマでポコンと勇士の頭を叩いた。

「いてー」

 意外に痛かった。前に、コレを使ってボコる宣言をされたことがあったが、あながち嘘ではなさそうだ。

「食べた後にすぐ横になると、牛になりますよ」

 明日菜はお母さん役のつもりのようだ。といって、勇士がお父さん役というわけではないのだが。

 壁の時計を見上げれば、午後八時。点けっぱなしにしたテレビを見るとはなしに、ダラダラと時間だけが流れていく。

 勇士は痛みが引かない辺りを撫でてみた。コブにはなっていないが、何度も殴られたくはない。

「痛いじゃないか」

 口では文句を言ったが、行儀が悪いことには変わりない。勇士はソファに真っすぐ座り直した。

「しーらない」

 いまだ機嫌の直らない妹は、洗い物をするためか、キッチンから出てこない。その不貞腐れた態度で、虫の居所が悪い原因が思いついた。

 やはり、朝にあった正門前での出来事のようだ。

「おまえ、まだ怒ってんのかよ」

「だから、しーらない」

「おまえも知ってるだろ。キョウコが、ちょっとおかしいの」

「ちょっとぉ」

 異議ありとばかりにキッチンから顔を出した明日菜は、睨みつけて言い切った。

「アレは『完全に』おかしいじゃない。あれが『ちょっと』なんていう、おにいちゃんもおかしいんじゃない?」

「そうか?」

 ペタンと自分の頬を撫でてみた。いちおう勇士は、自分はまともな高校生だと思っている。ただ、青色が標準だと思っていた世界から、赤一色の世界に紛れ込んでしまったら、その青色は周囲から異常な存在だと見られるかもしれない。勇士も、周囲に変人が多いから、赤色に染まり始めているかもしれないが、判断の基準が分からなかった。

 その時、外からキララの鳴き声が聞こえてきた。時計をもう一度見ると、確かにそろそろキララの散歩の時間である。おそらくその催促であろう。

 リードを手に玄関に向かう勇士を見て、明日奈はキッチンへ引っ込んだ。

 玄関の定位置に置きっぱなしのエチケットセットを手に取り、外に出る。キララは待ちきれないのか、グルグルと同じところを回っていた。

 リードをつけて歩き出す。

 今日のキララは、いつもと気分が違うらしく、バス停の方へ歩き出した。

「キララさあ」

 勇士が話しかけると「はい、なんでしょう」とばかりに振り返った。

「今日で水曜日だから、あと四日なんだけど。オレは生き残れるのかな?」

 しかし答える声のない犬の身である。キララは鼻息をフンと吐くと、前を向いてしまった。

「キョウコも、また変になってきてるし、近づかない方がいいのかなあ」

 変と口に出して言ってみて、もう一つ思い出したことがあった。咲弥のことである。

 今日一日、ずっとよそよそしい態度だった気がした。あれも、朝の事件のせいであろうか。特に『白露』を預かってからというもの、展示スペースにベッタリだった。

 今日の帰る時も、いちおう声をかけたが、振り返りもしなかった。

 そんなことを思っているうちに、バス停まで来てしまった。住宅街に囲まれた梨畑に設けられえているので、ここだけ周囲より暗闇が濃い気がする。

 人間の基本的な恐怖の対象に、勇士はリードをぐいと引っ張り、キララへ合図した。それを理解したキララの足が、バス停から次の目的地へ向かおうとした時だった。

 と、キララが道の方を見て、動かなくなった。

「?」

 クイクイと合図を送るが、何かに注視しているのか、耳をピンと立て、鼻を鳴らしている。

「どうした?」

 どこかで見たようなキララの反応に、誰か居るのかと勇士は顔を上げた。暗闇が一層濃くなり、そして切り取られたように動いた。

「うわっ」

 原始的な恐怖感で、勇士は後ろへ飛ぶように下がった。リードを離さなかったので、突然引かれることになったキララがギャンと悲鳴を上げる。

 浮き出した黒い影がゆらりと近づく。バス停の常夜灯がアスファルトに反射し、そしてそこにある物の形を朧げに浮かび上がらせた。

「ぶ、ブチョー?」

 誰かと思ったら、咲弥であった。学校で見るのとは違って、私服姿なのが新鮮であった。

 薄手の黒い長袖ワンピースに、黒い手袋、さらに長い足も黒いハイサイで覆っており、夜闇が動き出したと勇士が誤解するのも仕方のないファッションである。

 その黒一色の衣装に怯えたのか、キララがヒャンヒャンと吠えかけた。慌てて落ち着かせてやろうと、勇士はしゃがんで彼女の体を抱いてやった。

「こんばんは」

 両手を後ろに無表情なまま勇士とキララを見おろし、これまた暗褐色系の口紅が塗られた唇が動いた。

「こ、こんばんわっす」

 学校とはまるっきり違う雰囲気に、勇士は気を呑まれたような声になってしまった。

「ど、どうしたんっすか? こんな夜に」

「会って、確かめたいことがあったの」

 少し血走っているようにも見える咲弥の眼球が、ギョロリと動いた。

「確かめたい?」

「ええ」周囲に誰もいないことを確認したのか、再び咲弥は勇士を見おろした。

「私と、小野くんのこと」

「ブチョーと、オレのことっすか?」

 そのまま咲弥は黙ってしまった。居心地が悪くて、勇士は恐る恐る立ち上がると、提案する事にした。

「こんなトコじゃなんですから、ウチ、来ます?」

 その場でグルグル回り始めたキララに、リードを取られないように捌きながら答えを待つと、ゆっくりと咲弥の首が横に振られた。

「ここで」

「ここで、ですか?」

 ポリポリと頭を掻く。誰も居ないバス停とはいえ、まだバスは終わっていない。いつ次の便が来ても不思議ではない状態だ。簡単なベンチもあるが、そこで会話している途中に、他の利用客が来ないとも限らない。

「ここで」

 再度念押しする咲弥に、困った顔をして見せる。

「家には、もちろん妹の明日菜もいますが。オレの部屋なら内緒話もできますよ?」

「ここで」

 思いつめた様に繰り返されては、もう勇士に言うことはなかった。それとも、誰に聞かれてもいい話なのかもしれない。

 ちょっと溜息のような物をつくと、さっさと会話を終わらせることを選択した。

「はなしって、なんっすか?」

「私…」

 俯いたので顔に影がかかった。

「私、小野くんの事が好きなの」

「え?」

 突然の告白に、勇士は意味が分からなかった。

「私、小野くんの事が好きなの!」

 まるで地団駄を踏むようにしながら、咲弥は繰り返した。

「小野くんは私のこと、どう思っているの?」

「え、それは…」

 勇士の脳裏に、初めて咲弥に会ったD棟廊下の風景が浮かんできた。とても儚げに見えた先輩。さらさらと窓から入った春風が、彼女の長い髪の毛先を揺らしていた。

 そして次に浮かんできた情景は、アニメショップで大好きな虎徹さまグッズを大人買いしている上級生であった。

 あまりの落差に眩暈さえ覚えた。

「ブチョーは、ブチョーでしょ」

 不覚にも顔面を手で押さえた勇士は、それだけは何とか告げた。

「やっぱり! 年上のオタク女子なんかより、幼馴染の美人がいいのね!」

 突然の怒鳴り声に、勇士は身を固くした。驚いたキララは、勇士の足の間へ逃げ込んだくらいだ。

 勇士は一瞬、彼女が何を言っているのだろうと思ったが、すぐに今朝の恭子がやらかした正門前の事件を思い出した。

「いや、あれはですね…」

 説明に困り、勇士は眉を顰めた。

「キョウコは、精神的に、普通じゃないですから。ほら、ブチョーも見たでしょ、野良猫を追っかけてったの」

「じゃあ、なんであんな顔をしたのよ」

「かお?」

「私に向けない顔をしていたわ」

 鏡で四六時中自分の顔をチェックしている人間というのはそういない。正門前で自分がどんな顔をしていたかなんて、勇士が正しく思い出せるわけもなかった。

「そんな、変な顔をしてました?」

「うれしそうな顔をしていたわ」

 プルプルと咲弥の全身が震え出した。一瞬、怒っているのかと思ったが、ポロポロと水滴が路面へ落ち始めて、勇士はビックリした。

「ブチョー…」

 その時、遠くから光が投げ込まれた。チラリと視線を動かせば、一対の大きな光源が道をやってくる。

 どうやら懸念していたとおり、次のバスがやってきたようだ。

「と、とにかく、ウチで話の続きをしましょうよ」

 泣いている姿を不特定多数に見られたくないだろう。それに、もしかしたら勇士のご近所さんが降りてくるかもしれない。そこで勇士は、昨日の帰り道に咲弥が戸惑っていたことを思い出した。

「ああ、道が分からないんですね? こっちっすよ」

 勇士は案内しようと、キララと共にわが家への進路へ向いた。

「…」

 咲弥が何か呟いた。

「え?」

 聞き取れなかった勇士が振り返ると、彼女は一歩も動いていなかった。

「小野くんは、私の…」

「は?」

 今度は聞き取ることが出来たが、意味が分からなかった。

「小野くんは、私のモノなの!」

 ジリッと咲弥が一歩出た。その左手に、なにか長い物が握られていた。

 バスのヘッドライトに照らされて、その正体が分かる。

 それは緋色になるまで磨き上げられた鮫鞘だった。

「『白露』?」

「小野くんは! ワタシのモノなの!」

 咲弥は絶叫し、その途端に勇士の視界がクルクルと回転した。

 理解が追いつかずに、勇士は何度も瞬きをした。

 声が出ない。体も動かせない。ただ頬に熱い液体がかけられる。

 なんとか現状を理解しようと、眼球を動かすと、目の前に咲弥がいた。

 左手には緋色の鞘。右手には、赤く塗れた白き刀身。

 そして、その足元には、男の体が横たわっていた。

 男の着ている物は、勇士がさっきまで着ていた物にそっくりで…。

 そこまで理解してから、その地面に倒れる男の体に、首が無いことに気が付いた。

 そして、自分の喉元からすぐ下に、バス停のベンチが生えていた。いやチガウ…。

 誰も握っていないリードを引きずって、キララが道を行きかけ、そして振り返ってヒャンヒャンとうるさく吠え始めた。

 段々とカーテンを下ろすように視界が暗くなってくる。それに反して、聴覚だけはやけにはっきりとしてきた。

 ミーというマヌケな警告音と共に自動ドアが開いた。どうやら、いつの間にかバスが到着していたらしい。

「どうしたんだ! あんた!」

「きゃああああ!」

 サラリーマン風の男や、学生風の女の声。

 そんな暗い視界で、網膜に焼きつくように、咲弥が口を三日月状に開いて笑っていた。両手にそれぞれ赤色をした棒状の物を握ったまま、優しく勇士の頭を抱きかかえてくる。

「ダ・レ・ニ・モ・ワ・タ・サ・ナ・イ」

 咲弥の声がすると同時に、新たに周囲から熱い液体がかけられた。もうほとんど目が見えないので分からないが、熱湯を柄杓でかけられている気分だ。

 どこかでキララが吠え続けているのが聞こえる。

 そして勇士は強烈な眠気に襲われ、引きずられるように暗闇へ落ちて行った。



「…次のニュースです。昨夜八時ごろ、東京都××市の農協前バス停付近において、路線バスの運転手から『女が暴れて、人が襲われている』との通報がありました。通報を受け警察官が駆け付けたところ、当該バス停において、刃渡り三〇センチほどの日本刀のような物を持った少女が、通行人などに切り付けている現場に遭遇、これを取り押さえました。バスの利用客など、男女あわせて四人が切りつけられて負傷し、その中の高校生、小野勇士さん十五歳の死亡が、現場で確認されました。少女は小野さんと同じ高校に通う生徒とみられ、小野さんが犬の散歩をしていたところを、同じ部活であるこの少女に切り付けられた模様です。警察は、刃物の出どころなどを含めて捜査中としています。また少女の言動に一部におかしなところがあるとして、少女に法的責任がとれるか鑑定留置も視野に入れて捜査する予定です。…次です。鉄道公園の蒸気機関車に…」



 厚い霧の中を歩いていくと、テレビのニュース番組のような音声が聞こえていた。

(またか…)

 一種の脱力感を感じた勇士は、それでも構わずに、前方の暖かい光の方へ歩いて行った。

 やはり、なにかの石碑のような大岩が見えてきて、その前に白い服を着た老人が立っていた。

 長い髪も髭もすっかり銀色に染まっており、鋭い目元など記憶にあるままだ。

 穏やかに見つめてくる視線は、やはりガッカリしたような感情が込められており、勇士が彼の前に立つと、長い髭に包まれた口元を開いた。

「おお勇士よ、死んでしまうとは情けない」

「ちょっとまてよ!」

 少々怒気の含んだ声を上げてしまう。

「オレは、キョウコに殺されるだけじゃないのか?」

「わしゃ言ったはずじゃ」

 激昂している勇士に噛んで含めるように言った。

「一週間の間に、死なないように努力するのじゃぞ、と」

「だからって、水曜日にあんなことが起こるなんて!」

「まあ、あれは…。嫉妬?」

 老人はちょっと首を捻った。

「飯塚咲弥の嫉妬というやつだの」

 老人の左手が動いた。霧の表面を撫でるような仕草をすると、霧が粘土のように均され、そこが鏡のように変化した。以前に見たのと同じであった。

 やはり、どこかのテレビ局のニュース番組が映し出されていた。

 勇士が見慣れた町並みが写っており、カメラが反対車線からいつも利用していたバス停を撮影していた。そこは明らかに赤い液体で汚されたままだった。

「オヌシだけでなく、他にも切り付けられた者が多かったからのう」

 野次馬もたくさん出ている中で、青い作業服を着た警察官が、何か証拠となる物を回収している様だった。

 その野次馬の中に、ボーッと立つ恭子がいた。その手にはリードが握られており、見慣れた雑種犬が繋がれていた。

「ああ、キララ」

 恭子と共に悲し気な視線で、テレビカメラと不思議な霧の鏡を通して勇士を見ているようであった。

「そうか、オレ…。また死んじまったのか…」

 愕然として絶句する勇士。

「また、自分の死体が見たいかの?」

 その質問に、慌てて首を横に振る。すでにソレは見てから来た。

 そんな勇士に老人が語り掛けた。

「さて、勇士よ」

 老人は手の一振りで映像を消した。

「若くして死んでしまったオヌシであるが、やり直したいとは思わんかね?」

「え?」

 背筋を伸ばして勇士は相手を見つめなおした。

「オレ、まだ生き返ることができるのか?」

「ダレがあれきりと申した。オヌシは捨て犬だったあのコを助け、世話をしてやるほど優しい者。それをこんな失敗で死なしてしまうほど、わしゃ冷たくはない」

 胸を張る老人に、後光のような物を感じた勇士は、思わず手を合わせた。

「あ、ありがとうございます」

「それで?」

 あくまで優しい態度のままで勇士に訊いた。

「どうする? 一週間やりなおしてみるかね?」

「はい! ブチョーがあんなメンヘラとは思わなかった。キョウコといい、もう女にヘラヘラなんかしないで、硬派に生きます! よろしくおねがいします!」

「よろしい。いい返事だ」

 微笑みが大きくなると同時に、再び勇士の視界は霧に包まれた。

 どこからか彼の言葉が聞こえてきたのが最後だった。

「一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ」




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