火曜日
「おにいちゃん、朝だよ」
ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。
「おうっ」
その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。
「ほらほら、目を開けてー」
どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。
「うーん」
ベッドで上体を起こした彼に、すでに清隆学園中等部の制服を着ていた明日菜が振り返った。頭の両側で結んだ髪が、遠心力で丸く宙を舞った。
「おはよ。おにいちゃん」
「おはよ、アスナ」
「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」
「おう」
まるで昨日の再生のごとく、小野家の朝が始まっていた。
昨夜はちょっと寝つきが悪かったせいで、支度に手間取っていると、階下から催促の声がかかった。
「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」
「おう!」
声だけは元気よくこたえ、赤いネクタイを首に巻き付ける。
ダイニングにはトーストにサラダという小野家では定番の朝食が待っていた。
食卓の上まで昨日の再現のようである。
手早く朝食を片付け、揃って玄関を出る。
今日も二人並んでバス停へ向かうつもりだった。
勇士が玄関の鍵を閉めている間に、明日菜は犬小屋の前にしゃがみこんでいた。
「それじゃあ、ルス番たのみますよー」
地面に寝転がって腹を見せている愛犬の毛皮を撫でながら、明日菜はそう語りかけているところまで同じだった。
(そう。こうして普通の日を過ごしていく毎日なんだ。それなのに、なんで死ぬことになるなんて)
家族である一人と一匹を見おろしながら、勇士はそんなことを思っていた。
その時だった。
「肉がイル」
声をかけられた気がして振り返ると、そこに今日も狂人が立っていた。
「よう。おは…」
昨日と大きく違っているところがあったため、勇士の言葉が途切れた。
恭子の服がまともであった。
紺色膝丈ワンピースの上に、蝶の羽を持った妖精が描かれたエプロンをつけていた。伸ばし放題の長い髪も、ちゃんと櫛削り、大きなリボンで一つにまとめていた。
顔だって艶の無かった昨日までと違い、はっきりとしたお化粧をしているわけではなかったが、年相応に瑞々しく輝いていた。
しかも長い髪からは、ほのかに柑橘系の香りが、肌からも石鹸の優しい匂いがした。
勇士を視界に収めて、ニッコリと微笑む左目が真っ赤に染まっていなければ「どこのお嬢さんでしょうか?」と見間違うばかりだ。
ただ、やはり奇行は治っていないようで、なぜか右手に長ネギを一本握っていた。
「お、おはよう」
恭子は一晩で狂人から美人へ変身していた。家の前を通りかかる通行人が、わざわざ振り返って見たほどだった。
美しさに気を呑まれた勇士の声に、まるでスイッチが切り替えたように、明日奈とキララを見ていた恭子が、視線を彼に戻した。
「ごきげんよう、ユウジ」
「キョウコ、どうした?」
手にしたものが凶器になりにくい物であるから、安心して声をかけられる。
「どうシた?」
ちょっと眉を潜めて首を傾げてみせる。勇士の心配げなリアクションの理由が理解できないようだ。
といっても勇士を責めることはできないであろう。こんなまともな格好の彼女を見るのは、本当に久しぶりなのだから。
「何か、おかしいかしら?」
そこらへんを歩いているお嬢さんの様に、自分を見おろしてから不安そうに訊ねてくる。
「いやいや、おかしくないとも」
慌てて首を横に振った。
「いつもより美人さんだから驚いただけだ」
「美人さん?」
女の子らしく左手を頬に当てて表情筋を動かした。
「まあ、うれしい。本当?」
「ああ。五割増しぐらいだ」
と言っても、いつもが五割減なだけであるが。
「いつも、そうしてお洒落していればいいのに」
「あら。ワタシはいつもお洒落よ」
勇士の基準では、いつから着替えていないのか汗と垢にまみれた服で、折れたダイコンを持ち、ふらふらと夜道を歩くのをお洒落とは言わないが、まあそれは置いておいて。
「今日は一段と綺麗だよ。どうしたの?」
ここで褒めておけば、少なくとも同じ服を一か月以上着ることを止めてくれるかもしれないと思い、精一杯褒めてみた。
「うふふ」
その外見(長ネギを除く)に似合った表情になった恭子は、楽しげに言った。
「今日はユウジとお出かけしようと思いまして」
「ああ、それはダメ」
冷たくならないように、いかにも残念そうに告げる。
「今日も学校があるから」
「学校?」
茶色の右目と赤い左目が大きく見開かれ、そして細められた。
「やだわユウジ。学校なら卒業したでしょ」
「いや卒業したって…」
おそらく恭子が言っているのは中学校の事であろう。もしかしたら小学校、いや幼稚園の可能性も捨てきれない。
「忘れたの?」
とても不安げな顔を作る恭子。
「忘れやしないさ。二人きりの卒業式だもんな」
それまでも少し世間の基準から外れることがある女の子ではあったが、恭子がこう“壊れて”しまったのは、中学三年の夏であった。
夏休みが明けて二学期からは、制服を着て登校はできてはいた。が、授業中だろうが何だろうが、廊下を徘徊するようになっていた。それだけではない、注意する教師だろうが通りがかった生徒だろうが、自分の進行方向にいる者に殴りつけるようになってしまっていた。
しかも生物のほとんどを“肉”としか認識していない様子。まともに会話できるのは、家族の他には、唯一の例外として勇士だけであった。
ただ彼だって殴られるときは手加減なしに殴られた。今までで一番痛かったのは、技術実習室の木製椅子であった。
よく考えなくても当たり前だが、そんな授業妨害しかしない恭子を、学校は放り出そうとした。ただ中学三年の二学期という時期であった。勇士たちの学校でなくとも、高校受験で生徒が煮詰まっている時期である。そんなタイミングで、問題児を他校へ押し付けるなんて真似をしたら、周辺校からの評判は下がることは間違いなしであった。
しかもそういった子の教育を担当している学校にも、空きが無かった。いちおう申請には行ったようだが、新年度からならば対応できると、役所特有の返事だけがあったと聞いた。
そのころから恭子の面倒を見ることになった神谷家は、学校側へ多額の寄付をすることで、中学卒業まで在籍させることを了承させた。
だが専門の教師がいない学校側も、対応に苦慮した。他の生徒の邪魔をしないように、格闘技の覚えがある教師がつきっきりで、登校しても他に誰もいない教室への軟禁状態が精一杯であった。
そうして季節が進み、勇士たちの卒業式がやってきた。
書類上登校日数を満たしていた恭子も、卒業する権利だけはあった。
ただ偉い議員さんが来るだとかで、行動が読めない彼女の卒業式への参加は、学校側から拒否された。
神谷家側も、それまでさんざん迷惑をかけていた事が負い目となり、それを了承するしかなかった。
怒ったのは勇士である。幼馴染として一緒に中学三年の夏までは一緒に歩んでいた結末がこれでは納得いかなかった。
勇士は首席というほどの成績ではなかったが、上から数えた方が早い成績ではあった。サボりだってほとんどせずに、真面目に授業へ出席していたので、当たり前に卒業する権利はあった。が、恭子への中学側の対応が納得できなかった彼は、自身が卒業式へ参加することを拒否した。
困ったのは学校側である。ちゃんとした勇士を卒業させなければ、これも学校側の落ち度になってしまう。しかし卒業式の最中に、恭子が暴れ出すなどの奇行に走る可能性は高かった。
そこまで至って、校長は一つの提案をした。卒業式の翌日に、勇士と恭子の二人だけで卒業式を、校長室で行おうというのだ。校長も、伊達に人生経験を重ねているわけではなかったようだ。
両家の親族と、校長、担任教師、それと教頭と、祝ってくれる人数は最小限であったが、ちゃんとした卒業式であった。
その間、恭子はまるで人が違ったように大人しくしており、学校側の杞憂が余分であったと思わせた。
「二人で並んで、校長先生の話を聞いて…」
まともに頬を少し赤らめた恭子は、いつもとは違う自然な微笑みを見せた。
「まるで結婚式のようでしたわね」
「ま…、まて」
その乙女らしい恥じらいが勇士にも伝染してきて、彼の声が裏返った。
「あれは卒業式だかんな。変なこと想像するなよ」
早口で言い訳のようなことを口にする勇士の袖を誰かが引っ張った。
「おにいちゃん」
キララから離れた明日奈であった。
「じかん」
中学進学のお祝いに、祖母から贈られた細身の腕時計を指さしていた。それで勇士に、バスに乗り遅れるのではないかという焦燥感がやってきた。
「ああ、わかった」
振り向いたついでに、明日奈へウインク。よくできた妹は、それだけで勇士の言いたいことを理解したのか、携帯を取り出した。
「さあユウジ。どこへでかけましょうか」
焦点の合わない目で青空を振り仰いだ恭子が、とても楽しそうに訊いてきた。
「遊園地? 動物園? いつものお砂場でも構わないわ」
「うーん、困ったな」
眉をよせて困った顔を作って見せる。それを不思議そうに恭子は見つめ返してきた。
「どうしたの?」
「いや。学校行かなきゃならないから、キョウコと遊ぶことはできないんだよ」
なんとか説得しようとする勇士を見る恭子の顔が変わった。目は吊り上がり、唇は引き結ばれ、髪の毛は逆立っていく。先ほどまでのお嬢さんのような表情よりの変化から、まるで人形浄瑠璃の般若のごとくの変わり身だ。
その鬼気迫る顔に、勇士は自分でも知らない内に一歩下がってしまった。
「なんですって?」
声までドスが利いていた。
「ガッコウはソツギョウしたでしょ!」
「いや、だからな…」
身の危険を感じさせるほどの形相に、それでも説得を試みる勇士。しかし彼自身だって心の隅っこで、彼女には理解させることができないことを分かっていた。
「あのなキョウコ。オレは高校へ進学したの。オマエは勉強しなかったから、高校に入れなかっただろ」
「一人でいろって言うの?」
怒った顔のまま、ふっと目だけが悲しげな色を帯びた。
「トモダチなのに?」
まるで火に水をかけたように怒りの形相は消え、肩を落とした寂しげな雰囲気をまとった。そして下からすがるように勇士の顔をのぞき込む。慰めるために勇士は口を開いた。
「キョウコだって、勉強すればガッコウ、行けるようになるさ」
「ワタシを見捨てるの?」
勇士が久しぶりに聞く、とても悲しい声だった。
「見捨てるわけないだろ」
「ユウジは新しい学校へ行って、新しいトモダチを作って、ワタシがいらなくなるのね」
「そんなことないって」
と言い返しつつも、バスの時刻が気になっていることを自覚した。
「ワタシ。一人になっちゃうのね…」
ショボンと俯き黙ってしまった。その落ちた両肩が、捨てられて寂しげに鼻を鳴らしていた頃のキララの記憶と重なった。
「キョウコ…」
慰めようとのばした手に、痛みが走った。火でも触ったかのような感覚に驚いていると、恭子が面を上げた。
「見捨てるのね、ワタシを」
振りかぶっているのは右手に持った長ネギ。ただの野菜と侮っていたが、こうして振るわれると、まるで鞭のようにしなって、防御しても先端が遠心力で回り込んでくる。一〇〇パーセント天然の鞭は、確実に勇士の肌に赤く後を残した。
「ま、まて…」
せめて頭部だけはと、両腕を上げてガードする。しなる長ネギは、そんな勇士の腕や体を容赦なく叩いた。
「キョウコちゃん!」
一方的な暴力に耐えていると、道の向こうから声がかけられた。
やっと明日奈からの連絡が届いたらしい、恭子の伯母である月子であった。
「どうしたの? キョウコちゃん!」
暴力を振るう相手が珍しく勇士であったため、月子の声が驚きに満ちていた。
「ユウジくんにそんなことしたら…」
長ネギを握っている右腕に抱き着くようにして、恭子の暴力を止める。声をかけられたからというより、体に重みがかかって、やっと恭子は月子がやってきたことを認識したようだ。
「保護者?」
「どうしたのキョウコちゃん。ユウジくんとは仲良しでしょ」
「ええ仲良シよ」
コロッと今まで長ネギで撲っていたことを忘れたかのように笑顔を作る。そして当たり前のように、その顔を勇士へ向けた。
「もウ行かないと。でワ、ごきげんヨう」
月子に肩を押されて誘導されるままに恭子は歩き出した。
「ごめんなさいね。後でちゃんと謝りに来るから」
「だいじょうぶっすよ」
もう恭子に乱暴されるのは慣れていた。椅子でなくて長ネギだったことを感謝すべきだろう。それと長ネギが意外に痛いのも学習した。次からはもっと気をつければいいだけだ。
「おにいちゃん。だいじょうぶ?」
もう振り返りもせずに歩き出した二人の背中を見送っていると、明日奈が心配そうに寄って来た。
「ああ。赤くはなったが血が出る程でないし、大丈夫だ」
不安げに見上げてくる妹へ微笑み返す。
「もう相手にしないほうがいいよ。あのクルクルパー」
「そう言うなよ。あれだってオレのトモダチだかんな」
そう言い切る勇士を理解できないとばかりの顔を見せる明日奈。妹として兄を心配してくれているのだろう。
「さ、おにいちゃん。いこ」
二人の背姿を見送っている勇士に、明日菜が声をかけた。
いつものように明日奈とは高等部の正門前で別れた。
生徒昇降口で上履きに履き替え、階段室へ足を向ける。
今日もそこは同じ時間帯の電車やバスで通学してきた生徒で、ごった返していた。進む方向が教室のある上の階であるから、下へと流れる水とはまるで反対方向ではあるが、勇士は土石流などの濁流を連想していた。
そんな何もかもが動いている人ごみの中に、川床から生えた岩の様に動かない点が存在した。
「あ、小野くん」
流れの圧力を受け流すために壁際に立っていたのは制服姿の女子生徒であった。少々不安そうな表情から、まるで陽が差した草原のように明るい笑顔に変えて、その女子が声をかけてきた。
今日はわざわざ待っていてくれたらしい刀剣研究部部長の咲弥であった。
「ブチョー…。はよっす」
「おはよう」
固い表情の印象しかない咲弥が、今日もとても上機嫌に見える。おそらく昨日から刀剣研究部がそれらしい活動できているのがよいようだ。
「今日も部活、やるでしょ」
「あ~」
ポリポリと後頭部を掻いてみる。機嫌のいい部長の咲弥には悪いが、カウンターで立ってするバインダーのチェックは、意外と下半身へダメージがあった。いまも腿が張っている感覚があった。
「もしかして、なにか用事があった?」
明るい表情が一転して、ちょっと泣きそうに眉が寄せられる。勇士にはそれが初めて会った時の彼女を連想させた。
「ズルいですよ、ブチョー」
苦笑いのような物を浮かべながら勇士は口を開いた。
「え?」
戸惑う咲弥に言ってやる。
「そんな顔をされたら、どんな頼み事だって断れないじゃないですか」
「ま」
いつもの大人びた様子とは違って、ポッと色を変えた年相応の表情を半分隠すように、咲弥は自分の顔に手を当てた。
「だいじょうぶっす」
気安く胸を叩いてから、足の張りに気が行って軽く後悔しながらも、勇士は言い切った。
「今日も、コレといって用事があるわけでも無いっすから」
「じゃあ、今日は図書室へ集合ということで、いい?」
「了解っす」
咲弥は上機嫌のまま階段室を出て行った。
その背中を見送りながら、勇士は今夜あたりには足にシップを貼って寝ることになりそうだと思い始めていた。
教室に着くと、今日も隣席の修也は先に着ていて、席に着いていた。
「おはようユウジくん」
「おう。おはよシュウ」
今日も女の子のような笑顔で出迎えてくれた、男だけど。
「なに読んでんだ?」
いつもとは違い修也は、何か印刷物をホチキスでまとめただけの小冊子を、机の上に広げていた。
「ん? これのこと?」
手に取って表紙を見せてくれる。コピー用紙に家庭用プリンターで出力したらしく、ドットがわかる字体で何か横文字が書いてあった。
「え~…」
英語はあまり得意では無いのだが、なんとか読めそうだ。
「きんぐおぶてーる?」
「King of Tearだね」
間違えていないか確認するためだろうか、自分でも表紙を確認しながら、修也がタイトルを口にした。
「なんだよソレ」
勇士にはまったく心当たりがなかった。
「これは、ボードゲーム研究部が作ってる、オリジナルのテーブルトークゲームなんだ」
「ボードゲーム研究部?」
「うん」
コクリと女の子らしく小さくうなずいた、男だけど。
「クラスの左右田くんが、たまに一緒に遊ぶんだって。本人は『クトゥルフの呼び声』がお気に入りみたいだけど、たまに付き合いで別のルールでも遊ぶんだって」
「それに、なんでシュウが噛んでくるんだ?」
「うん、それがね。この『キング・オブ・ティア』はね、文化祭で発表する予定なんだって。それでルールに穴がないか、いまはサードパーティに確認してもらっている期間なんだって」
「あー、それで」
話の先を読んだ勇士にうなずきが返ってきた。
「うん。ボクも協力してって頼まれちゃってさ」
「また押し付けられたりしたんじゃねーだろうな」
何にでも弱気な修也である。嫌がる彼に余分な仕事を押し付ける輩は掃いて捨てる程いた。
「やだなあ」
ニッコリと修也。
「左右田くんは服装と髪型と行動と言動と体臭は変だけど、とてもいい人だよ」
「…」
しばし絶句してから勇士。
「シュウも言うようになったな」
「そうかな?」
「それに、そんな変なヤツって?」
クラスの中を探すように視線を上げた。
「彼だよ」
修也は含むことが無さそうな自然な感じで、教室の後ろの方を指さした。
指の延長線上には、昨日教室で勇士が紙屑を当ててしまった、クラスメイトが席に着いていた。始業前のごった返している室内で、こちらの会話が聞こえるわけが無いのだが、全てを把握しているかのように、薄ら気持ち悪い笑みを浮かべて二人を見ていた。
(あ~、アイツか。まあ無理やりやらされてないんだったら、いいか)
ちなみに二人を見ているのは彼だけでなく、窓際の女子グループも熱い視線を送ってきていた。勇士の記憶では、彼女たちはマン研の部員だったはずだ。
そっちの変な期待を寄せる視線を無視して、勇士はきいた。
「それで? そいつはどんな具合なんだ?」
「そうだね」
眉を顰めて修也は薄いルールブックを開いた。
「どちらかというとテーブルトークゲームというより、ファンタジーのキャラクターを使った戦略シミュレーションって感じかな。ルールは簡単すぎて、遊ぶには物足りないんじゃないかな。戦闘は戦略シミュレーションのようにヘックスを切ったボードでやるようになっているんだけど、判定自体は省略されていて…」
「わかった、わかったから」
蛇口を勢いよく開いたレベルで寸評を始めた修也に、とりあえず落ち着くように手を振って見せる。
「じゃあ、今日は刀剣研究部の方はどうすんだ?」
昨日の図書室を思い出した勇士は、机に頬杖をついて訊ねた。一冊のバインダーだとはいえ、一人でカウンターに立ってページを捲るとなると、精神的に来るものがある。何の役に立たなくても、誰か横にいてほしかった。
「うん大丈夫。こっちは、こんなに薄いでしょ。もう全部読んじゃった。あとは昼休みにでも、左右田くんとちょっとやってみれば、良いところと悪いところがハッキリするんじゃないかな」
「じゃあ昼は別か」
何の気に無しに勇士がそう言うと、修也は少し潤んだ瞳になって身を乗り出してきた。
「ごめんねユウジくん、お昼つきあえなくって」
窓際の女子グループの方角から黄色い歓声が上がった。そのせいもあって、勇士は上体をのけぞらせた。
「いや、別にいいけどよ。それに放課後は付き合ってくれるんだろ」
「それはもちろんだよ」
キラリとする物がある笑顔で修也は言った。
「ボクも刀剣研究部だからね」
「ボクじゃなくて、オレな」
「あ」
わざわざ口に手を当ててから言い直す。
「お、オレも刀剣研究部なんだからね…、な」
「じゃあ、今日も図書室で頼むわ」
「え~、あれをまた~?」
不満のある(女子)小学生のような声が修也から出た。
「頼むよ、な」
「ユウジくんと一緒だったら頑張れるよ」
拝むように手を顔の前に立てると、コロッ表情を戻してくれて、小さなガッツポーズまで見せてくれた。それでふといつもの疑問が浮かんできた。
「何回も聞いたが、シュウも女が好きなんだよな?」
「そうだよ? 当たり前じゃないか、ボクは男の子だよ」
不思議そうに首を傾げる修也。
「そうだったらいいんだ。そうだったらな」
勇士が窓際へ視線を流すと、いまだに女子グループが期待を持った視線でこちらを見ていた。
勇士は大きなため息をついた。
午前中の授業は何事もなく終わり、昼休みとなった。
一緒に学食で食事をとった勇士と修也であったが、食事の後は、修也は一人で学生会館へ行った。朝の会話のとおり、修也はボードゲーム研究部のオリジナルゲームをテストプレイするためだ。
勇士は教室に戻って、他のクラスメイトと雑談をして過ごした。
たしか十塚とかいう名前だったはずのクラスメイトは、体は相撲取りみたいにでかいくせに、アクティブな事が趣味のようで、エアーソフトガンを使ったサバイバルゲームをやるようだ。そのせいか色々と面白い話を聞くことができた。
一番面白かったのは、虫嫌いなプレイヤーがいて、フィールドに殺虫剤を持ち込んだ話だった。せっかく茂みの中を敵陣へ向かって忍んで行ったのに、多数の蚊に集られてしまい、まるで煙幕の様に殺虫剤を噴霧、見事敵に居場所がバレて集中射撃を受けたらしい。
修也は午後の授業が始まる前に戻って来た。席に着いたところで、声をかけてみた。
「どうだった?」
「うーん」
コピーの束であるルールブックの表紙を眺めながら渋い顔になっていた。
「普通」
「ふつうか」
「でも、これだけ薄いルールで普通なら成功かな」
「そりゃよかった」
「でもね…」
その後、長い寸評を聞かされそうになったが、チャイムによって救われた。
そのまま午後の授業も何事もなく過ごした。
課業が終了すれば、部長の咲弥が待つ刀剣研究部の活動である。
再び支度に手間取った修也と一緒に、C棟二階にある図書室へと赴いた。
入口をくぐったところにあるカウンターについていたのは、昨日閉架の方から出てきた背の高い少年だった。
「あ、いらっしゃい」
自分が開いていた薄くて大判な本を横に置いて出迎えてくれた。何の気に無しに、その本の表紙に目が行った。昔の鉄道によくあった腕木信号機の写真が目立つ表紙に書かれたタイトルを読むと『シーナリィガイド』とある。他に表紙には、ディーゼルカーの特急や、田舎の駅などが見て取れるが、何の本だかさっぱり分からなかった。
左腕に通した腕章からして、今日の当番は彼のようだ。
「昨日の?」
「ええ」
襟章からして同学年のようだが、いちおう丁寧な言葉を選んでみた。
彼は席から立つと、昨日と同じ扉の向こうに消えた。おかげで修也と二人でカウンターに取り残された形となった。
その時間を利用して、図書室の静かな室内を見回してみた。
今日の利用状況も、そんなにいい方ではない。並べられた自習用テーブルは一割ほどしか埋まっていなかった。
その中に咲弥の顔を見つけることはできなかった。まだ来ていないようだ。もしかしたら自分で図書室集合と言ったのに、いつもの学生会館で待っているのかもしれない。
(来なかったら、後で探しに行こうかな)
そこまで思考を巡らせたところで、閉架から少年が戻って来た。昨日より早かったところをみると、もしかしたら取り置いてくれていたのかもしれない。
カウンターの上にあの分厚いバインダーが置かれた。
「じゃあ、はじめますか」
「う、うん」
まだ始めていないのに、二人の口から疲れた声が出た。
とりあえず厚いバインダーを開く。だいたい昨日調べたと記憶している厚みを開いてみたが、そううまく行くはずもなく、少しページを戻ることになった。
「おのくん…」
集中力を高めようとしたところで、脇から囁き声がかけられた。
いつの間にかにやって来ていた咲弥であった。
「あ、ブチョー。おつかれっす」
「まだ、なにもやってないけどね」
遠慮がちに微笑む彼女に、バインダーの脇に置かれた白亜色の小冊子を渡す。
「ブチョーも、引き続きこっちお願いします」
「わかったわ」
指で小さな丸を作って合図を送って来た。
そのまま咲弥は、手近な自習テーブルで昨日の続きに入ったようだ。
クリアファイルバインダーの肩には、数字が印刷されたシールが貼ってあった。それで大雑把に、リーフレットなどがこのバインダーに収められた年と、その順番が分かるようになっていた。
勇士はページを捲り、パンフやチラシのタイトルから当たりをつけて、ファイルから取り出して斜め読みする。そこにお目当ての『白露』に関する記事があれば、修也がそのつけられた番号をメモしておくという作業分担だ。
いいかげん太ももへ血が溜まってきたこと自覚してきた頃、勇士の指が最後のページへ到達した。
「ふ~」
やっと雲をつかむような当てのない作業も終わりと理解できて、勇士は大きく息を吐いた。
「お疲れさま。ユウジくん」
「おまえもな、シュウ」
図書室という環境に配慮して、難行をやりきったお互いを小さな声で称えあう。それが合図というわけでも無いだろうが、自習テーブルから咲弥が戻って来た。
「どう?」
「まあ、あまりロクな記事は無かったっすね」
勇士の感想に、ほぼ同調する表情を見せる修也。
「同じようなモノが多かったけど、二、三は違うのがあったかな」
「それじゃあ、それをコピーしてもらって」
「え」
ろくに記憶していなかった勇士は焦った。もう一度探さないといけなくなるかもしれないからだ。
「うん。じゃあコレとコレと、コレかな」
真面目にメモを取っていた修也は、何でもないように言った。メモを覗くと、一部内容まで書き込んでいたようで、資料として採用するかどうかの評価まで簡単につけていたようだ。
「わたしも、ここからのページをコピーしてもらうから」
基本的に、図書室の本などは、一部の雑誌などをのぞいてコピー可となっていた。そのルールは閉架収蔵の資料にも適用される。
「あの~」
カウンターで読書の続きをしていた当番の少年に、咲弥が声をかけた。
開架の本ならば、コンビニに持って行ってコピーもできようが、これらの資料は禁帯出となっていた。持ち出しが不可ならば、ここでコピーを取ってもらうしかない。
カウンターの少年は慣れた様子で、小さな紙きれをカウンターの引き出しから取り出した。
渡された物を見れば複製申請書とある。
これに資料のタイトルと、コピーして欲しいページ、さらに拡大縮小などのサイズの変更を記入すると、その希望通りに図書委員が、隣室に置いてあるコピー機で複製してくれるというシステムのようだ。
咲弥は自習テーブルでメモしてあったらしい数字を書き写した。こちらは修也のメモが役に立った。
「だいぶあるねえ」
口元は微笑んだまま、ちょっと厄介だぞとばかりにカウンターの少年は言った。
「じゃあ時間かかるから、三人の内誰かはここに残っていてね。それと一枚十円だから、お金の用意もね」
「お金?」
自然と視線が咲弥に集まった。
「部費で落としますから、領収書下さいね」
「それはもちろん」
笑顔で了承した少年は、資料を抱えると、扉の向こうへ消えた。
「じゃあ私は、借りられる本で、もう一度探してみるね」
「んな本、ありましたっけ?」
勇士の素朴な疑問に、咲弥はちょっとつまらなそうに唇を尖らせた。
「たしかに『白露』の本は無かったけど、刀剣を鑑賞する時の基本みたいな本があったでしょ。あれも参考になると思うの」
「そっすかね」
「簡単な用語集ぐらいはできそうでしょ」
そう言い残すと、咲弥はカウンターから離れて書架の方へ歩いて行った。
その彼女と入れ替わるように、どこかつまらなそうな顔をした小柄な女子生徒がカウンターにやってきた。手にはこれから借りるのか、一冊の本がある。
カウンターに所在気無しに立つ勇士たちを訝し気に睨んでから、ちょっと背伸びして向こう側を見通した。そこが無人と分かると、ただでさえへの字に結ばれた口元が、一層歪められた。
混血とまで言えないが、どことなく純日本人でないエキゾチックな横顔を見ていると、その女子生徒がこちらを向いた。
「なんだ?」
「いえ、なんにも」
とても意志が強そうな声に、勇士は視線を窓へ逃がした。
しばらくそのまま待っていた女子生徒であったが、だれもカウンターに出てこない事に痺れを切らして、そこを回り込むと閉架に続く扉を開いた。
「すみませーん」
「あ、はいはい」
機械の作動音と一緒に、先程までカウンターについていた少年の声だけが返って来た。
「あ~、オレいま手が離せないんだよね。誰か代打で行ってくれる」
「おうよ」
そんな会話が漏れ聞こえてから、先程までの少年とは別人の銀縁眼鏡をかけた真面目そうな少年が出てきた。当番の腕章はしていないが、彼が当番の代打であろう。
「ごめんね待たせちゃって」
どこか優しい雰囲気を持つ眼鏡の少年は、不満そうな女子に軽く謝ってから、彼女が手にしていた、色々なクッキーの作り方が載っているだろうタイトルの本の貸し出し手続きをした。
「ふん」
待たされたことが気に入らなかったのか、少し怒った態度で本を受け取った彼女は、礼も言わずに冷たげな態度で踵を返すと行ってしまった。
「ええと、そちらは?」
女子生徒の行ってしまってから、眼鏡の少年がこちらを向いた。
「コピーを頼んでるんです」
そっぽを向いていた勇士の代わりに、修也が隣室との扉を差しながら言った。その指が差す方向を確認した眼鏡の少年は、納得した声を漏らすと雑誌コーナーへ手を向けた。
「終わったらお呼びしますから、雑誌でも読んでお待ちになって下さい」
とても礼儀正しく丁寧に言われた。
「そうする?」
修也が下から勇士を見上げてきた。まるでデートに行った女の子が「バニラアイスとチョコアイスと、どっちを食べる」と相手に訊くような表情だった、男だけど。
「そうするか」
いい加減立っていることが苦痛になってきたところである。眼鏡の少年にクラスと名前を告げて、雑誌コーナーに移動することにした。
座り心地が良さそうなソファが並んでいる。全部が一人用のそれは、ひじ掛けまで柔らかくできており、一定間隔を置いてわざと斜めに並べられていた。
その内の一つはすでにガタイのいい男子生徒が占領していた。まるで修行僧の様に厳しい表情のままで瞼をおろしている。なにか哲学的な思索でもしているのだろうか。
「Z…」
と思った瞬間に、意外と大きな音で彼の鼻が鳴った。どうやらイビキのようである。
自分で立てた大きな音に驚いて目を開けて周囲を確認する。その目が赤くなっているところを見ると、完全に寝入っていたようだ。
その見回した彼と目が合ってしまい、何の気に無しに会釈してから、離れたソファに腰を落ち着ける。
目の前には陽光を遮る緑のカーテンがかけられた窓と、その下に並べられたマガジンラック。離れた位置には新聞まで置いてあった。
勇士としては毎号読んでいる雑誌などないので、新聞を手に取りたかったが、その距離が面倒に感じた。仕方なく一番近いところにあった雑誌を手に取った。タイトルは『本の雑誌』とある。
何の気に無しに拾い読みをしようとするが、活字に慣れていない勇士にはちょっと面白さを感じ取れない記事ばかりだった。
修也はどうしているかと首を巡らせると、いつも彼が読んでいるのとは違うが、似たような電子工作に関する物らしい雑誌を、興味深そうに読み始めたところだった。
まさか静かな図書室で雑談を持ちかけるわけにもいかず、勇士は雑誌をラックへ戻すと、立って新聞の方へ行こうとした。
顔を上げた視界に、書架の方から出てきた咲弥の姿が目に入る。
修也を確認すると、熱心に記事を読んでいるようである。彼をそっとしておいて、勇士は咲弥の方へ移動することに決めた。
ちょうど自習テーブルの列の真ん中に、見たことのあるペンケースなどが散らかしてあった。それらは咲弥の物であるはずだ。
書架の方から足音を立てずにやってくる彼女の目標もソコらしい。勇士もちょうど出会うように歩幅を調整して行った。
「どお?」
「まだっす」
チラリと雑誌スペースの修也を確認してからこたえた。
「そっちはどうです?」
「ん~」
自分のペンケースの横に、書架から持って来たらしい刀剣鑑賞のガイド本を置きながら、咲弥は唇を尖らせた。
「簡単な用語集にするか、それとも…」
「チラシのレイアウト、どうしましょうかね」
すると咲弥は音を立てずに椅子を引くと、脇に置いてあったノートを広げた。
「あの白い本に書いてあった『白露』の伝説で、このくらい?」
A四の上三分の二に、大きなバッテンを描いた。
「小野くんたちが見つけたチラシの解説文でこのくらい?」
残ったスペースの左四分の一に別のバッテンが描かれた。
「だから、用語集としてはこのくらい?」
残されたスペースに、今度は大きな丸が描かれた。
「こんなのでどうかな」
「実際に組んでみないと分かりませんね。編集作業はどうします?」
「そうねえ」
咲弥は顔を上げ、カウンターの上にかけられた時計へ目を走らせた。
「場所も時間もあまりないわね。ワタシが明日までにまとめようか?」
「それは…」
勇士の眉が寄せられた。
「ここまで来て、ブチョーに全部押し付けるっていうのも、なんか、よくないですよ」
「そう?」
「ノーパソぐらいならあるし、ウチでやりません?」
「それって…」
目をキラキラさせる咲弥に被せるように告げた。
「みんなで作ってこその、刀剣研究部の活動でしょ」
「はあ。そうよね」
なぜか窓際を一瞬だけ見た咲弥が肩を落とした。その落胆ぶりに、勇士は心配げな声を出した。
「やっぱ、男の家に女性が来るわけにもいかないっすよね。シュウと二人で仕上げて来ますよ」
「んんん」
慌てて頭を振る咲弥。
「部長の私が仕事を投げっぱなしなんて、それこそ格好悪い。ワタシも行かせて、小野くんのウチに」
なぜか力んだ声が出た咲弥に、勇士は人差し指を立てた。
「図書室っすよ、ここ」
「あ」
「へー、バスで通学なんだあ」
地元とは違うバス会社だとかで、修也が珍しそうに車内を見回していた。そのはしゃぎっぷりは、初めてバスに乗る女子小学生を連想させた、男だけど。
そんな無邪気な修也を放っておいて、咲弥が心配そうに眉をしかめつつ、向かいのベンチシートに座った勇士に訊ねた。
「人数は少ないとはいえ、押しかけちゃって大丈夫かしら? ご両親に叱られない?」
「気にしなくてもいいっすよ。ウチ、親は両方とも海外出張でいないんで」
「え…」
のけぞるほど驚いた咲弥に、何でも無いことの様に勇士は告げた。
「妹と、犬のキララと、二人と一匹で暮らしてるんで、近所迷惑にならなければ宴会だっていけますよ」
「あのね」
とても深刻そうに眉間へ指を当てた咲弥は、修行僧のような声を出した。
「そういう大事なことは早く言ってね」
「ダイジっすか?」
すでに親のいない生活に慣れていた勇士は、不思議そうに修也を見た。
「あははは」
修也も困ったように空笑いをしていた。
「部活の人どころか、トモダチ呼ぶのも久しぶりっすよ」
「それでもね…、はあ」
途中で説明を諦めたかのように、咲弥の口からため息が出た。
「?」
「あ、次っす」
勇士の指が降車ブザーのボタンを押し込んだ。
素っ気ない農協前というバス停で三人は降りた。そこは住宅地に梨畑が混在する東京とは思えない風景を持つ町だった。
「こっちっす」
勇士が先頭に立って歩き始めた。その背中に周囲へ視線を走らせながらついていく二人。
「帰りはどうします?」
「帰りって?」
咲弥が警戒するような固い声で聞き返した。
「遅くなるんだったら、やっぱしシュウと二人で仕上げちまいますが?」
「大丈夫だよ」
答えようと口を開いた咲弥の横から、修也が首を突っ込んだ。
「部長さんとは、降りる駅が一緒だもん。ボクが責任もって送って行くよ」
「お、そうか。それならいいか」
「…」
咲弥が何か言いたそうにしていたが、結局音節の一つも発せずに、口を閉じた。
三人の足は車通りのあるバス通りを外れて、住宅地の中へ向いた。
建売住宅の共通したデザインに混じって、注文住宅の個性的なシルエットが混じる。そしてたまに思い出したように梨畑が挟まるという町並みだ。
何の気に無しに曲がった角の向こうに、人影が立っていた。
そろそろ夕陽と変化を見せかけている太陽を一杯に浴びており、勇士の位置から逆光となってはっきりと誰だか分からない。
しかし体格や髪型で判断がついた。恭子である。
朝と同じワンピースを身に着け、朝と違いエプロンの代わりに白いレース地のショールを肩にかけていた。髪は変わらず後ろでまとめ、そして右手にはやはり長ネギが握られていた。
「ごきげんよう、ユウジ」
ふわっとした柔らかい微笑みを浮かべると、やはり年相応の魅力ある女性に見える。
「おう」
「そちらは?」
またニクとか言い出す前に連れの二人を振り返る。
「こちらは、オレが入っている刀剣研究部の部長の、飯塚先輩。こっちは、同じクラスの猪熊修也」
そこで勇士は修也の横に並んで肩を組んで見せた。
「こんな顔でも男だから、誤解すんな」
「こんな顔は酷いなあ」
「まあ」
まるで水たまりに水滴が落ちたように表情を変化させる恭子。どうやら驚いたようだ。
「そして…」
修也を開放して、今度は恭子の横に行って勇士は(長ネギに気をつけながら)二人に振り返った。
「彼女は、オレの幼馴染の吉田恭子」
「ハジメマシテ。ユウジがいつもお世話になっています」
両手を揃えて頭を深く下げる恭子の横顔を見て、安心感を得る勇士。朝にあんなことがあった割には調子が良さそうだと思ったのだ、長ネギはまだ持っていたけど。
「おさななじみ?」
咲弥が首を傾げた。
「あーえーと。キョウコとは幼稚園の頃から一緒で…」
「同じ学校へ行きたかったわ」
まるで菩薩のような微笑みで勇士を振り返る恭子。
「あの、その…」
言いにくそうに修也が口を開いた。
「吉田さ…んの、その目…」
陽の傾きで光線の具合が変わり、恭子の尋常でない左目を見ることができたのだろう。注視するのも失礼かと思っているのか、チラチラと視線をさ迷わせ、やっぱり見てしまうようだ。
「ああ、これは…」
勇士がなんと説明しようかと口ごもっていると、恭子自身が手で顔の左半分を隠しながら言った。
「これは、昔に嫌な事がありまして」
「ああ…」
それ以上は聞けない雰囲気に、修也は口を閉じてくれた。
「これからオレんチで集まりがあるんだけど、キョウコも来るか?」
一応礼儀として聞いてみる。もちろん来ると言ったら、明日奈にお守りを頼むことになるだろうが。
「いいえ。ワタシ、これから行かなければならない所がアるの」
「そ、そうか」
恭子が段々と失調してきていることを感じ取った勇士は、ちょっと離れて彼女を改めて観察した。
服装を含む外見におかしいところはない、右手の長ネギを除いて。だが長い付き合いの勇士には、恭子の調子が良いのか悪いのかぐらいは見て取れた。
「あんまし遅くなると、オバサン心配すんぞ」
「保ゴ者? ユウジがそう言うナら、一度断ってから出かけましョう」
「うん。そうした方がいいな」
「それでは、ミナサマ。ごきげんヨう」
再び二人に笑顔で頭を下げる恭子。挨拶が無事に済んでほっとする勇士。二人もごく普通に挨拶を返した。
その途端に「きえええええええエえええ」と奇声を上げると、長ネギを振りかぶって、通りかかった野良猫を追いながら、全速力で駆け始めた。
「は?」
ポカンとして見送る二人に、どう言い繕うか困った顔を向ける勇士。
「まさか…」
唾を飲み込んで、恭子が消えた方向を指さした咲弥が、勇士に訊ねた。
「ノラネコは退治する。という、お土地柄なのでしょうか?」
少々裏返った声で、変な言葉遣いになっていた。
「いや、そうじゃなくて…」
どうするか迷ってから、やっぱり打ち明けることにする。
「キョウコは、頭がね…」
そこまで聞いて察した顔になる二人。
「幼稚園からの付き合いだから、冷たくするのも嫌なんだけど」
「すると、ここ最近のこと?」
咲弥が首を傾げて訊いてきた。
「うん、まあ。去年の夏休みに、オヤジさんに酷い目に」
恭子の父親は、市役所に勤める真面目な男だった。無遅刻無欠勤、仕事に対する姿勢も真面目で、頼りになる職員というのが職場の評価で会った。
だが完璧な人間などこの世にはいない。彼の場合、私生活は最悪であった。家族に対して高圧的な態度で接し、家ではまるで“王”であるかのように行動した。
妻が作った食事には必ず文句をつけ、少しでも言い返しただけで暴力を振るった。
そんな夫婦間に生まれた恭子にも、その矛先は向けられた。
さすがに暴力を振るっては生命の危険がある乳飲み子の頃は、世間手を考えたのか大人しかった。しかし彼女が幼稚園に上がるころからは理由もなく平手で叩くのが常態化しており、それが勇士と公園から帰らなかった事件の発端ともなった。
あの事件からは、平手だけでなく拳を振るうようになり、たまに小学校の担任教師が驚くほどの青痣を作って登校することもあった。
しかし公務員という職業だけでなく、近所での評判など、外面だけは良かった父親が暴力を振るっているとは社会の誰も考えず、階段で転んだなど家庭内の事故という説明を信じてしまった。
小学生の頃はそれで終わっていた。だが時を重ねて恭子も中学校へ進学した。
自我が強くなった思春期を迎え、恭子もただ殴られるだけではなかった。時には反抗し、家を飛び出すこともするようになった。
そこに至って、近所の人間も「吉田さんチは家庭内で争う声が大きくなった」と認識し、父親も段々と肩身が狭くなっていた。
そして中学三年の夏休みがやってきた。
いつもと同じように、晩酌のビールで酔った父親は、当たり前のように母親へ暴力を振るっていた。
それを庇うために恭子が二人の間に入ろうとした。彼女の手が父親を突き飛ばし、彼は無様に畳へ転がった。
今まで腕力でかなわなかった父親が、いとも簡単に転がったことへの驚き。もちろんアルコールのせいで足の踏ん張りが利かなかったことの方が大きかっただろうが、その意外な無力さに恭子の今まで押さえつけられてきた物が爆発した。
起き上がる隙を与えずに、何度も踏みつける恭子。つぶれた蛙のような悲鳴を上げる父親。そんな新たな暴力の場面。
暴力が興奮を呼び、興奮が次の暴力への理由になる。そんな様子で父親を踵で踏みつけていた彼女の腰に、母親が抱き着いた。
このままでは暴力が行き過ぎて死んでしまうと思ったからだ。しかし今まで溜まっていた鬱憤をここで晴らすとばかりに、止めに入った母親までも突き飛ばす恭子。
しかし父親にはその時間だけで充分だった。
立ち上がると反撃とばかりに、晩酌で空になっていたビール瓶で、恭子の頭を殴りつけた。
酔っていたとはいえ成人男性の渾身の一撃である。ビール瓶は砕け、恭子はクルクルと回ると、大の字になって倒れた。
今度は父親が恭子を踏みつける番であった。しかし彼が踏まれていた時とは違い、昏倒した恭子は、まるで死体の様に動かなかった。
今度は娘を庇いに入った母親は殴り飛ばされ、台所まで転がった。
自分が受けた屈辱を晴らすかのように娘を踏み続ける父親。それに対して死んだように動かない娘。母親として、娘を助けようと、とうとうそこにあった刃物を持ち出すことになった。
こうして恭子の家庭は崩壊した。
めった刺しになった父親は、一週間も苦しんだのちに死亡。母親は警察の厄介となり、この間やっと裁判が始まったところだ。
そして頭蓋骨骨折、脳挫傷という重傷を負った恭子は、その外傷と、自分を押さえつけていた父親がいなくなったという内面の事象が重なり、普通の娘では無くなった。
今では母親の姉妹である月子の家で世話になっていた。
「ふーん、大変だったんだね」
他人のはずの修也が、今にも泣きそうな顔になっていた。
「まあ、ほっとけなくてな」
同じソファに座った勇士は、返ってくる途中に寄ったコンビニで買い込んできた飲み物に口をつけた。
「それはやはり、オサナナジミだから?」
興味深そうに咲弥が訊ねた。
「そうっすね」
自宅に着いても制服のままの勇士は、軽く肩をすくめた。
「他のトモダチは、殴られて離れて行ったし。オレぐらいなもんなんで」
「ふーん」
何か含むところがある様子の咲弥。そこへ玄関から元気な声が聞こえてきた。
「たっだいまー」
「おう。おかえり」
ワシャワシャと近所のスーパーの袋に一杯の食材で音をさせながら、勇士の妹である明日奈が、台所とつながっているリビングへ入って来た。
「え?」
見知らぬ顔があったことで、身を固くする。
「妹の明日奈です」
立ち上がって荷物を受け取りながら勇士は二人に紹介した。
「ど、どもです」
戸惑ったまま明日奈は両手を揃えて頭を下げた。
「こちらは刀剣研究部の部長で、飯塚先輩」
「ぶちょおさん…」
改めて立ち上がって礼をする上級生を覚えようと、小さく呟く明日奈。
「こんにちは」
いつもはあまり表情を変えない咲弥が、明日奈の警戒心を解こうとしてか、とても柔らかい顔をしてみせた。
「こっちが、同じクラスの猪熊修也。シュウって呼んでる」
「イノクマさん…」
同じように呟いている明日奈に、照れた顔を向ける修也は、まるではにかんだ女子小学生のようだった、男だけど。
「や、やあ」
「今日は、刀剣研究部でチラシをここで作ろうと思ってさ」
「ふーん。いいけど女の子連れ込んだなんて知ったら、ママ怒るかもねー」
妹にとても平たい目で睨まれ勇士は焦った声を出した。
「部活だって! 部活! ね! ブチョー!」
「え、ええ」
自分のせいで勇士が親との関係を拗らせては大変と、慌てて同調する咲弥。
「さ、さっそく始めましょう」
「そうっすね!」
少々大げさな仕草で、図書室でコピーしてもらった資料類を、リビングのテーブルへ広げた。他にも借りてきた本が二、三冊ある。
「ま、いいけどねー」
平たい声のまま勇士から食材を取り戻した明日奈は、それを冷蔵庫へ仕舞うために台所へ向かった。
明日奈が中学の制服の上からエプロンを着けて夕食の支度をしている間に、刀剣研究部の三人は、明日から配る予定のチラシの原稿を完成させた。
そのほとんどが閉架に置いてあった、地元の郷土史研究家が書いた本からの引用である。
勇士と修也がカウンターに立ちんぼで調べたリーフレットなどの記事は、ほとんど役に立たなかった。
まあ感情は別として、これは何が使えるか分からない状態で始めた資料集めでは、よくある事なので納得がいくことではあった。
ただリーフレットに使われていた刀身の写真のコピーを一部に使用し、『白露』の刀剣としての特徴を説明することにした。
文章は、小野家のノートパソコンから出力し、後から写真はコピーから切り貼りすることにする。咲弥の細い指が、流れるようにキーボードの上を移動し、結構な量の文章をあっという間に形にした。
父親の部屋から持ち出してきたプリンターを仮設し、そのままリビングで原稿を印刷した。
「お~」
ペラ紙一枚とはいえ、三人の力を合わせた作品が出来上がり、感動の声が上がった。
印刷ミスや誤字脱字がないか、まだホカホカのソレを確認していると、背中を何かがつつく感触があった。
「?」
振り返ると、明日奈であった。勇士をつついたのは、おそらく右手に握られた愛用のオタマであろう。
なにか言いたそうな顔なので、耳を近づけてみた。
「お夕飯、どうするの?」
「どうするって?」
「食べていくの? あの二人?」
「あ~」
チラリと時計を確認してみた。小野家の基準では、そろそろそんな時間である。
「いちおう昨日のカレーを直したから、あの二人の分もあることはあるよ」
「さすがアスナ。どこに出しても恥ずかしくないお嫁さんになれるよ」
「そういうのいいから」
それでも照れたように頬を染めた明日奈は、せめてもの仕返しとばかりに、勇士の耳を少し摘まむように引っ張ってから台所へ戻っていった。
調理用具を洗いながら「ほら確認して」とばかりに顎をしゃくる。
「あのさあ」
なぜか素っ頓狂な声が出た。そんな勇士に、不思議そうに二人が顔を上げた。
「アスナがカレーを作ってくれたみたいなんだけど、二人ともどうする? 食べてく?」
「あ~、たしかに」
咲弥から受け取った原稿を手にして、修也が鼻を動かした。
「これはカレーの匂いだねー」
「そんな。お夕飯まで世話になるわけにはいきません」
少々慌てた口調で咲弥が行った。自分のスマートフォンを取り出して時刻を確認し、大きく目を丸くした。
「ヤダ。もう、こんな時間?」
「やばいっすか?」
「ええ」
勇士の質問に、即答する咲弥。言っている間に荷物を片付け始めた。
「じゃあ、印刷はどうするの?」
キョトンとしている修也の手元から原稿を抜き取り、自分のファイルへ挟むと、咲弥が答えた。
「昨日調べたんだけど、明日の昼にでも、生徒会の印刷室を使わせてもらいましょう」
「印刷室?」
さすがに枚数を多く刷ろうとすると、いくら部費から補填されるとはいえ、結構な金額となってしまう。咲弥の説明によると、校内向けの配布物と認められれば、生徒会の印刷機を使って、タダで印刷することができるそうだ。
「その制度を使わせてもらい…。本当にお夕飯は遠慮させていただくから」
咲弥の視線が台所へ泳いだ。
「アスナ~」
まだ台所で待っていた妹に顔を向けると、二人が慌てて荷物を片付け始めている様子で察したのであろう、彼女が食器棚からカレー皿を四枚でなく二枚だけ出すのが見られた。
「せっかく作ってもらったのに、ごめんなさいね」
先に帰る準備が終わった咲弥が、明日奈に謝った。
「いえ。カレーなんで日持ちしますから」
まるで本物の主婦のような受け答えをする明日奈。
「ごめんね、アスナ…ちゃん。埋め合わせはユウジがするから」
「オレかよ!」
修也の物言いに、脊髄反射のごとく反応した。
「じゃあ、アスナは準備してるから、おにいちゃんはキララの散歩と一緒に、二人を送ってきちゃいなよ」
「そうだな」
いつもより散歩の時間が早まる分には、キララも文句は言うまい。時計をもう一度確認した勇士は、キララのリードを手に取った。
「送ってもらうなんて、悪いわよ」
荷物を抱えるように持った咲弥が断ろうとした。
「でもブチョー。バス停まで戻れます?」
自宅周辺が入り組んだ住宅地という自覚がある勇士が確認した。
「え…」
一気に不安げな顔になった咲弥が、すがるような目で修也を見た。
見られた修也も、初めて田舎へ一人で来た女子小学生のような顔になっていた、男だけど。
その顔色を見ただけで、バス停までの道順が怪しいことが察せられた。
「じゃあアスナ、よろしくな」
「はいはい。いってらっしゃい」
「それじゃあ、お邪魔しました」
年下にも礼儀正しく頭を下げる咲弥と修也。
「ろくにお構いもしませんで」
と、本当に主婦のような貫禄の中学生明日奈。
「じゃあ、急ぐか」
農協前のバス停には二十分おきに来るという、大変覚えやすい時刻表であった。時計からして、バス停でちょっと待つぐらいかもしれないが、丁度いいだろう。
玄関を出て、脇の犬小屋に向かう。
リードをつけられて興奮気味のキララが、鼻息荒く二人の匂いを嗅いでいた。無意味にグルグル回るのは、やはり散歩が楽しみだからであろう。
「わあ。柴犬?」
小さいキララの可愛さに、オクターブ上がった声を出して喜ぶ修也。まるで女子小学生がはしゃいでいるようであった、男だけど。
咲弥は犬が苦手でない様子であったが、飛びつかれて制服が汚れるのを警戒したのか、ちょっと離れた位置から覗き込むようにして見ていた。
「んにゃ、雑種」
ついついっと合図を送るようにリードを引き、散歩を開始する三人と一匹。
すっかりと夜となった住宅地。往路と復路では風景が違うように見えることもあって、やはり勇士が送りに出て正解であった気がする。鈍りがちな二人の足先が違う方向へ向くこともあった。
いつもと同じように、グイグイと引っ張るキララ。しかし、ふと思いついたように立ち止まった。
「?」
その理由が分からずに、三人はキララの周りに集まることになった。キララは鼻をピスピス鳴らして、前方を注視しているようだ。
「…」
「?」
すると街灯の明かりを避けるように、人の気配が近づいてくるのがわかった。
闇を透かして見ると、どうやら恭子の伯母である月子のようだ。
「あ、オバサン」
頼りなげに歩いて来る月子に、勇士の方から声をかけた。
「ああ、ユウジくん」
いつもより弱気な声で返答があった。
「キョウコちゃん見なかった?」
「まだ陽のあるうちなら会いましたけど」
「そう…」
そこまで話して、勇士の連れに気が付いたらしい。三人を見比べているような気配があった。
「おともだち?」
「バス停まで送って行くトコですよ」
「そう…」
続けて、言いあぐねているかのような気配があった。
「その悪いんだけど…」
「ええ」
月子の言いたいことが分かった勇士は、先回りしてこたえた。
「見かけたら、いつものとおり」
「ホントごめんなさいね。それじゃ、おねがいね」
二人へ軽く会釈すると、またふらふらといった形容が似合う足取りで、夜の闇の中を歩き始めた。
「お知り合い?」
当然の質問が咲弥から出た。
「来るときに会った、幼馴染の保護者ですよ」
「ああ」
気の毒そうに月子の背中に振り返る咲弥。
「キョウコは徘徊する癖があるから、よく探しているんです」
「ああ、それで」
いまのやり取りを理解した声になる咲弥。
「でも大丈夫かなあ」
咲弥と同じように月子の背中を見送っていた修也が不安そうに言った。
「ん?」
いつもの事なので気にしていなかった勇士だが、闇に溶け込んでいった月子の背姿をまだ見るようにしている修也の反応が少し変な気がして聞き返した。
「だいじょうぶって?」
「いや、いまのヒト。ここが赤くなってたよ」とコメカミの辺りを示した。
「あれ、血が滲んでたんじゃないかなあ」
「そうか?」
そうとすれば月子がわざわざ街灯の明かりを避けていた理由も分かる気がした。顔の周辺を怪我している姿を見せたくなかったのであろう。
(キョウコに殴られでもしたかな?)
なにせ肉体言語と呼ぶべき直接的コミュニケーションを採りがちな幼馴染である。
「まあ、ヤバかったら警察でも呼ぶだろ」
恭子は、何度も暴力事件を起こして警察署に厄介になっている身分だ。署の方でも要注意人物として把握ぐらいしているだろう。そこへ親族から助けを求める連絡が入ったら、パトカーの一台でも差し向けてくれるはずだ。
バス停には、そう予想はしていたが、少々早く着くことができた。
「これで、もうオレんチに来ることができますね」
ベンチに差し掛けるようについた屋根、それに弱い蛍光灯の明かりといったバス停である。これでもこの路線ではマシな方で、他のバス停は立て看板一つというところばかりだ。
「えっと」
とても頼りなげな声を漏らしたのは修也だ。
「ちょっと分かりにくいですよね、部長さん」
「そう?」
こちらは素っ気ない態度の咲弥。しかし家を出るときの表情を覚えている勇士から見れば、強がりを言っている可能性の方が高かった。
「わひゃおん」
キララがアクビの混じったような声を上げた。どうやら「はやく散歩の続きをしましょう」と催促しているようだ。
「おっと、すまないなあ」
強く引かれたリードを捌きながら勇士はキララに謝った。
「もうちょっとでバスが来るから、それまで待ってくれ」
その言葉を理解したのか、キララは動き回るのをやめ、バスが来る方を向いて鼻をピスピス鳴らし始めた。
そのおまじないが利いたのか、雑談をする間もなく道をヘッドライトが迫って来るのが見て取れた。
「来ましたよ」
乗る予定の二人も見ていたようだが、勇士はバスの接近を告げた。大型車特有の臭いを振りまきながら、清隆学園を経由して駅まで行くバスが停車した。ミーッという間の抜けた警告音と共に後部ドアが開かれる。
「それじゃあ、明日」
タッチ式のカードリーダにパスケースを押し当てながら修也が乗り込んでいった。
「分かっているとは思うけど、明日は水曜日だから、部室に集合ね」
咲弥が部長らしく明日の予定を残してドアをくぐった。
二人して扉すぐの席に陣取ったのを見て、勇士は二人へ大きく手を振った。それで運転手は勇士が利用客でないことを察したのだろう、後部ドアが閉められて、バスは発車した。
「さてと。オレらも帰るか」
そっぽを向いていたキララに話しかける。
帰れば明日奈のカレーライスが待っているはずだ。
なぜかバス停の方を何度も振り返るキララと共に家路へと着く。人通りもすっかりなくなって、少々寂しげな様子であった。
キララを定位置に繋ぐと、肩に荷がおりた気がした。
「これで、また一日」
キララの顔を覗き込みながら勇士は、まるで相手が人であるかのように語りかけた。
「ホントにオレは死ぬのかな?」
平穏無事に二日間を過ごすことができた。これならば一週間なんてあっという間じゃないだろうか。
その時だった。
「ユウジ…」
「?」
呼びかけられたので、立ち上がって振り返ると、そこに恭子が立っていた。
「よーう。どうした」
当たり前のことだが、夕方に会ったままの服装である。右手の長ネギまでそのままであった。
ただ、その長ネギの先っぽが折れ曲がっていたのは、もしかしたらすでに誰かに振るわれたせいなのかもしれない。
(そう言えばシュウが、オバサンがどうとか言ってたな)
「あの人たちは帰った?」
「うんまあな。もう夜だし」
「そウ」
「?」
そこで絶句したように立ちすくむ恭子の様子が、いつもと違って見えて、勇士は少し首を傾げた。
「どうした?」
「どウしたもこウシたも…」
ブツブツと口の中で何かを呟いていた。
「そういえばオバサン探してたぜ。心配かけちゃ…」
「ユウジ!」
突然の大声に、勇士は口をつぐんだ。
「あのニクたちは、なニ!」
「いや、だから。学校の部活で一緒の…」
「新しいトモダチなノね!」
その迫力に、思わず上体を反らしてしまう。
「ま、まあ。ブチョーをトモダチって言うのは、いささか…」
「ユウジはワタシのトモダチでしょ!」
「ま、まあな」
「なんで新しいニクがいルのよ!」
「いや、だからな…」
まるで言いがかりのような恭子の言葉に、疲労感のような物を感じながらも、なんとか説明しようと試みる勇士。
「おんなじ部活に入ったら、つきあいってモンがあるだろ。キョウコだって中学で部活にいたことあっただろ」
すると、その説明に納得いったのか、今までの大声がウソのように静かになる恭子。彼女の声に驚いて、自分の犬小屋に隠れていたキララまで、不思議そうに顔を出した。
「新しい学校」
恭子がポツリと呟く。
「新しイ学校?」
「ああ、そうだ」
これを機に認識させようと肯定してみた。
「新しい学校!」
「ああ」
「あタらしいがッこう!」
「そうだよ」
「ワタシを置いテいくの?」
何回か前の問答を繰り返すのかとうんざりしながら、勇士は告げた。
「キョウコは高校に入れなかっただろ」
その言葉が胸に刺さったかのように、表情を歪める恭子。
「ワタシを置いていくの?」
まるで理性が戻って来たような、とても悲し気な声だった。
「ユウジは新しい学校へ行って、新しいトモダチを作って、ワタシがいらなくなるのね」
「そんなことないって」
何度繰り返せばいいのかなと眉を顰めてしまう。その勇士の表情を絶望感で見返した恭子が、泣きそうな声でポツリと言った。
「ワタシ。一人になっちゃうのね…」
「キョウコ…」
どう元気づけるか迷った勇士は、彼女へ手を伸ばそうとした。
「ワタシを置いていくユウジなんて!」
また大声を上げる。そして右手を振りかぶった。
今朝の叩かれた記憶が蘇って、手を引っ込めた。だが、長ネギで叩いて恭子の気が済むなら、それを甘んじて受けてもいいかなと勇士は思った。腕ならミミズ腫れだが、胴体なら服も着ていることだし、そんなにダメージは無いだろう。
「ユウジなんて! ダイキライダ!」
右手が振り下ろされ、先の曲がった長ネギが勇士の左胸に命中した。
ドスッという重い音が、体内から骨を伝わってきた。
「え?」
突然襲った熱さに、勇士の思考が乱れた。熱さの原因は、自分の左胸に突き刺さった曲がった長ネギであった。
(いや、違う)
慌てて情報を修正する。恭子が持っていたのは長ネギだと思い込んでいたが、それは白と緑に塗り分けられたバールであった。色と先入観で間違えていたのだ。
「ごぼっ」
自覚なしに咳き込むと、口から大量の何かが吐き出された。つい受け取った両手を視界に入れると、そこは真っ赤に染まっていた。
尖ったバールの先端が胸郭を貫き、肺臓の血管を破ったのだ。心臓が送り出す圧力のままに、体内へ溜まった液体を、異物を取り除くという反射反応が、気道を経て口からそれを吐き出したのだ。
ぶちぶちっと周辺組織を引きちぎりながら、恭子の持つバールが引き抜かれた。
後ろで異常を察知したキララがやかましく吠えたてる。
「キライダ! キライダ! キライダ!」
恭子は三度叫んだ。そしてバールを三度振り下ろした。
「!」
それに対して腕を使って体を守ろうとする勇士。しかし狂人のくせに、いや狂人だからか、容赦なく危険な先端が勇士の身体を抉って行った。
三度目の打撃に耐えられなかった勇士は、その場でクルクルまわると、地面へと倒れこんだ。
体のアチコチから、まるで注射で力を吸い取られていくような感触がある。それはすべて凶器の先端が食い込んだ部位であり、吸い取られている力というのは、間違いなく生命力の事だ。
「おにい…、きゃあああ!」
どこかで明日奈の声がした。近くでキララが吠え続けているのが聞こえる。
「や、やば…い…」
勇士の視界が夜よりも深い闇に侵食されていった。
「…次のニュースです。昨夜八時ごろ、東京都××市の民家から『兄が襲われている』と住人から通報を受け、警察官が駆け付けたところ、民家の前で住人の高校生小野勇士さん十五歳が血まみれで倒れているのを発見しました。小野さんはすぐに救急車で病院へ運ばれましたが、二時間後の午後十時ごろ、死亡が確認されました。小野さんは犬の散歩を終えて帰宅したところ、以前より友人関係にあった十五歳の少女に、突然バールのような物で襲われた模様です。少女は近所の住人に取り押さえられており、暴れたものの警察官に引き渡されました。警察は少女の言動の一部におかしなところがあるとして、少女に法的責任がとれるか鑑定留置も視野に入れて捜査する予定です。…次です。私立動物園のハシビロコウに…」
厚い霧の中を歩いていくと、テレビのニュース番組のような音声が聞こえてきた。
(こんなところで、なぜテレビの音が?)
一瞬訝しんだ勇士は、それでも構わずに、前方の暖かい光の方へ歩いて行った。
やはり、なにかの石碑のような大岩が見えてきて、その前に白い服を着た老人が立っていた。
長い髪も髭もすっかり銀色に染まっており、鋭い目元など記憶にあるままだ。
穏やかに見つめてくる視線は、どこかガッカリしたような感情が込められており、勇士が彼の前に立つと、長い髭に包まれた口元を開いた。
「おお勇士よ、死んでしまうとは情けない」
「ちょっとまてよ!」
少々怒気の含んだ声を上げてしまう。
「オレは、一週間後に死ぬんじゃなかったのか?」
「わしゃ言ったはずじゃ」
激昂している勇士に噛んで含めるように言った。
「一週間の間に、死なないように努力するのじゃぞ、と」
「だからって、火曜日にあんなことが起こるなんて!」
「まあ、あれは吉田恭子の我儘もあったがの」
老人の左手が動いた。霧の表面を撫でるような仕草をすると、霧が粘土のように均され、そこが鏡のように変化した。以前に見たのと同じであった。
前回と違うのは、そこに映し出されたのが、どこかのテレビ局のニュース番組であるという点だった。
勇士が見慣れた町並みが写っており、カメラがアスファルトで舗装された道に寄って行く。するとそこに赤いシミができていた。
後ろに写っているのは間違いなく我が家である。
見慣れない報道陣に怯えているのか、犬小屋から半分だけ愛犬が顔を出していた。
「ああ、キララ」
その悲し気な視線は、テレビカメラと不思議な霧の鏡を通して勇士を見ているようであった。
「そうか、オレ…。死んじまったのか…」
愕然として絶句する勇士。
「また、自分の死体が見たいかの?」
その質問に、慌てて首を横に振る。そんな勇士に老人は語り掛けた。
「さて、勇士よ」
老人は手の一振りで映像を消した。
「若くして死んでしまったオヌシであるが、やり直したいとは思わんかね?」
「え?」
背筋を伸ばして勇士は相手を見つめなおした。
「オレ、また生き返ることができるのか?」
「ダレが一度きりと申した。オヌシは捨て犬だったあのコを助け、世話をしてやるほど優しい者。それを一度きりの失敗で死なしてしまうほど、わしゃ冷たくはない」
胸を張る老人に、後光のような物を感じた勇士は、思わず手を合わせた。
「あ、ありがとうございます」
「それで?」
あくまで優しい態度のままで、彼は勇士に訊いた。
「どうする? 一週間やりなおしてみるかね?」
「はい! 今度は、あんな気●いの相手なんかせずに、生きます! よろしくおねがいします!」
「よろしい。いい返事だ」
微笑みが大きくなると同時に、再び勇士の視界は霧に包まれた。
どこからか彼の言葉が聞こえてきたのが最後だった。
「一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ」