月曜日
「おにいちゃん、朝だよ」
ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。
「おうっ」
その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。
「ほらほら、目を開けてー」
どこまでも元気印の妹が、遠慮なくカーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。
「うーん」
ベッドで上体を起こした彼に、すでに学校の制服を着ていた妹の明日菜が振り返った。頭の両側で結んだ髪が、遠心力で丸く宙を舞った。
「おはよ。おにいちゃん」
「おはよ、アスナ」
「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」
「おう」
勇士はいつも寝間着代わりに着ているTシャツを見おろした。
「どしたの?」
呆然としている兄に、アスナが不思議そうな顔をして見せた。
「いや、着替えるから先に降りてろ」
「はーい」
何か言いたそうなまま、明日菜は部屋を出て行った。
ベッドからノロノロと起き上がり、クローゼットの扉を開いた。そこに備わっている鏡をのぞき込むと、いつもの自分がいた。
「夢?」
変な夢を見たと思おうとした時だった。鏡に映った自分の顔が、霧の中の老人に入れ替わった。
「!」
驚いてたじろぐと、鏡の中の老人が口を動かした。
《勇士よ。今度は、一週間の間、死なぬようにするのだぞ》
そう勇士に告げると、微笑みを見せて消え失せた。
「夢じゃないのか…」
額に浮かんできた脂汗を拭い、しばし呆然と立ちすくんだ。
「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」
階下から明日菜の催促して来る声が無かったら、一日そうしていたかもしれない。
「おう!」
声だけは元気よくこたえ、勇士はクローゼットをかき回し始めた。
大分下の方から出てきた黒いTシャツ。勇士はそれを忌々し気にゴミ箱へ放り込んだ。
(死んじまう運命なんか、変えてやる)
制服に着替えた勇士は、鏡の中の自分を睨みつけながら決意した。
トーストにサラダという小野家では定番の朝食を片付け、揃って玄関を出る。
勇士と明日菜は、幼年部(幼稚園)から大学院まで揃えた私立清隆学園の生徒である。兄の勇士は高等部一年、妹の明日菜は中等部二年であった。
二人ともブレザータイプの制服という点では共通だったが、高等部の勇士は紺色、中等部の明日菜は黒色と色が全然違う。さらに言うならデザイン上の共通点も少なかった。
昨年、明日菜が中等部に合格してからそうしているように、今日も二人並んでバス停へ向かうつもりだった。
勇士が鍵を閉めている間に、明日菜は玄関脇に置いた犬小屋の前にしゃがみこんでいた。
「それじゃあ、ルス番たのみますよー」
地面に寝転がって腹を見せている愛犬の毛皮を撫でながら、明日菜はそう語りかけていた。
そんな見慣れていたはずの一コマを見おろすと、勇士にまたあの感情が湧いてきた。
(この風景を一週間後も見れるようにしなきゃな)
そしてまだ小さい愛犬へ視線を移す。
(ありがとうな、キララ。オマエのお陰でやり直すチャンスが貰えたんだ)
そんな勇士の心を知ってか知らずか、雑種犬キララはつぶらな瞳を勇士に向けた。頭のいいコなので、無駄に吠えたりはしない。
「ほら、遅刻しちゃうぞ」
放っておいたらいつまでも撫でている気がして、勇士は明日菜を急かした。
「あ…」
その時だった。
「肉がイル」
「?」
声をかけられた気がして振り返ると、そこに狂人が立っていた。
第一印象は背の高い美人である。ただ細かく見ていくと、黒い髪は伸ばし放題に伸ばして、手入れをしている様子はまったくない。着ている服だって、何日も着替えていないかのように薄汚れ、垢と汗と臭いがした。それに加え今日は、なぜか空の米袋を引きずっていた。
年のころは勇士と同じ女である。そのまるで口紅をひいているような赤い唇が歪んだ。どうやら微笑んでいるようだ。
極めつけに特徴的なのは、その左目であった。開いた瞼の中は真っ赤の充血した白目に、赤く変色した瞳をしているのだ。
「よう。おはよう」
その異様な雰囲気で、家の前に通りかかる通行人すら、わざわざ道の反対側へ大回りしていたりする。その女に、勇士は親しげに話しかけた。
勇士の声が耳に入ったことで、まるでスイッチが切り替わったように、女の視線が勇士へと向いた。
「ごきげんよう、ユウジ」
「キョウコも機嫌よさそうだな」
手に持っている物が凶器になりそうもない物であるから、安心して声をかけられる。これが固いものであるときは要注意なのだ。
彼女は吉田恭子。勇士の幼稚園からの幼馴染というやつである。長い付き合いなので、他人には分かりづらい恭子の機嫌も、勇士には読み取ることができた。
茶色の右目と赤い左目が回るように動いた。
「大きイ肉が一個に、小サい肉が一個…」
「肉じゃないよ。アスナだよ」
勇士の優しい声に、視線が戻って来た。
「肉に変ワりは無いジャないの」
「今日は、オバサンはどうしたの?」
「ホ護者?」
カクっと首が横に傾げられた。そのまま肩の上から落ちる錯覚をもよおすほど機械的であった。
「そレが、わたしのドコに関係がアると?」
少々雲行きが悪くなったような声であった。だがそれだけで、彼女の保護者が彼女を見失っていることが察せられた。恭子の視界に入らないように、背中で勇士は左手を振った。
その合図に気が付いた明日菜が、自分の携帯を取り出して、なじみの電話番号をコールしはじめた。
「そりゃ心配してるだろうからさ、オバサン」
「そレはどうでしょう。いなクなって、清々しているのカもしれないわ」
そう言いつつ恭子は一歩前に出た。他の誰かならば、たじろいでしまうだろうが、慣れている勇士は平気であった。
「ユウジは、おでカけ?」
「これから学校だよ」
「学校? わたシは行ってナいワ。学校」
形の良い眉を、ちょっとだけひそめる恭子。
「キョウコだって、行けるようになるさ」
「そンな優しい言葉をかけてクれるのは、ユウジだけよ」
「最初のトモダチだからな」
恭子は、勇士が近所の幼稚園に入園して、最初にできたトモダチだった。慣れない環境に戸惑い園庭の端っこで半ベソをかいていた彼へ、無邪気に差し伸ばしてくれた彼女の手が、勇士にはどんなにありがたがったことか。あの思い出がある限り、勇士は狂ってしまったからと言って、恭子を切り捨てることはできないのであった。
「キョウコちゃん!」
中年の半ばも過ぎた女性が道をかけてきた。一目でだいぶやつれていることが分かる、そんな女性であった。背の高さも顔の造形も恭子にだいぶ似ていた。
彼女は恭子の保護者で、彼女の伯母である神谷月子である。
おそらく徘徊癖のある恭子を探して、街をだいぶ歩いた後なのであろう。ふと半分だけ振り返って確認すると、明日菜が自分の携帯を軽く振っていた。
どうやら電話連絡はうまくいったようだ。
余分なことを口にすると騒ぎ出すと分かっているのか、二人に会釈だけして恭子の肩を押して誘導する。
「あら、もウ行かないと。でワ、ごきげんヨう」
おしとやかに頭を下げる恭子と、泣きそうな表情で顔が固まっている月子が、去っていくのを見送る。彼女がまともに人として認識しているのが勇士ぐらいのものだから、週に何度も見ることになる風景だった。
「さ、おにいちゃん。いこ」
二人の背姿を見送っている勇士に、明日菜が声をかけた。
バスの車内に通勤通学の時間帯に余裕があるわけもなく、二人は周囲の人込みから受ける圧力のまま、目的地まで密着状態で我慢することになる。
いい加減お年頃なのだから、兄にくっつかれて嫌がってもいいだろうに、幼いころからお兄ちゃんコだった明日菜は、嫌な顔を見せることは無かった。
JRの駅から出ているバスだと、清隆学園直行の急行便が出ている時間もあるのだが、勇士たちが利用する路線には設定されていなかった。だが、わざわざそちらへ遠回りするメリットは感じられない程の違いしかない便である。バスは定刻よりちょっと遅れて、清隆学園前のバス停に到着した。
桜並木の緩い上り坂の向こうに、在学生から「刑務所」だの「ベルリン」だの悪い呼び名がつけられた高い壁が見えてくる。
高等部はあの壁の向こうとなる。
中等部は敷地が隣接しているとはいえ、戦争中に作られた軍事基地の跡地を利用して建てられた学園は広大であった。かつて滑走路として整備されたというド真っすぐな中央通りを、だいぶ西へ歩かないと中等部には辿り着けない。よって明日菜とは毎日高等部の正門前で別れることになる。
「じゃあな、アスナ」
「うん。今日は遅いの?」
「あー」
勇士は自分の予定を思い出してみた。
「今日は月曜だろ。部活のミーティングがあるから、いつもよりは遅いかな」
「そっか…」
残念そうに唇をすぼめる明日菜。兄という立場から見ても、仕草が年相応でかわいらしかった。
「じゃあ今日はカレーでいい?」
「作ってくれるならなんだっていいさ」
機械システムのデザインをする会社に勤めている父のいまの赴任先は、南米にあるバルベルデという小国であった。詳しいことは分からないが、アメリカと現地の合弁会社が建設する巨大工場の生産ライン、そのオートメーションに関する仕事らしい。
だが現地では英語がほとんど通用しない土地柄であった。南米ではスペイン語やポルトガル語の方が主流だ。
英会話ならばそつなくこなす父である。海外の仕事でも、その能力に問題がないと思われた。工場建設が終わり、稼働して生産段階へ移行を予定している二年後まで、完璧にやり遂げるであろう。
だがバルベルデの公用語であるスペイン語は不得手であり、仕事以外の生活に支障が出ることは自明の理であった。
そこで登場するのが彼の妻であり、二人の母であった。小学校三年生までスペインはバルセロナに住んでいたという彼女は、今でもスペイン語はペラペラなのだった。
以上の事情から、父の海外転勤に母が着いていくこととなった。
父に続き母まで海外へ行くことになったら、子供である勇士と明日菜の兄妹も、ついて行ってもよかったかもしれない。
ただバルベルデは長く政情不安が続いており、子供を教育する環境としてはあまりお勧めできない土地であった。
また二人して、競争率の高い清隆学園へ、せっかく合格できたという事情もあった。
という理由で両親は揃って海外へ、子供二人は日本に残ることが決まった。
何度も「けっして浮気防止のためじゃないのよ」と言い訳をしながらも、明るい笑顔で成田空港を旅立っていった母。今頃は夫婦水入らずの新婚家庭再びという生活を送っているのだろう。
毎日の食事は、妹の明日菜が張り切って作っていた。もちろん勇士は、男子厨房に入るべからずなんていう古い考えは持っていなかった。当番制にしようかと提案したこともあったが、明日菜にはっきりと断られていた。
曰く「だってアスナの、はなよめしゅぎょうだもん」だそうだ。
まあ、そう言われてしまうと家事が全般的に苦手な勇士も、妹に甘えてしまうことになってしまうわけで、台所は明日菜の担当ということになってしまった。
「寄り道しないで帰るんですよ」
まるで母親のようなことを言いながら、兄へ背中を見せる中学生。
「はいはい」
勇士の口元には苦笑のような物が浮かんできていた。
(アスナのためにも、一週間生き残らなくちゃな)
勇士は同じ制服を着た人ごみの流れに加わった。
東側にあるA棟にある生徒昇降口で上履きに履き替え、教室があるのは南側のB棟である。
全校生徒の半分近くが電車バス通学なので、自然と同じ時間帯に登校するものが増えてしまう。よって登校時間のいまは廊下もラッシュアワー状態であった。
「あ、小野くん」
二つの棟を繋ぐ位置にある階段室へ向かう途中で、人ごみの中から声をかけられた。
振り返ると、ほぼ同じ目線の高さに笑顔があった。
声をかけてきたのは、シュシュで束ねた長い黒髪を、左肩から胸の前へ流している美人であった。
女性としては高い身長と、体中に纏わりつかせている雰囲気といい、新任の女教師のような佇まいであるが、着ている物は清隆学園高等部の制服であった。
襟に付けたクラス章や、学年ごとに違う色が指定されている上履きなどで、二つ上の三年生と分かる。どうりで一年生の勇士と比べて大人びた印象を持っているはずである。
彼女は勇士の知らない人物ではない。むしろクラスメイトの女子よりは会話を交わすことの多い先輩であった。
彼が所属する刀剣研究部の部長、飯塚咲弥であった。
「ブチョー…。はよっす」
彼女の方も積極的に男子と話すようなタイプではないのだが、同じ部活という気安さが手伝って、声をかけてきたのだろう。
「おはよう」
固い無表情を取り崩して笑顔を作ってくれた。勇士のうぬぼれであるかもしれなかったが、彼女が笑顔を見せてくれるのは彼だけであるようだ。
「今日、部活はどうする?」
「部活っすか?」
二人が所属する刀剣研究部の活動日は、生徒会に申請した書類によると、水曜日となっている。その日だけは部室として申請したD棟二階の会議室を使用することができた。
それ以外の日には、同じD棟二階にある学生会館か、談話室に集まることが多かった。
しかし、高校で刀剣の研究する部活である。毎回、実物を持ち出してきて試し切りをするようなことは絶対ない。活動内容と言えば、図書室から関連書籍を借りてきての資料集めやら、休日へ有名刀剣が展示されている博物館へ行くとか、それ以外は何となく集まって時間をつぶしているだけの、帰宅部すれすれの活動しかしていなかった。
そんな部活に勇士が入ったのは、クラス担任が新年度の始まった最初の学活で「なんでもいいから部活に入ること。入れば内申に色が付くから」と告げたからだ。
勇士は積極的にスポーツに取り組むようなタイプではなかった。適当な文化会系の部活に潜り込もうと考えていたところ、廊下に一人で泣きそうにいた咲弥と目が合ったのだ。
さらに詳しく説明すると、こういうことになる。
とある刀剣を擬人化したゲームの影響で、昨年までは部員が多かった刀剣研究部であった。が、咲弥以外の部員が(色んな意味で)卒業してしまった今年度は、部員数の少なさから廃部の危機であった。
そこで一念発起した咲弥は、人見知りの彼女にしては難しい、勧誘活動をすることにした。机に手書きの張り紙をして、D棟中央廊下にそれを据えて場所を確保したまではよかった。しかしその人見知りの性格が災いして、廊下を流れる生徒の一人にも声がかけられず、勧誘は成功していなかった。
そこに通りかかったのが勇士である。
大人の女性に見える美人が泣きそうになっていた。それに勇士が同情したのがきっかけとなった。
廃部を避けるためには、部員数が最低でも五人必要であった。今年度の部長である咲弥と、入部することにした勇士と合わせて二人。残り三人は、勇士が「幽霊部員で構わないから」とクラスメイトたちに声をかけて確保した。
廃部回避が確定となり、感謝してくれた咲弥の浮かべた別の種類の涙は、勇士の記憶に刻まれていた。
その時と同じような目線で、咲弥の赤茶色の瞳がやや下から勇士の表情をのぞき込んできた。
「んまあ、別にコレといった用事があるわけでも無いっすから」
「じゃあ、またいつもの学生会館で」
一斉に花が咲いたような笑顔を見せて、咲弥は階段室を出て行った。(三年生のフロアは一階なのである)
今にもスキップを踏み出しそうな彼女の背姿を見送りながら、勇士もそのお裾分けを貰った気になって、階段へ踏み出した。
高等部B棟三階、一年二組の廊下側の列中ほどに勇士の席はあった。
いつもの時間に席へ着くと、すでに隣の席に座っていたクラスメイトが明るい笑顔を向けてきた。
「おはようユウジくん」
「おう。おはよシュウ」
その同級生は一言で表現すると、気の弱そうな女の子であった。
耳にかかるぐらいの薄い色の髪には強い癖がついており、高めの声は耳障りが決して悪くなく、それよりも天使の囁き声かと思えるほど優しい響きであった。
身長だって、立って比べて勇士の胸ほどまでしかないし、極端なほどの撫で肩は制服の上着に入っている肩パットが意味をなしていないほどだ。
もちろん指だって「シラウオのような」というありふれた表現が裸足で逃げ出すような細く芸術品のようなものだった。
長い睫毛に潤んだトビ色の瞳、人よりも白さが目立つ肌には理由があった。
彼の祖母がフィンランド系アメリカ人なのである。
そう、猪熊修也は、神が戯れに作ったとしか思えない完璧な少女であった、男なのに。
じーっと見つめる勇士の様子に、いつもと違うものを感じたのか、不思議そうに修也は小首を傾げた。
「どうしたの? ユウジくん」
「いや」
いつもの平和そうな修也を見ていると、自分が一週間後には死ぬ運命だということを忘れてしまいそうになった。
まさかクラスメイトに、月曜の朝からそんなことを告げることもできず、勇士はごまかそうとした。
「あ、その…。また読んでいるのか? その雑誌」
「うん」
ちょっとハニカミながら、机の上でなく膝の上でページをめくっていた薄い雑誌を持ち上げた。
彼の家は受注生産でロボットを作る工場なのである。ロボットと言っても「ロケットパンチ」や「なんとかビーム」などで戦う巨大ロボではなく、携帯電話の中に入っているような超小型モーターを生産するロボットとか、ビルの外壁に張り付いて振動を与えて経年劣化を測定するロボットとか、産業用でしかも特殊なモノばかりである。
どれも卓上に乗るような小さい機械ばかりであるが、侮ってはいけない。価格が一台一億円などザラにある世界なのだ。
その経済的な魅力も理解できるが、やはりロボット産業と聞くと未来の技術という連想がある。そんな家業を修也は立派に継ぐつもりなのだ。
もちろんロボットには電子工作がつきものであるから、彼が膝の上で読んでいる雑誌も伊達ではなかった。
彼の膝の上にあるのは、今どき読む人が少ないであろう電子工作を扱う月刊誌であった。
勇士には、何が書いてあるのかさえチンプンカンプンな記事内容しか掲載されていないような雑誌である。そんな専門知識がなければ理解できない記事を、修也は平気に読むどころか、なにか暗号のようなメモを記事から拾い上げていた。
「ええと…」
目線を宙に彷徨わせて、修也は少し言葉を探した。
「ボクがいま作っているロボットに使えそうな回路があってさ」
「ボクじゃなくて、オレな」
「あ…」
勇士の指摘に修也が口へ手をやる。そんな仕草の一つ一つすら女の子のような彼へ、勇士は意識して男っぽい言葉を使うように指導していた。
ただでさえ女の子のような外見なのである。さらに見るからに小動物のようなオーラさえ醸し出していた。
そんな「カモ」に、素行不良な上級生が目をつけないわけがない。新学期早々上級生に絡まれること十数回。金を巻き上げられるだけなら被害が少ない方で、要求は性的なものまでエスカレートしていった。
窮地に陥っていた修也を救ったのが勇士なのであった。
勇士だって腕っぷしは強いと言える方ではなかったが、必要なのは守る存在がいるという事実である。
もちろん勇士一人だけでは守り切れない。学内の秩序を守る風紀委員会の力も借りて事件の解決を図った。
金銭的な被害も全額返還するということで警察沙汰にしないと、その上級生と話がついていた。
そんな恩人である勇士に、修也はすっかり懐いてしまっていた。
「ぼ…、じゃなくて、オレが作っているロボットに、使えそうな回路があってね…、あってな」
はたから見ていると可愛い少女が粋がって無理に口調を男言葉にしているようにしか見えなかった。
勇士は大きなため息をついた。
せめて口調だけでも男っぽくすれば、あんな被害に遭うようなことは無いだろうと思って科した課題であったが、どうやらうまくいかないようだ。
「ん? なにかおかしなトコあったかな?」
本人に自覚がないところが一番致命的であった。
「まあ、いいや。ロボット?」
「うん。ぼ…、オレがコツコツ作ってた人型ロボットが、そろそろ完成しそうなんだ」
そしてニッコリ。やはり女の子にしか見えなかった。
「あ~、前に言ってたヤツか」
二人でつるむようになって打ち明けられた修也の趣味である。彼は人型ロボットを製作中なのであった。始めた動機は、やはり強く出られない自分であった。イジメっ子から守ってもらえる存在が欲しかった。だが気弱な彼に今までそんな友人はおらず、いないならば自分の手で作ろうとして、用心棒として人型ロボットの制作に入ったのだ。
だが、そんな動機も勇士の存在で霧散した。
今では自分の技術力向上のために、続けている趣味なのだ。もちろんロボット製作工場を営む家族へ、自分の実力を示すという副次的な意味もあった。
「そっかぁ、完成しそうなのか」
友人として喜ばしいことだ。これで修也が自分に自信を持てば、さらにいい技術者としての道が開けることだろう。
「えへへ。そしたらユウジくん、見に来てくれる?」
はにかんで下からの目線。やはり神は彼の性別を間違えたようだ。
「おう。ぜひとも見せてくれ」
午前中の授業は滞りなく終わり、昼休みとなる。
生徒たちはそれぞれの席でお弁当を広げたり、D棟にある購買部でパンなどを買ってきたり、同じくD棟にある学食へ押しかけたりする。
勇士は、どちらかというと学食派であった。
お弁当は家事担当の明日菜に負担がかかるし、購買部は人気のカレーパンなどの獲得競争が激しいので食った気がしないからだ。
と言って学食に欠点がまるでないわけでもない。
まず味や量は、この値段ならば納得しないこともないというレベルだ。これは利点であろう。
栄養バランスは、ちゃんと栄養士がいるので間違いない。これも利点の一つだ。
ただし床面積に対して押しかける生徒の数が多いので、いつも入り口に長い列ができるのだ。酷い時などは食券を買うのに渋滞、料理を受け取るのに渋滞、席を確保するのに渋滞の三重苦で、やっと食べられると思ったら午後の始業時間を気にしながら、味も気にせずにかきこまなければならないことがある。
生徒会でも問題視されており、二階の談話室や学生会館の利用も音沙汰されていた。が、わざわざ部屋を出て階段を登り、そして食べ終わったら食器の返還に戻らなければならない。今どきの高校生がそこまでちゃんと出来るのか甚だ疑問であり、また移動中に転倒などで廊下や階段、それと食器が汚損する心配もあり、学食側との話し合いはうまくいっていなかった。
というわけで、今日も混んでいる学食で、日替わりランチのトレーを手にした勇士が、窓際といういい席を確保できたのは、まったくの偶然だった。
向かいの席には当然のように修也が座っている。
最初はお弁当だった修也だったが、勇士にあわせて学食利用に切り替えたのだ。
友情に厚いと感じればいい話なのだが、なにせ見た目は美少女の修也である。熱い眼差しを送って来る女子生徒数名がいたりする。
まったく誤解である。いやわざと誤解しているのかもしれないが。勇士の嗜好は、もちろん男より女であった。
「あのさあ…」
もしかしたら一週間後には死ぬかもしれない運命でもある。死なないように努力するつもりだが、言いたいことはこの際言っておこうと決めた。
「シュウも見た目はいいんだから、彼女の一人でも作ったらどうだ?」
「もぐ?」
コロッケを口いっぱいに頬張っていたため、それが喉に詰まりそうになって目を白黒させる修也。なんとか嚥下した彼は、ついでに味噌汁で口の中を整えてから言葉を発した。
「ボクが彼女つくるなんて、無理無理」
とんでもないとばかりに首を振る。
「そうか? まるでペットのように可愛がってくれる女子ぐらい、探せば出てきそうだけど」
「ユウジくんまでそんなこと言うんだ…」
絶望に顔を歪ませる修也。そういえば彼は、別の意味の「かわいがり」で酷い目にあっていたのだった。
「ちげーよ」
慌てて勇士はフォローした。
「ほら、大人な女性なんかは、シュウみたいな男の子の面倒見たいなんていう欲求があるんじゃないか? そういう人なら、シュウの面倒を任せられるかなって、思ったんだよ」
「ユウジくんは、ボクがキライなの?」
潤んだ瞳を向けてきた。
「バーカ。好きでもないダチとツルむかよ」
呆れたように言ってから、添え物のポテトに手をつける。ふと反応が無いことが不思議で顔を上げると、修也が今度は真っ赤な顔をしていた。
「てへへ。好きって言ってくれた」
「いや、友人としてだけど?」
間髪入れずに言っておく。遠くから怪しい目つきで二人を観察していた、特殊な趣味をお持ちらしい女子生徒のグループが、悲鳴のような歓声を上げていた。
「うん、わかってるよ」
ニコニコと赤くなった顔を、軽く握った拳の向こうへ隠す修也。気になった勇士は、確認することにした。
「何回も聞いたと思うが。シュウも女が好きなんだよな?」
「そうだよ? 当たり前じゃないか、ボクは男の子だよ」
不思議そうに首を傾げる修也。
「だって男同士って、ああいう時はお尻なんでしょ」ブルルと身もだえ「そんなバッちい」
「聞くたびに安心するぜ」
それから先ほどのイメージから興味が湧いて聞いてみた。
「じゃあ、ブチョーなんかどうだ? 大人びたようで、オマエに似てどこか天然なトコがあるし」
「部長さん?」
修也も刀剣研究部に籍だけは置いていた。もちろん勇士の頼みがあったからだ。
「あれ? いいの?」
「いいのとは?」
「だって、部長さんのこと狙っているのはユウジくんでしょ?」
「ぶほっ」
あまりの質問に、含みかけだった味噌汁のワカメが鼻から出た。
「あれ? ちがうの?」
「んー」
重ねて聞かれて、勇士は腕組みをした。目を閉じて考えてみる。
「ほらアノ人は、虎徹ラブの人じゃん?」
部長の咲弥は、刀剣研究部創立のきっかけとなったゲームに出てくる、名刀虎徹を擬人化したキャラであるところの、はかま姿をした青年のファンであった。もちろん二次元である。
「そらあ最初は、下心がまったく無かったとは言わないけどよ」
瞼の裏にD棟の中央廊下で儚げに涙ぐんでいた咲弥を思い浮かべる。
「けど、実態を知っちゃうとなあ…」
あの時は、高校ともなると大人のような女子もいるんだなあと感心すらした。しかし次に勇士の脳裏に浮かんできたのは、抱き枕を抱えて、普段にはまったく見せない表情をした咲弥であった。たしか刀剣研究部の活動として、修也と三人で都内の博物館へ行った帰り道に、ふらりと寄ったアニメショップでの出来事であった。
しばらく沈黙した後に言った。
「考えさせてくれ」
「そんな人をボクに薦めたんだね」
「うっ」
午後の授業も終えて、今日の課業はおしまいである。学活も終えて、以降は委員会のある者はそちらに、部活のある者はそれぞれの活動場所へと散っていく。
「さて、行くか」
自分の荷物をまとめた勇士は、隣の席に声をかけた。ちょっとトロいところがある修也は、まだ机の上を片付け切れていなかった。
「ちょっとまっててね」
趣味のロボット製作と同じような精密さで、キャラクター物の筆箱や、配られたプリントなどをバッグへ入れている。ひょいと覗いてみたら、まるで工業製品のように、四角四面に教科書やノート、それに文房具が納められていた。しかも全てが表紙の向きまで揃えられているという几帳面さであった。
対して自分のバッグはというと、表紙の向きを揃えるどころか、教科に足りないノートだったり、いつ放り込んだかわからない紙屑だったり、とても人には見せられない状態であった。
(まさか人に見られて恥ずかしいモンなんか入ってないだろうな)
心当たりは無いが、借りたエロ本なんかそのままにしておいて、一週間後に死亡した後に、明日菜あたりに見つかったら、それは取り返しのつかない程の恥辱ではないだろうか。
不安になった勇士は、まだトロトロと修也が荷造りしていることをいいことに、自分のバッグの中身を検分することにした。
教科書やノートはまだいい。その間に間違えて薄い写真誌が挟まっていないかをまず確認した。
大丈夫だ、問題は無かった。
あとこの丸めたプリント類はなんだろうか。
ワシャワシャ開くと、入学直後に渡された高校生としての心得みたいなプリントなどであった。
これを機に捨ててしまおうと、まとめて一つに丸めてしまい、野球のボール程度の物を作った。
教室に備え付けのゴミ箱と、自席の距離、そしてできたばかりの紙屑を見比べた。
(いけそうだ)
座ったままで、バスケットボールのシュートをイメージしてみた。もちろん屋内なので横風などの要因は限りなく少ない。
「ほっ」
手首のスナップを利かせたシュートは、見事な放物線を描いて、燃やすゴミの箱へ…。
「?」
と思ったら、丁度通りかかったクラスメイトに当たってしまった。ブレザーが制服に規定されている清隆学園で、学ランを着て授業を受けている奴である。学ランの方は二〇年ほど前まで制服だったとかで、今でも第二種制服として着用が認められている。が、さらに彼はボタンを三つもはめずにいて、中に着た黒いワイシャツと、首に巻いた白いスカーフを見せているという異装なのだった。
かねがね勇士は彼を見るたびに(あれで先生に怒られないんだったら、私服でも大丈夫じゃね?)と思うのだった。
それよりも紙屑だ。
「おーい(ええと名前なんだっけ?)えー(佐藤でなし島津でなし、あそうそう)悪いな、左右田くん。代わりに捨てといてくれ」
不思議そうに自分に跳ね返った紙屑を拾い上げていたクラスメイトが、勇士の声に振り返った。
焦点のあっていないヤバ目の顔をしていた。勇士を確認すると、はっきりと表情を不気味な笑顔へと変化させた。
こたえるかわりに、ゴミ箱へ紙屑を放り込みながら手をふってくれた。どうやら自分へ紙屑をぶつけたことを気にするなと言っているようだった。
「ごめんね、またせて」
やっと荷物の整理ができたらしい修也が、バッグを肩にかけて立ち上がった。
「どうしたの?」
「いや」
教室から出て行った学ランの背姿と、女の子に見える修也と見比べて、しみじみ勇士は思うのだった。
(このクラスには色んなヤツがいるなあ)
B棟西側の階段を下りて中央廊下を北に足を向ければ、昼に世話になる学食や、生徒会室があるD棟である。
その二階、校庭とは反対の体育館側の一番奥に、学生会館はあった。
と、言っても教科教室二つ分の広さに、使わなくなった机や椅子が放り込んであるような部屋である。これが大学の学生会館ならば、別棟になっていたりするのだろうが、高等部ではこれが目一杯な設備であった。
毎年秋に行われる清隆祭の片づけをさぼったかのように、壁や天井の一部までペンキで彩られていた。
廊下側全部を使った掲示板には、色々な部活の入部者募集ポスターだったり、活動内容を発表するプリントだったりが貼りだされていた。それを端から見ていくと、嘘か本当か「畑がゴブリンの群れに荒らされて困っています。退治して下さる冒険者募集。報酬は一〇〇ガバス」などという張り紙まで混じっていた。
今日も昼休みに使い切られたのか、給茶器は要補充のランプが点灯していた。仕方がないので、備え付けの合成樹脂製の安物コップへ、これだけは飲み放題の冷水を注ぎ、室内を見回してみた。
小さなグループでは四人ほど、大きなグループでも一〇人ほどが、半ば壊れた椅子や机を寄せ合って、雑談から相談事まで口々に勝手なことを話し合っていた。
あまりのうるささに全体が「わーん」という反響音だけに染まっていた。
「さて」
そんな混沌を凝縮した中に、いつも場所を取っている付近で、背筋を真っすぐ伸ばして座る人影があった。
表面が傷だらけの机の上で「マグロなんか釣れちゃった」とかいう表紙の文庫本を広げていた。間違いなく刀剣研究部部長の咲弥だ。
「ちっす」
彼女の前にコップを置きながら挨拶をする。すると文庫本を脇に置きながら咲弥は顔を上げた。
「こんにちは小野くん、猪熊くん」
ニッコリと笑顔を作ってくれた。
「こ、こんにちは」
修也は相手を探るように見ながら、まだ使用されていない椅子を二つ寄せてきた。
「お、悪ぃな」
遠慮なくその気遣いに甘えることとする。荷物は適当に足元へ置いた。
これで一つの机を三人が囲む形となった。いつも刀剣研究部の形である。
「あ、飲みます?」
勇士が声をかけると、なぜか厳しい目で修也を見ていた咲弥が、表情をほぐして振り返った。
「んんん。私にはコレがあるから」
どうやら購買部の自販機で買って来たらしいペットボトルのお茶を机に出した。
いつもならこのまま咲弥は文庫本、修也は電子回路の本を開いてしまう。二人に取り残される形となる勇士は、その日に出された宿題に取り掛かったりするのだが、本日は違った。
基本無表情を作ることの多い咲弥が、目に見えて上機嫌なのだ。
「なんか、あったっすか?」
「ええ」
水を向けると、頬に手を当てた咲弥がうれしそうに言った。
「前から大学へ申請していた『白露』なんだけど、借りられそうなのよ」
「え? あれ本気だったんすか?」
勇士が若干引きぎみで聞き返した。
「本気よ」ちょっと不思議そうにキョトンとしてみせ「だって、この部活は刀剣研究部なんですから」
「それって…」
横からおずおずと修也が口を挟んだ。
「あの怖い話がある刀ですよね」
「だから『研究』するんでしょ」
端っこが強張った笑顔を修也に向ける。
「研究ねえ」
勇士は机に頬杖をついた。
清隆大学には付属の博物館もあった。年号がまだ昭和の時代に、八王子へ移転した文学部キャンパスに作られたのが新館と呼ばれ、もともとあった方が旧館と呼ばれている。
旧館の方は、理学部に隣接するだけあって、主に工業製品の収集を受け持っていた。新館の方は偽物臭い「坂本龍馬の書簡」から「沖田総司の七歳の時のシャレコウベ」まで学術資料を収集していた。
咲弥の口にした『白露』というのは旧館に所蔵されている日本刀の名前である。正式名称は「切刃造波紋蛙子小太刀」という。
長さは二尺足らずで、指添としては反りがきつめの一振りであった。
修也の言った怖い話というのは、妖刀としての伝説があるからである。
「博物館の刀剣を保存しているフロアの、空調がおかしくなったんだって。それで夏を前に慌てて直すことになったのよ」
咲弥の説明に、二人の後輩が「それがなんでウチへの貸し出しに繋がるんだろう」とばかりにキョトンとなった。
その表情で、自分の説明が至らなかったことを察した咲弥は、魅惑的な唇をひとなめして説明を加えることにした。
「ほら、刀って要は鉄でしょ。湿気や気温なんかを厳重に管理しないと、錆びてしまうもの」
「あー」
たしかにそうだなと思わず声が出た。台所のステンレス包丁ではないのである。鋼を何重にも折り重ねて作ってあり、錆びにくい構造になっているとは言っても、梅雨のある日本である。頻繁に手入れを行わなければならない。が、新たに研いでばかりいると、そのうちに刀身がなくなってしまう、研ぐというのは表面を削っていることなのだから。
ならば完全空調のケースの中に保存するのが、未来までその収蔵品を伝えることになる。
今回、その空調が故障したようだ。
「でも、高等部に保管ケースなんてありましたっけ?」
素朴な疑問が修也から出た。
「たぶん無いわね」
「え、それじゃあ…」
修也がとても不安な顔になった。
「いや、一日か二日でダメになるようなモンか?」
頬杖をついたままの勇士が声を上げた。
「さすがに素手でいじるなんて事したらダメだろうけど、普通の展示ケースでも大丈夫だろ」
「いちおうA棟の展示コーナーに保管されることになっているわ」
A棟にある教職員昇降口脇に大きなガラスケースが設置されていた。そこには高等部の歴史と言ってもいい展示物が並べられていた。主に運動会系部活の優勝トロフィだったりするが、創立記念の空撮写真だったり、歴代校長の著作物なんかも飾ってあった。
場所が場所だけに、普段は生徒たちの目に留まることは無いが、施錠もしっかりとしている場所であるから、博物館からの借り物を展示する場所として問題は無いと思われた。
「まあ、あそこぐらいかな」
勇士は校内の見取り図を思い浮かべてみた。他に日本刀を一振り仕舞って置けるような場所を思いつかなかった。
盗難防止ならば事務室の金庫が一番厳重だろうが、サイズ的に無理があろう。逆に納められる場所を幾つか思いつくが、今度は施錠の方で不安を感じるところばかりであった。
「いつからいつまでです?」
「工事は週末の二日間よ」
「それじゃあ…」
「でも、水曜日に来てくださいって。返却も来週の水曜日」
「まる一週間かあ」
どうやら向こうは刀剣研究部の活動日にあわせてくれたようである。しかし、こうして暇を持て余しているぐらいの集まりであるから、博物館側のスケジュールにあわせてもよかった。
「で? どうします?」
「?」
弱気な修也が、一週間という長さに気後れした顔をしているのを置いておいて、勇士は頬杖をやめて訊いた。
「どうしますって?」
咲弥はキョトンとしていた。それはそれで年相応で可愛い表情であったが、いつも大人びた感じの彼女にしては珍しい顔であった。
「いえ、せっかく借りられるんだったら、ウチもなにか行動します?」
「行動? 水曜日の放課後に、近堂先生と一緒に博物館行く予定だけど?」
「そうじゃなくて」
眉間に皺が寄ってしまった。
「その『白露』の解説文とか何とか、プリントにして配るとか。代わり番こにケースのところにいて解説するとか」
「あー」
目を丸くした咲弥はポンと手を打った。
「せっかくだし、ウチも活動してるって、先生方にアピールしなきゃ」
「考え付かなかったわ、小野くんさすが」
「ま、オレも刀剣研究部の一員なんで」
「ぜひ、そうしましょう」
パンと手を打ち合わせて咲弥は言った。
「そのためには、まずどうしましょうか」
「どうするって…、うーん」
勇士も思いついたはいいが、具体案を持っているわけではなかった。
「プリントって、どのくらいの物にするの?」
不安そうに修也が横から訊いてきた。
「んなもんペラ紙一枚でいいだろ。なんか書いたヤツのコピー取って…。枚数は一〇〇枚ぐらい?」
「そんなに作っちゃって、余ったらどうするの?」
「一枚十円として、千円ぐらいだろ。部費でなんとかなりませんか?」
「そのぐらいなら問題ないでしょ」
つまらなそうに修也の心配を聞いていた咲弥が、軽い調子で言った。
「せっかくある部費ですもの。こういう時に活用しましょう」
「あとは、なにを書くか、か」
「とりあえず文献を当たって、何を書くか、書けるのかを知らないと」
咲弥が自分の荷物へ、出していた文庫本を仕舞った。
「じゃあ図書室かな」
横の修也も荷物をまとめ始めた。バッグを開きもしなかった勇士は、ただそれを取り上げるだけだ。
「じゃあ、いきましょうか」
清隆学園高等部C棟二階にある図書室には、高校の設備としてはそれなりの文献が揃っていることが自慢であった。本物かどうか分からないがアレイスター・クロウリーの直筆原稿まであるという噂だ。
入口をくぐったところにあるカウンターについていたのは、気の強そうな女子生徒であった。襟に図書委員を示す本の徽章をつけていた。
彼女に訪ねると、迷わず七五六と書かれた棚までわざわざ三人を案内してくれた。
きれいにあいうえお順に並べられているのは、生徒のマナーが良いというより、図書委員会の管理が行き届いているおかげであろう。
その棚の六段目辺りに日本刀に関する文献が多く並べられていた。
ほとんどがその構造や製法、それに鑑賞法などである。一冊だけ手入れの仕方を詳しく書いたマニュアルのような本もあったが、今は関係がなさそうだ。
展示予定の『白露』に関する伝承本は無さそうだ。
一通り立ち読みでチェックした三人は、顔を寄せた。
「どうします?」
思った通りの本が無かったので、勇士の顔も曇りがちだ。
「まず、日本刀の用語集みたいなモノはできそうね」
日本刀を鑑賞するための手引書みたいな本の、野垂れ帽子だの火炎帽子だの切っ先だけを解説しているページをめくりながら咲弥は言った。
「でも、やっぱり妖刀伝説には触れておきたいわね」
「じゃあ、ボクが民間伝承の棚見てきましょうか?」
「そうね…」
ちょっと考えた咲弥は、手にした本を閉じながら修也に向いた。
「そうしてくれる? 小野くんは、閉架の方に関係書籍がないか尋ねてみて」
「りょうかいっす」
三人はそこで一時解散した。咲弥はその棚から日本刀鑑賞に関する幾つかの本を手に取った。
彼女と別れた勇士は、カウンターに取って返した。そこの内側で、利用者待ちの合間を見て文庫本を開いていた、先程案内してくれた女子に声をかける。
「あの~」
「はい?」
手入れを怠って伸びてしまったような髪を、耳の後ろへ追いやって、当番の腕章をつけた彼女が顔をあげた。
「さっき日本刀を調べたいって言ったんですが」
「ええ」
業務自体は暇だったのだろう。彼女は勇士を案内したことを覚えているようだ。
「もっと他にありませんか?」
「他に?」
左襟につけているクラス章によると同じ一年生らしい彼女が、カウンター越しに本棚の方へ視線をやった。
「あそこに無ければ、他には無いと思いますけど」
「ええと、そうではなくて…」
質問の仕方が悪かったと腹の内で反省する。
「オレ…、じゃなくてボクたち刀剣研究部は、今度大学の博物館から日本刀を借りられることになりまして。いまはその日本刀について調べたいんです」
「はあ。博物館の」
「『白露』っていう日本刀なんですけど、それについての本かなにかありませんか?」
「ちょっと待ってください」
その図書委員は立ち上がると、隣にある司書室との扉へ手をかけた。
「おい、サトミーィ」
静寂が肝要の空間で、ちょっと鼻にかかったような、それでいてドスの利いた声で向こうの部屋へ声をかける。その遠慮なさから同じ図書委員に呼びかけているのだろう。
「へいへーい」
呼ばれて出てきたのは背の高い生徒であった。全体に色素が弱まった感じの髪に、貼り付けたような笑顔をした男子であった。
「すいませんが、もう一度。コイツに説明してくれます?」
トンと彼の胸板に裏拳をあてて、カウンター当番の女子が振り返った。
どうやら閉架担当のようだ。勇士は同じ質問をすることにした。
彼の質問に、その背の高い優男は、笑顔のままで眉をひそめた。
「時間かかってもいい?」
「まあ、見つかるなら」
勇士が承諾すると、その閉架係の顔が明るくなった。
「ま、とりあえず」
そのまま手をのばして、カウンターに置かれた図書室備品であるノートパソコンの電源を入れた。
「コンピューターで検索かけてみましょうか」
検索画面はこちらから覗けない位置にあったため、勇士はそこで暇をつぶすはめになった。
たまに「シラツユって、どんな字かな?」などの短い質問や、「博物館の所蔵品からあたってみるか」などの独り言とかを聞かされながら、彼の感覚で結構長い時間待たされることになった。
「を? を?」
それでも、どうやらヒットがあったようで、ノートパソコンを起動した状態で席を離れ、扉の向こうに消えた。
閉架係はすぐに戻ってこなかった。
手持無沙汰になった勇士は、図書室内を振り返った。
カウンターの横は、窓際にかけて雑誌コーナーである。そこには座り心地のいい椅子が扇形に並べてあった。窓際にはマガジンラックが揃えてあり、学内で時間をつぶすには、丁度いい場所の一つである。
いまもガタイのしっかりとした男子が一人、その椅子の一つを占領して居眠りをしていた。
カウンターと雑誌コーナーが終わると、そこから大きく三列に室内は区切られていた。
廊下側の一列目は、背の低い本棚が並んでいる。そこにはライトノベルを主にした蔵書が並べられていた。そこから二列は長テーブルが並べられており、そこで自習する生徒に混じって、目当ての本を見つけたらしい咲弥と修也が並んで座っていた。
ライトノベルの棚の分だけそれが奥へと続き、テーブルが切れると同時に背の高い本棚が三列並ぶ形となる。廊下側から窓際まで都合四本の通路には、図書館十進法で分類された蔵書が見つけやすいように、番号が掲示されていた。
もちろんその他にも、窓際の低い位置や、廊下側の壁一面にも本棚が並んでいた。
今日の利用者は少なめのようで、二人が利用している自習スペースには、だいぶ余裕があった。
と、室内の確認を終えたころ、再び扉が開かれた。
「閉架では、この二冊しか無いようなんだけど」
ドンとカウンターに荷物が置かれた。
まず目につくのがブ厚いクリアファイルバインダーであった。百科事典でもそうそうないような厚さである。
その上に白亜色をした教科書のような小冊子が置かれていた。小さな字で表題が印刷されていた。
「えっと…」
「こっちが、地元の郷土研究家が自費出版した、ここらへんの伝承をまとめた本ね」
バインダーの上に置かれた冊子を取る。表紙すぐのページを開いて、勇士に示した。
「コレかな?」
目次のページに、ひとつだけ「妖刀『白露』」と一項目だけあった。前後のページを示す数字から見て、三ページも無いような記事のようだ。
「コレだけっすか」
「あと、こっちは…」
小冊子をどけたことでバインダーのタイトルが分かった。「清隆大学博物館・企画展リーフレット」とある。
閉架係が表紙をどかすようにページを切ると、そこに一枚のチラシがクリアファイルに挟まれて保存されていた。
「『在京の陶芸家展』? ええと?」
話が分からなくて目を点にして、バインダーを持ってきてくれた彼の顔を見上げた。
「このバインダーに、博物館がこれまでにやった企画展のチラシが保存されてるの。記録によると、二回ほど日本刀展を行ったみたいで、そのチラシに名前が挙がっているみたいなんだよね」
「じゃあ、それがドコに挟まっているかは…」
「うん。いちおう時代が古い順に並んでいるはずなんだけど、さすがにそこまでは分からないね」
「はあ」
その途方もない作業量が予想される事態に、力の抜けた返事をしてバインダーを受け取ろうとする。しかし、それを閉架係が遮った。
「ごめん。こっちのバインダーは、カウンター閲覧限定なんだ。もう手に入らない資料しか挟まってないんで」
「げ。こ、こっちは?」
「そっちは禁帯出なだけだから、図書室の中で読む分には問題はないよ」
「ちょ、ちょっと、このままでいいですか?」
カウンターの二人に断って、勇士は自習用のテーブルに着いている二人のところへ行った。
「あ、ユウジくん。なんかあった?」
パラパラと古今東西の神剣や魔剣を掲載している本をめくっていた修也が顔をあげた。
「それが、ちょっといいか?」
「?」
勇士が手招きもまじえてカウンターへ誘った。その煮え切らない態度を訝しんだ修也と、ただならぬ気配を感じ取った咲弥が、テーブルの上に広げた荷物をそのままに、勇士の後についてきた。
「すんません。もう一度、説明してもらってもいいっすか」
バインダーのところで律義に待っていた閉架係に再説明を求めても、嫌な顔一つもしないで、むしろ微笑んだまま勇士に説明してくれたことを、もう一度口にしてくれた。
「ふむ」
話を聞いた咲弥が思案顔になった。
「じゃあ、二人でバインダーを調べてくれる? 私はこっちの方を見てみるから」
白亜の冊子を手に取る咲弥。それに対して二人は異論があろうはずがない。なにせ相手は女子とはいえ先輩であるし、なにより部長だ。
「じゃあ、はじめっか」
なにやら悲壮な顔になった修也に対し、勇士は努めて明るく声をかけた。
「あー、足が張った」
立ったままで図書室の閉架時間までバインダーと向き合っていた勇士は、小野家の居間に置いてあるソファに転がっていた。
「コラ、おにいちゃん」
かわいいエプロンをつけた明日奈が、オタマを持ったままやってきた。
「食べた後にすぐ横になると、牛になりますよ」
時計は進んで午後八時。小野家では夕食がすんで、ホッとする時間帯である。
「なんだよ、ソレ」
これから洗い物をするのでエプロンをするのは分かる。手にしたオタマの意味が分からなかった。
「これ?」
新妻がお味噌汁の味見に使うような可愛いヤツではなく、ラーメン店で豚骨と一緒に煮られているような無骨な柄をブンと振り回す。
「武器。おにいちゃんが、アスナのゆーこと聞かなかったら、コレでポコンってやるの」
「オイオイ、やめてくれよ」
いちおう金属製であるから、中学生の明日奈が振り回しても頭にコブができるぐらいの威力はある。そんな目にあいたくない勇士は、慌ててソファに座りなおした。
それでも足は長手方向へと伸ばし、ついでにマッサージも兼ねて手でさすってやった。
「なんかあったの?」
「ん? まあな」
カウンターで立ちっぱなしで、めくってもめくってもページが尽きないバインダーと格闘するのは、肉体的にも精神的にも、くるものがあった。
しかも、そのアテがはっきりしないというオマケつきだ。
それでも今日は一枚の記事に辿り着くことができた。まだ年号が昭和だった頃に開かれた企画展で、所蔵する日本刀だけでなく、火縄銃まで含めた武器展のチラシであった。
チラシの裏に掲載されていたのは、小さな写真と記事が三行だけという、労力に見合わない成果であったが。
残りは明日の予定である。
(変なこと言いださなきゃよかった)
言い出しっぺの勇士が、いまさら逃げ出すこともできまい。まさに後悔先に立たず、である。
「足、いたいの?」
心配げに明日奈が顔を覗いてきた。
「いや、ちょっと疲れただけ…」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「はあい」
動かした方が筋肉内の乳酸が散って痛みも収まるかと、勇士は立ち上がった。時計を確認したら、そろそろキララの散歩の時間だったということもある。
朝の散歩とエサやりは明日奈の担当で、夕方の散歩は勇士の担当である。
リードを手に玄関に向かう勇士を見て、明日奈は洗い物に戻るようだ。
「はあい」
もう一度鳴らされたチャイムに答えながら、勇士は玄関のドアを開いた。
「オバサン」
そこには大人の女性が立っていた。幼馴染の伯母、神谷月子である。
とても疲れた顔をしていた。
「夜分遅くにごめんね」
「どうしたんですか?」
半ば訪問の理由を察しながら、勇士は訊いた。
「ユウジくんの家に、キョウコ来てない?」
「来てないっすよ。またですか?」
勇士の幼馴染である吉田恭子には徘徊癖があった。
ただでさえ精神的におかしくなった姪と、一緒にいるだけでも苦労があるはずである。それに加えての徘徊癖である。まさか二一世紀の今日、人間を鎖で柱にでも繋いでおけと言うわけにもいくまい。
恭子の伯母、月子だって人間である。睡眠や食事、排泄の時間だって必要だし、それに休みたい時間だってあるだろう。四六時中目を離すな、なんてことを勇士は口にする気はなかった。
「ええ、ごめんなさい」
本当に泣きそうな表情を作りながら月子は、自分の年齢の半分も行っていない勇士に頭を下げた。
「ちょっと目を離した隙に…」
「構いませんよ」
努めて明るい笑顔を作りながら勇士はこたえた。
「そろそろキララの散歩に出かけなきゃいけない時間だし」
まだ小さな体の、しかも犬のくせに空気を読んだのか、キララが散歩を催促する鳴き声を上げた。
「そのついでにオレも二、三か所見てみますよ」
「ホント、ごめんなさいね。じゃあ私は向こうを探してみるから」
月子は、何度も頭を下げながら、バス停の方へ向かい始めた。
その頼りなさげな背中を見送りつつ、勇士は定位置の玄関に置きっぱなしになっているキララのエチケットセットを手に取った。
いまだに恭子へは友情を感じている身としては、放っておくことはできないだろう。少しでも彼女の症状が改善することを祈りつつ、面倒を見ている家族へこうして協力することが、彼ができる精一杯の事であった。
散歩へ行ける嬉しさに、体当たりして来るキララにリードをつける。
尻のポケットにスマートフォンを忘れずにネジこみ、エチケットセットを確認した勇士は散歩へ出発した。
犬族のほとんどがそうであるように、キララも散歩が大好きであった。
小さいくせにグイグイと勇士を引きずる勢いで、自分のお気に入りのコースを歩き出した。
「キララさあ」
勇士が話しかけると、人語を理解しているとばかりに、肩越しに振り返ってみせる。
「オレが生き返られたのは、オマエのおかげなんだよな?」
それがナニとばかりに鼻息を一つ吹いた。
しばし無言で、飼い主と飼い犬は見つめあった。
「ありがとな」
「あおん」
分かっているのかいないのか、小さく喜ぶような鳴き声が返ってきた。
キララの足が、公園へと向いた。
毎回、必ず通るわけでは無いのだが、玄関での会話を覚えていたとばかりのコース選択である。
この近所にある公園には、思い出がいっぱいある。その中に、幼馴染である恭子と遊んだ記憶もあった。
いつだったか夕方に彼女が行方不明になった時も、この公園で見つけたことがあった。
公園と言っても滑り台があるだけの小さな物ではない。結構広い池には噴水があるような本格的な物である。健康志向が強い利用者が、園内でランニングができるほどなのだ。
複数の木立に視界を遮られている園内の緩いカーブを、キララを先頭に進む。いま向かっているのは、ブランコなどが設置されている遊具コーナーの方角だ。
すっかり夜の暗闇に沈んだ砂場に、一人分の影が立っていた。細かな顔や服装などは分からぬが、身長などの体格で判断するに、どうやら探していた人物のようだ。
もしかしたら人間の何倍もあるという嗅覚で、公園に来た時点でキララは察知していたのかもしれない。
「よーう」
ちょっと離れたところから、気安く声をかけた。
それまで空を見上げていたらしい彼女の首がこちらを向いた。
「アら。誰かと思ッたらユウジじゃない」
暗闇に沈んでいるために表情は読み取りにくいが、どうやら微笑んだようだ。
朝と同じような服装である。もしかしなくても着替えてはいないのであろう。やはり髪はボサボサで、手には何か持っているようだ。
「こんなトコで、なにしてんだ?」
相手の手の中の物に気をつけながら、ユウジは彼女へ近づいた。
「ほシを」
「?」
恭子は振り仰いだ。
「ホしヲ、見ていマしたの」
「そっかー」
付き合うように勇士も空を見上げた。
夜空は晴れ上がっているようだ。だが、そこは東京の空である。見える星といっても、一等星と、あとネオンサインに消されなかった幾ばくかのものが、チョボチョボと弱く瞬いているだけであった。
手の中のリードが左右へ引っ張られた。どうやらキララは場所を移動したくて、あちこちへ動いては諦めるという動作をしているようだ。
「こうシていますと、昨日を思イ出しますわ」
「昨日?」
「ユウジが誘ってくレましたのヨ。ココにいようって」
「あ、あれは…」
勇士の脳裏に過去の思い出が浮かび上がってきた。
幼稚園が終わった後、二人はこの砂場で遊ぶ約束をすることが多かった。恭子が持って来る小さなスコップで山を作ったり、勇士が持参する小さなバケツを使って近くの水道から水を汲んで、小さな池を作ったりした。
そうして世界が夕闇のオレンジ色になったころ、行政の防災無線が定時で鳴らす『新世界より』が聞こえてきたら終わりの合図であった。道具を片付けて「バイバイまた明日ね」とお別れしていた。
ある日、いつもと同じように遊んでいた恭子が『新世界より』が聞こえてきた途端に泣き出した。
「…どうしたの?」
突然泣き出したトモダチに動揺しながら勇士は訊いた。
「オウチに帰りたくないの」
大粒の涙を拭いもせずに恭子は泣き続けた。
「なんで?」
「パパがブツから」
「ブツの? いい子にしてても?」
「うん」
まだ家庭内暴力という言葉など知らない頃だった。それでも勇士には、恭子の家庭が自分の家庭とは違う雰囲気なのは分かっていた。
「帰りたくない」
そう言って再び泣き出す恭子。いつの間にか公園内は、子供の姿がまばらになっていた。
ここらへんに住む子供は『新世界より』が聞こえてきたら家に帰るように指導されているのだ。
助けを求めようにも見知った顔もなく、二人は砂場で立ちすくんでいた。
「そっか。じゃあココにいようか」
園児が思いつけることなんか、たかが知れている。勇士にしたって、当時まだ赤ちゃんだった明日奈に両親がかかりきりで、なんだか家庭で孤独を感じることがあった時期であった。
「え?」
泣くのをやめてキョトンとする恭子。彼女の手を取って、明るく勇士は告げた。
「帰りたくないなら、ココにいようよ」
後の顛末は大したことではなかった。日が暮れて心細くなり、二人並んで水銀灯の脇にあるベンチへしょぼくれて座っていたところを、ほぼ同時に両家の母親に発見され強制的に別れさせられて帰宅することになった。
ただ勇士の家では、親が明日奈にかかりきりだったことを反省してくれて、以前と待遇が変わったこと。そして恭子の家ではそれとは正反対の出来事が起きたであろうことが察せられたことであった。
その翌々日、一日だけ幼稚園を休んだ恭子に久しぶりに会うと、彼女の顔にあきらかに殴られてできたアザができていたのである。
「懐かしいな。覚えていたのか」
勇士が今は夜に紛れている彼女の顔に、当時の顔を重ねるようにして思い出しながら言った。
「もちロん覚えてイますわ。昨日ノことデスもの」
どうやら微笑んだようだ。
「今モ昔も、味方になっテくれるのはユウジだけデースものね。あラ?」
恭子が下を向いた。いつの間にか動きを止めたキララが、恭子の持っている物に興味が出たようで、一生懸命彼女の右手付近を嗅いでいた。
「あ、すまんな」
キララが恭子に危害を加える心配よりも、恭子がキララに危害を加える心配をしながら、勇士はリードを引っ張った。
「そンなに気ニなるのコレが? このニクは?」
そうやって持っていた結構太い円筒形の物を差し上げる。大人の腕よりも太く、太ももぐらいあるように見える。
もしあれが金属製でなくても、殴られて無事で済むはずがないと確信できる存在感があった。
遠くの街灯の明かりが恭子の右手に届いた。
「だ…」
握られている物体が、想像の範囲を超えていたあまりに、勇士は息を呑んだ。
「ダイコン?」
「えエ。夜道ハ女性に危険ですカら」
途中から折れているのがはっきり分かるその物体は、まごうことなくオデンやタクワン、サラダなどに用いられるダイコンであった。
あの固さというか柔らかさならば、人を殴っても致命傷にはなりにくいと思われた。もし勢いよく殴りつけても、今そうであるように途中で折れて衝撃が緩和されるであろうからだ。
折れているということは、すでに一回ぐらいは使用した後なのかも知れない。それが痴漢相手ならばいいが、通りすがりの幼児だとしたら問題だ。すでにそういった事件を起こして、警察の世話になったことがあるのだ。
「ま、まあ。夜道は危険だよな」
再びキララがアチコチにリードを引っ張り始めた。散歩の続きへの催促であろう。
「送っていこうか?」
「まア」
勇士の提案に、恭子の首が機械的に傾けられた。目に見えて表情が柔らかくなったことから、それが嬉しいという表現だということが分かった。
「ユウジはイつも、ワタシの味方ヲしてくれルのですね」
「トモダチだろ。見捨てるわけないじゃないか」
「そうでシた」
キララを公園の出口へ誘導しながら歩き出す。と、不思議そうに恭子が訪ねてきた。
「そっちデは、アりまセんよ」
「え…」
現在恭子が厄介になっている月子の家は、大雑把に言って西方向。いま足を向けた方向だ。対してあの頃住んでいた彼女の家は北方向であった。
「ええと」
咄嗟に頭を回転させながら勇士は言った。
「遠回りしちゃダメか?」
「あア」
訝しんだ声から一転して、弾んだ声に戻った。
「とおまワり。納得行きました」
そのまま折れたダイコンを右手に持った恭子と並んで歩き出す。日のある時間ならば遠慮したい絵柄であった。
いつもと違う散歩コースに、キララが少しだけ不安げになり、先程までグイグイ引っ張っていた様子は鳴りを潜めていた。おかげで恭子のペースに合わせやすくなった。
月明りも星明りも目立たない東京である。街灯が舗装された道を照らしていた。
住宅地であるここら辺では、残業帰りの人影ぐらいしか見ることはできなかった。
通りがかった電柱の根元を熱心にキララが嗅ぎ出したので、二人の足も止まった。
街灯は隣の電柱についているので、ここには夕闇のような明るさしか届いてこない。
その薄暗さを通して、勇士は恭子を見た。
キララを見ているせいで、恭子は俯き加減になっていた。
その横顔は、彼女の年齢よりもはるかに上の世代を感じさせる、とても落ち着いたものだった。白い肌に筋の通った鼻梁。こうして静かに立っていれば、美人で通る女性であった。
もしも、と勇士は考えてみた。
もしも恭子が普通の女の子だったなら、二人はどうなっていたのだろうか。
こうなる前の恭子は、成績も良い方だった。いま勇士が通っている清隆学園高等部へ進学することも可能であったろう。
幼馴染の二人。そう悪い話でなかったかもしれない。
そんなことを思っていると、ポケットのスマートフォンが鳴り始めた。
「お、ちょっと失礼」
リードを握る右手で取り出し、左手一本で画面を確認する。明日奈からの着信のようだ。
「おー、どうした?」
「おにいちゃん、ドコにいるの?」
「ドコって…」
周囲を見回し、明日奈に分かりやすそうなランドマークを探す。幸い小野家で利用する郵便局までほど近い場所であった。
「郵便局の近くだけど」
「なんでそんなトコまで…」
「いや、キョウコと公園で会ってな。送っていくトコだ」
「キョウコちゃんと?」
二歳しか違わない兄妹である。兄の幼馴染は妹の幼馴染と同義語である。
「そうだ、伯母さんに連絡しといてくれよ。これから送っていくからって」
「もう。ワタシ、いっつもそんな役ばっかり」
プンプンと自分の感情を、電話の向こうで擬音を使用して表現する妹。
「ダレ?」
親し気に電話しているのが気になったのか、ダイコンを持った恭子が訊いてきた。
「アスナだよ」
そのまま愚痴のような物を垂れ流し始めた明日奈の方は放っておいて、勇士は恭子に振り返った。
「そレは、どのようナ方?」
「妹の明日奈だよ」
勇士は笑顔を作り直した。しかし幼いころ三人で一緒に遊んだはずの恭子は、首を捻るばかりであった。
「ユウジに妹なんテイたかしら」
「いましたし、いますし」
いまだギャンギャンと電話の向こうで喋っている明日奈の声を聴き流しながら、勇士は困ったように訊いた。
「覚えてない?」
「ユウジの妹?」
首を機械的に倒した。どうやら常人ならば首を捻るという動作をしたようだ。
「どうだったかしラ」
そのまま瞳孔が開いて、無限大の彼方を恭子は見た。おそらく彼女の記憶野を検索しているのだろう。そうであってほしい。なにせ美人だけあって、焦点のあっていない表情が怖いのだ。すっかり日が沈んで暗くなった町で向かい合っているというシチュエーションも合わさって、ホラー映画の予告編のようでもある。
「あ…」
なにか気が付いたように恭子は背をのばした。
「あアああ!」
ダイコンを放り出した恭子は、両手で頭を抱え込んだ。そのまま怒鳴るでなし、悲鳴を上げるでなし、ただ淡々と声を漏らし続ける。
「や、ヤめて、ぱパ…」
気が付くと彼女の頬に二筋の液体が流れ始めていた。
「やめて…」
脱力した声を漏らしつつ、恭子は涙を流し続けた。
静かに恭子が、ここにはいない誰かに懇願を始めた。その様子を見て、勇士はしまったと反省した。
(思い出そうとして、昔の記憶に繋がっちゃったのか?)
少しずつ背中を丸め始める恭子を、正面から受け止めるようにして、勇士は彼女に胸を貸した。
「わ、悪かった。オレが悪かった」
これが刀剣研究部部長の咲弥ならば別の感想が生まれるのかもしれないが、相手は恭子であった。何日も風呂どころかシャワーも浴びていない様子で、とても女の子の香りなんていう臭いではなかった。
それでも少女らしい柔らかさにドギマギしていると、遠くから声をかけられた。
「キョウコちゃん」
振り返ると、だいぶ疲れた顔をした女性が立っていた。恭子の伯母である月子であった。
「どうしたの? キョウコちゃん」
勇士に支えられる恭子を見て、月子にも動揺が伝染したようだった。
「うえエ、うえええ」
口で喋っているような不自然な声。それが今の恭子の泣き声であった。
「すんません。オレが余計な事を言ったばかりに」
どうしていいか分からず、とりあえず彼女の背中をさすってやる勇士。先ほどまで一緒に歩いていた人間の異常に、心配そうな顔をして見上げ、鼻をピスピス鳴らすキララ。
「いいのよ、いいのよ」
勇士から恭子を受け取り、優しく抱擁する月子。幼子をあやすように背中へ両腕を回した。
「それで?」
姪に向けるのとはまったく違う声色で、月子が勇士を睨んだ。
「すんません。妹のことを話していたら…」
「そう。昔のことを思い出したのね。よしよし」
「うえええええ」
「あの。その」
泣いた原因は勇士にあるので、素直に頭を下げた。
「ほんと、すんませんでした」
「いいのよ。いつもユウジくんには、お世話になっているもの」
それでも少しは批難するような目になっていた。
「さ、帰りましょ」
まるで幼児の様に両手を目に当てて泣き続ける恭子の背を、月子がそっと押して歩き出した。
「ユウジくんも、ありがとうね」
その言葉に最敬礼を返す勇士だった。
散歩から帰って、風呂に入り、自分のベッドに転がる。
「今日は色々あったな」
見る気なしに天井の模様へ視線を彷徨わせた。
(だが…)と勇士は思う(キョウコのことも、いつも通りっちゃあいつもどおりだし、クラスでも部活でも異常は無いし)
寝返りを打って腹ばいになり、枕元のデジタル時計へ視線を移した。
「本当に、オレ。一週間で死ぬんだろうか?」
ポツリと漏れた自分のセリフに背筋へ震えがきた。
目を閉じれば、霧の中で会った老人の顔が浮かんできた。
《一週間の間、死なないように努力するのじゃぞ》
幻聴だろうか、再び声が聞こえてきた気がした。
「わかったよ、神さま。おやすみなさい」
あと六日。そう自分に言い聞かせた勇士は、部屋の電気を消した。