腹の虫 -ハラのムシ-
最も身近な相手とは、つまりは最も殴り辛い相手という事だ。
自分の腹部から妙な声が聞こえ始めたのは、小学校高学年の頃、図書室でひとり、本を読んでいた時の事だった。
巷で噂のファンタジー小説が気になった私は、図書室にそれが置いてある事を知ったその日の昼休み、早速手に取った件の本を読み漁っていたのだ。
それなりの厚さはあったのだが、文章自体は小難しいものでもなかったので、すらすらと読み進める事が出来た。首を傾げたくなるような回りくどさもなく、辞書を引かねばわからぬような単語もなく。私を含めた子供でも読めるような内容の本だった。
だが、読みやすさと面白さは必ずしも一致しない。王道もお約束と言い換えてしまえるように、この小説は分かりやす過ぎたのだ。仲間と出会い、困難を共にし、強敵に打ち勝つ。意外性がなく、刺激が足りない。先の展開が易々と想像出来てしまう。
何かと話題に上がる作品であったが、私からしたらこの本は――
「つまんないね、この本」
私が言おうとした言葉は、別の誰かの声によって遮られた。驚いて周囲を見渡してみるも、正面はおろか背後にも、まして机や椅子の下にも誰もいなかった。困惑する私へと、同じ声が問う。
「どこから声が聞こえるの? って思ってるでしょ」
またも私の思考を見透かしたように、そんな言葉が響く。
腹の中から。
震える左手で、自分のへそ付近をさすってみる。異物感はない。しかし、返事はあった。
「お、気付いたね。そうそう、わたしはその辺にいるの」
声が答えた。同じ声色で、腹に響く声で。沿えた左手が僅かな震えを感じ取り、強張る。
当の私は声が出せない。ドラマにしろ小説にしろ、恐怖には悲鳴が伴う場合が多いが、それは演出に過ぎないのだと理解した。
人は本当に恐怖すると、喉どころか呼吸すら止まる。
今の私のように。
「びっくりするのもわかるけどさぁ、息くらいは吸おうよ。苦しいでしょ?」
腹の内側を震わせながら、そんな言葉が投げかけられる。
誰のせいで。そう言いたかったが、息も吸えない現状では、酸欠の金魚のように口をぱくつかせる事しか出来ない。そんな私をどう見ているのか知らないが、声は大げさに溜息をつく。
「深呼吸だよ、深呼吸。ほら息を吸ってー、吐いてー」
ラジオ体操みたいな指示を出してきた。でも今の私がすべき事、必要な事を促すものであったから、その声に従って呼吸をする。不思議なもので、さっきまで自力で出来なかった筈の行為なのに、誰かの合図に合わせればすんなりと出来てしまえる。その従った誰かが自分の腹の中にいるというのは、とても信じられない事ではあるのだが。
「どう? 落ち着いた?」
深呼吸を繰り返して、ようやく呼吸のリズムが整った頃、声はそう問いかけた。
しかし感謝をしていいものか。そもそも返事をしていいものか。この声が本当に私の腹の中から聞こえているのかも定かじゃないし、もしかするとこれが幻聴である可能性だって捨てきれない。と言うかそっちの方がずっと説得力がある。自分の腹から声が聞こえるなんて、そんな事、鼻で笑われるのが精々だ。
だから、私は声へと問うた。感謝でもなければ返事でもない、存在を確かめる為の問いを。
「あなたは……何?」
「さぁ? よくわかんないんだよね」
自らが何者かもわかっていないこの声の主を、諺になぞらえて、私は『腹の虫』と称する事にした。
『腹の虫』は私の状態を正確に認識出来るらしい。私が何を見聞きしているのかとか、感じているのかまで言い当ててしまえる。それについて「何故」と問うても、やはり返ってくる答えは「わかんない」だった。
得体の知れない存在が私の腹の中にいる。そうは思ってみても、実感は出来ない。重みや痛み、腫れがある訳でもない。ただ声だけが聞こえる。私を内側から震わせる、落ち着いた声色。
本来ならば気味悪がる筈の事態なのだが、私はそうしなかった。理由は何とも能天気な、「話し相手になるから」。
本が好きだという子はそれなりにいるけれど、私とはまったく馬が合わない。読むジャンルが違うし、読書にかける時間も異なる。おすすめの本を勧めてみた事もあったが、背表紙の厚みと裏表紙のあらすじだけ見て「ページ数凄そうだし、難しそうだから」という理由で、冒頭すら読まずに断られた。
だけど、『腹の虫』は違う。私とは馬が合う。私が開いている本を一緒になって読んでいるらしく、読了後に意見交換が出来る。大体は同じ意見になるのだが、それでも私にとって『腹の虫』は最も身近で、そして対等な存在だった。
その関係に変化が訪れるのは、小学校を卒業し、地元の中学校に入学してからだった。
小学校にはなかった"部活動"というものがあり、私は文芸部に所属する事になった。元々、私には部活動に入る気などなかったのだが、『腹の虫』が熱心に勧めた事もあって、渋々入部を決めたのだ。
だが、そこで出会った人たちは、小学生時代に出会ったような自称本好きの子とは訳が違った。ジャンルに区別なく様々な本を読む。その感想や意見を個人毎に纏め上げ、部内で語り合う。それぞれが異なる視点で読み解き、独自の解釈を披露する。私と『腹の虫』だけでは到底及ばない程に幅広い見方、感じ方があるのだと思い知らされた。
私は文芸部の活動に夢中になった。部員で同じ本を読み、別々の考えをぶつけ合う。理解出来る事、共感出来ない事。思わぬ見落としに、とんでもなく突飛な解釈も。似た者である『腹の虫』とでは出し得ない多様性が毎度のように飛び出してくる。
私は人付き合いが苦手な方だと思っていたが、共通の話題があれば、自然と関係を築けてしまえるようだ。本についてばかり語っていたが、次第にそれ以外の、学校の事から流行のあれこれまで、部室以外でも話す機会が増えていった。
私に初めて友達が出来た。私の生活は途端に慌ただしく、しかし華やかになり、活気付いてゆく。そしてその分だけ『腹の虫』と会話する事も少なくなっていった。
そんな日々から暫く経ち、もうすぐ中学に入学して初の長期連休という頃の、文芸部部室。全開の窓から生暖かい風が吹き込み、髪と本のページを乱暴に撫でつけてゆく中、私は怒鳴り声をあげてしまった。
そんな事をしたくなかったのに。
なのに、『腹の虫』のせいで、あろう事か友達の前で、「いいから黙ってよ!」と、部室内に響き渡らせてしまったのだ。
いつも通り、本の内容も交えながらの雑談に耽っていた。その最中、『腹の虫』は初めて、友達の言葉に明確な嫌悪感を露にしたのだ。
そして、その思いを口に出す。言葉として、私の腹の中で。
くどくどと、ぐちぐちと。話題が移り変わっても、「静かにして」の合図として共有している筈の"右脇腹をつねる"をしてもなお、ずぅっと騒ぎ続けた。
私以外に『腹の虫』の声は聞こえない。だから、目の前の友達と会話をしながら、しかしずっと私の内側で、その友達を非難する声が延々と吐かれ続けるのだ。耳を塞いだって意味がない。
私は今更になって初めて、『腹の虫』を強制的に黙らせる手段がないという事実に気が付いた。
友達が話す。
私が返答する。
『腹の虫』が愚痴る。
友達が話す。
私が返答する。
『腹の虫』が愚図る。
友達が話す。
私は返答出来ない。
『腹の虫』がぼやく。
友達が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
私は一層強く右脇腹をつねる。
『腹の虫』は収まらない。
声が響く。
腹の中で。
私の中で。
耳だけではなく、骨も臓器も震わせて。
声が聞こえる。
声が消えない。
声が黙らない。
そうして私は怒鳴り散らした。
机の上に右拳を力一杯叩き付けた。飲みかけのペットボトルが浮き上がって倒れる。無視出来ない程の大きな音が部室に響き、その音が消えるのと一緒になって、静寂が空間を満たした。
湿気を含んだ不快な風も今ばかりは収まり、しかし蝉の音は消えず、だが友達の声も、『腹の虫』の声も鳴りを潜め、私の全身を静けさが押しつぶした。
友達の表情が視界に映る。驚愕と恐怖と、その裏に沸き起こる困惑と怒り。音を立てて吹き零れる一歩前の感情たち。
弁解しなくては。
でもどうやって?
叫んでしまった。
意味の通る言葉を。
黙れ、と。
私は自分の学生鞄を掴み上げ、大急ぎで部室を飛び出した。席を立つ時に「ごめんなさい」と言ったつもりだったけれど、今の私ではそんな言葉すら言えていなかったかもしれない。
そう思っても、引き返す事は出来なかった。吐き気を催す程に息を荒げながら、何度も転びそうになりながら、私は全速力で帰宅し、そして二階の自室へと閉じこもった。
そこからは罵声しか吐いていない。
相手は勿論『腹の虫』だ。
こいつさえいなければ、私はあんな真似をせずに済んだ筈なのに。私が"黙れ"と合図を送ったのに、こいつが無視さえしなければ。
十余年内、一度として抱いた事のない程の強烈な憎悪が向けられる。
私の腹の中へと向かって。
だが、当の『腹の虫』はまったく悪びれない。「思った事を口にして何が悪いの」だとか、「そもそもどうしてあなたの指示に私が従わなくちゃならないの」だとか。
私の憎悪が初めてならば、こいつのこんな言い草もまた初めてだった。何を生意気な事を抜かしてやがるのだ、こいつは。人様の腹の中に勝手に居座っておきながら、「指示に従う必要がない」だと? 完全に馬鹿にしている。許せない。
そう考えて、私はこいつがどうしてこんな強気でいられるのかに気が付いた。
口を塞げないのと同じだ。
こいつを痛めつける事が出来ない。
私は、自分の腹の中にいるこいつを攻撃する事が出来ないのだ。
殴りつけても自分も痛い。毒物を飲んでも自分に毒。
こいつは、私によって守られている。
そもそもとして、こいつは何だ? 何を餌にして生きている? どうして私の感覚を共有出来る? こいつは私の腹の中で、一体何をして暮らしている?
「あんた、一体何なの?」
私は問うた。『腹の虫』に。かつて、初めて存在を知った時と同じような言葉を。
相手は答える。含み笑いを隠す事なく、初めて会話した時とはまるで違う口調で。
「私はあなたの『腹の虫』、でしょ? いつも一緒。これまでも、これからも……ねぇ?」
拭い難い、爆発に似た苛烈な嫌悪感が私を満たした。
その勢いに突き動かされるまま、自室のドアを開け放ち、廊下を走り、階段を駆け下りて、リビング横の台所へと到達した。そこからシンク下を開き、扉裏のラックから、ステンレス製の包丁を取り出す。
「ちょっと、待っ――」
奴が言い切るよりも先に、私は自分の腹へと、包丁を突き刺した。
激痛。
叫び声すらも上げられない。
腹部が焼かれるように熱いのに、肉体の芯は凍えるように寒く感じる。
突き刺さった筈の包丁は、身体が痛みに跳ねた事で、傷口から引き抜かれた。下腹部へと暖かな液体が浸っていき、床には瑞々しい音を立てて何かが飛び散っていく。
足から力が抜け、膝から崩れ落ちる。床の上の水たまりがびちゃりと波打ち、私の膝から下を濡らす。がくがくと震える全身を感じながらも、しかし意識は消えない。気付けば痛みはなくなっていた。寒気が私のすべてを覆っている。視界が隅からじんわりと消えていく。
ふと、腹部にもぞもぞとした感覚があった。震えとは違う、別の何かによる動き。霞みかけた視界をそちらへと向けると、丁度傷口から、ずるりと何かが床へと落ちた。
床一面の赤い水たまりの中に落ちたそれは、丸々と太い数珠状の身体をうねらせる、一匹の巨大な白く細長い虫だった。
視界が真っ黒に染まる。
もう何も映らない、何も聞こえない。
何も感じない。
私である事すらも。
意識が消えるまでの僅かな間に思った事。それは、この孤独な静寂は、かつて図書室でひとり本を読んでいた時と同じもの、という事だった。
取り敢えず何か書かなくてはと思い立ち、掌編にするつもりで書いてみました。
本当はもっと描写したい事とかあったんだけど、これ以上長ったらしくするもの面倒に思えたから、これくらいにしておく。
同じ題名が使えないとは予想外。おのれ。
他の同名作品と何か被ったりしてるのだろうか。