禊ぞ夏の 印なりける Not a sign of summer left But the sacred bathing there.
風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは 禊ぞ夏の 印なりける
風をいたみ 岩打つ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな
たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
『かぜそ』『かぜお』『たち』
藤原 家隆、源 重之、在原 行平…
舟河原 癒綴…
『感じがいい』
サングラスに帽子にヘッドフォン…
『たち』『かぜお』……
『感じ』……
私は眞理に電話をかけた。
「もしもし、眞理?」
「あ、風夏。何?」
「1つ質問があるんだけど、“感じ”って、何?」
私は答えを聞いて、ある仮説が生まれた。
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『吉野川いにしへ会』3階でやってます。
毎週月曜、午前9時から午後5時まで。見学自由。競技かるたに興味のある方、是非足を運んでください。
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私はその看板を横目に見ながら、通り過ぎ、エレベーターに乗った。3階のボタンを押す。
広い和室。そこに1人かるたを並べて素振りをしている人物が1人。
その人物は、私が中に入ったことに気づいたようで、顔を上げる。
「え、禊さん!?」
そこにいたのは、夏祭りで眞理が話をしていた人物、橘 加勢雄だった。
「やっぱり、舟河原さんって、橘くんだったのね。」
「はは…」
「ちょっと吉野川まで行かない?もう終わったんでしょ?」
「うん」
「4年前の夏のこと、覚えてる?」
サングラスと帽子を着け、すっかり私が知ってる舟河原 癒綴に変り身した橘が言った。
「4年前?」
「うん。実はボク、以前東京にいたんだ。」
「え?」私も、こっちに来る前は東京にいたのだ。
「覚えてない?都進英成予備校。」
都進英成…
「あ、もしかして!風立くん?」
「そうだよ。両親が離婚して母の実家に戻ったんだ。」
「そうなんだ。風立 加勢雄くん。“かぜ”っていうのが2つも名前に入ってて、よくからかわれてたね。」
「うん。そういえば、どうしてボクが舟河原だって気づいたんだい?」
「えっとね。駅で会ったときに、加勢雄くん、『たち』の下の句言ったでしょ?」
「あぁ、うん。ボクの好きな歌だから、つい。」
「そして、花火大会のときに『かぜお』が好きって言った。眞理から聞いたんだけど、競技かるたで、自分の名前が入ってる歌を得意札にしている人が多いって聞いたの。眞理も苗字が浅路だから、『あさじ』は取られたことが無いって言ってたし。だから、橘 加勢雄くんかなって。」
「え、それだけ?」
「まだあるよ。あのとき駅で“感じ”がいいから聞こえた。って言ったよね。眞理の話だと、かるたでは、“感じ”って、音に対する反応とかいう意味で使われるそうだね。“感じ”がいい選手って、そうそういない。橘くんも“感じ”がいい天才タイプらしいから、可能性はあるなって。」
「それほどいいわけじゃ無いよ。『わび』とかだと、反応は鈍いし。」
「あとはね、舟河原として会ってるときに眞理の名前を知っていたからかな。」
「あぁ、そういうことか。」
「もしかして、橘くんが入ってすぐに強くなったのは、かるた会に入ったからなんじゃないかと思って調べてみたら、五條では月曜日にやってるらしいし、月曜日にいつも休んでるのはそのためかなって。」
「あ〜、実はボク、あそこでバイトしてるんだ。初心者に対してルールとか教えたり、上級者の相手したり。」
「え、そっち!?」
「うん。小さい時からおじいちゃんに教わってたからね。実はあそこの指導責任者って、おじいちゃんなんだ。橘 加勢路っていうんだけど、母方の祖父なんだ。」
「へぇ。そういえば、どうしてサングラスや帽子をしているの?ヘッドフォンは、“感じ”のいい人が喧騒で“感じ”が落ちるのを防ぐために耳栓とかイヤフォンとかをつけることがあるって、眞理に聞いたけど。」
「ボクね、目の病気なんだ。」
「え?」
「なんか、すごく珍しい病気みたいで、治療法がまだ無いみたい。紫外線受けるとまずいから、いつも帽子とサングラスをかけてるんだ。でも、いつかは視力を失うらしい。」
「え、ってことはかるたは?」
「うん。この“感じ”頼りの強さは一時的かな。先生が最善を尽くしてくれるそうだから、視力の低下を抑えられるかもしれないけど、望みは薄いと思う。だけど、お母さんが全く見えないのと、うっすらとでも見えるのとは全く違うって言って、生活を切り詰めてボクの治療費を稼ごうとしてくれてるんだ。だから、ボクもかるたを頑張るんだ。お母さんたちの気持ちを無駄にはできない。」
「もしかして、急に強くなったって、実は…」
「うん。前のところで、“感じ”が良過ぎって妬まれたことがあるんだ。そして嫌がらせを何度も。だからこっちでは、最初はお手つきをしない正確さを極めるために力をセーブしていたけど、そうもいかなくなった。だから、今まで通りの“感じ”の良さに頼った闘い方に切り替えたんだ。でも、前よりもお手つきが減ったよ。」
「ふうん。」
「あ、ごめんね。ボクの話ばっかりで。」
「いいよ。あ、そういえば、なんで舟河原 癒綴なんて名乗っていたの?」
「あ、その…」
加勢雄の耳がみるみる赤くなっていく。え、まさか!?
「は、恥ずかしいから…」
「す、好きな人に、こんな目の病気に罹ってるなんて知られたくなかったから…」
「え!」消え入るような声、でもちゃんと私の耳に届いた。
加勢雄は、息を深く吐き、そして一気に温かい空気を吸い込んだ。
「す、好きです!ボク、風夏のことが好き…です…」
「え、えぇぇぇ!」
私は気を落ち着かすため、深呼吸をする。
「か、加勢雄が好きなのって、眞理じゃないの!?」
だめだ。まだ動揺してる。
「え、なんでボクが浅路さんを?」
「だって、夏祭りでずっと眞理のこと見てたし、眞理と話してるときずっと耳赤めてたし…」
「そりゃ、好きな子が目の前にいたら、恥ずかしくて目を合わせられないし、赤くもなるよ。」
「え、」
「やっぱり、ボクじゃだめ、かな?」
私は加勢雄と同じように、息を吐き、そして吸い込んだ。
「全部、受け止めるよ。加勢雄の気持ちも、病気も、かるたも。全部。だから、
私と、付き合ってくれるかな?」
8月31日。葉月の終わりの吉野川。そこに2人のカップルがいた。
ボクたちはそこで、沈み行く夕日を眺めていた。
「風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは 禊ぞ夏の 印なりける」
彼女は、彼女の得意札の歌を口遊んだ。夏の終わりと秋の訪れを詠んだ歌だ。
「はぁ、藤原家隆も、この奈良の川から夕陽を見たのかなぁ。」
「あ〜、感傷に浸っているところ悪いけど、家隆が夕陽を見た小川は、奈良の小川じゃなくて、ドングリが出来るブナ科の楢の木の生えている、京都の御手洗川だよ、上賀茂神社を流れている。」
「え、そうなの!?てっきり、『なら』って、奈良県の奈良だと思ってた。楢の木の楢のことだったんだ〜。うぅ、なんかショック…」
「ははは。」
「まぁ、いいや。いつかそこに行こうね。夏の終わりのときに。」
「そうだね。」
「そういえば、FUNAKAWARA IETOJI って、『風そよぐ』の作者、藤原 家隆のアナグラムでしょ。」
「まぁね。」
「加勢雄が私の名前の漢字が入ってるあの歌を好いてくれてるなんて、嬉しいな。」
「風夏が好きだからね。」
「もう、またそういうこと言う。……嬉しい。」
風夏はボクにくっついてきた。体温がそこから伝わってくる。
「いろんなことがあったなぁ、この夏。」




