ならの小川の 夕暮れは and the rustling winds Stir the oak-trees' leaves.
奈良県南部を流れる吉野川。
「いろんなことがあったなぁ、この夏。」
禊 風夏は呟いた。
これは、彼女の夏の物語。
そう、ボクが彼女に出逢った、この夏の。
この物語はフィクションです。一部の地名、駅名を除く、登場人物名、団体名などは現存するものとは一切関係がありません。
「嘘、無い!」
私は、立ち止まった。後ろを歩いてた人々が、邪魔だな、と冷たい目線を送ってくる。
「どったの、風夏?」目の前を歩いていた、私の友人、浅路 眞理が呑気な声で訊ねてきた。
「て、定期が無いの。」カバンの中を探りながら、私はその友人に言った。
「財布は?」
「一応あるにはあるけど…」金額が足りないの、と言おうとしたが…
「じゃ、大丈夫だね。先に行ってるよ。」と、眞理はさっさと改札を出ていってしまった。
そもそも、奈良県南部を走る和歌山線は、五條駅などの一部の大きな駅を除けば、切符や定期の確認をする駅が少ない。
基本的に電車の中で確認するのだ。
なので、乗るときにいつも通り定期をつけていると思っていると、忘れてても気付かずに乗ってしまうのだ。
「どうしよう…」このままだと、無銭乗車だ。いや、事実お金を払わずに電車に乗っていたのだから、犯罪だ。
「まずい…」
すると、誰かに肩を叩かれた。
「君、定期を忘れたの?」
帽子を被った、か細い声の男の人だった。無精髭を生やし、サングラスをかけている。帽子の下から見える髪の毛は茶髪、そして耳にヘッドフォンをしている。
左手に千円札が挟まれていた。
「これ、あげる。返さなくていいから。」
耳を澄ませないと、この喧騒の中ではあまり聞こえない。でも、口元の動きでなんとなく、そう言っているのがわかった。
「え、別にいいですよ。悪いですし。」
「遠慮してる余裕があるの?このままだと駅を出られないよ。冷たい友達は先に行っちゃったし。」
「あ、あなた、会話を全部聞いて?」
「ボク、“感じ”がいいからね。」
感じがいい?どういうことだろう?ナルシルトなのか?
すると、右手に札が挟まれた。
「い、いらないですよ。」
しかし、男はもう用事が済んだとばかりに踵を返す。
「待ってください。せめて、何かお礼でも…」
男は少しくびをこちらに回した。
「いらないよ。」
「じゃぁ、名前だけでも…」
「まつとし聞かば 今帰り来む」
え?
「ボクの名前は、舟河原 癒綴。じゃぁね、禊さん。」
「え、あの、なんで名前を?」
「名札。」
男は改札を通り過ぎ、そのまま去って行ってしまった。
私は胸ポケットをみると、名札が付けっ放しになっていた。
「(でも、なんでこの漢字がミソギって読むって分かったんだろ?)」
それに、
「(絶対、フナカワラ イエトジって偽名だ。)」
それにしても、どうしようこの千円。仕方ない。ありがたく使わせてもらおうかな…
私はなんとか、五條駅を抜け出すことができたのだった。
「(そういえば、どこかで聞いたことのある声だったなぁ。)」
「ホント、なんで校長先生の話って、あんなに無駄に長いんだろ?」
真後ろの席の眞理が言った。
「同感。」
「そういえばさぁ、3組の小川くんと行幸ちゃん、付き合ってるんだって。」
「ふぅん。」この友人の突然の話の転換はいつものことである。
「風夏は好きなひといるの?」
「え?いないよ?」
「ホントに〜?」
「いないってば。そういう眞理はどうなの?」
「あたし?あたしはいるよ。1組の橘くん。」
「橘って、確か眞理の入っているかるた部に最近入ったっていう?」
「そうそう、橘 加勢雄くん。なんかね、新人のくせに決まり字覚えるのすっごく早いし、渡り手・戻り手・囲い手が上手だし、“感じ”はいいのに、気遣いが優しいし…」
感じがいい その言葉で今朝の助けてくれたあの男の人を思い出した。
「ねぇ、かるたって言えば、『まつとし聞かば 今帰り来む』って、なかったっけ?百人一首に。」
「あるよ。『たち』ね。」
『たち』っていうのは、百人一首の決まり字のことだ。この2音を聞いただけで札が取れるらしい。
「それって、どんな意味?」
「さぁ?『たち』ってさ、『たれ』と似てるんだよね。」
「え、どこが?」
「ほら、『たち』の下の句も『たれ』の下の句も『まつ』から始まるんだよ。」
「ふぅん。」
「だからあたし、いっつも間違えるんだ。橘くんはそんなことお構い無しに取って来るんだけどね。」
「確か、橘くんって、月曜日はクラブにいないんだよね。」
「そう、だから今日も会えないの。基本的にクラブでしか会えないのに。テンション下がるわぁ。」
「それなら1組に行けばいいのに。」
「あの秀才で人を見下した奴ばっかりが集まっているところに乗り込むなんてこと、できないよ〜」
終礼が終わったあと、私は図書室に向かった。
「(あった。小倉百人一首解説書。えぇっと、『たち』は…)」
あった。16番。
たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
意味は…
別れて因幡国へ去ったとしても、因幡の稲羽山の峰に生えている松ではないが、あなたが待っていると聞いたならば、すぐに帰ってこよう。
「(なんか、すっごくキザな歌。『まつとし聞かば 今帰り来む』だけの意味を取れば、『あなたが待っていると聞いたならば、すぐに帰ってこよう』って。あの男、そんな意味で言ったのか?)」
ついでに、『たれ』、つまり『誰をかも』も覗いてみた。
誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
一体誰を親しい友人にしようか。長寿の高砂の松も、昔の友ではないのだから。
周りの友人がいなくなり、孤独な自分を読んだ歌。
まさに今の私だ。
奈良に転校してきて、友達という友達がいない。唯一話ができる眞理だって、結局は私を助けてはくれない。
孤独だ。
藤原 興風さんの気持ちが少しは分かる気がする。
『たち』と『たれ』、全然違う歌じゃないか。
まつとし聞かば 今帰り来む
あのフナカワラ イエトジという男は、私が待っていたら、再び会えるというのだろうか?
そして、何週間かして、吉野川祭り。
私は眞理と一緒に遊びに来ていた。
「すごいね、風夏。ダーツで最高得点のところを3回も当てるなんて。私、中心のダブルブル(っていうの?)に当てるのが最高得点だと思ってた。」
「まぐれだよ。ブルを狙ってたらつい少し上に行っちゃっただけで。私はトレブル20って呼んではいるけどね。」
「ふうん。まぁいいや。とにかくよかったじゃん。欲しいものもらえて。私なんて、ダブルリング?の中に入れることすらできなかったんだから。」
すると、急に眞理が声をあげた。
「見て、あれ!」
「え、どしたの?」
「た、橘くんがいるの!」
「ふうん。そりゃ、こんなにも人集りが出来てるんだから、いてもおかしくないんじゃない?」
「ち、違うの。橘くんが髪を茶色に染めてるの。」
「ふうん。男の子なんだから、別にいいんじゃない?」
そう言いながら、私は眞理の視線の先にいる茶髪の男の子をみた。驚いたことに、バナナチョコの屋台の下で商売をしているのだ。
「しょ、衝撃的じゃない!?なんで染めたんだろう?」
そこ?なぜバナナチョコを売っているかの方が私には疑問だけど。
「そんなに気になるんなら、訊いたらいいじゃない。すぐ目の前にいるんだし。」
「わ、分かった。そうする…」
それでもオドオドとしてその場を動こうとしない眞理に「行かないの?」と訊くと、「い、行くよ。」と、覚悟したような顔をして歩き出した。何をそんなに覚悟がいるのだろう?
「た、橘くん。」
多分、初対面の橘 加勢雄の顔に、私はなんとなく既視感を覚えた。
「あれ?浅路さんと禊さん?花火見にきたんですか?」
まぁ、学校で会ったことがあるからかもしれない、と割り切る。
「えぇ、そうなの。橘くんって、普段髪茶色に染めてるの?」
「あぁ、これ?実はボク、地毛が茶髪なんですよ。」
橘が自分の髪を触りながら答えた。
「へぇ、そうなんだ。そういえば、どうしていつも月曜日にクラブに来ないの?」
「あぁ、家の都合で。実は、学校自体行ってないんですよ、月曜日は。」
「あ、そうなの。」
そういえば、さっきから橘は顔を赤くしながら眞理と話している。私とは目を合わせようとしない。
もしかして、
「(橘くんも、眞理のことが好きなのかな?)」
私は、2人の邪魔をしてはいけないと、何故か思い、近くの屋台のゲームに挑戦することにした。
「あれ?眞理は?」
射的を3回終えた私は、2人のところに戻ったら、2人ともいなくなっていたのだ。さっきの屋台には綺麗なおねぇさんが橘くんの代わりに立っている。
あの人に2人がどこに行ったのか、訊こうとしたとき、不意に背後で聞き覚えのある小さな声が聞こえた。
「禊さん。」
見ると、フナカワラ イエトジさんが立っていた。
「フナカワラさん。」
「あ、覚えてくれていたんだ。」
「あ、はい。あの、」
「そういえば、下の名前、なんていうの?」
「え、風夏ですけど…」
「漢字は?」
「えっと、春風の風に、春夏秋冬の夏です。」
「なるほど、『風そよぐ』だね。」
「え?」
「その歌の中に、君の名前の漢字が全部入ってる。」
?
「ボクは『かぜそ』の友札の『かぜお』も好きだけどね。」
「あの、」
「なに?」
「フナカワラ イエトジって、どういう漢字を書くんですか?」
「あぁ、簡単な方の舟に、カワラは氵に可能の可を使う方の河に、原っぱの原。イエトジは家を閉ざすんじゃなく、癒すって字にファイルとかを綴じるの綴じって字。」
「あの糸偏に又が4つのですか?」
「そう」
「へぇ、舟河原 癒綴さん…姓は簡単なのに、下の名は難しいんですね。」
「まぁ、ペンネームみたいなものだけどね。」
「え、舟河原さん、小説書いてんですか?」
「そういえば、浅路さん、向こうの方にいたよ。」はぐらかされた。
「え、」
いつの間にか、舟河原さんが指差す方を向くと、確かに眞理がいた。
「あの、どうして、眞理の名を……っていない…」
舟河原さんの姿はすでに人混みの中へ消えてしまっていた。
私はパソコンを開いていた。
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『吉野川いにしへ会』
練習日:毎週月曜
時間:午前9時〜午後6時
※見学は自由です
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