step.1「人間ギライなぼくの、酒樽との生活」
《ほら。ぼうや。起きなさいよ。もう昼だよ》
「うーん……。オバちゃん。もうすこし……」
オバちゃんのいい感じに曲線を描いているグラマラスな体に、ぎゅーっとしがみつきながら、ぼくはそう言った。
部屋には毛布が一枚。あとはオバちゃん。
それだけだった。でもそれだけでよかった。
この狭くて小さな部屋が、ぼくの住処だった。昔は廃倉庫の片隅なんかに、オバちゃんと一緒に隠れ住んでいたものだが、しょっちゅう追い出されるし、ネズミは出るし、オバちゃんを囓るし。他の家なしの人たちは、ぼくらの物を隙あらば盗もうとするし。
《ほら。はやく今日の分の葡萄酒を私から搾っておくれよ。そしたら酒場に納めに行っといで。ほら。はやくする》
オバちゃんが言う。
「わかったよ。オバちゃん」
横についてるコックを捻って、葡萄酒を革の水袋に注ぐ。
ちなみにオバちゃんは――〝樽〟である。自分では動くことができないから、ぜんぶぼくがやる。
オバちゃんの葡萄酒は一日経つと、また溜まる。
オバちゃんと再会したのは、もう何年も前のことだった。とある店の前にうち捨てられていた樽が、ぼくに話しかけてきたのだ。
ぼくは「〝物〟と話せる力」を持っているけれど、はっきりとした自我を持つ〝物〟というのは、結構少ない。
たとえば路傍の石ころなんかに話しかけると、「なーにー?」とか、返事自体は返ってくるんだけど、〝自我〟というものはひどく薄くて……。ろくに会話が成立しない。
年数を経て、使い込まれた〝物〟だと、だいぶ意識もはっきりしているみたいで、会話も成立するんだけど。
だけどオバちゃんみたいにハッキリした声で、しかも向こうから話しかけられたのは、ぼくも、はじめての経験だった。
《あんた! あんたなんだろ! 私を助けてくれたのは、ぜったいにあんただ! 間違いないよ! ほら覚えてないかい! あんたが助けてくれたこのグラマラスなボディを!》
と、物凄くはっきりした声で騒いでいたのが――その〝樽〟だった。
なんと。その樽は――。
ぼくが前世で死ぬことになった、そのきっかけとなった樽なのだった。
同じ世界に生まれ変わっていたことは気がついていたけど、街も大陸も違うのに、なぜあの樽があったのか。
あとから聞いた話では、船に乗せられて運ばれてきたらしい。まあ酒樽だし。違う大陸に運ばれることもあるかもしれない。
まあともかく――。中身も空っぽなその樽を、ぼくはもらい受けた。放っておいたら、オバちゃんはそのまま雨風に晒されて朽ちてゆくだけだったし。
そのとき持っていた僅かな所持金は、すべて失うことになってしまったが……。そのあとで、すぐに取り返せてしまった。
なんとオバちゃんは魔法の樽だった。
毎日、葡萄酒が少しずつ溜まってゆくのだ。
オバちゃんは、もともとは普通の樽だったそうだが、ぼくが命がけで助けたあとで自我に目覚め――ぼくと再会したことで、なんかまた、〝物〟としてのステージを一段階上がってしまったらしい。
そして魔法の樽となってしまったわけだった。
その葡萄酒を売ることで、お金をすこしずつ貯めて、最近、この部屋をようやく借りることができた。
すごく狭い部屋で、樽オバちゃんを置いたら、あとは自分が横になるだけのスペースしかないけれど……。
ぼくにとってはすごく幸せな場所だった。
鍵だってかかる。毛布もある。一人じゃない。話し相手がいる。オバちゃんがいる。
ぼくは幸せだった。
オバちゃんは、あれこれと口やかましくて――。
なんだかぼくは「母親」という存在と一緒にいるような気がしていた。
今回の人生でも、前回の人生でも、そんなものにお目に掛かったことはないのだけど。
《はい。ぜんぶ出たよ。こぼすんじゃないよ。もったいないから》
オバちゃんの葡萄酒を革袋に詰めて、毎日一回、酒場に届けることが、ぼくの仕事だ。
〝人〟が苦手なぼくには、それはものすごく大変なことなのだけど……。
毎日の葡萄酒代がぼくらの生活費なので、無理をしてでも、やらなければならなかった。
マントを羽織る。フードを深々と被る。目元まで覆うと、これですこしはましになる。他の〝人〟と目線を合わせなくても済むからだ。
「それじゃ、オバちゃん……、行ってきます」
《はい。行ってらっしゃい。気をつけてお行きよー》