1章6 交渉決裂
「さて。ご返答を伺いましょうか」
ディールの使者は上機嫌だった。
使者来訪から一夜があけた、クレスト領邸、応接室。
使者は卓で手を組んで、女主をいそいそと覗く。
「もはや、一刻の猶予もございませんのでな。今日こそ、お返事を賜りたく」
相手が要求を呑むことを、露ほども疑わない口振りだ。
「おや、どうなさいました。色良いご返答を頂けるのでしょう」
使者にほくほく促され、エレーンは顔をしかめて唇を噛んだ。
たまらず使者から目をそらし、自分の膝へと視線を落とす。
指の震えが止まらない。
ドレスの膝を握りしめているのは、ほんのつい最近まで働いていたメイドの手。
まったく悪い冗談だった。
特別優秀でも有能でもない、なんの変哲もない自分のこの手に、広大な北方一帯の、領家の命運がかかっているというのだ。
この地で暮らす人々の、幾千、幾万もの運命が。
それぞれが築く未来のすべてが。
ほんのつい先日まで、商都の領邸で働いていたこの手が。
──逃げたい。
壮絶な恐怖が込みあげた。
こんな場所はすぐにも逃げ出し、自分を誰も知らない所で、無関係な顔を決めこみたい。
一体どうしてこの自分が、こんな目に遭わなきゃならないのだ。ただ嫁いできただけなのに。
領邸の中で寝起きはしても、中身はただの一庶民。街路をぶらつくそこらの人と、何ら変わるところはないのに。
他人の上に立つべくして教育されたダドリーとは違う。
そうした生粋の貴族たちとは、何もかもが違うのだ。素質が。器量が。境遇が。
自分は他人様を左右できるような、そんなたいそれた人間ではないのだ。まして、人命に関わるなんて。ディールが始めた戦争に、この街の人たちを巻き込む、そんな決断をするなんて──。
そう、そうだ! 冗談じゃない!
ラトキエを助ける援軍を出すよう、ダドリーには言ったけれど、それが実際にどういうことか、まるで考えてはいなかった。
つまり、それは人々を、平和に暮らしている人たちを、戦争に巻きこむことではないのか。
今更だったが、はっきり、わかった。
そんな要請は、断じて吞めない!
けれど、要請を拒否すれば──。
そう、そうなれば、彼はどうなる。切り捨てられたダドリーは。
暗い牢獄に繋がれて、背中を鞭で打たれるかもしれない。
二度と外へは出られないかもしれない。
悪くすれば、死ぬかもしれない。遠いトラビアの獄中で、誰にも看取られることもなく。
二者択一を迫られていた。
つまり、命を救うのは、あの「ダドリー」か、「領民」か。
むろん、ダドリーは返して欲しいが、それでは差し出された領民はどうなる。
ダドリーも言っていたではないか。この街にいる領民は、足腰の弱った中年ばかりと。商都への長い道のりを、行軍できるか怪しいほどの。
一体どちらを選べばいい。
一方を取るということは、残る一方をさし出す、ということ──。
あの面影が脳裏をよぎった。
西日を浴びた書斎の机が。
そこに閃いた何かを捉えて、エレーンははっと息を呑む。
一筋の光に目を凝らし、努めて慎重に咀嚼する。
そうだ。こんな午後だった。彼に詰め寄ったあの時も。
ラトキエへの援軍を促して、ダドリーに詰め寄ったあの午後も──
「さあ、奥方様。ご返答を」
向かいの使者がしびれを切らして、ほくほくと笑顔で返答を促す。
膝のドレスを凝視する、うつむいた口から、声がこぼれた。
「……お引き取りを」
使者が鼻白んだように表情を消した。
礼装の肩を、訝しげに乗り出す。「いや、申し訳ない。聞き逃してしまったようで」
エレーンは膝で拳を握り、使者へと顔を振りあげた。
「領主不在のこの折に、私の一存で民を動かすことはできません。お引き取りを」
交渉相手の顔を見据えて、クレストとしての意向を伝える。一語一語はっきりと。
礼装の使者は絶句している。
まじまじと相手の顔を眺めて、戸惑ったように眉をひそめた。
「宜しいのですかな、本当に? 結論をお出しになる前に、よくよくご再考願いたい。既に、申し上げている。切り札は、我が手中にあると。よもや、お忘れではないでしょうな」
エレーンは無言で睨み返した。屈してはならない。
断じて、ここで──。
相手の決意を挫くべく、使者は無言で見据えている。
冷たい色を瞳にたたえて。
エレーンは真っ向から見返した。
口を真一文字に引き結んで。
覆らないと見てとるや、使者が忌々しげに舌打ちした。
「──強情な」
言い捨て、椅子へ背を投げる。
「そうですか。まことに残念だ。ご当主様はこちらには、二度とお戻りにならぬやも知れませんな。まったく民も災難だ。主に見捨てられようとは!」
卓においた人さし指で、腹立たしげに天板を叩く。
「本当に宜しいのですな。貴女の下す判断一つで、街が火の海になるやもしれませんぞ。それでも良い、と仰るのですな」
「──それは!」
思わず、エレーンは口ごもった。
それを持ち出されては、うなずけない。
「そうですか! ならば──」
構わず、使者が席を立った。
落ち窪んだ眼窩を振り向ける。
その眼に冷徹な色がよぎった。
「ならば、首を洗って待っているがいい」
靴の踵を鋭く鳴らして、憤然と外套をひるがえす。
「──ちょっと、あんた、待ちなさいよ」
呼び止められた礼装の使者が、怪訝そうに振り向いた。
エレーンはゆっくり席を立つ。
腹の底に力を入れて、使者に眼を振りあげた。
「あたしの夫に、ちょっとでも妙な真似をしてみなさいよ。あんた、ただじゃ済まさないわよ」
使者が弾かれたように後ずさった。
取りつくうように鼻を鳴らして、そそくさ出口へ踵を返す。
叩きつけられた出口の扉の、すさまじい音が客間に響いた。
交渉の、決裂した瞬間──。
窓で、梢がゆれている。
がらんと白けた空間に、静寂が重く淀んでいる。
鳥が鳴き、遠い声が、風にのって客間にとどく。指先が、まだ震えている。
エレーンはへなへなとへたりこんだ。
かたずを呑んで見守っていた老執事が、目をみはって飛んできた。
「お、奥様──っ!?」
床に尻餅をついたまま、エレーンは手を振り、笑って見せる。
「……やっ、ヘーキ、ヘーキ。大丈夫……こ、腰が抜けちゃった、だけだから。それより、ちょっと、お水が欲しいな~。なんか、喉が渇いちゃってね」
オロオロしていた老執事が「ただいま、ご用意を!」と跳ね起きた。
あたふた転げるようにして、応接室の出口へ向かう。
エレーンは軽く息をつき、壁のそれへと目を向けた。対峙していた間じゅう、意識の端に引っかかっていた──。
震える膝で、立ちあがる。
まだガクガク笑っている膝で、吸い寄せられるように壁へと歩く。
少し翳った午後の日ざしが、一面の大窓から射していた。
がらんと静かな広間の片隅、その上半分が、壁の陰に沈んでいる。
金の房で縁取られた旗が、ひっそりと西日を浴びていた。
あのダドリーが守る旗。
ここクレストが掲げる家紋。その旗章は「天へ昇る竜」
吠え猛るその竜を、胸が締め付けられる思いでエレーンは見つめる。
追いつめられたあの時に、あの日の書斎が脳裏をよぎった。
西日を浴びた書斎の机と、あのダドリーのかたくなな顔が。
ラトキエの使者との面会を、断固突っぱねたあの顔が。
空に雷光が閃くように、あの時、唐突にそれを悟った。
ダドリーは、ここの領主なのだ、と。
彼と同じ立場に立って、初めて見えた景色があった。
その場に臨んで、ひしひしとわかった。
何をおいても、あの彼が、民を守ろうとした、その思いが。
何も知らない領民たちを、差し出すことなど、断じてできない。
たとえ、捨てがたきを捨て去っても。
たとえ、それが懐かしい商都の街であろうとも。
そう、選択できるのは、常に一つだ。
同時に二つは選べない。だから彼は採ったのだ。
自分の領土と領民を。北方一帯の人々の暮らしと、皆の生命を守るために。
むろん、考えなかったわけがない。
よく知る商都の行く末を。市民が辿る命運を。
それでも彼は、一人で決めた。
誰に、どれほど詰られようとも。
荒れ狂う嵐のただ中に、彼は一人で踏み止まった。
たとえ「人でなし」と罵られても。
その彼が戻った時に、彼の大事なこの街に、ディールの旗章がひるがえっていていいのか。
いいえ。
決して、あってはならない。
自分が彼の代理というなら、彼に代わって回答するなら、その答えは既に出ている。
答えは一つだ。そうではないか。
それは、彼が貫いた、あの一言が示している。
「俺には俺の領民を守る義務がある」
彼の留守を守る者。
かの者が成すべき、ただ一つのこと。そう、それは他でもない。
ノースカレリアを死守することだ。
断じて、敵に明け渡してはならない。
──ダドリー=クレストが戻るまで。
がらんと静かな午後の広間に、西日がうららかに射している。
中央に描かれた「昇竜」が、雄々しく雄叫びをあげていた。
日ざしに温まったなめらかな旗に、エレーンは指先を滑らせる。
どこまでできるか、わからない。
むろん何もわからない。戦がどんなものかさえ。平和な街で育った自分に、その正体など知る由もない。
今はただ、使者を追い返した高揚感と、とんでもないことをしでかした、という絶望的な自覚だけが、不気味に胸でせめぎ合う。
朦朧とした意識の隅を、何かがカリカリと引っかいていた。
妙案なんかはなかったけれど、とある考えが胸にあった。
たった一つ、遠くに見える、ほのかで淡い、かすかな兆し。
たぐれば、ふっつり消え入りそうな。
それは、もろくも小さな、とっかかり。
ササクレといってもいいくらいに、ほんの些細な、ささやかな。
けれど、逃せば、
──後はない。
足元が抜け落ちるような焦燥の中、エレーンはひとり立ちすくんだ。