1章5 崖っぷち
「ちょっと見たあ~? 今の態度!」
エレーンはふくれて腕を組み、プリプリ道を引き返す。
ぶちぶち見やったその先には、街の安全を日々守る警邏を束ねる公署の庁舎。
「いいわけ? あんな無責任なことでっ!」
「良い勝負でございますな、奥様と」
「はあ!? なにそれ。あたしのどこがー!」
食ってかかったその横で、老執事がチロっと横目で見やった。
「さっきは爺めにあの使者を、押し付けたようとしたくせにィ~」
しゃがれた声で皮肉られ、エレーンは、むう……と返事に詰まった。
すぐさま体勢を立て直し、口を尖らせ、すがめ見る。
「今さら言う~? そーゆーことを」
「そもそも窮地に陥ったのは、奥様が使者の要求を、突っぱねたからではありませんか」
「よせ、って言ったのは爺じゃない」
「はて。いつ申しましたか、かようなことを」
「合図したでしょーが!? 首振って!」
「あ、いや、あの時は」
しれっと空を見る老執事。
「ちょっとこう、首の周りが痒かったものですから」
うぐぐっとエレーンは拳固を握った。
そうだ、こいつはそういう奴だ。事なかれ主義の風見鶏。(たぶん内緒の) 妾の居場所を、あっさりバラすような薄情者だ。
商店が続く市街地を、エレーンはプリプリむくれて歩く。
使者から脅された援軍の件を、なんとか押し付けられないかと、警邏の窓口に駆けこんだのだが、あっさり拒否られたんである。
老執事は遠い目で顎をなでる。
「ま、わたくしめが考えまするに、管轄違いもいいところですな。警邏と軍ではそもそも似て非なるもの」
「いっ、今ごろ言うぅ~!? そーゆーことを!?」
エレーンはギリギリ拳を握る。
そうだ! こいつはそういう奴だ……っ!
領邸夫人の来訪を聞きつけ、あわてて飛んできた長官は、厳めしい部下を左右に従え、白髭の顎をあんぐりと落として、事の次第を聞いていた。
が、にこやかに回答を促した途端、そそくさ壁へと目をそらした。
『 そ、そうした一大事につきましては、私などの一存では──。出動にはやはり、ご領主様のご裁可がございませんと 』
ボリボリ茶菓をあらかた平らげ、庁舎の応接で数十分。さんざん渋るも、つまりはこうだ。
── 我々の職務は「街の治安を守ること」であって、断じて「戦 をすること」ではない。
それを、意訳で要約すれば
── あんたに警邏を動かす権限はないよ。
「やはり、ここはグレッグ様に、ご相談なさるべきでしょうな」
てくてく横を歩きつつ、ふーむ、と思案にくれていた老執事が、見あげるように振りむいた。
「使者とのやり取りをお話し、適切な指示を乞うのです。チェスター家を継いだとてグレッグ様も宗家の一員。お家存続の危機ともなれば、知らん顔もできますまいて」
「さっすが爺っ! 頼りになるぅ~!」
ぱあぁっとエレーンは破顔一笑。手を組み、コクコク、上機嫌でうなずく。
「そうよね。いくらお義兄様だって、いつまでも意地悪しては、いられないわよね? 我がままな子供じゃあるまいし!」
老執事の言う「グレッグ様」とは、ダドリーの兄弟のことである。
ダドリーの実兄、クレスト宗家の、上から数えて二番目の兄。総領息子ではなかった彼は、早々に他家の令嬢を娶り、ここ北方では有数のチェスター侯爵家を継いでいる。
領家に生まれた生粋の貴族で、政務に慣れた彼ならば、ディールとの交渉を引き継いで、万事うまく取り計らってくれる。お役放免というわけだ。
エレーンはすっかり肩の荷を下ろして、足取りも軽く老執事と連れ立つ。
いそいそ鼻歌のスキップで。
いざ、チェスター侯爵家へ!
ところが、であった。
「いない?」
豪奢な屋敷の門前で、エレーンはあんぐり固まった。
対応に出向いた黒服の執事が、言葉を慇懃に繰り返す。
「誠に申し訳ございません。旦那様はご不在です」
「どこへ行ったの、こんな時にっ! 一刻を争う緊急事態なのよ。さっさと捜して連れてきて!」
「いえ、なんでも商都が心配なので、様子を見に行かれるとかで」
エレーンは「……はあ?」と絶句した。つまり、それって、
──まだ 「そこいらに、いる」 ってことか?
なんということ。すねてしまったお義兄様は、子供よりも質が悪いのだった。
己の屋敷の奥深くへとお隠れあそばしてしまったらしく、呼ぼうが、凄もうか、泣き真似しようが、もうテコでも出てこない。
そして、この「執事」とは即ち、アポなしの客を追っ払うプロフェッショナルの別名である。
夕陽に赤く染まった道を、エレーンはとぼとぼ歩いていた。
門前でゴネるもどうにもならず、門前払いを食らったんである。
どうやら、お義兄様は意地悪く、高みの見物を決め込む気らしい。
「──しかし、旦那様がご不在というのに、助言もして下さらぬとは」
領邸へ戻る道すがら、老執事が溜息で首を振った。「これは、やはり、我々は、相当な恨みを買ってしまったようですな」
「でも、そんなこと、あたしに言われても~」
エレーンはげんなり顔をゆがめた。
ここクレスト領家では、先年、先代と嫡男が急逝する不幸が相次いだ。
そのため通例に従って、当主の遺言が開示されたが、この文書に記されていた家督相続人の名が問題だった。
そこには、なんと「ダドリー」の名が記されていたのだ。
総領息子と同年代で、政務についていた次子ではなく、十歳以上も年の離れた、商都で暮らす末子の名前が。
むろん現場は騒然となった。クレスト領家の次の跡目は、誰もが次子だと思っていたから。
ちなみに、当のグレッグにすれば、周囲の期待に背を押され、満を持して立ちあがった途端、頭上を飛び越えられた形になる。面目丸つぶれもいいところである。
「そんなの、あたしのせいじゃないのにぃ~。一体あたしにどうしろっていうのよ……」
エレーンは溜息でしゃがみ込み、途方に暮れて膝をかかえた。
夕陽に赤い石畳の、自分の靴の先を見つめる。
もう、どうにかなるとは思えなかった。
こんなに大ごとになっているのに、警邏の長官は知らんぷり。もっとも、義兄でさえ、そうなのだ。まして追従笑いの役人では。
とはいえ、相談しようにも、この土地には着いたばかりで、ただの知り合いさえいない。
うつむいた視界のすぐ脇を、無骨な靴たちが横切った。
頑丈そうな黒革の、ちょっと街では見かけない、兵隊が履くような編み上げ靴だ。
向かいからやって来た一団が、怪訝そうに見やって、避けて行った。道をふさがれて邪魔だったのか、こんな往来の真ん中で、座り込んだ様が不審だったか。
通り過ぎた一団がこちらを見ている気配がしたが、エレーンは膝に突っ伏したまま、顔をあげることもしなかった。
どう思われようが、構わなかった。そんなことより、どうしたらいい。
ディールの書状、援軍の件は。
いや、もう、打つ手などない。
身内にまで協力を拒まれたのだ。知り合い一人いないのに。右も左もわからないのに。
燕尾服姿の小柄な老執事が、おろおろ、ウロウロ覗いている。
だが、応えてやる気力も失せていた。
道の先で足を止め、見物していたらしい一団も、やがて動いて歩み去った。しばらくジロジロ見ていたようだが、結局、興味が失せたらしい。
エレーンは腕で我が身をかかえ、きつく奥歯を食いしばる。
「……なによ。みんなして逃げちゃって」
こらえ続けた本音がこぼれた。
「できるわけ、ないじゃないよ、あたし一人で」
物資、財力、技量、人材、すべてを取りそろえた権力に、素手で立ち向かえ、と言われているようなものだ。
そもそも荷が重すぎる。クレストの領邸に入ってから、まだ何日も経ってない。まだ何も教わっていない。正夫人としての身の処し方も。貴族たちのしきたりも。こうした場合の対処法も。
けれど、自分は現実に「クレスト領家の正夫人」
現に使者と面会し、ディールからの書状を受け取った──。
要請の書状を受け取ってしまった──。
(なんとか、しなくちゃいけないんだ)
──あたしが。
一たび書状を受け取ったからには。
先方に回答しなければならない。受けるにせよ、拒むにせよ。
「……あたししか、いないんだ」
今、選択権を持っているのは。
くっきり輪郭を伴った、明確な自覚が湧き起こった。
そう、他の誰でもない。回答できるのは自分だけ。ダドリーでも、警邏長官でも、まして無責任な義兄でもない。
分岐をどちらへ進むのか、北方の未来をどうするのか、大勢の領民をどうするのか。
すべての命運を担っているのは、ただひとり、自分だけなのだ。
その絶望に目がくらんだ。
少し前まで一庶民のメイドで、政治に関心なんかなかったから、判断材料さえ持ってない。
なのに、味方はいない。頼れない。
そして、猶予は、今夜かぎり。
明日には使者がやってくる。クレスト領家の回答を聞きに。
両手できつくかかえた膝に、しかめた顔をすりつけた。
なぜ、自分ばかりがこんな目にあうのだ。
どうして、こんな難問を、押し付けられなきゃならないのだ。
少し前まで庶民だった自分が、上手く解決するなんて、そんなの無理に決まっているのに。奥方様とは名ばかりの、メイドあがりなんだから──
ふと、目をあけ、眉をひそめた。
そう。初めから決まってる。
上手く解決するのは無理だって。
誰だって、そう思う。
甘い誘惑が脳裏をかすめた。
血の気が引いたのを、どこかで感じる。どくん、どくん、と鼓動が脈打つ。
それを見据えて、頭がのぼせた。
だが、そこだけが妙に冴えている。
文句を言われる筋合いはない。
みんなして丸投げしたんだから。
そうしたら、きっと、楽になれる。
いっそ、ディールに
──降参すれば。