1章3 青天の霹靂
転げるようにして駆け込んできたのは、この領邸の老執事。
老齢ゆえか、ちんまりと小柄。頭髪のほうもすでに寂しい。
転居以来、何かにつけ、世話を焼いてくれている。
ちなみに、あの妾宅の場所を、あっさり白状した張本人でもある。
そして、ちなみにあの爺が、あわてているのも珍しい。
いつもは廊下を走っただけで、ガミガミ小言をいうくせに。
執事は膝に手をおいて、かがんで呼吸を整えている。
老人特有の嗄れ声で、せっぱつまったように報告した。
「旦那様が見あたりません!」
むっ、とエレーンは顔をしかめた。
「──だからあー。視察でしょ? シ・サ・ツ」
どっとシラけて片手を振りやる。
「なにを今更そんなこと。まー、どこ視察してるかは、だいたい見当つくけどね」
一気に棒読みで言い放った頬が、不覚にもヒクついてしまったが、ホホホと笑って香茶をすする。
そんなもの、妾の家に決まっているではないか。
どうせ、すねて、ヘソ曲げて、羽を伸ばしているに違いないのだ。ただ今絶賛冷戦中で、顔を合わせるのが嫌なもんだから。
敵の姑息なやり口に、又もはらわたが煮えくり返るが、とはいえ、今は使用人の前。
領邸夫人の威厳を保って、楚々と、優雅に、鷹揚に。
妾とイチャつく程度のことで大騒ぎなんぞしていたら、領家の奥方は務まらないのだっ!
執事がもどかしそうに首を振った。
「いえ、ご別宅ではございません」
「あん? だったら、どこだっていうのよ」
「ですから伺っておるのです! 私どもも、てっきり、別宅とばかり──ですが、お見えでないとの返答が」
「……はあ? なに? それって、つまり──」
ひくり、とエレーンは絶句した。
つまり、あのトウヘンボクは、今度はよその女にまで、
──ちょっかいをかけに行ったのか!?
妾だけでは飽きたらず。
ぐぐっ、と握った拳固がわななく。あんの薄情な天パー領主が!
汗を拭き拭き、執事は報告。
「それだけではございませんぞ。ディールから使者が参りまして──」
ぎょっ、とエレーンは硬直した。
「ディっ──ディールぅ!?」
思いがけない敵の名に、目をみはって、わたわた動揺。「な、なんで、ディールが、クレストに来んのよ!?」
「いや、ですから」
執事が人目をはばかるように、チラっと周囲を見まわした。
頬に手をあて、そそくさ耳打ち。
(援軍の要請でございましょ?)
エレーンはふるふる戦慄いた。
勿体をつけた執事を一喝。
「わかってるわよ! そんなこた!」
ああ、恐慌中の茶々は気にさわる!
チラッと執事が上目遣いで盗み見た。
「して、どうなさいます?」
ぐっ、とエレーンは言葉につまった。お伺いを立てるだけの奴は、気楽でいいな!?
ひとまずジタバタ首を振った。
「どうなさいますぅって、どーすんのよ! ダドがどこへ行ったかなんて、こっちの方が訊きたいくらいよ!」
とにかく、と執事が仕切りなおした。
「使者が言うには、急ぐので、書状だけでも、お納め願いたい、と」
「はっ? えっ? それってまさか」
エレーンは愕然と己をさした。
仰せの通り、と執事が微笑む。
「ここは、やはり奥様が、ご対応になるのが一番かと。先方との釣り合いもございますし」
「いや、お義兄様がいるじゃない! 闊達にして聡明なっ!」
ダドリーの二番目のお兄様が!
「グレッグ様のことでしたら、先ほど屋敷へお戻りに」
「……は?」
「なんでも、お加減がお悪いとか」
「いーわけ!? そういう見えすいた手で!」
こほん、と執事は咳払い。
「ご伝言がございます。万事粗相のないように。くれぐれも丁重にご対応になるように、と」
「なんで、あたしが!?」
そんな目に──!?
エレーンはわなわなと絶句した。
──お義兄様に、逃げられた……。
彼にはどうも嫌われている気がする。でも、心当たりなんて──ちょっとは、あるが。
ずっしり重責が降ってきて、エレーンはがっくり首を振った。
「……いや、そんなの無理だってぇ~。そんなことあたしに、できるわけないでしょ~」
ほんのついこの前まで、しがないメイドだったんである。
ほんのつい数日前に、着いたばっかりなんである。
高価なドレスこそ着ちゃいるが、中身は庶民この上ないのだ。
「──もう! たく! バ力・ダドリーっ!」
額をつかんで ぎりぎり歯ぎしり。
「どこをほっつき歩いてんのよ! 自分の領土の一大事にっ!」
エレーンはむっくり顔をあげ、おもむろに扉を指さした。
「帰って頂きなさい」
おや、と執事が目をまたたく。
「では、居留守を使う、と仰せになるので?」
「だあぁってー。面会なんか、できないでしょー勝手に」
両手を腰に、高らかに宣言。
「領主は不在よ。いなけりゃいないで致し方なし!」
もちろん、我が身に、降りかかる火の粉は、断固速やかに振り払うべし。
執事が目に見えてうろたえ出した。
扉へ、チラチラ視線をやる。「し、しかしですな。もう、そこまで──」
「あー、具合悪るっ!」
とっさにひるんだ執事を無視して、エレーンはパチパチ目を瞬く。
「まあまあ! あらやだ! そーいえば、おなかも!──んまあ! あたしったらオナカが痛いわ? 今まですーっかり忘れてたけど、そういえば今朝から痛かったのよね~。──あら、やだ、た~いへん! 今にも割れそうに痛いわあ!」
「それはそれは」
執事は棒読み、半眼で合いの手。
エレーンは頬に小指を立てて、ほほ、と笑ってドレスをつかむ。
「ささ。これにて、わたくしは休みます。気分が悪くて伏せっておりますゆえ、使者にはそうお伝えしてね。万事粗相のないように」
「良い根性でございますな。では、この爺一人に押しつけて、ご自分だけお逃げになると?」
口先とがらせ、執事が意訳。正確に理解したようだ。
この間に、エレーンはそそくさ出口へ。
「奥様っ!」
「んじゃ、後はよろしく頼んだわねん?」
扉のノブを引っつかみ、一発逆転らんらんらんっ! と喜色満面、押しあける。
おうよ! 我が身に降りかかる火の粉は、断固速やかに振り払うべし!
バン──と予定外の音がした。