1章1 暗雲
赤絨毯の階段を駆けおり、長い廊下をせかせか進む。
怒りにまかせて扉をあけた。
「ダド、あんた正気なの?! 使者に居留守を使うとか!」
目当ての相手は、書き物をしていた。
窓辺の大きな執務机で。
午後の日差しが射しこんだクレスト領邸、執務室。
壁には、竜をかたどったクレスト領家の紋章の旗。
エレーンはツカツカ窓辺へ歩き、机を叩かんばかりの剣幕で続ける。
「いったい何を考えてんのよ! ラトキエからの使者なのよ!」
彼が書類から顔をあげた。
明るい茶色の癖っ毛頭。どこか底の知れない瞳。
ダドリー=クレスト。
先般当主に就任し、北方を束ねる年下の夫だ。
エレーンはやきもき爪を噛む。
「あのラトキエが "使者" なんて、よっぽどのことが起きたのよ! きっと、どうにもならなくなって、クレストに助けを求めてきたのよ!」
ダドリーは口をつぐんだままだ。
特にあわてたふうでもない。ただ顔を眺めている。物事の渦中から少し離れて、じっと観察しているように。ふてぶてしくも不敵にも見える、いつもの彼のあの顔で。
反応の薄い相手を睨んで、エレーンは苛々と言い募る。
「いきなり大軍に囲まれて、どうにもならなくなっちゃったのよ! だからラトキエだって助けを求めて──なのに、なんで追い返したりするわけ!? やっとの思いで使者が来たのに! 今がどんなに大変な時か、あんた、事態が呑みこめてなくない? 新米だって領主でしょう! あんたも領主の端くれなら、こういう時はどうしたらいいのか、それくらいの分別はあるでしょう!」
「使者から書状を受けとれば、人を出さなきゃならなくなる」
ようやく、ダドリーが口をひらいた。
利き手の羽根ペンを書類へ放り、布張りの椅子に背を投げる。
「ここは海に囲まれた、国境のない片田舎だぞ。軍備はない。領民は素人。訓練された軍兵と、いったい、どうやってわたり合う」
「でも! そこは頑張って──」
「若い奴らは出稼ぎに出ている。街に残った領民は、小商いで生計を立てている足腰の弱ったおっさんばかり。これじゃ商都を助けるどころか、商都まで行軍できるかどうか、そこからして怪しいね」
すらすら理由を並べられ、エレーンはうっと返事に詰まった。「──いや、けど、そこをなんとか」
「どだい無茶な注文だ。万に一つの勝ち目もない。むしろ、のこのこ出ていけば、こっちこそがいい標的だ」
「だ、だからって何もしなくていいわけ!? 商都がディールに占領されても、それでもいいって、あんたは言うわけ!?」
商いで栄えるこの国で、大変な騒ぎがもちあがっていた。
国土の南西を治めるディールが「商都」と呼ばれるこの国の首都に、なんの前触れもなく侵攻したのだ。
南北に長い大陸の「カレリア」と呼ばれるこの国は、国王サディアスの執政下、三つの領家が統治している。
この三つの領家の家名を、より勢力が強い順、豊かな順に並べると、
「ラトキエ 」 「ディール」 「クレスト」 となる。
領土はそれぞれ大陸の、中央、西方、北方 だ。
大陸の北端に領土が位置する「クレスト」の主都は「ノースカレリア」
新米のダドリーが治めている。
ここは、かつて、大いに栄えた港湾都市で、海を渡った西方の国ザメールとの貿易で、この国の玄関口として機能した。だが、不意の嵐で地形が変動、廃港となって以来久しい。
稼業を失った領民たちは、今では農耕や牧畜で細々と生計を立てている。
地理的にも政治的にも、国家の中心は商都カレリア。
人、物、ともに集まる国名「カレリア」を冠する首都は、三領家の筆頭「ラトキエ」が拠点を構える商業都市だ。
商都は南北で二分され、それぞれ顕著な特色がある。
街の北側は行政街区。
そして、道を一本隔てて、大規模な商館の本店が堂々たる風格で建ち並んでいる。
正門のある南側には一大露店街が展開し、連日、観光客で賑わっている。
商人たちが闊歩する、この華やかなりし都には、ありとあらゆる商品が日々絶えず集まってくる。
ここから大陸を南下して、商都から南西の方角に、今回商都を急襲したディールの主都「トラビア」はある。
荒れ野の先のトラビアの、西に架かった石橋の向こうは、内戦の絶えない隣国領だ。
石橋を架けた河川によって隣の大陸と隔たっているが、この国境を防衛するため、カレリア国軍の部隊の配備は、ディールの領土に集中している。
かつてはクレストが貿易を起こし、様々な物品を商都がさばいた。国境はディールが防衛する。
天災による廃港で貿易こそは潰えたが、役割分担の体制は、変わることなく残っている。
国境防衛をディールに任せて、クレスト、ラトキエの二領家が、国を富ませる役割に専念できていたからこそ、今日のカレリアの繁栄がある。
広大な国土をもつ大国から、一目置かれる繁栄が。
小国なりともカレリア国には、財貨のうなる商都あり、と。
「クレストの貿易」に端を発する領家の役割分担は、長年にわたって機能してきた。
ところが、国境を守るディールが、領内の部隊を動かして、商都へ差し向けたらしいのだ。
そして、この国は開闢以来、政権強奪をもくろむような大規模な騒擾とは縁がない。
商いのみに特化して専心してきたラトキエは、あわてた。
軍備をもたない商業都市は、なす術もなく包囲され、同胞のクレストに助けを求めた──そうした次第であったらしい。
ところが、事もあろうにその使者を、門前払いにした、というのだ。
今、目の前で眺めている、クレスト領主ダドリーが。
「──いったい、何を考えているのよ」
平素と変わらぬダドリーを見、エレーンは苛々と唇をかむ。
「意地悪しないで助けてよ! ラルやエルノアを助けてよ! みんな、あんたの友達でしょう!」
商都はエレーンの生まれ故郷だ。
領家の三男坊たるダドリーも、学業は首都で修めているため、商都は長らく生活の拠点。学友、知人も数多い。そのはずだ。
「あんたのその一言に、みんなの命がかかっているのよ!」
彼の心がわからなかった。ラトキエの使者を拒むなど。
内紛の絶えない隣国などでは、戦に敗れた高位の者は、処刑されると聞いている。良くて奴隷の扱いと。
市民の暮らしも一変する。高い税をかけられて、余裕のすべてを巻きあげられる。
無論それを知らぬほど、ダドリーは迂闊でも無邪気でもない。
何事にもそつのない目端の利くこの彼にして、これは、らしからぬ判断だ。
「あのラトキエの命運が、あんたの肩にかかっているの! あんたになら、できるでしょう!」
翻意を促し、瞳を覗く。
だが、押し黙ったままの瞳には、わずかな揺らぎも見いだせない。
午後の部屋が沈黙していた。
夏日の影がくっきりと濃い。金房のついた重厚な旗章が、壁で日差しを浴びていた。
そこにかたどられた「天に昇る竜」は、ここクレスト領家が掲げる家紋だ。
ダドリーはただ眺めていた。執務机の椅子にもたれて。
意図するところを、突如悟った。
「……見捨てる、気?」
ダドリーは口を開かない。
冷酷な結論に、息を呑んだ。
「見殺しにするつもりなの!? あの商都の人たちを!?」
彼はただ眺めている。むごい言葉を否定もせずに。
それが回答のすべてだった。
ダドリーは目をそらすことなく、執務机の手を組みあわせる。
「なんと言われようが、人は出せない。俺には俺の、領民を守る義務がある」
血の気が引くのを、エレーンは感じた。
「信じ、らんない……」
握りしめた拳が震える。
「商都の人たちを見捨てるの? 自分の友達を見殺しにするの? ディールの兵に捕まって、ひどい目に遭わされるかもしれないのに? ラルもレノさまもエルノアも、みんな死んじゃうかもしれないのに? なのに、あんたは涼しい顔で!」
もてあましたように顔をしかめて、ダドリーが椅子から背を起こした。
机の上の手をのばす。「だから、今言ったろう。俺は──」
「ダドのばかっ! だいっ嫌い!」
ギクリ──とその手が強ばった。
「触らないでよ! 人でなし!」
はっとして顔をあげた、驚いたような彼を一喝、プイと肩をひるがえす。
憤然と廊下へ踏み出した背で、
彼が椅子を蹴って立ちあがった気配を、椅子の脚が鳴る音を聞いた。