プロローグ 「彼の裏切り」
天にも昇る思いだった。
だって、夢にも思わない。
あのふてぶてしい「年下の彼」が、領家のしがない三男坊が、
まさか、領主に化けるとは。
国を統治する三公家の一、北方を治めるクレスト領家の、当主なんかに収まろうとは。
つまりは予期せぬ「玉の輿」
なのに──
「……嘘つき」
視界を阻む鉄格子の先には、館の裏庭が広がっていた。
のどかな庭との境を仕切る冷たい鉄棒を握りしめ、エレーンは唇をふるわせる。
北方に特有の高い梢が、初夏の風にそよいでいた。
この裏路地は町はずれで、ひっそりとして人けがない。
少女の風情を残した女が、緑の庭に佇んでいた。
おっとり微笑むかたわらには、日差しに子供を抱きあげる、父親らしき癖っ毛の男。
ダドリー=クレスト。
大陸北方を治める領家の、直系血族にして新たなる当主。
そして、よく知るあの癖っ毛は──
初夏の日差しがきらめく庭で、ひと組の家族がたわむれていた。
五歳ほどの華奢な男児と、両親であるらしき若い夫妻が。
男児が父を懸命にあおいで、あどけない顔で報告していた。頭をなでる父のかたわら、母親がたおやかに微笑んでいる。線の細い、美しい──名前はたしか「サビーネ」とか。
緑かがやく裏庭に、青銅の椅子が置かれていた。座面に木漏れ日が落ちている。
あけ放ったテラスの戸、庭を縁どる素焼きの鉢々、あふれんばかりの旺盛な樹木。みずみずしい青芝の上を、風が心地よくなでていく。
「……こっち、向いてよ、ダドリー」
癖っ毛の男の笑顔を見つめる、エレーンの頬に涙が落ちた。
「あたしを見てよ、ダドリー。知らない土地で放り出されたら、あたし、これから、」
──どうしたらいいの?
何もない北方のこの街へ、転居した矢先のことだった。
長く暮らした「商都」からこうも遠く隔たってしまえば、知り合い一人いはしない。
それでも彼が言ったから──
結婚しようと言ったら、あのダドリーのかたわらが、やっと手に入れた居場所だったから、すべてを投げ打ち、ついてきたのだ。
華やかで賑わしい故郷の商都も。この国で一番のラトキエ邸で日々働く誇らしさも。なにより大切な友だちも。
それなのに──
子供は要らない、とダドリーは言った。
もう子供は要らない、と。
お前の子供は不要だと。
『 跡継ぎは、一人いれば十分だ。だから 』
言い訳がましい取り成しが、ダドリーの言葉がこだまする。
むろん、あんたを蔑にはしない。
俺にはあんたが一番大事だ。だから、なにも
心配はいらない──。
北方の風は心地よく、夏日が高くきらめいていた。
くったくのない親子の笑いが、午後の裏庭に満ちている。
白い館の裏庭で、幸せな家族がたわむれていた。
男の子と、母親と、結婚したばかりの自分の夫が。
笑いあう彼らは、振り向かない。
あけ放った窓の手すりが、鈍く夏日を浴びていた。
ほの暗く翳った板張りの床には、何組もの椅子とテーブル。
その雑然とした有りさまは、客を送りだした翌日の、白んだ酒場のごとしだが、あの酒場特有のすえた気だるさは見あたらない。
空気はそっけなく凪いでいる。
煙草で黄ばんだ部屋の壁には、木箱が無造作に積みあがり、端が日焼けした大きな地図がいくつか丸めて立てかけてある。
壁一面の腰窓は、初夏の日ざしにあけ放たれ、昼さがりの館内は閑散としている。
常なら大勢が詰めるこの部屋も、今はひっそりと静まりかえり、ざわめきの余韻さえ見あたらない。
男が一人、いるきりだ。
日陰に置いた椅子の背に、男が一人もたれていた。
土足で卓に足を投げ、腕をくみ、目を閉じている
年の頃は二十代の終わり。髪の黒い青年だ。
その顔つきに癖はなく、街でよく見る若者のようだが、古い傷が刻まれた彼のいかつい革の上着は、持ち主の荒んだ生き様をまざまざと語っている。
色のあせた丸首の綿シャツ、黒革のベルトに迷彩ズボン。どんな荒地をも踏破する、いかにも無骨な編みあげ靴。
ふと、彼が目をひらき、戸口へ視線を走らせた。
ひっそりとした午後の廊下に、細身の男が現れた。
足も止めずに一瞥をくれ、ためらうことなく入ってくる。
年の頃は黒髪と同じ。身形はやはり荒くれている。
腰まである長髪を、額で分けた美丈夫だが、眼光鋭い風貌は、女性の柔和さとはほど遠い。
「北方ってのは涼しいな。夏場に汗もかきやしねえ」
長髪の第一声に、黒髪は話の先を促す。
「それで副長。街の様子は」
「異状なし。さすがド田舎。のどかなもんだぜ」
副長と呼ばれた長髪の男が、上着の懐をさぐりつつ、ひらいた窓へと足を向けた。
窓にもたれて煙草をくわえ、柳眉をひそめて点火する。マッチの火を振り消しながら、窓の外へと紫煙を吐いた。
「しかし、思い切った真似をしたもんだぜ。万年平和なこの国で、まさか、そうくるとはよ」
「俺たちには関係ない」
応えて、黒髪も懐をさぐる。
「ファレス。こっちは任務をこなして、西のねぐらへ引きあげるだけだ」
「それはそうと、ケネル」
端正な長髪、副長ファレスが、腕を組んでギロリと睨んだ。
「ひとにド田舎探らせといて、てめえは、まさか、のうのうと、昼寝を決め込んでたんじゃねえだろうなっ?」
「──まさか。そんなわけがないだろう」
ケネルと呼ばれた黒髪の男は、苦笑いして煙草をくわえる。
卓から灰皿を取りあげて
そうして、あくびを噛み殺した。
こんな三人が出会うのは、これからもう少し、あとのお話。
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