第七十話
恐怖は人の心を支配する。自分の心も支配する。相手の心も支配する。たった一つの穴を空けてしまう事で、愛と正義があれば、全て許される訳じゃないのに。
「私は…課長の前で…手首を切った事があるの。」
今度は、僕の口が塞がらなかった。一体、なんで?そんな事になるんだ。
「ケ、K美さん?!ど、どうして課長の前で…?!」
「私が…全部、全部悪いからなの!」
考える時間も与えてくれない程、彼女は涙と共に事実を刃のように伝えてきた。
「あの人が…父が…死んだ時。生まれて初めて涙を流したの…。自分でも気がつかない程、あの人が好きだったのかもね…。そんな時に…、部長は私の…全てを…支えてくれたの。」
やっぱり部長とだったんだ。
「どんどん好きになり、でも、妻子ある…部長は、私の気持ちだけには、ずっと…応えてくれなかった。突然、堪らなく寂しくなって、自分で手首を切ったの…。それ知った部長は、本気で怒ってくれて、切った後は本当に嬉しかったよ。だって…いつも…どんな時でも、私だけを気にしてくれるから…。」
そんな…嬉しかったなんて言わないでください…。
「でも、気がついたらずっと、距離を感じたままだった…。まるで何時の間にか、自分が影だけのような気がして…。そんな時に、課長に相談したら、本当に優しくて…頼り甲斐があって…。私は、課長無しでは、何も決められなくなっていったの…。」
課長は本当に優しい人ですもんね?だったら、なんで?そんな課長の前で?
「ある時、私が…ちょっとしたワガママを言って…、課長には帰らないで欲しいって頼んだんだけど…。一人にして欲しく無くて…婚約者がいるのは、知ってたけど…。でも、課長は怒って帰るって言い出して…。」
その時、K美さんとの初夜の事思い出した。課長との事があったから、あんな風に『先に…一人で帰るの?』なんて聞いてきたんだ…。
「だから私は…バスルームから剃刀持ち出して、課長には…帰って欲しく無かったから…。課長の前で…手首を切ったの。」
バスルーム…?え?!待てよ!そしたらK美さんは…課長と…?
「でも、今夜…私…分かった。君がナイフを手首に近づけた時、私…自分を大切に支えてくれた人にさえ…困らせて、脅してたんだ…って。」
「…。」
「だから…そんな気持ちに、私はなりたく無いから…これは、このナイフは…もう、君には返さないから…。」
K美さんは、涙で流れた化粧だらけの顔をあげ、震えながら僕に微笑んでくれた。何だか僕は…ひょっとしたら…K美さんに命を救われたのかもしれない…。
「K美さん…。ありがとう。本当の事を教えてくれて。そして…。」
あれ?何だろう?なんか勝手に涙が出てきちゃった。悲しくないのに…。指でいっぱい擦って、僕は言った。
「助けてくれて…ありがとう。」
「う…ん。」
《1993年 夏の記憶の狭間》
突然、爆発したように『吾』は笑出した。
「うはっはっはっはっは~!愉快愉快!こいつは本当に楽しいぜ!このメス豚に騙されてるとも気付かず、感謝なんか述べやがって!」
すると、『吾』はさっき迄の表情を一変させて、鋭い眼光を放ちながら、襟首に束ねたフードを頭に被った。
「さて…、そろそろあの馬鹿の悲しい記憶を、救ってやる儀式を始めなければな…。」
フードは『吾』の鼻筋まで被さり、耳元まで引き裂かれたような、不敵な笑みを浮かべた。
「こいつに残された自意識は、あと『私』だけだな?へっへっへ~それにしても『私』の自意識程、『自分』から距離が離れて使い易い人形はいないな。なんせ使い方によっちゃ~男にも女にもなり良い駒だからな。」
『吾』は漆黒のローブから、黒いタール液のような本能エネルギーを取り出した。本能エネルギーは球体の塊から細胞分裂を繰り返し、徐々に人間の形へと変化して行く。
「そういや、『自分』は一糸纏わぬ姿で現れたメス豚の事を『薔薇の女王』なんて言ってたな?ならばこちらは『荊の女王』にしてやるか…。」
ようやく『私 』の自意識は、K美の姿に変わり始めた。ゆっくりと立ちあがり、『吾』の前で産まれたままの姿で目を閉じている。
「よ~し良い子だ。よく産まれてきたな?ありがとうよ。」
「『私』は…?」
「良い子だからそのまま目を閉じていろよ。お前は、これから見る男性を助けに行くんだ。」
「『男』…の人?」
「ああ。そいつは『薔薇の女王』という悪い悪い女性に唆されて、自ら死のうと手首を切ろうとするんだ。」
「死のうと…手首を…?」
「ああぁ、可哀想だと思わないか?しかも自分の大好きな女性に唆されてなんだよ…。」
『私』は目を閉じたままで、涙を流している。
「『私』…今…泣いていますか?」
「ああ、泣いてるよ。涙は人の為に流すもの…。お前は本当にちゃんと知っているんだね?自分が悲しくて流すものじゃ無い事を…。」
「はい…。『私』はいつでも知っています。」
『吾』はゆっくり『荊の女王』である『私』の両肩を抱き、『私』の顔の向きを自分の方から、記憶を辿っている『自分』へと変えた。
「本当にお利口だよ。いいかい?ゆっくり目を見開いてごらん。あれがお前の守るべき…『自分』という男性だよ。」
『私』はゆっくり私の目を見開いた。そこには『薔薇の女王』という女性に騙されている、哀れで可哀想な『自分』『自神』がいた。
続く




