第六十八話
時には この鎧を脱いで、自由になりたい事だってある。でもどうやって脱いだらいいか、自分では分からないんだ。この鎧が崖に落ちそうな僕を、なんとか立たせてくれている…。
鶴見の駅から国道一号へ向かって、森永工場の先を右手へ曲がったところに、K美さんの住まいがある。工場からは甘いチョコレートの匂いが、ざらついた町の埃と混ざって立ち込めていた。
モルタル木造二階建のアパート。
三十年以上前の空気を思い起こさせる、時代の流れに取り残された建築物。入り口では下駄箱があり、K美さんの住む202号室のポストには、無造作に入れられた新聞の広告やダイレクトメールやらが、中から雑草の様に生えている様だった。
軋む階段を上がると、各部屋の前にはタンスやらポリバケツ、倒れた三輪車や壊れた傘が散らばって、妙に埃っぽい廊下が先に続いてる。それらを上手く避けて、ようやく僕は202号室の前へたどり着いた。扉には手書きで紙に書かれたK美さんの名字が、セロファンテープで適当に貼られた感じだ。
僕は数回扉をノックし、部屋の住人を尋ねた。出てきたのは、以前K美さんの自宅へ電話した際に、ガラガラの声で対応してくれたお母さんだった。
「はい?」
「初めまして、先ほど電話をさせて頂きました、K美さんの会社で働いてる…。」
「ああっさっきの人ね、ハイハイいらっしゃい。どうぞあがって。」
K美さんのお母さんの印象は、電話とは別人で気の弱そうな年配の方だった。着ている服はお世辞にも良い物とはいえず、かなりヨレヨレで何十年も使い回しされてる感じがした。居間へ行くと蛍光灯が薄暗く辺りを照らし、すぐ脇には仏壇が置いてあった。床は畳を模倣したビニールシートが敷かれ、歩く度にシワが波打ちそうだった。仏壇のそばの壁際には、へんてこなロボットの落書きが描かれていた。僕は仏壇側で正座をして、果物の詰め合わせを渡して、お母さんにご挨拶をした。
「この度は、本当に恐縮ながらもご愁傷様です…。」
「こちらこそ、わざわざ置いでいただいて、ありがとうございます。本当にあっという間で、あの娘とうちの人は本当に仲が悪くて、でも、やっぱり一応は紙の上でも親子なんですかねぇ、最後の時は、わーわー泣いてましたよ。お宅様の会社の…部長さんには、葬儀の手配や費用やら捻出していただいて、本当、感謝しております。」
僕の事ではないけど、一応頭を下げた。そしてやっぱり、ここでも部長の力があるんだ…。K美さんのお母さんは、こちらを見ているのだが、どこか焦点があってないような気がした。僕は断りをいれてから、仏壇へ線香を灯した。遺影には、K美さんのお父さんらしき写真がポツンとあったが、K美さんの顔はどちらの両親とも似ても似つかなかった。それを察したのか、K美さんのお母さんは淡々と口を開く。
「あの娘はねぇ、死んだうちの人の前妻の連れ子なんです。離婚後にうちの人があの娘を引き取ったものだから、正直、誰とも血縁が無いんです。それでも健気に、人様に迷惑を掛けないように育てたつもりなんですけどねぇ、どうも人付き合いがあまりうまくないみたいで、お金にもだらしないし…。」
その時、学生服を着た男の子が部屋に入ってきた。僕を見るなり目を逸らして、果物の詰め合わせをひょいっと取って違う部屋へ行ってしまった。それに対し何も言わず、淡々と話を続けるK美さんのお母さん。
「あの娘のせいで、よく借金取りが来るんですよ。本当に本当に迷惑でね。だから今回もそうかと思いましたよ。そしたらあの娘の恋人だって言うからねぇ、正直、びっくりしましたよ。今まであの娘は一度もここの敷居は自分の恋人をまたがせた事無かったみたいで、まぁそれはそれで今回は喜ぶべきなのかもしれませんが…。」
「いえ、こちらこそ…。まだまだお付き合いをさせて頂いて、全然短いですが…。」
「あ~そうですか。」
どこか焦点があってないだけでなく、僕の話にも上の空な感じだった。
「まぁ血の繋がらない私が言うのもなんですが、頭の悪い女が社会に出て仕事したって、ろくでもない事に巻き込まれるのがおちですからねぇ。とっとと誰かと結婚でもして安定した方が、身の丈で生きていけるってもので、まぁ、そこがあの娘の不器用で頑固な所なんでしょうか。取り扱いには大変でしょうけど、何卒宜しく頼みましたよ。」
呆気ない形でK美さんのお母さんに結婚を許されてしまった。何だか粗大ゴミでも、引き取ってもらう時のような挨拶だ…。こんなんで良いのだろうか?
「そろそろうちも夕食の支度をしなくてはいけないので、さぁ。」
「あ、ハイ…。あ、あのう、下でK美さんの帰りを待たせて頂いても、宜しいでしょうか?ご迷惑はいかけいたしませんので…。」
「あぁ、どうぞどうぞ勝手にやってください。」
「はぁ、ありがとうございます。」
僕は外まで行って、さらにお辞儀をした。K美さんのお母さんは、やっぱり焦点があってないような気がして、二度会釈すると、勢い良く扉を閉めて鍵を掛けてしまった。僕少し呆気に取られて立ち塞がっていると、中からテレビの音が鳴り出して、ビリビリと無造作に紙の破く音がした。
二階から下へ降りて、一階の廊下を眺めていると、二階よりも薄暗くて、木造の埃とカビ臭い匂いが充満していた。張り紙がヨレヨレになりながら、"廊下の電気 消し忘れずに!"と警告をしている。僕はアパートの玄関に出た。もう辺りはすっかり夜になって、雨が降りだした。玄関にはちょうど雨避けがあったので、今夜はここでK美さんの帰りを待っていよう。僕は自分のできる事をしたんだから…。
また、果物ナイフが胸ポケットで動いた…。
続く




