第五十六話
サバティーニの店内全てが再び歪んでいる。それは砂浜に一定のリズムで押し寄せる波のようだ。K美さんは『吾』と名乗る小柄の背虫男に宥められ、落ち着きを見せている。しかし、自分は『我』と名乗る大柄の大男に、長いタガーを突きつけられて、身動き一つできないでいる。
「エッへへへ、『自神』様。あっしらは貴方を救いにきました。」
「救い…に?」
「はい…。貴方様にとって、この先の記憶は非常に危険な因子を含んでいるからでございます。」
「『俺』は…あいつはどうしたんだ?」
「『我』々は、あの…『俺』様の命令でここまできたのでございます。」
「つまり『吾』々、あっしらは、危険な記憶の因子が暴走した時の、いわゆるストッパーみたいなもんでげす。」
「貴方様は、非常に繊細でお人がよすぎる為、記憶の断片に隠れた危険な自意識を判断する事は、お一人では難しいかと…。」
「エッへへへ、例えば…このK美という女性。これも貴方の危険な自意識の一人です。」
「フッ…まさか、そんなはずは無い。ならば、何故彼女は俺の左手をフォークで何度も刺したんだ?そんな記憶はどこにも無い。」
「確かに…。では無意識で彼女に殺される事を望んでいたとしたら?どうでしょうか。例えば彼女と同じ自殺未遂をしてしまった罪悪感とか?」
「罪悪…感…?」
「そうでやんすよ、旦那様。貴方様、他人を傷付けるよりも、他人が傷つき事に心を傷める方でやんす。」
「ええ、1993年の記憶が証明したではないですか。貴方の正義感や愛の騎士としての意思は、常に、この女性の身代わりになる事…。」
「へっへ、しかし危険な記憶の断片に潜む自意識は、そんな旦那様の正義感を食糧としているのでやんす。不必要とされた恨みを持って…。」
「…。」
小柄の男は、K美さんの神を右手で撫でているが、左手は腰の後ろに隠したままだ。彼らは明らかに救いに来たのでは無い。長いタガーが再び喉元に近づく。
「一つ、質問してもいいか?君達は助けに来てくれたと言う割には、随分と物騒な物を俺に向けているじゃないか?」
小柄の男と大柄の男は、お互いに顔を見合わせ、フッ…と笑った後に、K美さんにタガーを向けた。
「ですから、旦那様を助ける為でございます。」
「エッへへへ。勘違いさせてしまって、申し訳ございませんでやんした。何せ、この因子は次に何をしでかすか?分からないものでやんすから…。」
明らかにこいつらは何か違う目的を持って、ここにいるはずだ。助ける為に来たわけではないのに、ここにいるとしたら?
「しかし…。自分はこれからK子さんの自殺の真相を知る為に、この先の記憶を進めなければいけないんだ…。危険な記憶であろうとなかろうと、大切な自意識であるのは間違い無いだろう?」
さぁどうだ?『自神』が必要としている記憶に、お前達は少なくとも手を出すわけにはいかないだろう?二人は再び顔を見合わせ、不気味な笑顔を見せている。
「確かに…。」
「エッへへへ、旦那様の言う通りでやんすね…。」
「わざわざ、ここまで来てくれて有難う。しかし、後は自分一人で…。」
「おっと、そうは行きやせんよ旦那様。エッへへへ先ほども申した通り、こいつらはいつ何処で、貴方様を狙っているか分かりませんですぜ?」
「『我』々がお供致します。」
こいつらの目的は一体何なんだ…?だが、このまま硬直状態が続いても仕方ない。
「分かった…。だが、上手く存在を隠して見張ってくれよ。お前達は少なくとも1993年にはいなかったのだから…。」
「エッへへへ、もちろんです旦那様。」
「何かありましたら、お呼びください。」
そうだ…こいつらは確かにあの時にはいなかった。
続く




