第二十六話
仕事帰り、K子さんが入院する病院へ立ち寄った。彼女はなんとか、いつもと変わらない様子で接しようと努めてくれたけど、やはり昨日よりも気が滅入っている様子だった。まだ左手の包帯も痛々しかった。
「明後日には退院できそうなの。本当はその日でも帰れたんだけど、私、どうやら倒れた時に頭ぶつけてたみたいで、その検査も一応ね…。」
「そうだったんですか…。体調は大丈夫なんですか?」
「うん、体調は平気…。」
「何か…他にも?」
「ううん、何でもない事なんだけど、よく考えたら色々な人に迷惑掛けたし、なんか自分が嫌になっちゃって、おまけに旦那は…。」
ひょいと脇から取り出したのは一冊の臨床心理学に関する本だった。
「こんなわけの分からない本買ってきて、読めですって…。私はただケガしただけなのに、本当に嫌になっちゃって…。」
少し中身を読んでみたけど、う…なんでこんな本を今のK子さんに?きついだろうなって思った。
「実は…今日は僕、K子さんにプレゼントがあるんです。」
「えっ?!」
「前に、どこかのバンドのジャケットに使われた絵画が、すごく気になるって言ってたから、ひょっとしたらこれかな~って思って…。」
カバンから取り出したのは『ドラクロワ ~色彩の饗宴~』という本。彼女は表紙に描かれた有名な絵画、"民衆を導く自由の女神"を見た瞬間に感激して喜んでいた。
「そうそう!これこれ!何で分かったの?」
「最近アルバムで使われた絵画で有名なのはこれくらいだったから…。」
「ありがとう~!スッゴク気になってたから、何という名前の画家さん?」
「"ウジェーヌ・ドラクロワ"というフランスを代表する巨匠なんです。」
「へぇ~すごい人なんだ~。」
彼女はゆっくりとページをめくろうとしたが、左手で支えるのが辛そうだったので、僕はそばに近づいて、彼女の代わりに本を開いてあげた。
「この写真の人が…ドラクロワ…って人?」
「うん。」
「ずいぶん…ハンサムな人ねぇ~。」
「たまにモデルと付き合っちゃうことも…あったみたいですよ。」
「ありゃりゃあ…。」
彼女は困った子供を見るような、そんな母性に満ち溢れた笑顔で見つめていた。何ページがペラペラめくると、ある絵画のところでじっと見つめたままになってしまった。全く何も話さず、笑顔も消えて、集中と真剣な眼差しでいた。ようやく話しだしたのは、五分くらい経ってからだった。
「両手を広げている女性の…この絵は?」
「あっ、これは…、"ミソロンギの廃墟に立つ『ギリシア』"って作品で、当時ギリシャのミソロンギという都市がトルコに滅ぼされて、その事をドラクロワが嘆いて描いたそうなんです。」
彼女はまた何もしゃべらなくなり、じっとその絵を眺めている。何度も何度も中央にたたずむ女性と目を合わせながら、そしてようやくポツリつぶやきはじめた。
「なんだか…、最初この絵を見たとき、私は女性がとっても悲しそうに見えたんだけど…。でも、この人の目はとっても力強くて、どこか遠くをまっすぐ見つめていて、不思議だなって…。」
彼女はそれでもこの絵から目を離すことができず、じっと見つめながらまた、ゆっくりつぶやいた。
「なにか…、この絵は今の私と似ているかも知れない、そう思ってしまったら逃れられなくて…。不思議な勇気をくれてる…気がするの。」
すると突然、彼女は僕の頬に優しい唇を軽く重ねた。
「ありがとうね!」
僕を見つめる彼女の瞳には、もう今日会った時迄のような滅入った様子はなく、少しずつ何かを取り戻しているようだった。
続く




