第十九話
K子のマンションを出たのは結局夜だった。忘れたい記憶ばかりだ。もうこりごりだ…。
流れ着いたのは、とある街の地下にあるバー。辺りにはタバコの煙が充満し、数人の若い連中がビリヤードをしている。ずいぶん寂れた感じだった。ここからも俺はあの匂いから逃げられないのか?ジャックをロックで一人飲むことにした。
数十分後、一人の若者がライターはないか?と尋ねてきた。吸わないから無いと答える。だが、本当は持っていた。持ち主から投げ付けられたライターを…。心とは裏腹に握り締めていた。
ビリヤードの連中は何か話をしている。実に楽しそうだった。どうやら悪魔の話をしているようだ。だが、彼らの語る悪魔は、典型的なイメージだ。つまらない。ガキの映画じゃあるまいし。何が黒い翼だ、何が二本の角だ、何がしっぽだ。あまりの阿呆臭さに、トイレに行くと、いきなり鏡き出くわした。またそいつがこちらを睨んでいる。奴の左手には、俺が右手に握り締めたライターを握っている。なんて無様なんだ。なんて愚かなんだ。なんて惨めなんだ。
気が付くと俺はカウンターに腰掛けて、彼らに本当の悪魔の話をしていた。何度も店員に注意されたが、若者達は彼らを制止して、俺の話を最後まで聞きたがっていた。
本当の悪魔は相手を騙すためにいるんじゃない。本当の悪魔は自分を騙すためにいるんじゃない。本当の悪魔は自分が間違っていないと、信じ切っている奴らの事だ。彼らはそのためなら平気で人を傷つけ、平気で人を踏み躙る。それはされた方にさえ分からない手口でだ。君、そこの君はさっき自分が迷った時に悪魔と天使が囁くと言ったね?本当にそうなのか?何かの見過ぎだろ?俺からすれば純粋でやけに親切じゃないか?悪いことを囁くんだろう?なんてモラルがあるんだ。逆に天使は自分のしたいことを止めようとする邪魔者じゃないか。
本当に迷ったとき、人の心に訪れるのは、裏も表もない、不安定な沈黙だけだ。その不安定な沈黙は、自分を油断させ、色々な可能性を考えさせる。だが、どれもこれもしっくりこない。なぜならば、どれも選びたくないからだ。それは悪魔でも天使でもない。ただ存在する世界ってやつだ。人間の世界には、悪だろうと善だろうとモラルに縛られたふりをしている俺達がいる。だから悪も善もモラルなんて存在しない世界を信じられずにいる。誰にでもいずれ死が訪れる世界に、人間の生み出した善や悪のモラルは通用しやしない。ただその世界はひっそりと俺達に死が訪れるのを見ているだけなんだ。
気が付くと、さっきまでいた若者は誰一人いなくなっていた。店員もいなかった。俺はカウンターから腰を降ろし、金を置いてそのバーを後にした。肌寒い夜風が、心地よく辺りを包む。足元で水溜まりが揺らいで、あいつがこちらを覗いている。どうだ?これで満足か?そいつはとうとう笑いだした。あの時のように…。
その夜、俺は初めて夜に愛された…。
続く




