雨の水曜日
その日は雨だった。
綾子は今朝はクローゼット前で目が覚めた。
お決まりの空色の椅子にはお決まりのペットボトルとメモ。
「行ってくるよ。今日は1日雨だ。明日のクリニックでは俺が長谷川先生に謝る。だから君は何も気にしないで。隆弘」
の文字。
隆弘がかけてくれたブランケットからもそもそと這い出て、水を一口。そして隆弘のメモを小箱にしまう。
これは綾子の習慣だった。
ふらふらと夜中に彷徨い歩く自分に対する隆弘の献身。その記録を1枚1枚、すべて大切に取っておきたい。
そして、小箱をぎゅっと握りしめた。
(隆弘、ごめんなさい。私、どうしても⸺)
ゆっくりと身体を起こすと、綾子はそのままキッチンへ向かった。
水曜日の雨とは皮肉だな、と調剤室で柊は笑みにもならない笑み⸺口角をほんのり上げた。
雨の日はたいてい、患者も体調を崩す。その日の午前は大忙しだった。
昼過ぎ。ようやく取れた休憩。
カップラーメンで手早く済まそうとポットのお湯を再沸騰させていると、
「あのう」と微かな声が聞こえた。
調剤室には自分しかいない。
柊は舌打ちしながら、カウンターに出る。
「すいません、今ちょっと⸺あなたは…早乙女さん、でしたね…」
薄いブルーのシャツワンピースに、コンバース。ビニール傘に、おそらくハンドメイドであろうトートバッグ。
「はい。こちらの長谷川先生にお世話になっております、早乙女綾子です。先日は主人が大変な無礼を⸺お詫びと言ってはなんですが、これ…シフォンケーキを焼いたんです。お口に合えばいいのですけど…」
180cmの自分に対し綾子は160cmくらいだろうか。自然と見下ろす形になる。
華やかな美人、ではないにしろぱっちりとした目は愛らしくとても年上には見えない。肌もきれいだ。あの過保護な旦那がいい化粧品でも買い与えているのだろうな。などと逡巡していると
「柊さん?」と再び声をかけられた。
「甘いの、お嫌いでしたら捨てていただいて結構です。私ったら柊さんの好みも知らずに…」
ぱっちりとした目は伏し目がちになってしまっている。
「いや、ありがたいんですが…いいんですか?ご主人に怒られたりしませんか?」
と言うと、
ぱっと花の咲いたように顔を上げて
「よかった…」と微笑む綾子に、柊は打ちのめされてしまった。
あんな心の奥底に澱を抱えている人が、どうしてこんなふうに笑うことができる?
「それじゃ…次は診療日に。と言っても明日ですけど」
と去っていく綾子を見送って調剤室に戻る。お湯はとうに湧いていた。




