師弟
柊と長谷川。師弟関係の見える一節です。
綾子と隆弘が抱きしめ合っているほぼ、同時刻。
柊はすっかり人のいなくなった調剤室に篭って黒いシルクの手袋をした右手を見つめていた。
時折チカ、チカと白熱灯が点滅する。その明暗の中で柊は椅子に身体を投げ出して、物思いに耽っていた。
分かっている⸺つもりだった。
この能力は異端なのだと。だから手袋をして他人から遠ざかり生きてきた。
手袋をするよう勧めたのは祖母だった。もう、今は鬼籍の人だが。
「難儀なことだよ…ヨシ坊。お前のこの力はお前も、そして人様も傷つけちまう…せめてこれを…じいちゃんにが若い頃つけてた手袋だぁ。いずれサイズが合わなくなる頃には、お前も独り立ちするだろうから…自分で新調するといい。なにがあってもばあちゃんだけはヨシ坊の味方だからな…。」
時計屋を営んでいた祖父母。時計という繊細なものに触れる際には必ず、手袋が必要になる。祖母が大事そうに桐の箱から取り出してきたそれは、使い込まれてこそいたが、白く威厳を放つ小さな手袋だった。
「形見だからなぁ…ばあちゃんがじいちゃんのところに行くときに一緒に持ってこうと思ってたんだぁ。でも、じいちゃんはこうした方が喜ぶと思うんだぁ。遠慮なんて子供がするもんじゃぁないよ。孫が可愛くない人間がどこにいるって言うんだ。ああ、大丈夫だからなぁ…泣くんじゃないよ、ヨシ坊…」
手袋は今はオーダーメイドのシルクのものをつけているが、あの手袋に敵う手袋はなかった⸺と思い出に浸っていると、ふと声をかけられた。
「帰らないのかね」
金縁めがねで口ひげの似合うその人物⸺かつて師と仰いだ長谷川だった。
「長谷川先生、俺は⸺差し出がましいことをしました。」深々と頭を下げる柊。
その柊を見て長谷川は、「ふむ。」と一息ついてから、
「柊。頭を上げなさい。事故、だったんだろう?綾子さんに触れてしまったのは。」と慰めるような口調で語りかけた。
「そうです。事故、でした。あまりにも暑くて…俺、自販機にコーラを買いに出たんです…一時、その冷たさに触れたくて…手袋を外しました。事故ですが、俺の責任です。申し訳ありませんでした。」
柊をそっと顔を上げた。長谷川は目をつぶりながら何かを思案するように柊の言葉を聞いている。
「柊。人間というのは硝子細工のように脆い。何かに縋らなきゃやっていけないこともある。君が、そのコーラの缶に涼を求めたように。」
調剤室の片隅に未開封のまま置かれたコーラの缶。それはかつて一時の涼をもたらしたときとは打って変わってへぬるい無機質な存在へと変わってしまっている。
「彼女の、綾子さんの過去が視えたのかね。」
チラと時計に目をやりながら長谷川が問いかける。
時間はもう、21時を回っていた。
「⸺視えました、いえ、正確には視えませんでした。彼女の心には彼女自身が作り上げた、硬い硬い蓋がある。透き通ってはいたけれど⸺その深淵は俺でも視えませんでした。ただ、おそらく…あれは幼い頃の彼女でしょうか…泣いている少女が視えた。俺に視えたのはこれだけです。」
「柊。これは師匠としての進言だ。もう彼女には踏み込んではならない。まあ、次の木曜も来てくれたらの話だがね。君の能力は救いになることもあるだろう。けれど⸺」
一気に話して疲れたのか、長谷川が一息つく。
「年を取るといかんな。教壇に立っていた頃は90分喋りっぱなしだったというのに。すぐに疲れてしまう。そう、君のその能力は、他人を暴く刃にもなる。そのことは、かつて君に何回も聞かせたね。違うか?柊。」
そこまで言うと長谷川は調剤室に残っていたコーヒーを紙コップに注いで一口飲んだ。
「不味いな。大抵こんな時間まで残ってるコーヒーなんてのは不味い。」
「長谷川先生。俺はわかってます。綾子さんのことも事故でした。俺は⸺明日からまたただの薬剤師です。」
激高する隆弘を前に眉ひとつ動かさなかった男が、沈痛な面持ちでうなだれている。
長谷川はそんな柊を見て、
(ああ、柊由人。この男は⸺今も昔もこんなに不器用で、それでも夢を捨てきれずにいる。能力を使う反動は並大抵のことではない。対象の過去を追体験すれば自分だって傷つく。この男は、本当に⸺)
思考を巡らせたあと一言だけ柊に言った。
「帰ろう。明日も仕事だ。」




