帰路
「綾子。転院しよう。」
帰りの車の中で隆弘がそう言い放った。
「過去視?バカげてると思わないか?長谷川先生も先生だ。そんなものに誑かされる医者に信用なんて置けない。」
ハンドルをぎゅっと握りしめながら語気荒く話す隆弘を宥めるように綾子は言った。
「隆弘。ねぇ、隆弘。あなたが私を心配してくれてるその気持ちは痛いほど分かるわ。でもね、隆弘。」
そっと隆弘の顔を覗き込むようにして綾子は続けた。
「心療内科において、ドクターとの信頼関係を1から作り直すのは私が疲れてしまうわ。長谷川先生と3年かけて作り上げた信頼関係に嘘はないはずよ?そうは思わない?」
隆弘は路肩に停車して綾子を見つめた。
自分を宥めるような、懇願するような、憂いを帯びた瞳。ハザードの音がやけにやかましく聞こえる。
「…君の言うことは最もだ。でも、綾子。俺は君があの柊とかいうおかしな薬剤師に誑かされないか…それが心配で…。」
隆弘の顔が歪む。その頬にそっと手を置いて綾子は続けた。
「隆弘。私達出会って16年、色んなことしてきたわね。若い頃はお互い誘惑もあった。そうじゃない?」
隆弘が綾子を見つめ返す。
「正直に話すわ。私、あなたと付き合い始めてから今まで何人かの男性に言い寄られてる。でも全てお断りしてきたわ。ときには平手打ちすらした。何故かわかる?」隆弘のもう片方の頬に綾子の手が伸びる。
「貴方しか、愛せないからよ。貴方が私を愛してくれているように。」
そのままそっと隆弘に口づける。頬に当てた手を肩に回して、繰り返す。
「貴方しか、愛せないからよ。」
「綾子…。」今度は隆弘の方から、力強い抱擁。
「済まなかった。長谷川先生には後日謝ろうと思う。ただ、俺は、俺は…君を…」
「もう、何も言わなくていい。わかってる。大好きよ。」
対向車が何度か停車している二人の車を照らす。
それでもふたりは抱き合うのをやめなかった。
いつの間にか高く登った、猫の目のような細い月が静かに夜道を照らしていた。




