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夢の監獄  作者: 杜 妃湖
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ノヂシャの姫君

時は少し遡る。

帰宅した綾子はベッドに横たわり、震えていた。


(私…私は…)

先刻柊の左頬を打った右手を見つめる。

(私は…なんてことを…)

ぎゅうっと目を瞑る。

いっそ全てが何もなかったことになればいいのに。

あの人は⸺柊さんはただただ私のためにあれこれと調べてそして行動してくれた、それだけなのに。


右手がジンジンと痛む。

すう、と息を大きく吸うとまた涙がボロボロと溢れだす。

(どうして、どうして私は⸺こんなにもわがままで傲慢で⸺いつまでも守られているの…どうして…)


頬を伝う涙がシーツに染み込んでゆく。

(綾子、考えなさい、考えるの。いつまでも甘えてはいられない。考えるの。あなた自身のことなのよ。)


とめどなく溢れる涙。だが泣いてなどいられない。

(もう、車輪は回り始めてしまった。それなら⸺)


綾子はぐい、と涙を拭うとシャワールームへ向かい夜風で冷えた体を温めた。温かな湯に打たれながら綾子は何かを決心したような眼差しで、虚空を見つめていた。


翌朝。

綾子は何処かへ電話をすると身支度を整え、出かけていった。



昼過ぎ。血色の戻った柊は早めの有給消化を金沢に打診されていた。

「君のためでもあるんだ、柊くん。ここに来てから君、一度も有給を取っていないね?勤務日数からしても有給を取れるだけの権利はある。いいかい。一週間の短い秋休みと思って養生するんだ。いいね。」金沢はそう言うと抽斗から有給申請書を取り出す。

「君はいささかワーカホリックなところがある。優秀で真面目なのは僕も長谷川先生もよくわかっているよ。でもそう何回も倒れられては⸺心配なんだよ。わかるだろう?」

金沢は本気で心配していた。それは懇願するような眼差しではっきりと、明らかに誰にでも伝わることであった。


「わかりました。すみません、俺…」

柊は頭を下げる。

横から奥井が声をかける。

「あのね、柊くん」

一瞬言い淀んでから奥井は続けた。

「君に必要なのはまず休むこと。それから食べること。しっかり滋養をつけて、よく寝て。そしたらまた一緒に頑張りましょ?ね?」


柊は目を閉じ、眉を顰め、たった一言こう言った。

「わかりました。部長、それに先輩方。お言葉に甘えさせてもらいます。」


(俺は、本当にだめなやつだな…)

帰り支度をしながら柊は叱られた子供のように俯く。

実際は誰も柊を責めたりはしていない⸺長谷川以外は。

(ドン・キホーテか…本当にその通りだ…)

のろのろと調剤室をあとにすると深々と礼をして、クリニックを後にする。

車に乗りんだその時だった。

今の陰鬱な気持ちとは全く正反対の軽快な通知音が響く。綾子との専用端末だ。

柊は恐る恐るメッセージを開く。

そこにはこうあった。


「昨日はごめんなさい。ほっぺた、大丈夫ですか?」

(綾子さん⸺)

そして更にもう一つメッセージが届く。

「今夜、あのコンビニでお待ちしてます」


夜。19時を回った頃。

柊はコンビニで綾子を待っていた。

(綾子さん⸺)

これから何が待ち受けているのだろうか。罵倒?完全なる拒絶?それとも⸺

(俺のせいだ。あの人を泣かせた。それが何であろうと受け止めなくてはいけない。)


柊は両頬を軽くパン、と叩くと目を瞑る。

鼓動は否応なしに早くなる。

と、その時。

コンコン、と車の窓をノックする音がした。柊が目を開けると綾子が立っていた。すっかりと冷え込むようになったからか、首元にはピンク色のマフラー。

柊は慌てて助手席のドアを開ける。

「こんばんは。呼び出してごめんなさい。それから⸺私、昨日あなたのこと叩いてしまって…」綾子は柊の左頬にそっと触れる。

「ごめんなさい…。あなたはただ私のために、できることをしてくれただけなのに、私は一時の感情に任せて…」目を伏せながら謝る綾子をただ、柊は見つめることしかできない。


しばしの間。

「少し暑いわね」

そう言って綾子がマフラーを外す。

その髪はバッサリと、ショートに切られていた。


「綾子さん…その髪…」

柊は無意識に綾子の毛先に手を伸ばす。

「今日、あの人のところに行ってから、切ってきたわ。変かしら…?」

そう言ってはにかむ綾子に柊は慌てて伸ばしかけた手を引っ込めて答える。

「いえ。似合ってます。それにしても思い切りましたね…」

「人生で初めてのショートカットなの」と照れたように綾子は笑うと、そのまま言葉を続けた。


「⸺柊さん、聞かせてちょうだい。あなたのプランを。」

その瞳はまっすぐに、揺らぐことなく柊を見つめていた。

コンビニの薄明かりには行き先を失った虫達が集まり始めていた。




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