ドン・キホーテのラプソディー
(何やってんだ…俺は…)
散らかったワンルームに帰り柊は一人途方に暮れていた。
素直に、チャンスだと思った。あの男⸺隆弘。支配欲の塊のような彼女の夫が入院している。調査を進めるには絶好の好機だと。
でも献身を重ねてきた夫に対して誠実な綾子がそれを見捨てるわけもない。
(ほんとにバカだ⸺俺は…一人で突っ走って…あの人を泣かせて…)
無意識に叩かれた頬をさする。
痛みはもうない。
(いっそいつまでも痛ければ…罰になるのに…)
だが放たれた言葉は消すことはできず、鋭いガラスのようにあの人の胸に刺さってしまった。
(俺もまた加害者だ…)
柊は長谷川の言葉を思い返していた。
「言うなれば君も彼女も被害者なんだよ。この私のね。」
柊は這うようにベッドに向かうと、そのまま体を預けた。深夜2時。考えても考えても堂々巡り。そのうちに睡魔が襲ってきて、柊は眠りについた。
翌朝。
(ひでえ顔…)
寝不足に加え明らかに落ち込みを隠せないその表情は、やや彫りが深く整った顔に暗く影を落とす。
「行かなきゃ…」そう放った言葉は昨夜飲んでいたコーラの缶に吸い込まれていった。
「おはようございます」
いつものように職場に到着して、自分のデスクにつく。
「おはよ…柊くん!どうかしたの!?」
奥井が吃驚したように声を上げる。
その声に金沢も柊の方を見やる。
やはり驚いたような顔。
「どうかしましたか?」不思議に思い柊が返事をすると金沢が歩み寄ってきた。
「柊くん。悪いことは言わない。帰りなさい。」そう言われて肩を叩かれる。
全くわけがわからない。
「あの…」と戸惑っていると奥井が自分のカバンから手鏡を取り出す。
「朝起きてから自分の顔、鏡で見た…?」
恐る恐る尋ねられ、奥井から手鏡を受け取る。
そこに映る顔を見ると⸺
そこにはとても濃く⸺それこそアイシャドウでも塗ったかのような真っ青なクマに、青ざめた⸺否、青を通り越して真っ白な顔。無精髭だらけの口元。
(あ…髭…剃り忘れた)
柊は口元に手を当てながら、
「すみません、朝少しバタバタしてて。俺、ちょっと売店でカミソリ買ってきて剃ってきます」
と言った。
奥井が慌てたように返す。
「違うって!そういうことじゃなくて!!」
とまくし立てる奥井を遮り金沢が立ち上がり奥井に向かって首を横に振ると、「幸いと診療時間前だ。長谷川先生を呼んでくる」と調剤室を出ていった。
全く理解のできない柊。
頭にいくつものハテナマークが浮かぶ。
「ねぇ」と奥井がもう一度おずおずと話しかける。
「ゆっくり深呼吸して。もう一度、その頭にかけためがねちゃんとつけて、自分の顔見てみて…?」
(あれ…?俺めがねしてなかったっけ…?)
言われるままに頭に手をやるとそこにはいつもの慣れた感覚。めがねをかけて再度奥井に手渡された鏡を見る。
そこには絶望に打ちのめされて、まるで10歳は老けたかのような自分の姿が写っていた。
(え)
と思う間もなく金沢が長谷川を連れて戻ってくる。
長谷川は柊を見るなり深いため息をついて、
「柊。処置室まで来なさい。」
と一言。そして更にこう告げた。
「そんな死神みたいな顔した薬剤師に薬を出してもらいたい患者がいると思うのかね。来るんだ。」とその言葉を聞いた瞬間、柊は膝から崩れ落ちた。
(あ…?)と考える間もなく床の冷たい感触が頬に伝わる
「おい!ストレッチャーだ!!早く!!」
「柊くん!?ねえしっかりして⸺」
もはやその喧騒は柊には届いてはいなかった。
処置室。柊は大人しく点滴に繋がれていた。
時間は間もなく正午。
一旦、クリニックが閉まる。
(俺…何しに来たんだろう…)ぼんやりと考える。
倒れた。しかも2回目だ。
(また先輩たちに迷惑かけて…)
と、その時ノックの音がした。
「入るよ」と長谷川がドアを開け、ツカツカと柊の元まで歩み寄る。
呆れたような眼差しでじっと柊の顔を見ると
「ふむ。血色は戻ったようだな」
と安堵の顔を浮かべた⸺刹那。
「全くこの、愚か者めが。」
長谷川は拳を握りしめ、柊の頭にコツン、と小さな拳骨を落とした。
微かな、本当に微かな痛みが走る。
「医療の道に携わる者がそんなことでどうする。いいか、柊。君が今日朝から今までしてきたことをよく考えてみたまえ。」
ふぅ、大きなため息を一つ挟んで長谷川は続ける。
「倒れる寸前のコンディションで車を運転し、通勤してきた。本当によく事故を起こさなかったものだよ。今一度よく反省するんだ。君は、下手をしたらここに来るまでに死んでいた⸺或いは誰かを殺してしまっていたかも知れないんだぞ。」
(あ…)
全くもってそのとおりである。ぐうの音も出ない。
沈黙。
そしてぽそり、と長谷川が小さな声で柊に尋ねる。
「あの騎士を⸺早乙女隆弘をどう打ち倒すか、考えていたのかね」
(俺は…そうだ…俺…綾子さんを…)
何も言い返すことのできない柊を見つめたまま長谷川はまた一つ大きなため息をついて言った。
「言ったはずだ。あの騎士は一筋縄ではいかないと。今の君は目先のことしか考えられない、否、目先のことに囚われたドン・キホーテだ。」
それだけ言うと長谷川は去っていった。
窓の外では枯れ葉がまるでそれぞれの意思を宿したかのように舞い落ちていた。




