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夢の監獄  作者: 杜 妃湖
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予兆

静かなテラスに響く奥井のひくっ、ひくっとしゃくりあげながら泣く、声。いつも勝ち気でムードメーカの先輩が大粒の涙を流して泣いている。それをただ、見つめることしかできない柊。

早秋の風が吹き抜ける。

「奥井さん⸺」やっと声を振り絞る。

奥井は柊の方を見る、と同時にグシャグシャの顔でニコリと微笑んだ⸺刹那。

予想もしなかった発言が柊の鼓膜をビリビリと響かせた。

「…柊くんって童貞でしょ。」

(…は?)脈絡のなさに唖然としていると、

奥井は柊をキッと睨み、

「こういうときはね!!背中をさするとか!!ハンカチを差し出すとか!!あ〜もう!なんか気の利いたことするのが定石なの!!わかる!!?」

先程までしおらしく泣いていたとは思えない勢いで奥井がまくし立てる。

(あ…。)

そうか。この人が欲しがってたのは慰めなのか。

慌ててポケットをまさぐる。

くしゃくしゃのポケットティッシュが出てくる。

「こんなのしか、ないんですけど…」とおずおずとそれを差し出す。ティッシュを強引にひったくる奥井。

と、その瞬間。

「プッ…フフッ…あはははは!!ちょっと柊くん、これ…フフッ…やめてよもー…フフフッ…」と声を上げて笑いだした。

さっきまで泣いていたのに。

何がおかしいのかと差し出したティッシュを見る。

広告が挟まっている。そこには

「JK、スク水、バニー、人妻⸺一夜の欲望叶えます⸺」の文字。

「うわー!!」今度は柊が声を上げる。

「違うんです!!たまたま駅歩いてたらもらったやつだこれ!!もらったというかねじ込まれたというか!!あの、俺こういうとこ利用したりしないですからね!?」

奥井はヒーヒーと引きつるように笑いながら、

「わかったわかった、で、JK、スク水、バニー、人妻のどれ選んだの?先輩に聞かせてみなさいよ」と続ける。

「ですから!俺こういうとこ…」

とさらに弁明しようとする柊を遮り、奥井はクスクス笑いながら言った。

「あーおかしい…呼吸困難になるかと思った…」

そしてそのティッシュで思い切り鼻をかむと、

「ありがと」と柊に微笑みかけた。

「なんかなー。バカみたいに笑ったらスッキリしちゃった。ごめんね、付き合わせて。」と残りのティッシュを柊に返すと「メイク直さないと。あーあ、マスカラ取れてる…最悪…。先、戻ってるね。」と颯爽と去っていく。

(強いな…)

柊はその背中を見送る。

と、奥井はくるっと振り返り一言柊に投げかけた。

「柊くんもちゃんと人間臭いとこあるんだね。なんかちょっと安心しちゃった。またあとでね。」


間もなく昼休みが明ける。テラスには少し気の早い落ち葉が風に吹かれて舞っていた。



そして、土曜日。

今日は退勤後に綾子と会う約束がある。

奥井はすっかりと落ち着きを取り戻している。

(全く強い人だ)

自分の前で思い切り泣いたかと思えばケタケタと笑い転げて、そしてしっかり自分の気持ちの整理をつけたのだろう、いつもと同じように手際よく仕事をこなすその姿を見て、

(見習わないとな…)と一人思う。


(安い挑発に乗って、取り乱してるようじゃあの人を救うなんて到底できないぞ、しっかりしろ由人。)

そして柊もまた、いつものように丁寧に業務に集中した。



退勤後。

今日の待ち合わせは駅前のファミレス。

ガヤガヤという喧騒が響くその店に、今回は綾子は一足先に着いていた。薄手のタートルネックセーターに、デニムジャケット。そしてシフォンスカートにお気に入りのコンバース。ほんのり頬が赤いのは、空調が効きすぎているせいだろうか。

「済みません、待たせてしまいましたね」

予約席、と書かれたその席に柊がやってくる。

綾子は「いいえ、今来たばかりよ」と笑って返す。

安さが売りのそのチェーン店の壁には宗教画に出てくるようなロココ調の天使の絵が描かれている。

安っぽい作り。でもその天使の絵を背景に座る綾子はいつもよりも美しく見えた。


簡単なつまみ程度の食事とドリンクバーを注文する。

綾子はホットの紅茶を。柊はお決まりのコーラだ。


「柊さん」

綾子が口を開く。

「今回視ていただく前に話があるの。」

その顔はどこか不安げで⸺しかし真剣だ。

「何でも聞きますよ。どうぞ」と促すと綾子はんっ、と咳払いをしてゆっくり話し始めた。


「こんなこと、人に言うことではないと思うのだけど…」と前置きをすると、意を決したようにぐい、とタートルネックセーターの襟元を下げてみせた。

「ここのところずっと…水曜と金曜の夜にあの人に求められるの。」

細い首にはいくつものキスマーク。青く変色しているものさえある。

執拗に吸わなければできないであろうそれは痛々しいほどに綾子の首に刻まれている。

柊の肚にまたズクンと疼きが走る。

綾子は着衣を正すと「多分だとおもうのだけど…」と続けた。


「もしかして、バレているのではないかと…思うの。」綾子は眉をひそめた。


水曜日はクリニックの前日。そして金曜日は密会の前日。


柊は確信した。

あの男に⸺隆弘にバレている。その上で泳がされている、と。

だからあの男は自分の印を綾子に刻むのだ。痛々しいほどに。それは最早庇護者ではなく、支配者⸺否、所有者のマーキング。


「でも」と綾子はまっすぐ柊を見据えた。

「ここまで来たら、私、引き下がるつもりはない。」


その瞳はどこまでも真っ直ぐに柊を見つめていた。


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