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夢の監獄  作者: 杜 妃湖
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とある女史の告白

翌日柊は誰よりも早く出勤して、昨日の慌ただしさの残る調剤室の片付けをしていた。

アルコールを含ませた紙ふきんで作業台を拭きあげて、それぞれが作業しやすいようにテキパキと備品の配置をしたり、データをまとめたり。

静寂の中の作業。

先程清掃員の女性が窓口の前を通り過ぎた。

声をかける。

「清掃員さん。すみません、昨日の男子トイレの汚物、あれ、俺です。余計な仕事を増やしました。」と深々と頭を下げる。

初老の清掃員はからからと笑って答える。

「いいのよ、そんなこと。だてに場数踏んでないわ、あんなの可愛い方よ。それよりもあなた、倒れたって聞いたけど大丈夫なの?」と労われる。

「はい、おかげさまで。ご心配とご迷惑をおかけしました。」と深々と頭を下げると、初老の清掃員は「無理はしないことね。大分肌寒くなってきたから」と外を見る。

もうすぐ10月。外はアキアカネがツイ、ツイと飛んでいる。

(ああ、下りてきたな)

と柊は赤く成熟した蜻蛉たちをしばし眺める。

「次の局面、どう出る。」

昨夜の長谷川の言葉が脳裏をよぎったその時だった。


「柊くん…!!」

そこには目を腫らした奥井がドアノブに手をかけたまま立っていた。

「あたし…っ!!ごめんなさい!柊くんがそこまで潔癖と思ってなくて…」

赤く腫らしたその目からは今にも涙がこぼれそうになっている。

(そういえば返事を返してなかった)

そう思いながら慌てて柊は奥井に告げる、

「奥井さん。ご迷惑をおかけしました。違います、俺別に潔癖とかじゃありません。昨日ぶっ倒れたのは完全に自分の不摂生です。申し訳ありませんでした。」

奥井はおずおずとドアを閉めると「そうなの…?」と返す。

「そうですよ」

柊は言葉を続ける。

「奥井さん、きれい好きですよね。デスクも誰よりもきれいだし。多分奥井さんが俺の部屋見たら卒倒しますよ。めちゃくちゃ散らかってるし、ゴミは捨ててないし。」

「でも…それ…」と奥井は柊の手袋を指差す。

「オーダーメイドなんだって金沢さんから聞いた。それにいつも柊くんて素っ気ないし…だからあたし、てっきり…。」

「ああ」

と柊は黒いシルクの手袋がはめられている自分の手を見やり、こう続けた。

「俺、小さい頃アトピーひどくて。あんまりお見せできないんですよね、手。普通の綿の手袋もちょっとムレて合わなくて…。だから、長谷川先生に特別に許可を得て、こうしてオーダーメイドの手袋使わせてもらってるんです。」もちろん、嘘だ。ここに勤務が決まった際に長谷川と作った小さな嘘。


「そう…なんだ…。そっか…。なんかごめん。あたし…早とちりして…。」

「いや、俺こそすみません。昨日心配してくれたのに既読スルーしちゃいました。あ、体調はもう万全なんで。本当に今度から気をつけます。すみませんでした。」柊は奥井にそう頭を下げると作業に戻っていた。


奥井は黙ってその背中を見つめていたが、同僚たちがぞろぞろとやってくると急いで自分も支度に取り掛かった。


昼休み。

柊はテラスで外を眺めながらカロリーバーとスパウトパウチのゼリーを昼食にしていた。

クリニックの裏手は、人工的な小さな里山になっている。一級河川に注ぐ小さなせせらぎと、様々なブナ科の樹木。重度の障碍を持つ人たちや精神疾患の中でも重いものを患った人たちがリハビリに歩けるよう、遊歩道も設置されている。

せせらぎを眺めるとアキアカネ⸺或いはナツアカネも混じって、時折チッ、チッと自分の尾を水につけてゆく。産卵だ。


と、後ろから声をかけられた。

「ここにいたんだ。」奥井が弁当を片手に立っていた。

そして柊の簡素な昼食を見るなり、

「もう!」と声を上げる。

「こんな簡単に済ませるから倒れちゃうんだよ!ほら、これ!」と弁当を押し付ける。

柊は吃驚して「え、だって奥井さんの飯…」と返そうとするとそれに被せたように

「2つあるから!食べて!」と弁当包みを広げる。

そこには確かに、小さな弁当箱が2つ重なって置かれていた。

柊がキョトンとしていると奥井は「食べたくないなら、いいけど…」と拗ねたように顔をそらす。


(これ、答え1択しかないよな…)と思いながら、「奥井さん。ありがたくいただいていいですか。」と言うと奥井の顔がぱっと明るくなる。

「うん、食べて!」

勧められるままに口に運ぶ。おそらくは夕飯の残りであろう酢豚に、卵焼き。タコの形に切られたウインナー。ブロッコリーも入っていて彩りもきれいだ。

「うまいです。」素直に感想を述べると、奥井は照れたように笑った。

「あの、これ…わざわざ俺に?」と聞くと奥井は笑ったまま答えた。

「あー…これね…実は昨日彼氏と別れてさ…。」

笑ったままの顔で奥井は続ける。

「あたし、重いんだって。同棲してたんだけどね。毎日献立考えて、マメにメッセージ送ってさ。でも最近メッセージの返事がなかなか帰ってこなくて、それであたし、昨日試したんだ。帰り少し遅くなるってメッセージ送って、そのまままっすぐ帰ったの。そしたら何があったと思う?」

柊が返答に困っていると、奥井はフフッと笑いながら続けた。

「玄関の鍵開けようとしたらさ、なんか中でドタバタ聞こえるわけ。で、玄関開けたらあたしのじゃないパンプスがあってさ⸺そのままベッドルームまで行ったら彼氏と知らない女が素っ裸でいたの。笑っちゃうよねー。」

「⸺奥井さん」

やっと紡いだ柊の言葉も無視して奥井は続ける。

「でさ、でてけー!って彼氏もその女も追い出してさ、一晩中泣いてさ。でも仕事は待ってるわけじゃん。だからお弁当作ってさ、気づいたらいつもどおり2つ作っててさ…」

奥井の言葉が弱々しくなっていく。

「バカだよね…。」と一言言うとついには涙が溢れだした。


(嗚呼。どうして⸺)

人は人を求め、そして壊れてしまうんだろう。

秋風に吹かれながら、柊はしゃくりあげる奥井を見つめることしか出来なかった。



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