それは鋭いナイフのように
「柊くん」
その日の昼休み、柊は金沢に声をかけられた。正午で一旦閉まる院内はしん、と静まり返っている。
「すみません…」柊はこれから叱られるであろうことが分かっている子供のように頭を下げる。
「どうしたっていうんだ。調剤ミスが3連続。奥井さんとダブルチェックしているからいいものの…ぼんやりしていちゃ困るよ。僕らの扱う薬剤は、加減を誤ればとんでもないことになる。わかってるだろう?」
あの男⸺隆弘から放たれた勝利宣言のような言葉。それが柊をいつまでも縛り付けていた。
「まあまあ、部長」
奥井がなだめるように言う。
「柊くんだって人間ですよ、こないだだって体調崩したし。そういうこともありますって、ね?」
「いえ」
柊は奥井の慰めを遮り、
「自覚が足りていません。先輩方にもご迷惑をおかけしました。」と深々と頭を下げた。
「午後からはしっかりしてくれるね?」
金沢が念を押すように柊の肩を叩く。
「はい。」と柊は一度顔を上げてまたペコリ、と頭を下げた。
奥井がパンパン、と手を叩いて
「はいはい、もうおしまい!柊くんが優秀なのはみんな知ってるし。ね!ランチにしましょ。」
(あんな安い挑発に反応するな、午後からの患者さんのことを考えろ。俺は薬剤師なんだ。)
柊は院内の売店で買ってきたサンドイッチに口をつける。もそもそと咀嚼するがあまり味を感じない。
無理やりコーラで流し込む。
と、不意に奥井が口を開く。
「ね、ね、あたし見ちゃったんですけど」
やや興奮気味に切り出したその顔は好奇心に満ちている。
(女ってのはどうしてこう⸺ゴシップが好きなんだ)
と次のひと切れを口に入れようとした瞬間だった。
奥井が次に紡いだ言葉が、柊の動きを止めた。
「長谷川さん、今日も夫婦揃って来てたじゃないですか。あたしさっきゴミ捨て行ったとき見ちゃったんですけど!あの二人、車の中でキスしてたんですよー!いいなぁ~、旦那さんはイケメンだし、奥さんは綺麗な人だし、あんなにずっとラブラブなんて、あぁ~もぉ憧れるなぁ~。」
「奥井さん、今は誰もいないからいいが、そういうことはだね⸺」と金沢が窘めようとした時だった。
バン!!と大きな音がした。
和やかな昼休みの空気を切り裂くような音。
柊が自分のデスクを思い切り掌で叩いた音だった。
シン…と静寂が訪れる。
10秒ほどの間をおいて奥井が口を開く。
「柊くん…?」
は、と我に返る。訝しげな視線が注がれている。
柊はいたたまれなくなり、咄嗟に嘘をつく。
「すいません、なんか腹痛くて。ちょっとトイレに行ってきます。」そしてそこにいる全員の視線を躱すように急ぎ足でトイレへと向かった。
(くそ、くそ、ちくしょう…!!)個室に駆け込むと手袋を外し、そのまま柊は先程口にしたサンドイッチとコーラを思い切り吐き出した。
「げぇっ…!」
胃が上下に撹拌される感覚。
額ににじみ出る脂汗。
吐いても吐いてもまだ吐き足りない⸺
柊は胃の中がすっかり空になるまで吐きつくすと、吐瀉物に塗れた自分の白衣と両手を見て自嘲気味に笑った。
「はは…」
(分かっていたことじゃないか…あの人が⸺綾子さんが誰を一番愛し受け入れているかなんて)
そう、分かっているはずなのに。
「クソッタレめ…」
柊の下半身は熱く脈打っていた。
「どうしようもないバカだ、俺は⸺」
そうして始業のチャイムが鳴るまで柊はいつまでも個室にへたり込んでいた。
いつまでも戻らぬ柊を探しに来た金沢が、吐瀉物に塗れた彼を見つけるまで。
その後のことはあまりよく覚えていない。
気づけば柊は自室のベッドに横たわっていた。
もそり、と起き上がる。朝脱ぎ捨てたTシャツにスウェットのパンツ。
吐瀉物に塗れた白衣とその日着ていったものは洗濯機の中にあった。
スマートフォンを手に取る。
金沢部長と奥井からメッセージが入っていた。
「気がついたかな。なかなか帰ってこないからトイレまで探しに行ったら君が倒れていた。意識はすぐ戻ったけど明らかに体調が芳しくないと判断したから家まで送り届けて寝かせておいたよ。体調管理も仕事のうちだから今日はしっかり休みなさい」
「柊くんごめんなさい。あの手の話、苦手だったんだね。あたし、そういうの気づかなくて…。ごめんね。」
(違う、俺は⸺)
柊は薄暗いワンルームでいつまでもそのメッセージを眺めていた。




