剥き出しの愛は狂気にも似て
深い深い沼の底⸺否、まだ底に向かって落下しているような感覚。もがけどもがけどそれは虚しくゴボゴボと口から漏れる気泡となって消える。
(助けて…誰か…)
意識が飛びそうになる刹那⸺綾子は額に冷たいものを感じ、目を覚ました。
「起こしちゃったか。ごめん。」
そこには帰宅したばかりと思わしき隆弘がいた。
額に手をやる。冷却ジェルシートが貼られている。
「隆弘、私…」
という綾子を遮り、隆弘はベッドに寝ている綾子に傅く。
「既読はつくけど返事はない。何かあったんじゃないかと思ってね。」
寝室の時計を見やる。時刻は17時を少し回ったところだった。
「ほら」と隆弘が綾子に体温計を差し出す。ピピッという計測終了の音すら耳に痛い。
デジタルの文字は37.5度を示していた。
「熱出てたんだな。今朝の君は元気そうだったけど…この時期は体調を崩しやすい。季節の変わり目だからね。とりあえず食べられそうなものは買ってきたよ。」
とゼリーやプリン、そしてインスタントのお粥などをコンビニ袋から取り出す。
綾子はそれらを見やるとフルフルと首を横に振り、
「今は何も欲しくないわ」とうつむいた。
「せっかく買ってきてくれたのにごめんなさい。でも何も食べたくないし、欲しくないの。」
そんな綾子を見て隆弘は、ふぅ、と溜め息をつく。
「でも、水分だけは摂らなくちゃ。ほら」とスポーツドリンクのペットボトルのキャップを開けて差し出す。
一口。そこでようやく身体が水分を欲していることに気づいた。二口、三口、そしてついにはごくごくと喉を鳴らして飲む綾子を見て隆弘はホッとしたように、
「それでいい。今からでも空いてる医者を探そう。早めに診てもらうに限る」とスマートフォンを操作しはじめた。
「隆弘。」
身体に水分が行き渡りほんの少し身体が言うことを聞くようになった綾子がそれを制するように隆弘の名を呼ぶ。
「大丈夫。大丈夫よ。こんなの微熱のうち。鎮痛剤で良くなるわ。それに⸺いえ、そんなことよりも」
ゆっくりと丁寧に言葉を紡ぐ。
「あなたの方は大丈夫なの?早退してきたんでしょう?」
隆弘はふっと笑い綾子の髪を撫でる。
「問題ないよ。大方の仕事は片付いてる。そんなことよりも君は熱を下げることを考えて。熱の他に症状は?喉の痛みだとか、鼻の違和感だとか、そういうのはないのか?」
綾子はゆっくり首を横に振りながら「ないわ。だから大丈夫。微熱程度でお医者さんにかかったら他の⸺もっと重い症状で来てる人たちに迷惑をかけるし、それに今は寝ていたほうが楽なの。だから大丈夫よ。」
隆弘はしばし考え込み、
「そうか」と短く答えた。
「でも、油断は禁物だ。あとはもう俺に任せて寝てること。いいね。」
まるで幼い子どもを叱るように綾子の額に指を置いて隆弘は言った。
「わかった。もう少し眠るわ。」と答える綾子の髪を再び撫でて「いい子だ」と言うと隆弘はキッチンの方に向かっていった。
(早退させてしまった⸺わたしの自業自得だと言うのに)
自責の念が湧いてくる。が、そのまま布団に潜り直すと綾子の意識はまた遠く遠く夢の中へ⸺庇護者のいる安寧の夢の中へと落ちていった。
「さて、と…」
そうつぶやきながら隆弘は買ってきたものを冷蔵庫にしまい込む。そして少し考え込んだあと寝室を覗きに行く。
すぅ、すぅと規則正しい呼吸をして深く眠り込んでいる綾子を見て、そっとリビングに戻る。
(スマホの位置情報では、ずっと家にいたことになっている⸺けど。)
(どうにも君は詰めが甘い。)
綾子の分の家の鍵。そこにつけられた黒猫のキーホルダー。
隆弘は音も立てず静かにそれを分解していく。
その手つきは初めてのものではなかった。
(こいつの存在までは気が付かなかっただろ、綾子。)
コロン、と転がり出たそれは⸺小型のGPSだった。
(君がどこにいて何をしているかなんて、全部お見通しなんだよ、綾子。)
クックッとこみ上げる笑いを抑える。それでもどうしても口角はつり上がってゆく。
隆弘はキーホルダーを丁寧に組み立て直してからふぅ、と溜め息をついた。
(綾子、愛してるよ。だから⸺)
目を閉じ、そっと開きながら隆弘は誰に言うともなく小さく呟いた。
「君は俺が守るからね、綾子」
その瞳には剥き出しの愛情⸺否、もはやそれは狂気が宿っていた。




