シュガープラム・フェアリー
柊はワンルームでぼんやりと、先程までのことを思い返していた。
(崎山こども園…27年前の火事…それから…あの人の⸺綾子さんの旧姓は、橘…)
以前侵入を頑なに拒んだ少女はなぜ俺にこのキーワードを託した?
ほんの数時間前、優しくその背中を支えた手をじっと見る。
儚く壊れてしまいそうで、しかし芯の強い人⸺。あの騎士然とした夫の庇護のもとを離れてまで、自分の過去を探しに来た人。わざわざリスクまで犯して、だ。
今更になって心配になる。
俺の鼓動はあの人に⸺綾子さんに伝わっていなかっただろうかと。
正直な話だ。
俺は確かにあの場で己の中の疼きを確信した。
俺だって一応は男だ。
経験がまったくないわけではない。
けど、だけど。
体を重ねれば否応なしにわかってしまう。相手が何を考え、そしてどんな道を歩んできたのかを。
手袋をしていても結局、深く交われば視えてしまうのだ。
「イカれてる…全くイカれた話だ…」
黒い手袋を嵌めた自分の手を見つめる。
なんとなくつけたTVでは、ドイツ国立バレエ団の特集が組まれていた。
チャイコフスキーのくるみ割り人形。
明朗溌剌としたメロディーにのせてバレリーナ達が舞う。力強く跳躍するダンサー。
ぼんやりとした頭で眺めていると先程までの明朗溌剌としたメロディーとは打って変わって、厳かで繊細な⸺そして少しの不気味さを含んだメロディーの中で一人のバレリーナが跳躍しているのに気がついた。
アナウンサーが興奮気味に言う。
「やはり見せ場はクライマックス付近のここでしょうか?」
解説の元バレエダンサーは深くうなずきながら「そうですね。シュガープラム・フェアリー。日本では砂糖菓子の妖精と言われていますが、ここはとても要になる部分なんです。一部の限られたバレリーナしかこの役目をこなせない。跳躍力ももちろんですが、繊細な足さばきとブレない体幹が必要になる。このお菓子の国の支配者に少女クララが歓迎を受ける、夢の中の大切なワンシーンになるわけです。」
シュガープラム・フェアリー。
砂糖菓子の妖精⸺。
柊はあの壊れそうなほどに震えていた綾子の⸺少し触れたら崩れてしまいそうな砂糖菓子のような背中を思い出して何故か苛立ちを覚え、チャンネルを変えた。
パッと切り替わった画面の中ではお笑い芸人がお決まりの芸を披露していた。
「くだらない」
そう吐き捨ててTVを消した。
そして不貞腐れたように布団に潜り込んだ。
ほぼ同刻。帰宅した綾子はすべての服を洗いそして浴室乾燥機で乾かし、自らもシャワーを浴びた。
証拠隠滅。
シャワーから出て柊と自分をつなぐ端末にごく簡単なメッセージを送る。
「取り乱してごめんなさい。私は大丈夫です。ご迷惑をおかけしました。」
送信ボタンを押そうとして、指先が躊躇う。
(私は⸺私は柊さんに…何をしたの…?)
火事、の言葉に締めつけられるような頭痛に襲われ思わずそこにいた人に⸺柊さんに縋りついてしまった。
(本当に愚かよ、綾子…大切な人が⸺隆弘がいながら他の男性に体を預けるなんて…)
「痛…」
なんとか帰ってきたものの頭痛は治まりそうにない。
綾子はメッセージを送るのを止め、その端末を普段使わないバッグに隠して使い慣れたスマートフォンで隆弘にメッセージを送った。
「ごめんなさい。頭が痛くて夕食作れそうじゃないの。私は寝ているからあなたは適当に済ませて。」
メッセージを送ると深い深い溜息をつき⸺そしてそのままベッドに潜り込んだ。
と、スマートフォンが通知を知らせる。
隆弘からだ。
「急いで帰る。安静にしていて」
もう返事を返す余裕も綾子にはなかった。
泥のように重い体をそのまま深く深くベッドに沈めていった。




