誰も寝てはならぬ⸺Turandot
二人はそれから幾度かのやり取りを繰り返し2回目の約束を取り付けた。
逢瀬。否、密会⸺と言うより他に言葉のないそれは次の土曜に決まった。
「クリニックからバスで駅方面に向かって行くと高速が見えます。するとすぐに笹谷1丁目という停留所があります。そこから徒歩で3分ほど、漫画喫茶があるのでそこで落ち合いましょう。」
綾子は爪を切りそろえたばかりの指先でその文字をなぞる。「笹谷1丁目…」
そしてメッセージアプリを閉じると、二人をつなぐ糸電話のようなその端末をそっと押入れの普段使わないバッグに仕舞い込んだ。
土曜日。何食わぬ顔をして隆弘を送り出して、自分も支度をする。
普段使いのスマートフォンはリビングに残して。
「ごめんなさい、行ってきます。」
鍵の音が返事のようにカチャリ、と響いた。
(どうして⸺大抵こういう時ってバスは遅れるのかしら)
バスに揺られながら焦れる思いで二人の⸺柊と綾子の専用端末でメッセージを送る。
「少し遅れるかもしれません」
9月下旬。まだまだ暑いが時折吹き抜ける風に早秋の気配を感じる。
柊は漫画喫茶の前の銀杏並木で
「大丈夫です。俺もついたばかりですから」
と極めて冷静にメッセージを返す。
10分位経った頃、バスは笹谷1丁目に到着した。綾子が降りてくる。
柊を見つけると「ごめんなさい…っ、また遅刻ね…」とペコリと頭を下げた。白い長袖のオーバーサイズシャツに、タンクトップ。そしてベージュのフレアパンツ。流行りをおさえながらもきちんと感の漂う身なりの綾子から、洗剤だろうか、まるで色とりどりの花のブーケのような香りがする。そして以前会ったときより短くなっている、髪。
「綾子さん、その髪⸺」
切られたんですね、と言おうとして柊は逡巡する。もしかしたら独占欲、否、支配欲の強いあの旦那が…そう思いかけたとき、綾子がふふっと笑みをこぼす。
「5ヶ月ぶりに美容院に行ったんです。変、かしら…?」とゆるく内側に巻かれた髪をいじる。
(取り越し苦労か…)
内心ホッとしながら「いえ、似合ってます。本当によくお似合いですよ」と綾子に告げる。本当によく似合ってる。
刹那、自分の肚の内にズクンとした律動が走るのを柊は気づかなかったことにして綾子に促した。
「行きましょうか。」
極めて事務的に漫画喫茶に入り、カップルシートを選ぶ。綾子はこういうところは不慣れなのかキョロキョロと落ち着かない。
「あまりこういうところは来ませんか?」
と柊が尋ねると綾子は「いえ。昔はあの人とよく来たけど久しぶりで…なんだか色々変わったのね…」
と答える。
「あの人」と言う響きにまた肚の中にズクンとした鈍い衝動が走る。再び柊はそれを気づかなかったことにして
「あそこです。ネトゲもできますしDVD鑑賞もできますよ。もちろん漫画も読み放題です。まぁ、そんなことしにきたわけじゃないですけどね」と綾子を席にうながした。
カップルシートは思いの外狭く、そわそわと落ち着かない。本来のカップルにとってはその距離感が心地よいのだろうけど。
綾子はフリードリンクから紅茶、柊はコーラを入れてきて席につく。
柊は小声で綾子に告げた。
「ここはあの喫茶店よりも騒ぎを起こすのはタブーです。あの初めての衝動を我慢できたあなたなら大丈夫だと思いますが⸺騒がないように。もう一度言います。何が見えても、大切なのは今あなたがここで確かに生きているということです。いいですか?」
綾子はコク、と無言のまま頷いた。
「それじゃあ、いきますよ」
柊はあの日のように手袋を外し、黒縁めがねもコトリ、とテーブルに置いた。
綾子がきゅっと軽く唇を結び、両手を差し出す。
そしてあのときのように柊はその小さな手にそっと触れた。
景色が歪みだす。
気がつくと柊の目の前には大人の綾子を抱きしめる、子供の綾子がいた。
「綾子、泣かないで。」子供とは思えない大人びた口調で幼女の姿の綾子が大人の綾子の背をさすっている。
と、幼女の姿の綾子がぐるん!と振り返る。
「また来たの?警告したはずよ。来ないでって。」
キッと睨みつける幼い眼差し。
柊は言葉を紡ごうとして⸺やめた。目を閉じて幼女の綾子に心の中で語りかける。
(話だけでも聞いてくれないか。俺はこの人を苦しめるつもりはない)
「ふぅん?」と2つに結った髪をなびかせ、幼女の綾子が1歩前に出る。
品定めするような目つき。
ジリ、ジリと間合いを詰めて柊に近づいてくる。
(傷つけるつもりはない。本当だ。俺はこの人の望みを叶えるために⸺)
「わかった。」と幼女が言うと柊の身体がすうっと浮上した。
「お兄ちゃんにヒントをあげる。崎山こども園、27年前の火事、そして私の旧姓は、橘。今日はここまでよ。」
気がつくと現実の世界に戻っていた。
綾子はぽかんとした顔で「こども園…そうだわ…私の育ったところ…」と呟く。
「火事…?」と口走ったその瞬間、綾子は苦痛に顔を歪める。頭が、痛い。
「綾子さん。」
柊が綾子の顔を覗き込む。
「今日はここが限界だ。また次の約束をして会いましょう。」
外は日が傾きかけていた。
「日が落ちるのが、早くなりましたね…」綾子はそう呟くと痛む頭のまま席を立とうとした。が、足に力が入らず、カクンと崩れ落ちる。思わず柊がそれを抱きとめる。
「頭が、痛むんです。少しだけこうしていて…」
柊は無言で、綾子の望むまま軽く背中に手を回し、そっと抱きしめた。
銀杏並木が風に揺れていた。




