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夢の監獄  作者: 杜 妃湖
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善悪の彼岸

バスルームから出た綾子は髪をタオルで拭いながら、洗濯物をまとめていた。

「…流石に臭うわね…。」

ショーツはコンビニで買えたものの、まだまだ暑さの残る9月にあれだけのことが一気に起きたのだ。


「これはおしゃれ着洗い、これは普通に洗うもの…」

手際よく洗濯物を分けていく。

ふと、ハンカチが見当たらないことに気づいた。

お気に入りのタオルハンカチ。

もう何年も前、隆弘と江ノ島の水族館に行ったときに色違いで買った思い出のハンカチ。

「バッグの中かしら。」

パタパタとバッグを放り投げた寝室へ向かう。

「あったあった、これもお洗濯に出さないとね」

⸺ふと、カバンの中に入れっぱなしだったスマートフォンに目が止まる。


嵐のような一夜からずっと見ることのなかったそれは、バッグのなかで薄ぼんやりと光っていた。

「着信?」

着信が2件。メッセージアプリが7件。

着信は2件ともクリニックからだった。日付は今日の18時頃。

⸺おかしい。クリニックは日曜日は休診のはず。なにか診療や調剤で間違いがあったとしてもその日のうちにかかって来るはず。

メッセージアプリを見る。

お天気アプリから1件。ニュースアプリから3件。

そして昨日の夜に贖罪になればとブロックした、あの人から⸺柊から3件。


おそるおそる、「柊です」から始まるそのメッセージを開く。

メッセージはほんの10分前に送られていた。

「柊です」

「すみません、クリニックからの電話も自分です。先程端末を新しく契約してきました」

「どこかお怪我などされていませんでしょうか?心配しております。お返事はいりません。既読になればそれで無事だと判断します。」


にわかに鼓動が早まるのを感じた。

端末を新しく⸺契約?

そこまでしてあの人は私の事を心配して、そしてまだ繋がっていようとしているの…?


心配しております、の文字をなぞる。

すぐに無事です、の文字を打とうとしてバッと後ろを振り返る。

隆弘の気配はない。

やましいことはないはずなのに。

無意識に拘束の跡が残る手首をさする。

それは、スマートフォンのブルーライトよりも青々と、しっかりと綾子に刻まれていた。



柊のワンルーム。

スマートフォンのメッセージアプリを何度も開いては閉じる。時折軽くパーマを当てた黒髪をかきあげては、ガシガシと頭を掻く。

「…!」

メッセージアプリの通知。

そこにはあの人からたった一文、「無事です。ご心配をおかけしました」の文字が送られていた。

「良かった…。」

あの男⸺隆弘のあのときの瞳は尋常ではない嫉妬と執着に支配されていた。否、あれはもはや狂気に近い。

あの人が、綾子さんが何か酷い目に遭ってはいないか。それだけが心配でクリニックから電話をかけた。

メッセージアプリでメッセージも送ったが、あの男の支配下でブロックされている可能性もある⸺そう考えて新しく契約してきた端末は、薄暗い部屋で画面を眺める柊の安堵の表情を照らしていた。



その夜。柊はまたうなされていた。

これは夢だとわかっている。ありえない景色が並んでいたからだ。

あの子⸺ななこちゃん。それから幼い頃の綾子と、昨日の綾子。その三人の女に柊は囲まれていた。


ななこちゃんがクスクスと笑う。

「ヨシちゃん、またやったの?わたしを傷つけたあの時みたいに。」

違う、と言葉を紡ごうとしてもゴボゴボと溺れるような空気が漏れるだけ。ここは水底だった。だけど何故か不思議と苦しくはない。

幼い頃の綾子が「ねえ」と話しかけてくる。

「ニーチェの言葉をご存知?深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。言い得て妙よねえ。」

うっすら広角を上げて話すその口調は幼女のものではない。

「ねえ、おにいちゃん。綾子の心の蓋はそれはそれは硬いって理解したでしょう?」

「触るだけでわかっちゃうなんて、呪われてるわよねぇ」ななこちゃんが笑いを浮かべたまま続ける。

「あの時みたいに、綾子さんを傷つけるの?私を泣かせた時みたいに。」


大人の綾子がすっと1歩ずつ、柊の元へと近づく。近づくたびに身につけていたものが1枚、1枚剥がれ落ちていく。

二人の幼女はそれを見てクスクスと嗤っている。


「柊さん。」綾子が柊の真正面に立つ。一糸まとわぬ姿で。

思わず顔を背ける柊に綾子はその細い手を首に回し、囁く。

「私の全てを視ることができたら、私、あなたに抱かれてもいいわ⸺」


三人の女たちがケタケタと、姦しく嗤い出す。

(やめろ、やめてくれ。俺にそんなつもりはない…俺はただ⸺)



そこで目が覚めた。

ハッ、ハッと荒い息遣いで周りを見渡す。

いつものワンルーム。

無機質なデジタル時計は01:45と赤く光っている。

(なんて夢だ⸺よりにもよって…)

ぐしゃぐしゃと頭を掻いたその時、自分の下半身が熱くなっているのに気づいた。

(!!!!!)

柊はたまらなくなってバスルームのドアを乱暴に開けると着衣のままシャワーを冷水で浴び始めた。閉まりきっていないドアが脱衣所を濡らしていく。

「くそっ…!違う、俺は⸺」

自分自身のそれが火照りを収めるまで、柊は水に打たれていた。

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