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夢の監獄  作者: とみこ
20/25

空蝉

「海でも見に行かないか。」

そう切り出したのは隆弘だった。

日曜日の朝。やや渋滞した首都高。

結局あの夜、二人はそのままホテルで一夜を過ごした。

ホテルのドアが精算をしないと開かないことを確認した上で。何をするでもなくただ手をつなぎ眠りに落ちた。


「そうね…。海なんて久しぶりね。まだ暑いくらいだし見てみたいわ。」

薄っすらと笑みを浮かべて綾子が答える。

「じゃあ決まりだな。」隆弘は慎重に東関東方面に進路を変更した。


9月の海。

ジリジリと焼ける砂に、未だ人の多い海岸⸺を避けて、二人は葛西の海岸の端の方を歩いていた。

日差しは強いが風は心地いい。

綾子の髪を塩気を含んだ海風が撫でるたびに、キシ、と少し髪が傷む。


「ねえ」

切り出したのは綾子の方だった。

遠くには蜃気楼。キラキラと光る波打ち際を歩きながら綾子は隆弘にこう告げた。

「本当に、ごめんなさい。裏切り者と謗られても仕方のないことをしたわ。でも、誓って言う。私⸺不貞はしていない。していないのよ。」

「綾子⸺」

海風が一瞬、ビュウと音を立てる。

綾子の髪が舞い上がり小さなハートモチーフのシルバーのピアスが揺れる。

そしてその瞳は真っ直ぐに隆弘を見つめている。

「その話はもういいよ。」隆弘は綾子を見つめ返す。

「そんなことよりも、俺は君を泣かせた。どんな理由があれしてはいけない一線を踏み越えた。君の声に耳も貸さずに。軽蔑、しただろう?」

二人はいつの間にか防砂林のあたりまで歩みを進めていた。まだ蝉が鳴いている。アブラゼミにツクツクボウシ、そしてヒグラシ。

季節が少しずつうつろい始めているのを示すかのように様々な鳴き声が入り乱れている。

「⸺していない、軽蔑だなんて。私の方こそ…」

綾子は俯きながら隆弘に歩み寄る。

「ごめんなさい。私、私は…どうしても知りたかったの。私も、そしてあなたも悩ませているこの病気の根っこの部分が私の過去にあるんじゃないかって⸺」


「もういい、綾子。」

歩み寄ってきた綾子をそっと抱き寄せて隆弘は労るように髪を撫でる。

「君の過去がどんなでも、大事なのは今じゃないかな、綾子。俺は君といられるこの時間が⸺君が好きだ。」

どこか白々しい蝉たちの合唱を遮って、もう一度。

「俺は君が好きだ。それだけでいい。」


「そうね…。私もあなたが好き。愛してるわ…」


ザァ、と防砂林が揺れる。

その風は海風とは異なる冷たさを含んでいる。

「一雨来そうだ。帰ろう、綾子。」

隆弘は綾子の手を引いてパーキングへと戻って行った。



案の定、車に戻る頃にはポツポツと雨が降り出した。車を走らせながら隆弘が言う。

「綾子、ピザ好きだったろう?ほら、隣町の。あれ、テイクアウトして帰ろう。今夜は何もしなくていい。とにかく、休もう。」


「うん、ありがとう。」と綾子は微笑む。

(やっぱり⸺この人はどこまでも優しい。この人は…。)

無意識に手首をさする。

そこにはまだ、昨日の拘束の跡が赤く⸺否、少しずつ青くなりはじめて残っている。

(間違いを犯さない人がどれだけ少ないと思っているの、綾子)

昨日のあれは何かの間違いだった。

お互いがお互いを思うが故の、瑣末な事故。


いつの間にか雨は激しさを増していた。



夕刻。

都心から少し離れたところにある二人の家。

ゲリラ豪雨と言うやつだろうか。

こちらは全く雨の気配がなかった。


「さぁ、綾子。ピザだぞ。ポテトもつけた。あ、君は座ってて。皿とフォーク取ってくる。」

促されるまま食卓につく。

チーズの焼ける香りにトマトのみずみずしさとバジルの香りが絡み合う。

「さぁ、冷めないうちに食べちまおう。」

と隆弘は一切れ取って頬張る。

「うん、うまい。綾子も食べ…どうした?あまり食欲ないか?」

いつもの心配げな眼差しを向けられ、綾子は「そんなことないわ。いただきます。」と自分も一切れ取り分ける。

美味しい。昨日あれだけ泣いて、そして昼間海岸を歩いて消耗した身体に染み渡るカロリーの味。

「うん、美味しい…」

その様子を見て隆弘はホッとしたかのように「そうか」とだけ短く返し、自分も食べすすめていく。

見るともなしにつけていたTVでは街角のストリートピアノの特集が流れていた。が、隆弘はそれに気づくとすぐにTVを消してしまった。


一瞬、チリッとした空気が流れる。


が、隆弘は何事もなかったかのように綾子に、

「食後はアールグレイですか、お嬢さん?」

とおどけてみせる。

そんな隆弘に綾子はクスリ、と笑いながら

「ええ。お願いするわ。いつもの銘柄で。」と応じた。


何もない平和な食卓。

その平穏な空気を乱すかのように、寝室に放り投げておいた綾子のハンドバッグの中では、スマートフォンが振動していた。

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