嵐の後
シャワーの音が響くバスルーム。
隆弘はただうなだれていた。
(俺は、何をした?大切な⸺愛しい綾子に…)
さっきまでの狂気を孕んだ眼差しは、後悔と絶望に満ちていた。
先程綾子の両手首を縛り上げたその手で顔を覆う。
(俺は何を⸺)
抵抗をやめ全てを受け入れようとした綾子の両頬を伝っていた大粒の涙。磨き上げられた宝石のように美しいと思ってしまった、そんな自分にも嫌気がさす。
「ちくしょう…」
小さく呟いたその声は、水滴とともに排水口に流されていった。
綾子は先程まで自分に降り掛かっていた受難をぼんやりと寝転びながら思い返していた。
隆弘が。あの、優しい隆弘が。
今まで一度も見たことのない眼差しで私を見て、そして⸺。
おそるおそる手首を見る。そこにはまだ生々しく、赤く拘束の跡が残されていた。
(私だ…私があそこまであの人を追い詰めた…)
16歳のときに出会ってから一度も隆弘は綾子に手を上げたり強い口調で迫ったりはしなかった。
若さゆえの喧嘩もあったが、大抵は隆弘から折れて仲直り⸺それもまた彼の庇護なのだと痛感していた。
ボロボロと涙が零れ落ちる。
後悔。自責の念。そして確かに感じてしまった恐怖。
「うあ…あ…うっ…」
自然と声が漏れる。
(私が、私が…あの人を壊してしまった…私が…)
肩が震え景色が滲む。たちまちに頬が赤くなり、綾子は子供のようにしゃくりあげて泣いていた。
「綾子⸺」
シャワールームから出てきた隆弘が異変に気づく。
綾子の呼吸がおかしい。
ヒュッ、ヒュッと短く吸うたびに上がる肩。
「綾子!?」
手を握る。冷たい。
過呼吸⸺。
「綾子!!」
綾子の顔は涙に濡れ、そしてその瞳は虚空を泳いでいた。
「綾子、しっかりしろ。綾子。いいか、俺の言うことを聞いて。聞こえてるか、綾子。」
酸素が行き渡らずに青ざめた顔で綾子がコクコクと頷く。
「よし、そのまま俺の声を聞いて。息をゆっくり吸うんだ。ゆっくり、ゆっくり…そう、いいぞ。ゆっくり…」
背中をさすりながら隆弘が綾子を励ます。
「…なさ…」
ごめんなさい、と紡いだ言葉は小さく、形を成さない。
「何も喋ろうとしなくていい。ただゆっくり吐いて、ゆっくり吸って⸺そう、上手だ。俺の手のリズムに合わせて…吸って、吐いて…吸って、吐いて…」
背中をさすりながらもう片方の手でぽん、ぽんと、ゆっくり綾子の肩を叩く。
「吸って、吐いて…吸って、吐いて…」
ヒュッ、ヒュッと小刻みだった呼吸が徐々に正常に戻り始める。
「上手だよ、綾子。吸って、吐いて…」
ふううっ、と大きく息を吐くとそこから呼吸は元のとおりになった。
「よし。よく頑張ったね。」
隆弘は一度綾子から手を離し、備え付けの安っぽい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
「起き上がらなくていい。寝たままでいいから。飲めるかい?」
手渡されたミネラルウォーターを一口飲む。張り付いていた喉の奥が開いていく感触。
もう一口。潤いが綾子を満たしていく。
ふと、隆弘を見る。
今にも泣き出しそうだが、口元は安堵で緩んでいる。
「隆弘、私⸺」
身体をどうにか起こそうとしてよろけたところを隆弘に支えられた。
「無理して起き上がらなくていいと言ったろう。寝ていて良いんだ。」
そしてそのまま、すがりつくように抱きしめられる。
「済まなかった。どうかしていた。謝って許されることじゃないのは分かってる。でも、俺、俺は…」
後悔と懺悔が入り交じる隆弘の背中に手を回す。
「ごめんなさい…違うのよ…あなたは悪くない。私が全て悪いの…でも、信じて。やましいことは一つもない。あの人、柊さんには私の過去を…見てもらおうと…」
そこまで言って気づく。
隆弘の肩が震えている。泣いている…?
(私がこの人を⸺どこまでも優しいこの人を泣かせてしまったんだ…)
再び涙がこみ上げてくるのを抑えて、綾子はただ隆弘の髪を撫でた。
母親が我が子の髪を撫でるような愛おしさのこもった手つきで、何度も、何度も。
(私が泣く資格はない。でも隆弘、あなたはどうか泣かないで…)
今は何を言っても言葉はただ空回るだけだと判断した綾子は、ただただ隆弘の髪を撫で続けていた。




