破られた聖域
軽快なジャズの流れるカフェ・リリィ。
綾子の真剣な眼差しに柊は少し狼狽えた。
(この人は⸺怖くはないのだろうか)
過去を探るということは自分はもちろん、探られた側もダメージは避けられない。その場で取り乱して叫んでしまう可能性もある。もしその過去がとてつもない悲劇だったとしたら⸺精神が崩壊する可能性だってある。
そのことはメッセージアプリでやり取りする中で綾子に伝えていた。何度も。何度も。
それでも引かないのなら、この人は相当な覚悟を背負ってこの場に来たのだ。
見つめ合う柊と綾子の席だけ、幽世⸺或いは聖域にでもなってしまったかのように、もう軽快なジャズも、コーヒー・サイフォンの音も、何も入ってこない。
「分かりました。今日はまず、軽くあなたに触れてみます。呼吸を整えて、ゆっくり吸って、吐いて。びっくりするかもしれません。どうか悲鳴を上げないように。」
柊がそう告げると綾子はゴクリ、と唾を飲み込んでから
「⸺お願いします。」と手を差し出した。
少し骨ばってゴツゴツとした自分の手から比べたらとても小さく、でも手入れの行き届いている手。爪は短く切りそろえられ、爪を保護する程度の薄いピンクのマニキュアが塗られている。
柊は手を伸ばしふう、と一息つくと
「いきますよ、綾子さん。俺の目を見て。景色が歪むかも知れない。でも怖くない。大切なのは今ここであなたが生きていること。それだけを心に留めて。」
そして綾子の柔らかな手にそっと触れた。
⸺刹那。
柊の目の前の綾子の景色がぐにゃりと歪む。
泣いている少女。
「パパ…ママ…」しゃくりあげる鳴き声の合間にかすかに聞こえてくる両親を求める声。
と、泣いている少女が柊の方にくるり、と向き直った。
柊は狼狽えた。過去を視る事はできても過去の映像からこちらに干渉してくることなどはじめてだったから。
「見ないで!!」と叫びながら少女はみるみる炎に包まれていく。
「来ないで…綾子を壊さないで!!」
少女を包む炎は次第に大きくなり、柊の元へと這いよる。
熱い。喉がチリチリと焼けるようで呼吸すら難しい。ここは離脱したほうがいい⸺
と、いきなり現実に引き戻された。
目の前にはカタカタと小さく震える綾子。
軽快なジャズやコーヒー・サイフォンの音に、常連客の鳴らす食器類の音。綾子は先程差し出した手を胸元まで引っ込めて、ただ小さく震えていた。
つまり綾子の方から外の世界に戻ることを選んだのだ。
柊は慌てて周りを見る。が、特に誰もこちらを気に掛ける様子はない。どうやら綾子はなんとか悲鳴を上げずに済んだようだ。
柊は手袋をはめ直し、黒縁めがねをかける。そして雨に打たれた仔猫のように震える綾子にそっと声をかけた。
「…綾子さん。大丈夫ですか。」
その声に綾子は我に返ったように柊の方に向き直る。
「火…火が見えた…あれは…小さい頃の私…?」
「綾子さん、落ち着いて。大丈夫、あなたは耐えた。自分から戻る選択をした。ここは安全な場所です。深呼吸して。少しなにか飲んだほうがいい。」
柊はすっかりグラスが汗に包まれたアールグレイを飲むように綾子に勧める。
「あ…。」
呆けていた綾子の目が現実に引き戻されていく。
そして手を伸ばして、アールグレイを一口、二口。
「綾子さん。」
落ち着きを取り戻したであろう綾子に柊は語りかける。
「俺の見たものが共有されましたか?ここまでなんです。どうしてもここから先に進むことができない。そしてあなたの中のあなた、つまり深層にいるあなたに拒絶された。今日はもう無理でしょう。」
綾子ははっとしたように「いいえ!!」と声を上げた。
「確かにびっくりはしたけど…まだいける。まだやれます。だから…!」
「綾子。」
不意に後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声。
聞き覚えどころか毎日聞いているそれは⸺
「隆弘…。」
隆弘が綾子と柊を見下ろすように立っていた。
その表情は逆光で読めないが、いつもの優しい笑みを浮かべているわけではないことだけは、確かだった。




