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夢の監獄  作者: とみこ
16/21

カフェ・リリィ

まだまだ暑さの残る9月頭の土曜日。

柊はカフェ・リリィの隅の席で、コーラのグラスに刺さったストローをくるくると弄んでいた。

⸺ここは、落ち着く。

カフェ・リリィ。柊がこの街に越してきてから見つけた隠れ家的な知る人ぞ知る、昔ながらのカフェ。

白髪、いやシルバーグレイといったほうがいいか⸺の似合う落ち着いた細身で長身のマスターと、常連客。

店内には控えめな音量で軽快なジャズが流れる。

店内はすべてアンティーク調、いや、おそらくは本物のアンティークなのかも知れない。落ち着いた調度品が並ぶ。カウンターには店主が磨き上げたグラスが積み上げられ、コーヒー・サイフォンが静かに音を立てている。

年季の入った窓は薄っすらと茶色に染まり、外の騒がしさを完全に遮断している。


ここのいいところはもう一つ。

客が何を頼んでも店主が嫌な顔一つしないところだ。

大抵こういう古い喫茶店にはこだわりのブレンドがあったりする。多くの常連客もそれを味わいに来ているのだろう。

そんな中コーラを頼む自分にも、この店主は嫌な顔一つしない。

暇つぶしに持ってきた新しい論文を読むともなしに目を通す。

と、その時だった。

年代物の真鍮のドアベルが「カランコロン」と軽快な音を立てた。

顔を上げるとそこには、少し走ってきたのだろうか。綾子が息を切らして立っていた。

少し紅潮した頬。

そして、ほんのりといつもクリニックで見るよりしっかりと施された化粧。

いつもより明るいトーンの口紅がどことなく綾子の「女」を強調しているように見える。


「ごめんなさい…っ、バスが遅れて…!遅刻、ですよね…。」

まだ少し荒い息遣いのまま、綾子が申し訳なさそうに席につく。

半袖のサマーニットにフレアスカート。そして黒いエナメルのパンプス。肩には薄手のカーディガンを羽織っている。統一された大人の女性のファッション。そんな印象を受けた。

「ご注文は?」

店主がやってくる。

ようやく呼吸の落ち着いた綾子が答える。

「アイスティーを、できればアールグレイを。ミルクもレモンもいりません。」

店主は「畏まりました。茶葉の産地もお選びいただけますが。」と続ける。

「マスターのこだわりがあるのなら、おまかせします。ここは初めてだから。」

微笑みながら返す綾子に、店主は

「畏まりました。本日のおすすめを淹れて参ります。」と頭を下げ去っていった。


「アールグレイ、お好きなんですね。」

柊が綾子にそう言うと綾子ははにかみながら

「ええ。」

と短く答えた。


アイスティーが席に届く。

「ごゆっくり。」の一言を残して店主はカウンターに戻った。


「本当にごめんなさい…バスも遅れるし、少し迷ったの。メッセージを送ればよかった。」

と綾子は柊に謝罪し、運ばれてきたばかりのアイスティーに口をつける。

「美味しい…。」

ほう、と一息つく頃には綾子の紅潮した頬の色は落ち着きを取り戻していた。


沈黙。

お互いにどう切り出すか思考を巡らせる。

そして、重なる声。

「「あの」」

「あ…。」

綾子が一瞬の困惑を見せる。

(なんて間の悪い。長谷川先生に散々習ったじゃないか。まずは患者が話し出すのをゆっくりと待つのだと)

柊は焦って言葉を発した自分の愚かさにうんざりした。

(けど⸺今日の彼女は、綾子さんは患者じゃない。俺の知人として俺の助けを得るために来てくれている)

そう思い直すと柊は言葉を慎重に選びながらこう告げた。

「綾子さん。俺に視える力があるのは確かです。でもあの日⸺あなたが熱中症で倒れたあの日、俺はあなたの心のごく一部しか見えなかった。あなたの心には硬い硬い蓋がある。夢遊病は3年と少し前からと言いましたが、それよりも遥か昔から積み上げてきた硬い硬い⸺誰の侵入も許さない蓋だ。それを取り除かなくては、俺はあなたの過去は見えない。」


蓋。

綾子は考える。

(一番古い記憶は…施設。私の育った崎山こども園に入所したときの不安な気持ち。そこから前はどうしても思い出せない。両親の顔すらも。)


「綾子さん。できるだけ心を落ち着かせて、無理に思い出そうとしないで。俺にただ委ねてくれればいい。あなたの心に出来た硬い蓋を、まずはこじ開けなきゃならない。それはとても⸺消耗する作業なんです。俺だけじゃない、あなたも。その覚悟はありますか?」

気づくと柊はいつもの黒縁めがねを外し、手袋も外していた。

整った顔立ち。少し切れ長の目。すっと伸びた鼻筋。少しカサついた唇。

(ああ、この人は⸺ずっと自分を隠してきたんだわ。そんな人が私のわがままを聞いてくれようとしている)

綾子はもう一口紅茶を口にすると、柊に言った。


「柊さん。お願いします。私は頼れるものは何でも頼りたい。自分を取り戻して、この忌々しい夢遊病とお別れしたいの。」

その目は揺らぐことなく、柊の目をじっと見つめ返していた。

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