そしてまた、木曜日
「ん…」
窓から射す陽光に綾子はゆっくりと目を開けた。
ここは…寝室だ。
(そうか、昨夜はかなり疲れて…私、徘徊しなかったんだわ。)
何日ぶり、いや何週間ぶりだろうか。きちんと寝室で目が覚める。そんな「普通」のことが綾子にはとても尊く、喜ばしいことだった。
ダブルベッドの隣では、まだ隆弘が寝息を立てている。
そっと起こさないようにスマートフォンを充電コードから抜いて、リビングへ。オフにしていた通知をオンにする。
ニュースアプリ、お天気アプリ、メッセージアプリの通知が一気に押し寄せてきた。
その中に1件。
「柊です」の見出しがあった。
震える手でメッセージを開く。
目を瞑り、深呼吸。
(落ち着くのよ、綾子。)
覚悟を決めて震える手でメッセージを読んでいく。
「シフォンケーキごちそうさまでした。調剤室の皆で美味しくいただきました。それから、あなたからのメッセージを拝読致しました。本来、こうして医療に携わる者と患者とが個人的なやり取りをすることは禁じられています。その点、ご承知おき頂きたく願います。」
(そう…そうよね…)
ふぅ、とため息をつき諦めようとしたその時、メッセージが2回に分けて送られていることに気づいた。
「ですが、知人としてであれば、自分にできることがあるのなら何でも仰ってください。ただ、リスクは綾子さん、あなたも背負うことになる、それだけはご理解ください。」
(…!!!!!!)
嗚呼。
3年以上に渡り私を、そして隆弘をも苦しめたこの夢遊病の解決の糸口を⸺やっと掴んだ。掴んだのだわ。
歓喜の笑みが溢れる。飛び跳ねて喜びたい気持ちをぐっと抑え、綾子は朝食の準備に向かった。
その顔はもう、良き妻の顔に戻っていた。
タイミング良く隆弘も起きてきた。
「おはよう、綾子。やっぱりとても疲れていたんだな。君がこうしてキッチンにいるってことは、寝室で目が覚めた。そうだろ?」にこりと微笑む隆弘に綾子は優しい笑みを返し、「そうね。あなたの寝顔なんて久しぶりに見たわ。クリニックに行く前に簡単な朝ごはんを作るわね。」と返した。
「わかった。じゃあ俺も着替えてくるよ。」そう言って隆弘はキッチンをあとにした。
クローゼット⸺キッチンからは死角になっている⸺の前で隆弘はパジャマを脱ぎ捨てる。
コト、とパジャマにしては重い音がした。
綾子の方を見る。が、料理に集中しているのか気づいていない。
(これは、まだ必要なかったな。)
隆弘はパジャマのポケットからロープを取り出し、通勤カバンにそっと仕舞った。
「この度は誠に申し訳ございませんでした!!」
いつものクリニック。スーツに身を包んだ隆弘が長谷川に深々と頭を下げている。診察室の外まで響くのではないかという程の大きな声で隆弘は長谷川に謝罪した。
あまりの勢いに隣に座る綾子も目を丸くして隆弘を見ている。
「俺…いえ私は長年妻を見てくださっている先生にとんでもない暴言を…到底許されることではありません。私のことお許しいただかなくて結構です。ですが綾子は、妻のことだけは、見捨てないでくださいませんか。」
長谷川はキィ、と椅子を鳴らし隆弘の方を向く。
(愚直なナイト⸺か。或いは…いや、今はまず綾子さんだ)
「頭を上げてください、早乙女さん。こんなことはね、この分野ではしょっちゅうです。ハサミを突きつけられたこともある。」長谷川は口ひげをいじりながら続けた。
「それに比べたらかわいいもんです。それに我々心療内科医はいちいちそんなことは気にしないものなのですよ。まずは綾子さんのカウンセリングが先だ。違いますか?」
隆弘は顔を上げた。その顔には安堵が分かりやすく表れていた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。どうか綾子をよろしくお願いします。」
また深々とお辞儀をして診察室をあとにした。
「綾子。外の待合で待っているから。」
綾子もまた長谷川に対し深々と頭を下げた。
「主人がどうしても自分で謝りたいと聞かなくて…うるさくしてごめんなさい。」
そんな綾子を長谷川はまるで子供を宥めるような口調で諭した。
「そんなに頭を下げられてはカウンセリングにらならないよ、綾子さん。さぁ、済んだ話はもういい。今日もぼちぼち始めよう。」
その日も一通りカウンセリングが済んだ。会計待ちに調剤室の方をチラと見ると柊は勉めて事務的に、患者に薬の説明をしていた。はた、と柊と目が合う。思わず前に向き直る。そして隆弘の方を見ると、隆弘はスマートフォンで会社に連絡のメッセージを送っていた。
(見られてなかった、のよね?)
安易な行動は慎まなければいけない。
会計が済み、綾子が薬剤室から呼ばれた。隆弘もついてくる。柊は席を外しているようで、室長の金沢が対応した。
柊はどこだろう。キョロキョロと探したい気持ちをぐっと抑え、薬の説明を聞く。
焦る必要はない。
柊と綾子の間には、か細い蜘蛛の糸のような⸺それでも確かな繋がりができたのだから。




