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夢の監獄  作者: 杜 妃湖
13/45

それは甘い蜜のように

時間は少し遡る。


「キャーッ!!」

という悲鳴で柊は我に返った。


ハッと壁の時計を見る。もうだいぶ使い古されたそれは13時5分過ぎを指していた。

トレーに載せた人数分のシフォンケーキを持ったまま柊が慌てて調剤室に戻ると、調剤室は騒ぎの真っ只中だった。

「柊くん!?どこ行ってたの!大変なの!助けて!!」

自分より2年ほど先輩の女性薬剤師が涙目で壁に張り付いている。他の薬剤師仲間も一点を見つめ、動かない。

その視線の先を恐る恐る追うと、そこには1匹のクマバチがいた。

要するに、だ。

大の大人が4人も揃ってちっぽけな侵入者に怯えて逃げ回っていた、というわけだ。

白髪混じりの薬剤部長は殺虫スプレーまで構えている。


柊はトレーを起き、「落ち着いてください。スプレーはだめだ。俺に任せてくれますか。」

と薬剤部長を制すると、壁に止まっているクマバチにそっと近づいた。

悲鳴を上げた先輩も、薬剤部長も、他のスタッフも、固唾を飲んで様子を見ている。


柊はじっとクマバチを見つめ、そして

「なんだ。」とこともなげに言うとそっと手のひらで覆うようにして捕まえた。

「部長。窓を少し開けてくれませんか?」

指名された薬剤部長がおそるおそる柊の前を通り、窓を開ける。

8月も終わりのムワッとした空気が入り込んでくる。と、同時に少しの雨も。

窓から手を少し伸ばし「飛べるか?」と柊はその小さな侵入者の入っている両手のひらを開放した。

小さな侵入者⸺クマバチは少し柊の手のひらをウロウロしたあと、飛び去って行った。

「あいつは、オスです。クマバチのオスは針を持たないんです。」こともなげに柊がそう言うと、調剤室の空気が一気に緩んだ。

「すみません。チャイムが鳴っていたのに遅れました。患者さんからの差し入れを切り分けるのに苦戦してしまいました。」と、先程クマバチをそっと包んでいたその手で切り分けられたシフォンケーキを指した。


「…はぁぁ〜…びっくりしたわよ、もう。」

悲鳴を上げた先輩⸺奥井がへたり込む。


「柊くん、なんでそんなこと知ってるんだ君。」

窓を締めながら薬剤部長の金沢が柊に尋ねる。

「俺、ガキの頃昆虫図鑑読むの好きだったんです。昆虫採集なんかも行きましたよ。カブトムシから蛾まで幅広く。」とこともなげに言うと更に続けた。

「クマバチのオスは複眼⸺つまり目ですね。あれがメスよりも大きくて少し間の抜けた顔をしてるんです。だから刺さないとわかった。むやみに命を奪うより、逃してやったほうが後味は悪くないでしょう?」

そして少し乱れた白衣と袖元を正して、

「遅くなりました。仕事に戻ります。」

と自分の調剤スペースに戻っていった。

他の薬剤師たちもそれぞれデスクにつく頃には、いつもの静かな薬剤室に戻っていた。



16時。病院の閉まる時間。

つまり、薬剤師たちも一息つける時間でもある。

柊は他のスタッフたちと綾子のシフォンケーキをつまんでいた。

奥井⸺今回一番大騒ぎをした女性薬剤師が目を細めながら言う。

「はぁ…おいし…これすごく美味しい!」

他のスタッフたちもうんうん、と頷きながら小さなティータイムを楽しんでいる。

金沢部長が柊に尋ねた。

「柊くん。これは誰からの差し入れだい?」

柊は一瞬黙り込んでから「すみません。ここに着任してからまだ半年も経っていないのでどなたかわかりません。名前を聞いておくべきでした。」

と金沢に答えた。

「まあ、そんなこともあるか。仕事中でもこの人だってわかったら教えてくれるか。きちんとお礼をしなきゃな。」

食べ終えた食器をカチャリ、と鳴らして金沢はそう言った。

奥井はまだ興奮気味だ。

「ねぇこれ、美味しいなんてもんじゃないわよ。普通に売れるレベル!あたしもお礼が言いたいから、柊くん、頼んだわよ。」

ぽん、と肩を叩かれ、そして

「あれ、まだほとんど食べてないじゃない?甘いもの嫌いなの?」と柊の顔を覗き込もうとした。

柊はそれをスッとかわして「いえ。いただきますよ。」と大きく一口齧りついた。

ふわっと広がるアールグレイの香りと、卵の滋味。

1日の疲れが癒やされていく優しい甘さ。

気づいたら夢中で頬張っていた。そういえばカップラーメン食べ損ねてたんだったな。と柊は綾子が差し入れを持ってきたときの姿を思い出した。

「しかし、我々薬剤師にまで気を遣うとはねえ…」

金沢が目を瞑りながら呟く。

奥井も、他のスタッフもうんうんと頷く。

奥井はうーんと伸びをして「これで明日もみんな頑張れるね。」と調剤室を閉める準備を始めた。


柊はそれぞれの皿とフォークを片付けながら「俺、これ洗ってきます。」と調剤室をあとにした。

給湯室に戻るとそこにおいてあったシフォンケーキもなくなっていて、代わりに「ごちそうさま」のメモが皿の下に挟まっていた。清掃員の女性も食べたようだ。


「ふう…」皿を洗いながら柊はため息をついた。

シフォンケーキとともに箱に潜んでいたメッセージカードは胸のポケットに入っている。

皿を洗い終え、手を拭いてそれを取り出して改めてまじまじと見てみる。少し右肩上がりの文字⸺それでも統一の取れたきれいな文字がそこには並んでいる。

カードをひらひらと振ってみる。文字が消えることもない。

「夢でも、魔法にかけられたってわけでもないんだな…」

ひとりごちると、柊は改めてそのカードを大事そうに胸ポケットにしまって、調剤室に戻っていった。


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