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夢の監獄  作者: とみこ
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微かな不況和音

綾子はびしょ濡れで帰宅した。

帰りに多少の買い物をして。

さぁ、夫に気づかれぬようにすべてを隠滅しなくては。


大急ぎでバスルームに向かう。着ていたものをすべて洗濯機に入れて、自分はシャワーへ。

8月とはいえずぶ濡れは身体を冷やしたらしく、温かいお湯が素肌に柔しい。


シャワーを出たら洗い上がった服をそのまま浴室乾燥機に。

お気に入りのシャツワンピースが少し傷むのが気になったが、この際そんなことは言っていられない。


髪を乾かしている間に身に着けていたものもすべて乾いた。それらをクローゼットにしまうと、綾子は夕食の準備に取りかかった。



19時過ぎ。隆弘が帰宅した。

「ただいま。ん?なんか甘い匂いがするぞ?」

靴を脱ぎながら隆弘が鼻をひくつかせている。

(大丈夫、大丈夫。自然に振る舞うのよ、綾子)

「おかえりなさい。濡れなかった?」

にっこりといつもどおり夫を出迎える。

「シフォンケーキを焼いたの。紅茶のシフォン。こう雨じゃ、なんだか陰鬱な気分になるから。」

(大丈夫。平静を装えているわ。大丈夫。)

「へえ!お得意のお菓子作りか!いい香りだ。アールグレイか?」隆弘の目が輝く。

「そうよ。いつものやつ。隆弘好きでしょ?食後にいただきましょう。もちろん、生クリームも添えて。」

「そりゃあ楽しみだ。シャワー浴びてくるよ。」


隆弘がリビングを後にして、綾子はふーっとため息をついた。刹那。隆弘が戻って来た。


「綾子。今日外出したのか?」

(!!!!!)

「ど…どうして…?」

「君のお気に入りのコンバース、濡れているようだから。出かけたのか?」

(落ち着いて!どもったりしちゃだめ!ちゃんと仕込みはしたでしょう、綾子。冷静に、冷静によ。あくまでも自然に。)

「ああ、それなら。」と綾子は微笑みを浮かべがらキッチンの抽斗を開ける。

「これ。シフォンケーキを作るのに、いつもの銘柄の茶葉を切らしてしまって…。少しだけ外に出たわ。」

綾子の手のひらには可愛らしい黒猫のイラストが書かれたアールグレイの紅茶の缶⸺開封済みのものがちょこんと載せられていた。

「そんなもの⸺言えば俺が買ってきたのに…濡れなかったかい?」

「大丈夫よ。シャワーも浴びたし。ちょっと靴のチョイスを間違えたわね。肝心なところで切らしていることに気づいたから慌ててしまって。」


それに、と綾子は言葉を続ける。

「ごめんなさい、心配かけて。あなたのこと驚かせたくて…。」


隆弘は綾子の頭にぽん、と手を載せて言った。

「そうか、綾子。気持ちはとてもうれしいよ。ただ、先日倒れたばかりだし、明日はクリニックだろう?あまり無理はしないこと。いいね?」

「うん。ごめん。」

「謝らなくていい。無理さえしなければそれでいいから。じゃあシャワー浴びてくる。」

「ええ、いってらっしゃい。」


今度こそ、隆弘の足跡が遠ざかりシャワールームの扉が閉じた音を聞いて綾子はへたり込んだ。

(危なかった⸺靴はノーマークだったわ…。でも大丈夫、ばれてない、きっと…。)



今日の夕食のメニューはピーマンの肉詰めに、トマトクリームスープ。夏野菜の恩恵をふんだんに使ったメニューだ。案の定隆弘は大喜びですべてを平らげ、そしてシフォンケーキに舌鼓を打つ。

「うまいな。本当にうまい。」

「そう言ってもらえて良かった。でも、私もドッキリをやるにはまだまだね。換気が甘かったわ。匂いでばれちゃった。」

(大丈夫、上手く行った。何もかも。)


「俺は幸せだ。こんなかわいい奥さんがいて。美味いもの食えて。本当に⸺。綾子、ごちそうさま。あとは俺が片付けるから早めに寝るといい。雨の中外出して、たくさん作って疲れただろ?」

隆弘は優しい笑みで綾子を寝室へと促す。

「そう?じゃあお言葉に甘えて。いつもありがとう。」

綾子はスマートフォンを手にすると、パタパタと寝室へ向かった。

ベッドに潜り込む。スマートフォンを充電器につなぐと通知をすべてオフにした。

(大丈夫、うまくやれた⸺)

すぐに睡魔がやってきて、そのまま綾子は泥のように眠りについた。



皿洗いを終えた隆弘は玄関に向かう。いつもの南京錠をしっかりとかけると、綾子のコンバースを手に取る。

ずっしりと水を含んだそれは重たい。

さっと買い物に行った、そんな濡れ方ではない。

それから、キッチンのゴミ箱を開ける。

そこには切らしたと言っていた紅茶の缶があった。

そっと手に取り、軽く振る。

⸺紅茶のシフォンを作るには。まだ十分な量がある。



くるりと踵を返すと隆弘は浴室へ。清潔なタオルで何度も何度も。何度も何度も。まるで蛇のような執念深さで浴室の水滴を拭き取ってゆく。

明日綾子がどこで目覚めても、平気なように。


ひとしきり浴槽を拭き上げると、隆弘はタオルを床に叩きつけた。

「何でだ。綾子。」

その一言はじっとりと水を含んだタオルに吸い込まれていった。


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