singing in the rain
⸺渡してしまった。
あの人に。柊さんに。
メッセージカードを忍ばせたシフォンケーキを。
ぱしゃ、ぱしゃ、と足元で跳ねる水の音がやけに白々しく聞こえる。バス停までの道のりを歩いてゆく。
あの日、あの人⸺柊さんに抱きとめられた道を。
(私…夢遊病になってから…いえ、結婚してから…初めてかもしれない…。)
隆弘という強力な庇護の元初めて自分の意志で隆弘を裏切るような行為をした。
その事実を認識させるようにビニール傘に落ちてくる雨粒の音が鼓膜に突き刺さる。
心臓は早鐘のようにドクドクと波打っている。
バスを待つ間綾子は逡巡する。
(シフォンケーキは2つ焼いてきた。柊さん、そして隆弘のために。大丈夫、大丈夫よ。バレない。)
綾子の料理スキルはとても高いものだった。
それは彼女が5歳から施設で育ち、高校を卒業するまでに得た大切なスキルだった。
ふと、自分が施設を退所するときにいたまだ年少の子たちの顔が蘇る。
(嗚呼。)
「綾子お姉ちゃん、遊びに来てね、またクッキー焼こうよ。」
「綾子ねーちゃん、サッカーもしような。」
約束は果たせぬまま時間ばかり過ぎてしまった。
あの子達は今どうしているだろう。
「…〜♪フーンフフフーン…♪フンフーンフフフーン…♪」
施設の所長はレトロな映画が大好きだった。月1の映画鑑賞会でみた「雨に唄えば」。
無意識に口ずさんでいた。
綾子はそっと傘を閉じた。
あの映画の主人公は、濡れることも厭わずに軽快に⸺そして笑いながら歌っていたっけ。
そっと目を瞑る。
髪が、服が、湿気を帯びてゆく。
「I'm singing in the rain...♪just singing in the rain…」
無人のバス停。バスが来るまで綾子は8月のぬるい雨に打たれていた。




