遭遇
吐息さえ凍りつくような、白銀の静寂。標高三千メートルを超えるドレイコ峠は、その名の通り、身をくねらせる巨竜の背を思わせる険峻な尾根道だった。
そこを歩む二人の影がある。一人は毛皮を幾重にも纏い、膝まで埋まる雪に喘ぎながら一歩ずつ進む少年ウィン。そしてもう一人は、剥き出しの銀灰色の三つ編みを風に遊ばせる、女傭兵、ハルだ。
「……ハル、本気、なの……?」
ウィンの声は、寒さで震えて途切れ途切れだ。吐き出す息は即座に白い霧となり、まつ毛に小さな氷の粒を作っている。彼の視線の先を行くハルの背中では、細かな鉄の環が触れ合い、チリ、チリと冷徹な音を立てている。通常の人間であれば、極寒の中で金属を肌に近い場所に着込むなど自殺行為に等しい。金属は周囲の熱を恐ろしい速さで奪い去り、肉を凍りつかせ、最悪の場合は皮膚を剥離させてしまうからだ。
しかし、ハルは立ち止まって振り返る。その陶器のように白い肌は、寒冷地特有の赤らみを見せることも、鳥肌が立つこともない。ただそこにあるのは、無機質な美しさだけだった。
「何が?」
「その格好ですよ。鎖かたびらなんて……今は氷を纏っているのと変わらない。寒くない、なんてレベルじゃないはずだ。死んでしまいますよ」
「言ったはず。私は熱を感じない。故に、貴方が言うところの『普通の寒さ』は私にとって意味を成さない。私にとってこの風は単なる空気の流動で、この雪は歩行を阻害する摩擦係数の高い堆積物に過ぎない」
ハルの返答は、凍った湖面のように平坦で、一切の感情の起伏を排していた。彼女にとって「寒い」という主観的な苦痛は、理解はできても共感し得ない概念だった。彼女は手袋を嵌めていない自分の指先を見つめる。鉄の環に触れている指先は死人のように冷たくなっているはずだが、彼女はそれを「精霊が護っている」という、彼女なりの論理的帰結としてしか扱わない。
「……不思議だな。俺なんて、心臓まで凍りそうなだよ。ハルさんを見ていると、時々、別の世界の生き物なんじゃないかって思えてくる」
「心臓が凍れば死ぬ。不毛な想像を巡らせる暇があるなら、ウィン、足元に集中して。そこは雪に隠れたクラック(亀裂)がある」
ハルは無造作に、しかし目にも留まらぬ速さで手を伸ばし、ウィンの襟首を掴んで強引に引き寄せた。直後、彼が踏み出そうとした雪面が音もなく崩れ、底の見えない深い闇の底へと消えていった。ウィンは青ざめ、ハルの細い、けれど鋼のように強靭な腕にしがみついた。彼女の腕からは、鎖かたびら越しに心胆を凍らせるような冷気が伝わってきたが、その奥にある揺るぎない芯のような強さがウィンの震えをわずかに抑えた。
生死の境を紙一重で回避したというのに、ハルの鼓動は乱れることさえない。彼女はただ、目標地点を見定めるように目を細めた。
「このへんだな」
「何が?」
「酒場の親父が言っていた。長虫の出現場所が近く思える地点だ」
ハルはそう言うと、背嚢に引っかけた重厚なスチールキャップを手に取り、それを頭に被った。金属が重なる鈍い音が、静寂に包まれた雪山に不吉な波紋を広げる。
二人の周囲は、先ほどまでの美しい銀世界とは一変していた。雪の積もった木々は無理やりな力でへし折られ、あるいは樹皮を剥がされて立ち枯れている。辺りには生命の気配が希薄で、何らかの巨大な生物がこの場所を縄張りとして徘徊し、破壊を撒き散らしたことを沈黙のうちに物語っていた。
「ウィン、合図したら、その場に伏せろ。私の後ろから離れるな」
「いるんだ……やっぱり。あの伝説の怪物が……」
「半年もあればキズも癒えるだろう。……さすがに、もがれた翼までは生えてこないようだがな」
ハルの鋭敏な聴覚は、雪を踏みしめる音とは明らかに異なる、不自然な響きを捉えていた。それは、まるで騎士団が整然と行進する際に出るような、硬質な金属音。だが、その音の主は人間ではない。
鋼ではなさそうだ。もっと硬質で、それでいて紙のように薄手の、特異な振動係数を持つ金属。ハルはその音を、伝説の魔法金属オリハルコンのそれであると直感した。
「兵器に改造された、真帝国の実験動物か……哀れな」
その口調は相変わらず冷淡だったが、ハルの瞳の奥には、静かな、しかし確かな義憤が滾っていた。彼女は、力を持たぬ生命を弄び、その肉体さえも機械へと作り替える帝国の在り方を、心の底から蔑んでいた。
突如、雪原が大きく波打ち、地中から巨大な質量が飛び出した。片翼の長虫が、全長十二メートル程の巨大な蛇身を現した。
その姿は、自然界の造形物とは到底思えない異形だった。全身の鱗は一枚残らず魔法金属へと換装され、陽光を不気味に弾き返している。そして、そのうなじ付近には、円筒型の真帝国謹製のリアクターが埋め込まれており、脈動するように青白い光を放っていた。リアクターの中に封じられているのはクリスタルか、あるいは高密度の魔力を秘めたアビスシャードか。その動力源が、本来あるべきでない筋力と破壊力を、この生物に強制的に与えている。
蛇は失われた翼の付け根から、蒸気のような熱気を吐き出し、欠損したバランスを補うように首を鎌首をもたげた。その赤い複眼が、侵入者である二人を捉える。
「ウィン、伏せろ!」
ハルが叫ぶと同時に、彼女の手には巨大な戦斧が握られていた。極寒の風が吹き荒れ、鉄の鱗が擦れ合う音が死の旋律を奏でる。
戦いが始まる───。




