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夢のつづき

ウィンカスター療養所の地下最深部。そこは、真帝国の傲慢が形を成したかのような、鉄と魔導回路の歪な墓標だった。

 中央に鎮座する「アビスシード」。周囲のマナを喰らい、無へと帰すその虚無の種を、カジュナート准将は「強制限定範囲転移弾(EBTG)」の圧縮術式によって無理やり封じ込めていた。その強引な力学的均衡が、空間に逃げ場のない焦熱を充満させている。鋼鉄の壁は白熱し、空気は焼けたオイルとオゾンの臭いに満ちていた。

 ハル・アレナディオの鎖かたびらは、既に周囲の熱を吸い込み、肌を焼く拷問器具と化している。剥き出しの腕の皮膚は火傷で赤黒く変色し、そこから滲む鮮血は滴る間もなく蒸発し、乾いた赤褐色の跡を刻んでいく。だが、ハルはその凄惨な損耗を、ただの「機材の劣化」としてしか認識していない。彼女の瞳に宿るのは、演算でも感情でもない。ただ標的を穿つという、純粋な物理的帰結への意志だけだった。

 ハルは、布で巻かれた**「大槍:光華」**を肩から下ろした。

 イドゥンによる癒しなど、彼女には必要ない。傷を塞ぐ時間があるならば、その一秒を間合いを詰めるために費やす。それが、精霊に感情を譲り渡した、ただの「ハル」という個のことわりだった。

 彼女は一歩、踏み出した。

 焼けた足裏が床の鉄板に張り付き、剥がれるたびに肉が裂ける音が響く。しかし、その歩調は凍った湖面のように平坦で、一切の揺らぎがない。ハルの目に映るのは、アビスシードを封じ込めるリアクターの、術式の結節点のみ。

「……だ。サイレン。お前の構築したこの檻は、あまりに脆い」

 カジュナートが狂ったように叫ぶ。

「脆いだと!? このEBTGこそが、アガルタを超え、時空を再定義する究極の理だ! 貴様のような、精霊の残りカスに何がわかる!」

 ハルはその怒号を、吹き抜ける風のノイズとして聞き流した。

 彼女は跳躍した。

 焼けた肉が軋み、激痛が脳を焼くはずの瞬間。だが、彼女はそれを「単なる質量の移動」として完遂させる。空中で「光華」を構えるその姿に、一切の虚飾はない。

 切り裂くのではない。

 大槍「光華」の真髄は、その一点に万象を穿つ、重厚なる「突き」にある。

 ハルは、リアクターの装甲が重なり合う、魔術的な結節点のわずかな隙間――かつて長虫の鱗の隙間を射抜いた時と同じ、針の穴を通すような精度で、槍の穂先を突き入れた。

 ガギィィィィィィン!

 硬質な魔力と物理的な衝撃が衝突し、火花が吹雪のように舞い散る。

 ハルは槍を引かない。焼けた右腕の、残された全筋力を振り絞り、捻じ込むようにして槍を押し込む。布の隙間から覗くドラゴンの骨が、白熱する空間の中で青白い冷気を放ち、熱を帯びたリアクターを内側から凍てつかせていく。

「……だ。神話の真似事は、ここで終わりだ。トールよ。ニョルドよ力を貸せ」

 ハルの言葉とともに、光華の穂先がリアクターの芯――EBTGの心臓部を真っ向から貫通した。

瞬間。

 空間を固定していた圧縮術式が物理的に崩壊し、抑制されていたエネルギーが爆発した。

 凄まじい衝撃波がハルを襲うが、彼女は光華を支柱にして地を踏みしめ、その衝撃さえも受け流す。爆発の直後、アビスシードが本来の性質――「周囲のあらゆるマナと熱の消去」を剥き出しにした。

 焦熱は一瞬にして飲み込まれ、空間は絶対零度の真空へと変貌を始める。

 ハルは爆風の中で、再び大槍を肩に担ぎ直した。

 癒えることのない火傷、焦げた髪、損なわれた肉体。そのすべてを、彼女は使い捨ての「道具」のように扱い、ただ無機質な瞳で崩壊の行方を見据えていた。そこに自己憐憫も、戦士としての高揚もない。

「……だ。撤収する。ウィン、ローランド。……だ、な」

 ハルは一度も振り返ることなく、光華の重みを肩に感じながら、暗い闇の奥へと歩き出した。

 彼女にとって、この勝利さえも、次なる「維持管理」までの通過点に過ぎないのだ。

 ウィンカスターの地下、絶対零度の真空と化したその場所で、カジュナート准将の絶叫は音にならずに消えていった。崩れ落ちる計器、ひび割れる強化ガラス、そして自壊を始めるEBTGの重力核。それらすべてがアビスシードという名の「虚無」に吸い込まれ、物理的な消去を待つばかりとなる中、ハルの歩みだけが確かなリズムを刻んでいた。

 通路を塞ぐ崩落した鉄骨が、彼女の行く手を遮る。

 ハルは、焼けて感覚の死んだ腕で「光華」を突き出し、石突でそれを無造作に弾き飛ばした。

 一歩、また一歩。

 鉄の床に凍りつく自分の血の跡を、彼女は見ることもしない。

「ハルさん……! その腕、イドゥンを……せめて、修復を!」

 無線越しにウィンの悲鳴に近い声が響く。イドゥンが、彼女の欠損した組織を無理やり繋ぎ合わせ、機能だけを維持させようと微かな残光を放っている。だがハルは、その光が自らの瞳に映るのを嫌うかのように、短く息を吐いた。

「……必要ない。動いている。……だ」

 彼女の返答は、やはり凍った湖面のように平坦だった。

 ハルにとって、肉体とは目的に対する「変数」の一つに過ぎない。火傷による運動能力の低下は想定内であり、出血による意識の混濁は呼吸の調律で押さえ込んでいる。そこに「苦しみ」や「救い」という概念が入り込む余地はない。精霊ウンディーネに感情を譲り渡した時、彼女は人間としての「生」を、一振りの「道具」としての役割に替えたのだ。

 背後で巨大な地鳴りが響いた。

 アビスシードが全エネルギーを消去し、自壊の臨界点に達した音だ。空間が歪み、光さえも吸い込まれるほどの重圧が背中を叩く。カジュナートが追い求めた「強制限定範囲転移弾」の究極の形は、皮肉にもその開発者諸共、この世から一切の痕跡を残さず消え去ろうとしていた。

 ハルは暗い通路の先を見据える。

 そこには、地上の極寒が、彼女にとっての「普通」の風が吹き込んでいるはずだ。

 肉を焼く焦熱の偽りよりも、骨まで凍てつかせる真実の冬。

「ローランド。……だ。外周の哨戒を継続。……だ、な。逃げ出したネズミを一匹も漏らすな」

 通信の向こうで、ローランドが短く応える。

 ハルは、傷だらけの大槍「光華」を、もう一度深く肩に担ぎ直した。

 ドラゴンの骨が放つ静かな白い輝きが、暗闇の中で彼女の進むべき道だけを照らしている。

 それは、誇りでも信念でもなく、ただ「そうあるべき」形としてそこにあった。

 ウィンカスター療養所という名の地獄が、今、静寂へと帰っていく。

 その崩落の轟音さえも、アビスシードの消去の前では無力だった。

 ハル・アレナディオは、闇の中へと消えていく。

 二度と戻らぬ感情を、二度と癒えぬ傷と共に、ただ「冬」という名の戦場へ。

 彼女が歩いた後に残るのは、冷え切った鉄の床と、物理的に完遂された「結果」だけだった。

「ハル生きてる。ねえ?」

ウィンは懸命にシャードでハルに呼びかける。

「うるさい、もう寝る」

返事はそれだけだった。シャードはハルの健やかば寝息を伝えた。

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