蒸気
ハル・アレナディオの視線は、すでにウィンカスタの灯火を離れ、遥か郊外の闇へと向いている。
そこには、影武者ではなく、本物のカジュナート技術准将が、不完全な野望と共に潜んでいる。
「行くぞ。夜が明ける前に、すべてを終わらせる」
ハルの言葉を合図に、三人は闇の中へと走り出した。
背後には、不夜城のように輝く交易都市ウィンカスタ。前方には、死と情報が渦巻く要塞のような療養所。
彼らの足音は、乾燥した土を蹴り、静かに、しかし確実に決戦の地へと近づいていく。
ハルモニアの輝きが、夜の闇の中で、不吉なほどに、そして美しく、脈動し始めていた。
真実の敵を射抜くための、一筋の銀光となって、ハルたちは突き進む。
彼女の脳内では、ミナから得た療養所の構造図が、立体的な回路となって組み上げられている。
「……正面突破は愚策だな。ローランド、裏手の排熱ダクトの状況はどうなっている?」
「ああ、計算通りです。あの街の熱を逃がすためのダクトの一部が、この療養所の下層を通っています。ミナの情報が正しければ、そこだけはカバラ障壁の出力が不安定になるはずなので」
ローランドが答える。
「熱……か」
ハルは自嘲気味に呟き、加速した。
ウィンの息が上がる。だが、彼は止まらなかった。
ハル・アレナディオという存在が、絶望的な状況下で唯一信じられる「北極星」のように、暗闇の中で輝いて見えたからだ。
療養所の巨大なシルエットが、ついに眼前に現れた。
それは「療養」という言葉から程遠い、剥き出しの敵意を形にしたような、鋼鉄の巨塔だった空間を埋め尽くす焦熱は、逆流した魔力が生み出す断末魔のような叫びだった。
中央の円筒状ポッドに鎮座する**「アビスシード」**。それは動力源などという生ぬるいものではない。周囲に存在するあらゆるマナを喰らい、無へと帰す「穴」だ。カジュナートが強行した魔力の過剰供給は、このシードが周囲のマナを消去する際に発生させる、激しいエネルギーの反発と相転移の結果、この異常な熱気を生み出していた。
「……だが、サイレン。サイレン・カジュナート、お前はやはり技術者として二流だ」
ハル・アレナディオの声は、焼けた喉のせいで掠れていたが、その響きには氷のような硬さがあった。鎖かたびらは熱を蓄え、肌を苛む。露出した腕の火傷は広がり、痛みは限界を超えていたが、彼女の瞳はかつてないほど冷徹に標的を射抜いていた。
「アビスシードは、マナを蓄える器ではない。……だ。それは周囲のマナを消去し、世界の理を削り取る虚無の種に過ぎない。……だ、な。お前は、自らが生み出したEBTGの圧縮技術を、この『消去の力』を無理やり抑え込むための重石として使っているだけだ」
カジュナートが、血走った瞳でハルを睨みつける。コンソールに表示されたEBTGの演算結果は、マナが消去される瞬間の凄まじい反発を、強引な空間圧縮によって閉じ込めていることを示していた。
「黙れ! 貴様に何がわかる。EBTGによってマナを極限まで圧縮し、このアビスシードの『消去』を制御下に置く……これこそが、時空を穿ち、空間を再定義する唯一の解なのだ! アガルタでの失敗は理論の不備ではない! 消去の反動を抑え込むための『マナの圧力』が、まだ足りなかったのだ!」
准将は叫びながら、さらにレバーを叩く。消去と圧縮のせめぎ合いが生み出す余波が、さらなる高熱となってハルたちを襲った。
「……だ、な。消去の力すら御せぬまま、外部からの圧力で蓋をしようとする。その歪みが、この無意味な熱を生んでいる。技術者の無能を、神秘的な言葉で飾るなと言っている」
ハルは、火傷で固まりかけた足で一歩前進した。
ハルの胸元で、本物のシャード「ハルモニア」が青白い光を放ち、彼女の焼かれた肉体に無理やり活力を注ぎ込む。それは治癒ではなく、不協和音を奏でる生命を強引に調律する「呪縛」に近い輝きだった。
「ウィン、死にたくなければ私の影に隠れろ。ミューズを頼む……EBTGによって無理やりマナを押し込んでいる、その『蓋』の結節点を断つ」
「ハ、ハルさん! でも、そんなことをしたら……!」
「構わない。……だ。焼けるのが先か、貫くのが先か。……その勝負には、一度も負けたことがない」
ハルは、陽炎が渦巻く空間の「中心」を見据えた。カジュナートがEBTGの成果を過信し、アビスシードの消去反応を封じ込めている魔力の重力圏。そこさえ断てば、圧縮されたマナは一気に霧散する。
「ローランド! 供給の揺らぎを逃すな。……だ。一瞬でも圧縮が緩んだ瞬間、この『虚無の種』の結節点を加護で破壊する!」
通信機からは、ノイズの向こうでローランドが冷静に状況を分析する声が聞こえる。
ハルは跳躍した。
彼女の振るう大槍──光華を振るう。
「サイレン……。その歪んだ技術ごと、焼き切ってやる」
ハル・アレナディオの放った一撃が、マナ圧縮の核心へと肉薄する。
ウィンカスターの夜を終わらせないための、そして狂ったカバラ技術の連鎖を断つための、命懸けの刃が閃いた。




