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三日間の悪夢

空は重く、低く垂れ込めた鉛色の雲に覆われていた。

墜落した「虚無の翼号」から命からがら逃げ延びたウィン、ハル、ローランドの三人を待ち受けていたのは、慈悲なき冬の荒野だった。

一歩踏み出すたびに、膝まで積もった雪が少年の体力を無慈悲に奪っていく。

「……ハルさん、本当に、こっちで合ってるの?」

ウィンの声は、もはや形を成さない震えとなって漏れ出していた。腕に抱えた鞄の中には「シャード」が収まっている。それは決して世界を変えるような唯一無二の奇跡ではない。だが、今のウィンにとっては、自分がこの過酷な逃避行を続けるための、重く、確かな理由そのものだった。

先頭を歩くハル・アレナディオは、足を止めることなく短く応じた。

「計算では、この方角に三日間歩き続ければウィンカスターの外縁に到達する。これ以上の近道はない」

彼女は雪を噛みしめるように、一定のリズムで歩き続ける。その姿は、吹雪の中に立つ一振りの剣のように鋭く、冷たい。彼女は鎖かたびらという軽装でありながら、精霊の加護によって凍てつく外気から肌を護られていた。寒さによる身体的なハンデ、つまり血管の収縮や筋肉の強張りを彼女は一切受けない。

しかし、それは彼女が「無敵」であることを意味しなかった。

ハルの意識の奥底では、絶え間なく皮膚を刺すような、あるいは深部まで凍りつかせるような「痛み」が信号として送り続けられている。加護は損壊を防ぐが、感覚そのものを消し去るわけではない。ハルの歩みが乱れないのは、その激痛を、単なる「外部からの情報」として処理し、感情的に反応しない強靭な自制心を持っているからに過ぎなかった。

最後尾を行くローランド・アストラ・トリオは、黒衣の襟を立て、時折背後を振り返る。

「ウィン、足元の雪だけを見るんだ。余計なことを考える余裕は、今の君にはないはずだ」

彼の言葉は突き放すようだが、そこには確かな生存への導きがあった。

二日目の夜。休息は死を意味した。

不眠不休。凍土の上で一度でも座り込めば、睡魔と低体温症が死の口づけを運んでくる。

「……ハル、さん。……変なんだ。雪が、白い花に見える……」

ウィンの足取りは、もはや幽霊のように覚束ない。一睡もしていない脳が、現実と悪夢の境界を失い始めていた。視界の端には、とうに別れたはずの故郷の人々の影が揺らめき、耳元では幻聴が囁く。

「ウィン、意識を飛ばすな。自分の歩数を数えろ」

ハルの声が、凍りついた空気を切り裂くように届いた。

彼女は立ち止まり、少年の肩を掴んだ。その指先は氷のように冷たい。だが、その冷たさが、ウィンの混濁した意識に鋭い楔を打ち込む。

ハル自身、極限の状態にいた。精霊の加護は肉体を維持するが、精神の摩耗までは防げない。彼女の脇腹にある古傷が、一歩ごとに焼けるような熱を持って疼く。ハルはその痛みを、自分がまだ「生きて、使命を果たしている」ことの証として受け入れていた。痛みで泣き叫ぶ権利など、彼女はとうの昔に精霊への代償として差し出している。

「ハルさん、痛くないの……? 寒くないの……?」

ウィンが縋るような目で問いかける。

「……痛い。でも、立ち止まる理由にはならない。ただ、それだけのこと」

彼女の回答は、慰めではなく冷徹な事実だった。その強靭な自制心が、ウィンの折れかかった心に強引な支柱を立てた。

 ローランドは、手にした銀時計を月光にかざした。

「順調ですよ……ウィン、鞄を離すな。それは君が守り通すと決めたものだろう?」

三日目の朝、風が止んだ。代わりに襲ってきたのは、肺を凍らせるような静寂だった。

ウィンの感覚は完全に消失していた。自分が歩いているのか、それとも空中に浮いているのかさえ判然としない。ただ、前を行くハルの銀色の髪だけを、網膜に焼き付けるようにして追った。

不眠不休の行軍は、少年の肉体を極限まで削ぎ落としていた。一歩を踏み出すという行為が、永遠にも似た苦行に感じられる。

ハルもまた、沈黙を守り続けていた。彼女の肌は、精霊の加護により凍傷こそ免れていたが、不眠による疲労は瞳の奥に深い影を落としている。しかし、彼女の背筋は依然として鋼のように真っ直ぐだった。それは、人としての弱さを自制心の檻に閉じ込めた者だけが持つ、異様なまでの静謐さだった。

昼を過ぎた頃、地平線の先に、陽炎のような歪みが見え始めた。

それは荒野の乾燥した空気の中に突如として現れた、鋼鉄と石材の巨大な山脈。近世の歪な技術の粋を集めた交易都市、ウィンカスターの威容だった。

「……見えた。あれが、自由の買える街よ」

ハルの声に、初めてわずかな「安堵」に近い響きが混じった。

都市の外壁に近づくにつれ、空気の質が変わった。

清冽な冷気は消え、代わりに、数千、数万のカバラ機器が吐き出す油臭い排熱と、人々の欲望が発酵したような重苦しい熱気が肌を撫でる。

巨大な蒸気式の跳ね橋を潜り抜けた瞬間、一行を襲ったのは色彩と音の暴力だった。

極彩色のカバラネオンが不規則に点滅し、露店からはスパイスの効いた肉の焼ける匂いが漂ってくる。大通りを往来する馬車と、最新鋭の魔導車両が上げる耳をつんざくような騒音。行き交う人々は、泥と雪にまみれた一行を怪訝な目で見やりながらも、それぞれの「商い」のために足を止めない。

「……あ……」

ウィンは、整備された石畳の上に、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。冷たい石の感触が、ようやく彼を夢想の世界から現実へと引き戻す。

「よく頑張ったわ、ウィン」

ハルは少年の横に立ち、その頭に手を置いた。彼女の手は相変わらず冷たかったが、そこには確かに、三日間の地獄を共にした者だけが分かち合える連帯があった。

ローランドは、手慣れた動作で懐から革袋を取り出し、寄ってきた衛兵の手に滑り込ませた。

「お疲れ様。まずは、この煤けた喉を『野猪の薪火焼き』と強い酒で潤すとしましょうか。……ハル、君も少しは『人間らしい』休息を取りなさい」

ハルは、人込みの隙間に佇み、冷たく澄んだ瞳で都市の闇を見据えていた。彼女の肉体は疲労の極致にあり、全身の神経が休息を求めて悲鳴を上げている。だが、彼女は崩れ落ちることはなかった。自制心という名の鎖で自らを縛り、周囲の不審な気配を探り続ける。この街には帝国の軍靴こそ届かないが、それ以上に危険な、法の外に生きる者たちがひしめいていることを知っているからだ。

「ウィン、鞄を離さないで。……ここは誰の守護も期待できない街よ」

交易都市ウィンカスター。富と暴力、そして複雑なカバラ技術が渦巻くこの街で、彼らの新たな戦いが始まろうとしていた。ウィンの抱えるシャードは、決して世界を救う唯一無二の鍵ではない。しかし、この混沌とした都において、それは確かに彼らの運命を繋ぎ止める、一筋の輝きであった。


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