ドミナの街まで
「親父殿、ここはもう少し人がいないか?」
ウィンが足下で寝息を立てているのを確認し、ハルは酒場の親父に話を切り出した。
煤けた梁が低く這う店内には、煮込み料理の脂の匂いと、安酒の鼻を突く酸味が沈殿している。窓の外は暮れなずみ、街道を飲み込む闇が刻一刻と濃度を増していた。近くの積層都市の教会に向かう巡礼を装っても、街道を行き交う人の数が少なければ、子供と女傭兵というふたり連れは相対的に、記憶に残りやすくなる。
ハルの声には、焦りも不安も、あるいは相手を威圧しようとする意図すらも介在していなかった。ただ、事実を確認し、最適解を導き出そうとする機械的な響きだけがある。顔を覚えられたくない──親父は、このふたりを脛に傷持つ身かと納得した。カウンターを拭く布切れの手を止め、親父は声を潜める。
「街道は帝国軍が封鎖していましてな。
何でも、奈落の化け物が出たそうです。軍も近場から、腕利きのハンターを駆り集めての大事ですぜ」
「腕に自信はあるが、別にハンターというわけではない」
抑揚を欠いたまま、ハルは呟いた。視線は親父の顔を捉えているようでいて、その実、背後の壁に掛かった古びた地図の座標を正確になぞっているかのようだった。彼女の瞳には、死に直面するハンターたちへの同情も、化け物に対する忌避感も映っていない。
「できれば三日以内、遅くとも一週間後までにドミナの街に行きたい。裏道や早道を教えて欲しい。少々危険でも構わない。ただ、帝国軍の監視は緩いほうがいい──奈落の化け物なら、ついでに排除する」
「排除」という言葉が、あまりにも淡々と、日常の埃を払うかのような軽さで放たれた。親父の背筋に冷たいものが走る。奈落への畏怖や、恐怖に打ち勝つのでは無く、そういった感情がごっそりと欠如している。まるで、食われたように。
彼女の指先が、テーブルに置かれた使い込まれた短剣の柄を無造作に撫でた。それは愛着ゆえの仕草ではなく、道具の摩耗具合を確認する機能的な動作に過ぎない。
「エレメンタラーか……道理で」
世の中には、世界そのものが生み出した、世界の敵である奈落への抗体、精霊がある、彼らと契約し、力を得る代わりに感情を幾らか失った者。それが、エレメンタラーだ。
親父の脳裏に、かつてこの店を通り過ぎていった同類の男たちの記憶が蘇る。彼らは薪が爆ぜる音に驚くこともなく、美酒の香りに頬を緩めることもなかった。ただ、枯れ木がそこに立っているかのように、周囲の喧騒から隔絶されていた。
二度ほど親父は酒場に来た彼らと交款した、安酒を飲んでも酔うに酔えず、まるで酒精を取り込むことだけが己の生きている証だと主張するかのような悲しい連中だった。
「で、どうだ。道はないのか」
ハルの声に、親父は追憶から立ち返った。
「情報料は銀貨5枚ですぜ」




