疑惑
アガルタの空は、死にゆく巨獣の断末魔のように赤黒く染まっていた。強制限定範囲転移弾(EBTG)が引き起こした空間の歪みは、アガルタ中央区の一部を無慈悲に削り取り、そこにあった物理法則ごと時空の彼方へと放り出した。背後で爆ぜる蒼白い光を、漆黒の飛空船『虚無の翼号』は強靭な装甲で撥ね退け、船体中央に鎮座するシャードリアクターが放つ特有の高周波音とともに雲海の上へと逃れる。
それは魔法などという不確かなものではなく、シャードを強制励起させ、擬似的な重力場を生成する真帝国の科学の結晶だ。リアクター室からは、シャードが臨界点近くで共鳴する際に生じる、神経を逆撫でするような鋭い振動が船体各所に伝わっている。
船内の第一甲板。外部の喧騒とは対照的な、冷たい金属音だけが響く通路に、ハル・アレナディオは立っていた。
「離せ。もう、空間の揺らぎは収束した」
ハルは、未だに自分の腰に必死に縋り付いているウィンの襟首を、無造作に掴んで引き剥がした。ウィンは床にへたり込み、過呼吸気味に肺を鳴らしている。その手には、泥と油に塗れた鞄が、まるで命綱であるかのように固く握られていた。
「ハ、ハルさん……おれ、死ぬかと思った。足の下が、無くなって……世界が、消えて……」
「論理的には、貴方は死んでいない。私が引き寄せ、フックが固定され、リアクターの出力が安定した。生存は確定事項だ。これ以上のパニックは、酸素の無駄遣いだろう」
ハルの声は、凍った湖面を滑る刃のように平坦だ。彼女は銀灰色の三つ編みを解き、乱れた髪を指先で整える。その指先には、激戦で生じた微かな裂傷があったが、彼女はそれを摩擦による組織の損壊としか認識していない。
「おやおや、手厳しい。ですがウィン君、彼女の言う通りですよ。我々は今、地獄の特等席を辞して、天上の揺り籠にいるのです。……もっとも、この揺り籠は少々、シャードの共鳴が激しすぎますがね」
通路の奥から、ローランド・アストラ・トリオが歩み寄ってきた。彼の左腰には、轟魔刀『刃桜』が静かに鎮座している。先ほどまで空間を削り、機械獣を両断していたとは思えないほど、男の表情は穏やかで、その微笑みには一点の曇りもなかった。
「ローランド。貴方の誠意の件、まだ説明を聞いていない」
ハルの瞳が、鋭利なガラス細工のような光を帯びる。大槍の石突が、鉄の床をカンと乾いた音で叩いた。
「カジュナート准将との通信。貴方は彼女に、私たちの位置とシャードの情報を流していた。それは戦術的な合理性を欠く行為だ。説明しろ。納得できなければ、ここで貴方を不要なバラストとして投棄するだろう」
ローランドは立ち止まり、眼鏡のブリッジを優雅に押し上げた。
「手厳しい。ですが、ハルさん。情報を与えることは、毒を与えることと同義です。准将に獲物が網にかかったと確信させることで、彼の警戒心を殺ぎ、実験のシーケンスを固定させた。不確定要素を排除するための、いわば情報の撒き餌ですよ」
「その撒き餌のせいで、おれたちは死にかけたんだ!」
「いいえ、ウィン君。あの人型兵器は遅かれ早かれ我々の前に立ちはだかった壁です。ならば、最もこちらの準備が整った状態で引きずり出すのが最善」
「貴方が結果として私たちの脱出に寄与したのは事実。今回の背信については、保留にしておこう」
ハルは視線を逸らし、舷窓の外に目を向けた。厚い雲の隙間から、遥か下方にアガルタの残光が見える。かつては文明の極致であったその場所は、今や帝国の実験によって生じた虚無が、黒い口を開けて街を飲み込み続けている。
「ハル、傷……痛くないの?」
ウィンが、ようやく落ち着きを取り戻し、ハルの脇腹付近を見つめて尋ねた。
「言ったはずだ、ウィン。私は寒さを感じない。精霊の加護によってだ。少し違うが、痛みもまた、神経系が発する電気信号の一種に過ぎない。出力が正常である限り、私の行動に支障はないだろう」
ハルは拒絶したが、その言葉の端には、わずかながら労わりに近い調律が含まれていたのかもしれない。ウィンはそれ以上何も言わず、ただ黙ってシャードの入った鞄を抱きしめた
船体深部にあるリアクター室から、重厚な拍動が伝わってくる。『虚無の翼号』の心臓部。そこでは、剥き出しのシャードが円筒状の真空管の中で激しく回転し、物理的な推進力と重力制御のためのエネルギーを絶え間なく生成していた。シャードが励起される際に生じる青白い燐光が、通路の隙間から漏れ出している。
「さて、この船を降りた後はどうしましょう」
「わからない。だが、私は、私を取り戻すために、糸口を掴まなければならないのだ」
「なるほど。自己の完全性の回復……それは、何よりも優先されるべき動機ですね」
ローランドは満足そうに頷き、再び微笑を浮かべた。
ウィンも力なく笑い、ようやく船内のベンチに腰を下ろした。
ローランドが操縦室へと向かい、ウィンが疲労からうつらうつらと舟を漕ぎ始めた頃。ハルは一人、甲板の隅で槍を磨いていた。槍の穂先が放つ冷たい輝きの中に、自分の顔が映る。
表情はない。恐怖も、歓喜も、アガルタを壊滅させたことへの罪悪感も、そこには存在しない。
「熱い。いいえ、これは、不条理だ」
ハルは呟き、自分の胸に手を当てた。そこには、精霊に食われて空洞になったはずの場所がある。けれど、リアクターが刻む一定の周期音が、あるいはウィンの寝息が、その空洞に反響して、消えかけの火種のような微かな振動を生んでいた。
「いや、見つけなければならない。それが、今の私の唯一の推進力なのだから」
窓の外、夜の帳が明け始め、東の空から鋭い陽光が差し込んできた。それは世界を公平に照らし出す、残酷なまでに美しい朝の光だ。飛空船『虚無の翼号』は、リアクターの励起効率を最大に高め、黄金色に染まり始めた雲海を切り裂き、次なる戦場へとその翼を伸ばしていく。ハルは槍を背負い直し、再び感情を排した仮面を被った。
「……楔。それが私の失われた精霊の一部を繋ぎ止めているのなら、論理的に導き出される答えは一つだ」
ハルの瞳に、微かな、だが凍てつくような決意が宿る。
「排除し、奪還する。私の存在を定義する権利は、帝国にも、あの准将にも、ましてや精霊自身にもない。私だけのものだ」
彼女の独白は、風の音にかき消された。しかし、リアクターの青白い共鳴光を反射する彼女の横顔は、もはや単なる無機質な美しさだけでは説明できない、何か別の熱量を帯び始めているように見えた。
飛空船が安定した巡航に入ると、船内の振動は心地よい一定の周期に落ち着いた。アガルタの喧騒が嘘のように、窓の外には果てしない雲の海が広がっている。
「ハルさん、これ……」
目を覚ましたウィンが、鞄から一冊の古びた手帳を取り出した。それはアガルタの廃墟で彼が咄嗟に拾い上げた、カジュナート准将の覚え書きらしきものだった。
「おれ、これに何かヒントがあるんじゃないかと思って。ヤシマのこととか、精霊食らいのこととか……」
ハルは手帳を受け取り、ページを捲った。文字は殴り書きで、複雑な数式と魔法陣のデッサンが混在している。彼女の無機質な思考回路が、情報を高速で処理していく。
「興味深い。ここに記されているのは、精霊の波形を強制的に固定する術式だ。ヤシマの地脈を利用し、精霊を魔術的な鎖で縛る……。カジュナートの狙いは、単なる破壊兵器ではないだろう」
「おれ、そういう難しいことは分からないけど、あの機械の化け物が苦しそうに見えたのは、そのせいなのかな」
「苦しみ……。その概念は私には理解できないが、マナの循環が阻害され、エントロピーが増大していたのは事実だ。それはシステムとしての悲鳴と言い換えることはできるだろう」
ハルは手帳を閉じ、ローランドに渡した。
「資料は全て破却する」
「感謝です」
ローランドは荷物からマッチを取り出し、ブーツで磨って着火すると、ノートを燃やし尽くした。




